方舟謝肉祭(17)

方舟謝肉祭(第17話)

高橋文樹

小説

8,850文字

太平洋には亡霊が出る――性格の悪い語り手Fが織りなす新しい小説は、これまでの宗おじさん像を覆す物語だった。メタフィクション海洋冒険小説は、種村船長を語り手に据え、新しい様相を帯びていく。

Chapter Five……謝肉祭

前編 フェアリーテイル(一)

 

太平洋には亡霊が出る。そこでは誰もが望みの半ばで死ぬのだ。未知の希望へと向かう途中、あるいは親しい団欒(だんらん)へと帰る途中。そこには心ならずも死んだ者が多すぎる。

幸か不幸か、私はまだ自分以外の亡霊に遭わない。広いとはいえ、数え切れない船を飲み込んできたこの大洋の上には、数多の魂が迷っているに違いないのだが……。あるいは、亡霊はお互いを見ることができないのかもしれない。自らの不幸に目が眩むあまり。

私は亡霊と成り果てて後、ある幸運から告発の機会を手にした。奇縁とでも称すべき、不思議な巡り合わせの結果である。

私は壮年のすべてを航海に捧げたにも関わらず、詰まらない不注意から海難事故に遭い、漂流する羽目になった。いや、あれは私の所為(せい)ではない。いったい、人はどこまで責任を取れば良いのだろう?

私は避難艇の狭い船底でゆっくりと飢えながら、自分の死を自覚しつつあった。助かる可能性が潰えた事は、船乗りとしての専門的な見地から明らかだった。私は最後の力を振り絞り、それまで書き溜めた航海日誌の一部と、告発のための文書を瓶詰めにして大洋に託した。私の死が忘却の暗闇で陵辱される事を恐れたためである。それも、あの男の手によって!

その文書は様々な場所を巡り、時を隔て、ついにはある書き手の元に辿り着いた。彼は、ある意味で私を殺した男の血に連なる者だったのである。

私に与えられたのは、「口寄せ」という手馴れぬ手法ではあるが、他の死んでいった者達の魂のためにも、また、私自身の精神的健康のためにも、告発する方が得策であろう。船を沈める海妖(セイレン)の歌声に加勢するばかりが亡霊の処世というのでもあるまい。

 

さて、私はこの告発をある男の名と共に語り始めねばならない。あの、忌ま忌ましい、松永宗光という名と共に。

「五曜会ゆうのがあるんよ」

そう言って私を誘ったのは、昔馴染(なじ)みの紀和久実だった。

「なんだい、それは? 社交クラブみたいなものか?」

「似とるけど(ちゃ)う。ちゃんとした財界の集まりや」

「そんなところに何の用がある?」

「まあ、ええから来てみいや。面白(おもろ)いで。松屋汽船の松永ゆうてな、ありゃ人物やで。な、行こうや」

紀和はただでさえ大きな目を見開き、じっと私の顔を覗き込んだ。見ようによっては愛嬌のあるかもしれない彼のその表情を、私は昔から好きになれなかった。

紀和はある軍部高官の息子であった。岡山の貧しい家庭に育った私は、商船学校に通うため、紀和家に書生として置いて貰った事がある。歳が近い事もあって、私はよく紀和と一緒にいたが、彼の野放図な性格とはあまり合わなかった。勉学を終え、紀和の家を去ったらそれきりだと思っていたのだが、彼は神戸まで来て私に付きまとった。すげない態度を取れないのは、世話になった負い目のせいだった。

「興ちゃん、あんたもなんや新奇なものを見んといかん」と、紀和は続けた。「それに、船長になるええ機会やで」

「船長に?」

「そやで、船長や」

紀和は再び目をまん丸にして私を見た。黒目が点に見えるほど大きなその目は、人の心を見透かそうといやらしく輝いている。しかし、船長という言葉の誘惑は私を寡黙にはしておかなかった。

「船長を探してるのか?」

「さあ。どうやろ」と、紀和は(ずる)そうに首を傾げた。「なんやら新しい事業を始めるいうてな、人手が足りんのやと。もしかしたら船長も足らんのかもしれん」

松屋汽船という会社は名前しか知らなかった。当時の海運会社といったら、雨後の竹の子同然に乱立し、片っ端から潰れていた。名のあるところでも同じである。実情を外部から察する事は難しかった。

「新しい事業といっても、怪しいようじゃ困る」と、私は少し調子を強めた。

「怪しいかどうかは行ってみなわからん。どや、行ってみるか。無料(ロハ)で遊ばせてくれはるぜ」

私はしばらく考え込んでから、(うなず)いた。紀和は猿のようによく動く口を大きく笑わせて、「ほな、決まりや」と叫んだ。彼は脇に抱えていた背広を子供のように頭からかぶった。

船長就任の前祝いと称しておでんを奢らされる羽目になった私は、紀和から松永宗光に関する話を一つ聞いた。

松永は大戦前、満州にからゆきさんを送る女衒をやっていた。九州の貧農から娘を買い取り、日本人街の女郎屋に売る。紀和はその仕事を手伝った事があると言う。

2008年4月6日公開

作品集『方舟謝肉祭』第17話 (全24話)

方舟謝肉祭

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© 2008 高橋文樹

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