妹よ。君が滝を見下ろす渓谷の開けた場所に生皮を脱ぎ捨ててからずいぶんと経った。俺はいま、君が脱ぎ捨てたその生皮に向けて語りかけている。煙草の脂で黄ばんだ古い砂壁にしつらえられた衣紋掛けに、君の生皮が黄ばんで磔にされている。二十年だ。裸電球の下で見る生皮は、端のほうから粉を吹いて、触れると乾いた紙のように頼りない。爪で引っ掻けば裂けてしまいそうだ。脂が抜けきって、もう君の匂いはしない。煙草と、砂壁の石灰と、湿気た木造家屋の芯まで染みた黴の匂いと、それだけだ。なぜ俺は紙に書かず、この皮に向かって語りかけるのか。この皮には君の毛穴がある。肩甲骨の隆起が残っている。右の脇腹に、打擲の痕が茶色く沈んでいる。紙には何もない。だがこの皮には、君が殴られ、舐められ、耐えた年月の表面がある。俺が語りかけているのは君の不在ではない。君が脱ぎ捨てた痛みの地層だ。俺の口から出る息がこの皮の表面を撫でるとき、それは俺にできる最も暴力に近い優しさだ。そしてこれは懺悔でもある。俺もまた皮の男だからだ。君が脱いだ皮と、俺が伸ばした皮は、同じ夜から始まっている。頭頂部から背中にかけてパックリと開いた穴は君がその皮を脱ぎ去るとき、蝉や蝶と同じやり方をしただろうことを俺に思い描かせる。いかにも自然なそのやり方はまた、この山間の村から逃げ出したことと同じくらい賢かった。
これから俺がするのは君にとってよいはずの、二つの報告だ。まず一つ、皮膚についてだ。美しい少女の盛りにあった君が生皮を脱ぎ捨てたあと、ケロイドの引きつれた容貌で生きるのはいかにも不便だったのではあるまいか? 俺は君の行方を探すとともに治療方法をもまた探していた。詳細はのちに語る。そして、もう一つは、あの人の死について。おそらく君はこの知らせを聞いて喜びよりもなお安堵を覚えることだろう。君が自らの皮を剥いでまで禊落とそうとしたあの人が死んだことについて。
君も祖父の葬儀を覚えているだろうか。俺たちはまだ小さくて、大人たちが祖父の身体を折り畳むようにして甕に押し込むのを、君は俺の腕にしがみついて見ていた。甕は備前の大甕で、子供の目には風呂桶ほどもあった。陶器の肌は黒茶けて、指先で触れたとき冷蔵庫の背面のような冷たさが走ったのを覚えている。大人たちが祖父の膝を胸に押し込むたび、関節がごきりと鳴り、喪服の裾が衣擦れを鳴らした。君は俺の腕にしがみついたまま爪を立てて、その小さな掌はじっとり汗ばんでいた。甕の蓋は石の円盤で、男が二人がかりで持ち上げ、ずしりと据えた。石が陶器を擦る、歯の根が浮くような低い音がして、それきり祖父は見えなくなった。蓋の隙間から線香の煙が細く吸い込まれていくのを、俺たちは見ていた。あのとき参列していた隣村のおばさんが「甕に入れるなんて鷹橋さんだけだよ、気味が悪い」と母に囁いていたのを、俺は聞いていた。今朝、あの人の身体も同じように甕に収められた。鷹橋の男は皆、腰が曲がる。曲がった体は甕に収まりやすい。
あの人が三十歳で家業を継いだように、あの人は俺が三十歳になったとき、帳簿と店の鍵を渡した。君が消えてからの二十年で、鷹橋の店は十三店舗まで拡大した。千葉、船橋、市川、柏。関東圏の郊外に散らばる各店舗の、パートの主婦たちの名前と顔を俺はすべて覚えている。誰が何曜日に出られて、誰が扶養の壁を気にしていて、誰がもうすぐ辞めるか。それが鷹橋の商才のすべてだ。一番新しい店はイオンモール幕張新都心のフードコートにある。きっと君は笑うだろう、あのイオンだ。君がいた頃の鷹橋とは、もう別物だ。
婆さんの鞭を忘れたとは言うまい。あれは夏だった。障子を閉め切った八畳間に西日が差して、畳が蒸れた匂いを立てていた。俺たちは正座させられて鷹橋の家系を暗記させられた。膝の皿がじんじん痺れて、足首の骨が畳の目に食い込んだ。君は隣で唇を噛んで、ときどき小指で俺の太腿をつついた――痛いね、という合図だった。婆さんは小柄だったが肩幅だけが広く、着物の襟元から鎖骨が鉈の刃のように浮いていた。しゃがれた声は腹の底から出ていた。あの前時代的な鞭を畳に打ちつけるたび、ぱしんと乾いた音がして、い草の屑が宙に舞った。鷹橋の家系は伊勢の武家だ、大名に仕えた十本槍だ、と婆さんは俺たちに叩き込んだ――あの鞭は今もあの人の書斎の桐箱に眠っている――そして婆さんは息を詰めるようにして、俺たちに顔を寄せた。鋳物のように硬い頬が近づいて、耳元で言った。「不具の姫を抱いてからな、鷹橋の男は侍仕事ができなくなったかわりに商いの才が宿るんだ。腰が曲がるのはその証だ。覚えておけ」と。君はきっと今でもそう信じている――鷹橋は誇り高き武家の末裔だと。だが大名の不具の妹君を娶り、腰痛を宿痾としてから武家としては没落へとひた走ったことは君も知っての通りだ。しかし、腰痛と引き換えに手にした不思議な力は商才と呼んでよかったろう、没落するたびに商売替えをし、伊勢から江戸へ、江戸から千葉へ流れ着いた。婆さんが鞭で叩き込んだ武家の血筋の正体は、敗北の歴史だ。だが俺はこの家を継いでから、その力の意味を知ることになった。
昭和の終わりにはスーパーを営んでいたが、それこそイオンのような大資本に押されて廃業した。平成に入ってうどんチェーンに転換すると「伊勢うどん 鷹橋」という名前での讃岐風うどんだ。のちに丸亀製麺が丸亀市とは関係ないと知ったときの俺の笑顔と言ったら! 君に見せてやりたかった。女たちをこき使って店を回し、ルーツを偽り、魂を売った。
君が皮を脱いだのは、ちょうど俺たちが十八歳の誕生日の前日だった。双子の俺たちは、鷹橋の家では特別な存在だった。長子が家を継ぐという慣習があり、俺が三分早く生まれたから、俺が後継者になった。君は自由だった。少なくとも、そういうことになっていた。
だが、君が皮を脱いだ理由を、俺は知っている。
渓谷で見つかった君の生皮を、村人たちは「自殺だ」と囁いた。だが、俺には分かった。君は死んでいない。皮を脱ぎ捨てて、どこかで新しい人生を始めたのだ。赤らんだ剥き出しの肉の顔で、君は自由を選んだ。
さて、話を戻そう。この手紙は報告だった。
あの人の葬儀には親戚が数人、そして従業員が何人か来た。斎場は国道沿いの互助会のホールで、梅雨の雨が窓を叩いていた。造花の白菊が祭壇の両脇に並んで、蛍光灯の光を鈍く弾いていた。安い線香の煙が低く垂れこめて、喉の奥に張りついた。俺は喪主として挨拶をし、軋む腰を折って参列者に頭を下げた。腰椎のあたりで骨と骨が擦れて、そのたびに膝の裏まで電気のような痛みが走った。焼香の列が途切れるのを待つ間、俺は椅子の背もたれに体重を預けて、腰骨の鈍痛をやり過ごしていた。甕に収まったあの人の身体を見下ろしたとき、曲がった背骨の頂点が蓋の縁すれすれに覗いていた。俺の背骨もいずれああなる。腰の痛みが尾骨から首筋まで走り抜けるたびに、身体の中心を鉄の棒が貫いているような気がした。だが、痛みが俺を立たせていた。この手紙を書いているいま時点から三日後、俺はイオン幕張のフードコートにある「鷹橋」の厨房で、最後の計画を実行する。
君の知らない男の話をしよう。俺はあの頃、本郷の医学部棟に入り浸っていた。ホルマリンと消毒液の混ざった廊下を、君の剥き出しの顔に貼る皮膚がどこかにあるはずだと信じて歩いた。青白い蛍光灯が並ぶ天井の下、リノリウムの床が靴底を吸いつけるように鳴った。すれ違う白衣の学生たちが俺の着古したコーデュロイのジャケットを一瞥して目を逸らした。文学部の学生が来る場所ではなかった。研究室の扉を片っ端から叩いた。大抵は追い返された。文学部の学生が何の用だ、と。
十助――ジュースケと皆が呼んでいた――に出会ったのは、そういう日の一つだった。白衣の袖をまくり上げた腕に試薬の染みをつけたまま、再生医療の研究室から出てきた男が、廊下でうろつく俺を見て足を止めた。
「また来てるのか。何を探してるんだ」
俺は口を開きかけて、止めた。どこまで話すべきか分からなかった。生皮を脱いだ妹がいる――そう言って、まともに取り合ってもらえたことは一度もなかった。だが、ジュースケさんの目は笑っていなかった。試薬の染みた袖を組んだまま、急かさずに待っていた。
俺は君のことを話した。生皮を脱いで消えた妹がいること。ケロイドの顔でどこかに生きているであろうこと。その皮膚を治す方法を探していること。ジュースケさんは腕を解き、白衣のポケットに手を突っ込んだまま黙って聞いた。質問はしなかった。代わりに、俺を学食に誘った。
「飯、食ったか」
それだけだった。
二〇〇六年、山中伸弥がマウスのiPS細胞作製に成功したというニュースが流れた。昼時の学食は食器の触れ合う音と椅子の脚が床を擦る音で、三メートル先の声も聞き取れなかった。ジュースケさんはトレイの上の半分残ったカツカレーを押しのけ、テーブルを両手で叩いて立ち上がった。皮膚の欠片一枚から全身の皮膚を作り直せる、と。声が震えていた。周りの学生が箸を止めて振り返るのも気にせず、紙ナプキンを引き抜いてボールペンで細胞の分裂図を描き始めた。矢印が何本も走り、端が破れた。二枚目のナプキンを取って続きを描いた。
「美樹に使えるか」
「使える。皮膚の断片一枚あればいい。でも――」
「どれくらいかかる?」
「億単位だな。それに十年、いや二十年はかかるかもしれない」
ジュースケさんはナプキンの図を指先で叩いた。爪の先まで興奮が滲んでいた。だが俺の目はトレイの上のカツカレーに落ちていた。四百二十円。そこから億を数える方法が分からなかった。
学食のトレイに手をついたまま、しばらく動けなかった。億。帳簿を何度めくっても、うどん屋の稼ぎでは零が三つ足りなかった。残りの学生生活は、帳簿の数字と皮膚の論文を交互に眺める日々だった。ジュースケさんは週に一度、研究室の薄いコーヒーを紙コップに注ぎながら、最新の論文を噛み砕いて話してくれた。俺はそれを聞きながら帳簿の余白に数字を書き殴った。月商、年商、出店計画。数字の羅列が君の顔に繋がっていた。
三月の終わり、桜が本郷通りのアスファルトに薄桃色の染みを作っていた。卒業式の日、俺はジュースケさんと安田講堂の前で握手した。彼の手は薬品で荒れていた。彼は大学院に残り、俺は千葉に帰る。それだけのことだった。
卒業後、俺は家業を手伝い始めた。あの人はまだ存命で、俺は見習いとして各店舗を回った。最初の朝、厨房はまだ暗かった。五時。換気扇だけが低く唸る中、蛍光灯のスイッチを入れると、ステンレスの調理台が青白く浮かび上がった。寸胴鍋を棚から下ろした。腕に食い込む重さだった。火にかけようとして腰を捻った瞬間、脊椎の奥で爆ぜるような感覚があった。壁に手をついた。タイルの冷たさが掌に食い込んだ。息ができなかった。あの人と同じだ。それからは毎朝、靴下を履くのに息を止めねばならないほどだった。
シフト表を睨みながら、俺は自分の中に何かあることに気づいた。誰が使えて、誰がすぐ辞めるか。誰が扶養の壁を気にしていて、誰が週三以上は無理と言いながら詰めれば週五でも来られるか。それが分かった。腰が痛む朝ほど、分かった。あるとき、シフトに穴を開けたパートに声を荒らげた。電話を切ったあと、胸の奥が熱かった。
ジュースケさんに電話した。「結婚することになった」と言うと、受話器の向こうが黙った。研究室の遠心分離機が回る低い音だけが聞こえた。五秒、十秒。「羨ましいな」と彼は言った。それだけだった。
見合いの席は、千葉駅近くの料亭の奥座敷だった。畳の縁が擦り切れた古い部屋に、仲人の夫婦が並んで座り、焼き魚の匂いが襖の隙間から漂っていた。あの人に媚びるような笑みを見ると、仲人が取り持ったのだろう。向かいに座った女は箸を取る前に膝の上で指を組み直した。瑞穂、二十二歳。まっすぐな黒髪を耳にかけ、伏せた睫毛の影が頬に落ちていた。声は低かった。彼女が最初に口にしたのは自分のことではなかった。「妹を、お願いできますか」。知的障害のある妹がいた。俺は頷いた。俺は最初、優しい夫だった。
だが、初夜から問題は始まっていた。布団の上で瑞穂に触れようとするたび、腰から下が他人の体のように動かなかった。障子の外で虫が鳴いていた。遠くを走る車のヘッドライトが天井を横切った。瑞穂の肩に手を置いたまま、俺は動けなかった。腰から下が石になったように重く、どう力を入れても自分の体ではないものが横たわっているだけだった。瑞穂は暗闇の中で無言のまま後ずさり、布団の端に身を寄せた。俺は天井を見つめた。障子の桟の影が天井に格子を描いていた。朝まで眠れなかった。
瑞穂は毎朝、俺より先に起きて味噌汁を作った。椀を置く音だけが朝の台所に響いた。子供はできなかった。
ジュースケさんを家に招いた。秋の夜だった。座卓に徳利と猪口を並べ、板わさと枝豆を出した。障子の向こうから虫の声が微かに聞こえた。瑞穂に酌をさせた。ジュースケさんは黙って盃を受けたが、瑞穂が台所に下がるとき、畳を踏む足音が廊下の奥まで遠ざかるのを待ってから、俺を見た。
「君も随分家父長的になったな、驚いたよ」
俺は笑った。笑えた。まだ笑える頃だった。
「頼みがある」
俺は盃を置いた。徳利の酒はまだ半分残っていた。
「俺の妻を、抱いてくれないか」
ジュースケさんは酒を吹きそうになった。猪口を畳に置き、口元を手の甲で拭った。枝豆の殻が皿の上で小さく音を立てた。それから、俺の顔を見て、冗談ではないことに気づいた。眉間の皺が深くなった。
「鷹橋、お前――」
「抱けないんだ。俺には。跡継ぎもできない」
俺はそれだけ言った。ジュースケさんは黙った。座卓の上の徳利が、外を走る車の振動で微かに揺れた。長い沈黙だった。障子に映る庭木の影が風で傾いだ。ジュースケさんは台所仕事をする瑞穂の方をちらりと見た。瑞穂は美しく見えるだろうか、と俺は不安を覚えた。器量が悪いと思ったことはない。下がった眉尻や産毛に覆われた撫で肩は女としての従順さをよく示していたが、それらの特徴はもしかしたら鷹橋の男にとってしか魅力的でないのかも知れなかった。
「無理だ。不妊治療とか、いくらでもあるだろう」
彼は静かに言って、盃を畳に置いた。膝に手を当てて、ゆっくりと立ち上がった。
「今日は帰る」
ジュースケさんは帰った。玄関の引き戸が閉まる音が、家の中に長く残った。
美樹よ、妹のお前にこれを書くのは許されざることかもしれないが、俺の不妊についての秘密はまた、君の過去とも深く関わっているから許してほしい。翌日の夜、俺はスマートフォンのカメラで自涜の動画を撮った。五十センチ以上に伸びた包皮を摘み、引っ張り、手を離す。ぺちん、と下腹にぶつかる。俺の亀頭は包皮の中で少しずつ硬くなっていく。ぺちん、ぺちん。やがて、ダラダラと白い精液が垂れてくる。そうやって自らを汚すのが俺の習いだった。この体では妻を抱けないということを、ジュースケさんに見せるしかなかった。
俺はフェイスブック・メッセンジャーで動画を送信した。幸いにも三時間後、返信が来た。だが期待した言葉ではなかった。
「不妊治療の専門医を紹介する。まずはそこに行け」
美樹よ、ジュースケさんには言わなかったことがある。俺は子供が欲しかったのではない。俺は鷹橋の血を断ちたかったのだ。もし子供が生まれて、それが息子だったら――息子なら、俺が殺す。鷹橋の血を継ぐ男が、この世に生まれてはならないから。だからジュースケさんの子でなければならなかった。だが、それをどう伝えればいい。不妊治療の紹介状を握りつぶして、俺は黙った。
三十歳の誕生日、あの人が俺を書斎に呼んだ。
「お前に継がせる」
あの人は帳簿と店の鍵を差し出した。それだけのことだった。だがその晩、腰が鳴った。あの人と同じ場所が、同じように軋んだ。脊髄の奥で何かが暴れ始めた。俺は痛みのあまりに吐いた。
「これが鷹橋の男の宿命だ」
あの人は淡々と言った。
「お前もいずれ分かる。抗えない。脊髄が命令する」
家業を継いでから、世界が変わった。パートの女たちの目を見るだけで、来月のシフト表が頭の中に浮かんだ。睨むまでもなく、穴が見えた。腰が痛む朝ほど、勘は冴えた。当たった。何をやっても当たった。
ある朝、寸胴鍋を持ち上げた瞬間、脚から感覚が消えた。床に膝をつくまで、自分が倒れていることに気づかなかった。
ジュースケさんが祝いに来た。継承の報告をすると、彼は缶ビールを持ち上げて「おめでとう」と言った。だが目は笑っていなかった。瑞穂が台所から麦茶を運んできたとき、ジュースケさんの顔が変わった。瑞穂の左の頬が腫れていた。袖から覗く手首に、指の形に沿った青痣があった。瑞穂はいつもの顔で麦茶を置いた。ジュースケさんは缶ビールを畳に置いた。
「鷹橋」
低い声だった。
「お前、瑞穂さんに――」
「殴ってる」
俺はそれだけ言った。嘘をつく気にもならなかった。ジュースケさんは拳を握った。白くなった。それから、拳を開いて、膝の上に置いた。医者の手だった。人を殴るための手ではなかった。
瑞穂が台所の入り口に立っていた。いつからそこにいたのか分からない。目が赤かった。涙が頬を伝っていたが、口元は微かに笑っていた。あの奇妙な笑みを、俺は忘れない。泣きながら、笑っていた。
「もう、殺してください」
ジュースケさんが立ち上がった。瑞穂に近づき、肩に手を置いた。瑞穂は崩れるように彼の胸に顔を埋めた。ジュースケさんは瑞穂の頭を撫でながら、俺を見た。
「俺が引き取る」
それだけだった。
瑞穂と妹が、スーツケースを引いて玄関に立った。三和土に並んだ靴――瑞穂のローファーと妹の運動靴――が、もう一足分の隙間を空けて並んでいた。俺の革靴の隣に、誰の靴も来ない空白があった。ジュースケさんの車が外に停まっていた。
「行くのか」
瑞穂は頷いた。妹の手を引いていた。妹は俺を見ていた。何も言わなかったが、目だけが俺を見ていた。その目には怒りも悲しみもなく、ただ俺という人間を見定めているような静けさがあった。
「もう帰ってこなくていい」
俺は言った。瑞穂は振り返らなかった。背筋をまっすぐに伸ばしたまま、スーツケースの車輪がコンクリートの上を転がる音だけを残して、ジュースケさんの車に乗り込んだ。
最初のうちは、ジュースケさんが子供を見せに来てくれた。だが、だんだん来なくなった。
三十三歳の春だった。幕張のイオンモールのフードコートに空きが出た、鷹橋のうどんを入れないかと。俺は即答した。
美樹よ、覚えているだろう、婆さんが鞭を振りながら語った岡田屋の話を。伊勢で大成功した岡田屋と、千葉に流れ着いた鷹橋。そのイオンのフードコートで、俺は讃岐風うどんを茹でている。婆さんが聞いたら鞭でひっぱたかれるだろうな。だが美樹よ、鷹橋の男が最後に辿り着く場所としては、これ以上おあつらえ向きの舞台はなかった。
美樹、俺はあの巨大な光の箱の中で、お前のために麺を茹でている。お前に届く金を、一杯ずつ数えている。
お前は今、どこにいる。
初めて長女を抱いたのは冬だった。玄関先にジュースケさんの車が止まり、後部座席から毛布に包まれた塊を取り出して、ジュースケさんが俺に差し出した。受け取る手が震えた。指が強張って、毛布の端を何度も掴み損ねた。ジュースケさんは何も言わなかった。ただ、俺の肘の内側に赤子の頭が収まるよう、そっと位置を直してくれた。二千八百グラム。ミルクと脂の匂いが鼻腔を満たした。赤子の体温が腕の内側に染みて、冬の外気との境目がなくなった。脊髄が反応するのではないかと恐れていた。あの人と同じものが、この手から目覚めるのではないかと。だが、何も起きなかった。脊髄は沈黙していた。赤子が口を開いて泣いた。俺はジュースケさんに返した。ジュースケさんは毛布を直してから車に戻った。エンジンがかかり、テールランプが角を曲がって消えた。玄関に一人残って、俺は腕の内側を見た。赤子の体温が残っていた。次女のときも、三女のときも同じだった。
妹よ、なぜ俺が自分の子を恐れたのか。それを語るには、あの夜の話をしなければならない。
あの人が美樹に何をしていたのか。俺が気づいたのは、十二歳の夏だった。
いつの頃からか、俺と美樹は別々の部屋で眠るようになった。小学校の高学年だったろうか? それまでは同じ部屋で、二段ベッドの上下に分かれて寝ていた。ある日突然、あの人が「もう大きくなったから」と言って、美樹を離れの部屋に移した。君に生理が来たからだ、という理由だったかどうか、俺は覚えていない。
十二歳の夏、俺は美樹の様子が気になった。最近、美樹は昼間も眠そうにしていた。夜中にふと目が覚めた。蝉が鳴いていた。家の裏の杉林から、脳の奥を掻くような声が途切れなく降ってきた。シャツが背中に貼り付いていた。網戸から入る風は温い。美樹はどうしているのだろうと思った。俺は裸足のまま縁側に降りた。離れまでは庭を横切る。砂利を踏む音が夜に響いて、自分の足が立てる音にいちいち体がこわばった。月明かりで庭木の影が地面に落ちている。蛙が一匹、石灯籠の足元で鳴いた。離れの引き戸は半分開いていた。
俺は息を止めた。心臓の音が耳の中で膨れた。障子の破れ目に顔を寄せた。覗いていた。
薄暗い部屋の中で見えた光景を、俺は一生忘れない。美樹は裸で仰向けになり、まんじりともせず天井を見上げていた。その傍らに、同じく裸のあの人がいた。あの人は美樹の体を舐め回していた。
俺の目は、あの人の股間に釘付けになった。ナスのように黒光りする亀頭が、薄暗い部屋で異様な存在感を放っていた。俺は自分のものを思い浮かべた。まだイチゴのように赤く、小さく尖っている。だが、いずれあのナスのようになるのだ。
大変だ、と俺は思った。あんなものになる前に、隠さなければ!
俺は離れから逃げた。庭の砂利を踏む音が恐ろしくて、つま先だけで歩いた。自分の部屋に戻ったとき、シャツが冷えていた。汗だったのか、それとも別の体液だったのか、分からない。布団に入っても蝉の声が止まなかった。
その夜、俺は自分の部屋で包皮を摘んで引っ張った。亀頭を覆い隠すように、皮を伸ばした。何度も、何度も。やがて、下腹部に痺れるような感覚が走り、白い液体が飛び出した。それが俺の精通だった。
それから俺は毎晩、包皮を伸ばし続けた。亀頭があのナスのようにならないように。美樹を傷つけるものにならないように。美樹の目は少しずつ死んでいった。俺は何も言えなかった。何もできなかった。ただ、自分の皮を伸ばし続けた。
一つだけ、試みたことがある。中学の卒業が近づいた冬だった。俺は図書室で県内の高校案内をめくり、館山にある全寮制の高校を見つけた。房総半島の先端だ。ここなら、あの人の手は届かない。俺は願書を取り寄せた。封筒が届いた日、美樹の部屋に持っていった。畳に座る美樹の前に、願書と案内のパンフレットを置いた。太平洋が見える校舎の写真。海風に揺れるカーテン。美樹はパンフレットに目を落としたが、まんじりともしなかった。あの夜と同じ顔だった。天井を見上げていたときと同じ、何も映さない目がパンフレットの上を滑った。
「ここに行こう」
俺は言った。美樹は答えなかった。指先がパンフレットの角に触れたが、めくらなかった。
俺は美樹の代わりに願書を書いた。名前を書き、住所を書き、封筒に入れた。投函した。合格通知が届いた。美樹の名前が印刷された通知書を、俺はまた美樹の前に置いた。
美樹はそれを見て、ゆっくりと首を横に振った。完全に諦めた女の顔だった。十五歳の少女がする顔ではなかった。あの離れの部屋で、あの人の横で天井を見上げていたときと同じ目が、俺を見ていた。俺は通知書を破った。
妹よ、やがて、君は皮を脱いだ。あの願書では君を救えなかった。だが君は自分のやり方を見つけた。俺はそのことを、誇りに思う。
渓谷で皮を見つけた俺はすぐに君が逃げたのだと察したよ。地面には血溜まりなどなく、君が綺麗に皮を剥いだのだとわかった。俺は君の皮を拾い上げ、その重たい毛布のような柔い質感を腕に感じながら、自分の部屋へ持ち帰った。君の部屋には布団が綺麗に畳まれていた。それだけだった。
君が皮を脱いで消えたことを、俺は三日間誰にも言わなかった。あの人にも言わなかった。離れの部屋は閉め切られたまま、日中は蝉が、夜は蛙が壁を震わせた。俺は毎晩自分の部屋で包皮を引っ張りながら考えた。君は脱いだのだ。俺は伸ばしている。同じ皮膚をめぐる行為でありながら、君のそれは脱出であり、俺のそれは籠城だった。君は痛みの表面そのものを手放して、剥き出しの肉体で世界に踏み出した。俺は痛みの根元を覆い隠して、皮の奥に閉じこもった。十二歳の夏に見たものが、君と俺を正反対の方向に走らせた。
ずっと後になってから、あの離れの畳の上に、君の爪が残した細い傷を見つけた。畳の目に沿って、爪先で引っ掻いた線が何本も走っていた。それが何年分の夜の記録なのか、数える気にはなれなかった。
家業を継いでから、俺は考えるようになった。十二歳のあの夜から、俺は自分の亀頭があのナスのようになることを恐れて皮で隠し続けた。うどんを伸ばすように、毎晩毎晩引っ張り続けた十年で、俺の包皮は五十センチ以上に伸びた。陰茎本体よりも長い、象の鼻のような皮。亀頭はその奥に封じ込められた。俺の体は、包皮を摘むあの歪んだ行為にしか反応しなくなっていた。
だが、家業を継いで分かったことがあった。あの人が去った後の書斎は埃の匂いがした。帳簿の棚を片づけていると、帳簿の裏表紙と段ボール箱の底板の間に、茶封筒の束が挟まっていた。封筒の中身は示談書だった。藁半紙に似たざらついた紙に、万年筆の黒インクで金額が書かれている。インクの色は端のほうだけ茶色く退色していた。手が震えた。封筒を握る指が滑って、何枚かが畳に散らばった。婆さんの声が耳の奥で蘇った。正座した俺たちの頭越しに、鞭を畳に打ちつける手を止めて、声を嗄らして囁いた――祖父が隣の家の娘の腹を膨らませた、曾祖父は女中部屋に夜ごと忍んだ、と。あのとき畳の目を数えていた俺の膝は、婆さんの息の湿り気を今でも覚えている。鷹橋の男はみな、女を組み敷くことで商いの勘を研ぎ澄ましてきた。
脊髄の奥で、家父長が暴れていた。
腰が砕けるような痛みの中で、鷹橋の男たちは手を止められなかった。俺も同じだった。腰が軋むたびに、これは罰なのだと分かっていた。分かっていても、脊髄が俺の手を動かした。
俺の拳が瑞穂の頬を打つとき、俺はその拳を自分のものだと感じていたか。腰が軋む。軋みが腕に伝わる。腕が上がる。拳が落ちる。この一連の動作のどこに俺の意志があったのか。腰か。腕か。拳か。どこにもなかった。どこにもなかったが、殴ったのは俺だ。
脊髄のせいにはできない。脊髄のせいにできるなら、あの人も許されることになる。あの人を許すわけにはいかない。ならば俺も許されない。
俺が妻を殴り始めたのは、家業を継いだ直後だった。最初は軽い平手打ちだった。やがて拳になった。妻の妹にも手を出し始めた。女を打ち倒す時の赤い熱を手に感じると体の底から衝動が湧き上がってきた。他にどう喩えようもない。喜びでも怒りでもない支配の激情とでも呼ぶべき感情だった。
ある夜だった。妹はリビングの床に座って、折り紙を折っていた。鶴が三羽、膝の横に並んでいた。俺は台所で缶ビールを開けた。妹がこちらを見た。それだけのことだった。俺は缶を置いて、三歩でリビングに戻り、妹を押し倒した。妹の瞳孔が開ききって、焦点が俺の顔の向こう側へ逃げていた。俺の両手は妹の肩を掴んだまま、指の関節が白くなるほど力を入れていた。腰の奥が焼けるように軋み、それでも手は離れなかった。
台所から物音がした。振り向くと、瑞穂が立っていた。台所との境の柱に手をついていた。三メートルほどの距離で、妹の顔と、俺の拳を、交互に見ていた。
「妹だけは」
瑞穂の声が割れた。
「妹には、手を出さないで」
それだけ言うと、瑞穂は膝から崩れ、畳に額を擦りつけた。声は出なかった。肩が震えていた。俺は立ったまま、瑞穂の後頭部を見下ろしていた。
夜のガラスに、俺の姿が映っていた。裸足で立つ男。拳を握ったまま、妹の上に影を落としている男。ガラスの向こうには庭の闇があった。だが映っていたのは庭ではなく、あの人だった。あの人と同じ体の傾き、同じ肩の角度、同じ目をした男が、ガラスの中から俺を見ていた。
ジュースケさんが俺の家に来るようになった。瑞穂と暮らし始めて、事情を知ったのだろう。月に一度、二度。座卓の前に座り、俺が出す茶に手をつけないまま、書類の束を広げた。
「籍はどうする」
「お前が決めろ」
「俺が決める問題じゃないだろう」
ジュースケさんは書類を指先で叩いた。あの学食でナプキンに細胞の図を描いたときと同じ癖だった。だが目は笑っていなかった。
「子供たちは鷹橋の跡取りになるのか」
「ならない。お前の子だ」
「じゃあ俺の籍に入れる。それでいいな」
俺は頷いた。ジュースケさんは書類を揃えて封筒に戻した。手が微かに震えていた。茶碗に手を伸ばし、一口飲んで、冷めていることに気づいた顔をした。
「これから、どうするんだ」
しばらく何も言わなかった。廊下の時計の秒針が動く音だけが聞こえた。
「もう終わりにするよ」
ジュースケさんの手が止まった。茶碗を置く音が大きかった。
「それはどういう意味だ」
「店を畳む。鷹橋を終わらせる」
「鷹橋、お前――」
「死なないよ。まだ」
ジュースケさんは俺の目を見た。信じていなかった。俺は目を逸らした。壁の染みを見ていた。
「どうするつもりだ」
俺は答えなかった。それ以上、彼は聞かなかった。
妹よ、ジュースケさんは瑞穂を殴ったことは知っているだろう。だが、瑞穂の妹に手を上げたことは知らない。ジュースケさんの中の俺は、まだ「妹想いの男」の残骸だ。本当のことを知っているのは、お前だけだ。近所には、瑞穂は親戚の家で療養すると伝えた。誰も疑わなかった。俺が殴っていたことは、みんな薄々気づいていたからだ。
俺は自分の腰を叩いた。
あの人が死んだとき、病室は消毒液の匂いで満ちていた。心電図の電子音が一定の間隔で鳴り続けている。点滴の雫が管の中をゆっくり落ちていくのが見えた。窓の外は曇っていた。季節の分からない灰色の空だった。ベッドの上で、あの人の体はすでに甕に収まる形をしていた。掛布の下で膝が胸に近く折れ曲がっている。臨終の際、あの人は俺に言った。
「シフトの組み方だがな」
声は掠れて、途中で息が詰まった。酸素マスクをずらして喋っていた。
点滴の管が腕に刺さったまま、あの人は続けた。
「弱い女から入れるんだ。月曜の朝に来られる女は、他に選択肢がない女だ。そういう女は逃げない。週の終わりに穴が開いても、補充が利く」
俺は黙って聞いた。腰が痛かった。丸椅子に長く座っていると、脊髄の同じ場所が疼いた。あの人と同じ場所が。俺は拳で腰を押さえながら、あの人の声を聞いた。
「分かってるか。分かってるからお前は十三店舗だ。俺は七で止まった」
あの人は咳き込んだ。俺は身を乗り出した。だがあの人は手で俺を制した。咳が収まると、酸素マスクを元に戻し、目を閉じた。心電図の電子音がしばらく続いた。俺は椅子に座ったまま、あの人の顔を見ていた。額のしわが弛んで、口元が少し開いていた。それだけだった。謝罪も、後悔も、何もなかった。窓の外では鴉が一羽、屋上のアンテナに止まって動かなかった。点滴の雫がまだ落ちていた。看護師が来るまで、俺はその音を数えていた。
妹よ、これをそのままお前に書く。
甕に収めるとき、あの人の腰はすでに曲がっていたから、ほとんど折り畳む必要がなかった。それでも叔父と俺の二人がかりで肩と膝を押し込むと、関節が乾いた音を立てた。甕の内側は暗く、釉薬の光沢が底のほうで鈍く光っていた。あの人の頭が沈み、肩甲骨が縁をこすり、やがて全身が闇に呑まれた。蓋をしたとき、陶器と陶器が擦れる音がした。あの音だけが葬儀の中で確かなものだった。
焼香の煙が目に沁みた。俺は軋む腰を折って参列者に頭を下げた。
「父は、生涯を家業に捧げました」
喉が詰まった。腰の軋みが、声を震わせた。マイクが息を拾い、スピーカーから低い雑音が返ってきた。俺は拳を握って続けた。生涯を家業に捧げた、などと嘘を吐いている自分の声が、どこか遠くの他人の声に聞こえた。
俺は、この家を終わらせる。
その確信は、声ではなく腰の奥から来た。脊髄が命令しているのではない。脊髄を黙らせるために、俺の骨が決めたのだ。胸郭の底が冷えて、指先の感覚が一瞬消えた。
三日後、俺はイオン幕張に向かった。車のシートに低反発のクッションを敷いていても、信号で止まるたびに腰椎が軋んだ。赤信号のあいだ、ハンドルに額を押しつけて息を止めた。ブレーキペダルを踏む右脚の付け根から鳩尾まで、鈍い痛みが一本の線になって突き刺さっていた。信号が青に変わるたびに、その線が少し解ける。また赤になると刺さる。千葉街道沿いのロードサイドの看板が流れていく。マクドナルド、ドラッグストア、回転寿司。その先に、イオンモール幕張新都心の白い建物が見えた。
自動ドアが開いた。空調の風と、床のワックスの匂い。フードコートの喧騒が壁のように押し寄せた。
「鷹橋」のカウンターに列ができていた。俺は厨房に入った。エプロンを結ぶ指がいつもより強張っていた。出汁の匂いが鼻腔に沁みた。この匂いの中で俺は十五年以上働いた。
受け渡し口の向こうに、ジュースケさんがいた。娘たちと並んで番号札を持っている。長女はこの春一年生になったはずだ、紺のワンピースを着て背筋を伸ばしている。次女はクレヨンで汚れた指でジュースケさんのシャツの裾を握っていた。三女は抱っこ紐の中で眠っている。丸い頬が上下に揺れていた。ジュースケさんが長女の頭を撫でている。長女が「おいしゃさんになる」と言ったのは、いつだったか。手が止まった。寸胴鍋の縁を握ったまま、指の関節が白くなった。俺は厨房の奥に戻った。
昼のピーク時だった。パートの中村さんが「鷹橋さん、釜もう一つ回しますか」と声をかけてきた。俺は頷いた。声を出すと何かが漏れそうだった。寸胴鍋の縁から出汁の飛沫が手の甲に散って、荒れた皮膚がひりついた。麺を湯に落とすたびに湯気が顔を包み、睫毛に水滴が溜まった。腰を片手で押さえながら、茹で上がった麺をざるに上げた。俺は包丁を研いだ。いつもと同じように。砥石の上を滑る刃の音だけが、俺のものだった。
中村さんが「お昼、回ったら休憩入りますね」と言って表に出た。厨房には俺一人になった。
厨房の裏口の引き戸を閉めた。鍵はない。ステンレスの調理台にエプロンを脱いで畳んだ。丁寧に畳んだ。それから、ズボンのベルトを外した。
ズボンを下ろした。厨房の壁が背中に冷たかった。十年以上伸ばし続けた包皮が、象の鼻のように垂れ下がる。その奥に封じ込めてきたもの――あのナスのようにならないように、美樹を傷つけるものにならないように、隠し続けたもの。俺はそれをまな板に載せた。ヒノキのまな板だった。出汁の染みが黒く残っている。あの人の代から使っているものだ。
包丁を持つ手に汗が浮いた。柄の木目が滑った。握り直した。刃を根元に当てた。ヒノキの冷たさが、下腹に伝わってきた。一呼吸。吸って、止めた。吐くときに手が動くのだと分かっていた。クレープ屋の鉄板でバターが弾けた。J・POPがサビに入った。子供が笑った。出汁の湯気が顔に当たった。温かかった。息を吐いた。俺の手が動いた。力は要らなかった。骨のない部位を、包丁は通過した。何かがまな板の上で、俺から離れた。
スピーカーはまだサビを繰り返していた。子供はまだ笑っていた。出汁はまだ温かかった。痛みはどこか遠くにあった。テナントの向こう側、フードコートの出口の辺り、あるいはもっと遠く、駐車場の先の国道の辺りに、俺の痛みは置き去りにされていた。俺の目の前にあるのは、まな板の上のそれと、出汁と、赤黒い血だけだった。
血がまな板の木目に沿って流れた。ヒノキの染みと混ざって、区別がつかなかった。俺はまな板を傾けて、血を寸胴鍋に流し込んだ。出汁の表面に赤が広がり、沈み、消えた。
下腹部を見下ろした。何もなかった。十二歳から恐れ、二十年以上覆い隠してきたものが、なかった。血だけが、静かに太腿を伝っていた。
俺はまな板に向き直った。それを薄く切った。葱を刻むときと同じ手つきで、同じリズムで。十年伸ばした包皮は、驚くほど素直に刃を受け入れた。うどんの具材として、完璧な厚さに切れた。俺は自分の手を見た。出汁に荒れた、いつもと同じ手だった。
手を洗わなかった。蛇口に手を伸ばしかけて、止めた。この血は出汁に混ぜたのだ。洗う理由がなかった。
一杯のうどんを盛った。刻んだ葱の間に、俺の肉片が沈んでいる。出汁を張った。丼の縁を親指で拭い、トレイに載せた。カウンターに出した。番号を呼んだ。声は思ったより普通だった。客がトレイを受け取るまでの三秒間、俺は笑顔を作っていた。客が受け取った。「いただきます」と手を合わせた。一口啜った。「美味しい」と言った。
俺は厨房の奥で壁に腰を預けた。床に座り込んだ。血が脚を伝い、タイルの目地を埋めていく。視界の端で、クレープ屋の店員が生クリームを絞っている。J・POPは次の曲に変わっていた。フードコートは平和だった。
受け渡し口に人影が立った。番号札を持っていなかった。ジュースケさんが、厨房を覗き込んでいた。長女がうどんを啜りながら「パパ、まだ?」と呼ぶ声が背後から聞こえた。ジュースケさんが厨房に駆け込んできた。
「鷹橋――」
声が途切れた。ジュースケさんはタイルの床を見た。まな板を見た。膝が折れた。しゃがみ込んで、両手で口を覆った。指の隙間から荒い息が漏れた。それからまた俺を見た。
「何をした」
俺は笑った。
「終わったよ」
ジュースケさんが携帯を取り出そうとした。
「呼ぶな」
俺は言った。ジュースケさんの手が止まった。
「救急車は呼ぶな。頼む」
ジュースケさんは携帯を握ったまま、膝をついた。嗚咽が漏れた。
血まみれの手で、腰を押さえた。初めて、脊髄が沈黙していた。あの人が死んでも黙らなかったものが、黙った。
「美樹を頼む」
ジュースケさんは俺を抱きかかえた。その手が震えていた。俺の血で彼のシャツが濡れた。白いシャツの胸元に赤が広がっていくのを、俺は見ていた。
「馬鹿野郎」
声が割れていた。
「馬鹿なのは、鷹橋の家だ」
ジュースケさんの腕を振りほどいた。俺は血を流しながら、店を出た。タイルの床が足の裏に滑った。非常口の扉を押すと、夕方の西日が目を灼いた。六月の湿った外気が傷口を舐めた。蝉が鳴いていた。どこかの植え込みで、気の早い蝉が一匹だけ鳴いていた。アスファルトの照り返しが足元から立ち昇り、駐車場の白線が陽炎の中で歪んでいた。
施設の名前が書かれた白いバンが路肩に停まっていた。
車椅子が見えた。
女の人がいた。こちらを見ていた。瑞穂の妹だった。笑顔はなかった。ただ、俺の姿を見ると手を振った。俺は思わず手を振り返した。妹が怯えたように頭を引っ込めた。かつて振り下ろされた拳の記憶が、彼女の首を縮めさせたのだろうか? 俺は自分の手を見た。血がべっとりとついていた。指の間に出汁の茶色と血の赤が混ざって、爪の縁まで黒く染まっていた。俺はその手を自分の顔に押しつけた。額から頬にかけて、血を塗りつけた。拭うのではない。塗ったのだ。目の周り、鼻の脇、顎の線に沿って、自分の血で自分の顔を汚した。妹がそれを見た。目が丸くなった。それから、肩が揺れ始めた。笑っていた。声のない笑いだった。暴力の残滓が笑いに代わっていた。それは俺の体に長く潜んだ家父長の死を、はっきりと感じさせた。
駐車場に出た。夕方の空気が傷口に触れて、そこで初めて痛みが追いついてきた。鈍く、重く、下腹部の底から湧き上がる痛み。タオルを股に挟み、車に乗り込んだ。シートが血で濡れた。
千葉街道を東へ走った。沿道のドラッグストア、コンビニ、中古車販売店が等間隔に並んでいた。どの店も灯りを点けていた。信号が赤に変わるたびに、ブレーキを踏む脚の力が少しずつ弱くなっていくのが分かった。後部座席にはガソリンの携行缶が二つ載っている。揮発した匂いが車内に充満し、窓を少し開けた。信号で止まるたびに、視界の端が暗くなった。右折レーンで軽自動車が俺の車の横に並び、運転席の女が一瞬こちらを見て目を逸らした。俺の顔色が見えたのか、それとも何も見えなかったのか。ラジオをつけた。何が流れていたか覚えていない。J・POPだったろうか、おそらくそうなのだろう。
花見川の河口近くに着いた。近くの高校のボート置き場だ。車を降りると膝が折れた。ズボンが太腿に張り付いていた。乾きかけた血が布を硬くしていた。水の匂いがした。潮と泥と、川の底の腐葉土が混ざった匂い。河口の向こうに東京湾が暗く広がっていた。対岸の工場群の灯りが水面を赤く染めていた。ボートを引きずり出した。腰が軋んだ。これが最後の軋みだ、と思った。携行缶をボートに載せた。海に浮かべ、漕ぎ出した。オールを握る指が白かった。
月が出ていた。海は凪いでいた。東京湾の黒い水面に月光が散っている。陸が遠ざかると、イオンモールの灯りが海岸線に沿って横に伸び、やがて他のビルの灯りと区別がつかなくなった。月が水面に映っていたが、オールを入れるたびに像が砕け、また集まった。失血で腕に力が入らなかった。オールの柄が掌から滑り、握り直すたびに指の感覚が遠くなった。十漕ぎごとに腕を止めて息を整えた。肩で呼吸した。海風が汗を冷やし、歯の根が合わなくなった。ボートの底に溜まった海水が、ズボンの裾から滲みてきた血と混ざって薄桃色に濁っていた。
ガソリンの缶を開けた。ボートの底板に、まんべんなく撒いた。液体が板の継ぎ目に染み込む音がした。じわり、じわりと木目に沿って広がっていく。匂いが海風に乗って膨らみ、鼻腔の奥を焼いた。星が見えた。東京湾の上空に、意外なほど星が多かった。
波の音がない海だった。凪の夜は水面が油を塗ったように鈍く、ボートの船底だけがときおり何かに触れて鳴った。呼吸のたびに肋骨が軋んだ。失血で体温が下がっている。指先が自分のものではないようだった。海面に映る月が、ボートの揺れに合わせてゆっくり伸びたり縮んだりしていた。
妹よ、いまボートの上でこの手紙を打っている。届かなくてもいい。言葉にしなければ、脊髄は本当には黙らない。
うどんを伸ばすように皮を伸ばした。皮を切って、うどんの具にした。血を出汁に混ぜた。客がそれを食べて「美味しい」と言った。鷹橋の最後の一杯が回った。俺の身体が、鷹橋の最後の商品になった。帳簿は閉じた。
ボートの底に撒いたガソリンが揮発して、鼻の粘膜を焼いている。もうすぐ火をつける。そうすれば俺の身体は海の上で焼け、灰は水に散る。甕には入らない。鷹橋の男は皆、腰が曲がるから甕に収まりやすい。だが俺は甕に入らない。俺はこの家を終わらせる男だから、甕の外で消える。君は皮を脱いで新しい面で歩き始めた。俺は皮を切り、血を流し、火で焼いて、それでようやく消える。不器用な消え方だ。だが、鷹橋の男の消え方としては、これが正しい。
スマートフォンを取り出した。画面の光が暗闇の中で顔を照らした。楽天モバイルの電波はまだ立っていた。アンテナが三本から二本に減っていた。
妹よ。これが最後の報告だ。
ジュースケさんは二〇三〇年までには技術が確立すると言っている。あと五年だ。俺の全財産はジュースケさんに遺す。ジュースケさんがその金で君を探し出し、皮膚を再生してくれる。
三女がまだ二つで、先週ようやく「パパ」と言えるようになった。俺が本当の父親ではないことを、いつか三人とも知るだろう。知った上で、俺をパパと呼んでくれるだろうか。長女はジュースケさんに「おいしゃさんになる」と言っていた。あの子たちは、いつも一緒にいるおじさんが本当の父であることをそのうち知るだろう。
瑞穂の妹のことを、俺は祈る。俺が振るった拳を、覚えていないことを。
俺は海の上で消える。継ぐ者は、もういない。
俺は、君を守れなかった。あの人から、君を守れなかった。俺は臆病で、弱くて、何もできなかった。そして、俺自身もあの人と同じになった。
だが、少なくとも、血は断った。俺の娘たちは、俺の血を継いでいない。鷹橋の呪いは、彼女たちには及ばない。
イオンは、今日も灯りを点けているだろう。あの巨大な光の箱は、俺たちが消えても何ひとつ変わらない。鷹橋の暖簾だけが下りる。それでいい。
美樹、幸せになってくれ。新しい名前で、新しい皮膚で、新しい人生を生きてくれ。
生まれ変わったら、また双子になろう。今度は、どちらが先に生まれても、呪われない世界で。
ジュースケさんにメールを打った。指が悴んで、何度も打ち間違えた。
「娘たちを頼む。そして、瑞穂を幸せにしてやってくれ」
送信ボタンを押した。画面の上部でインジケーターがゆっくり伸びていく。途中で止まった。また動いた。送信済みの表示が出るまで、指先を画面から離せなかった。
電波が弱くなってきた。アンテナが一本になった。画面の光が揺れる水面に反射して、ボートの縁に白い筋を引いた。ガソリンの匂いの中で、スマートフォンの画面だけが、この世界と俺を繋ぐ最後の紐だった。
もうすぐ、圏外になる。
*
十月の幕張の海岸は風が強かった。湾を渡ってくる風には工業地帯の鉄錆と、干潟の泥の匂いが混じっていた。沖のほうに石油コンビナートの煙突が並び、灰色の煙が低い雲と見分けがつかなかった。
慰霊碑は防波堤の先にあった。御影石の碑面は潮風に晒されて角が丸く、刻まれた文字の溝に砂が詰まっていた。海難事故で亡くなった人々の名前が並ぶその前に、女が立っていた。黒いコートに黒い革靴。花を供えていた。白い菊だった。セロファンの包みを解き、茎の切り口を碑の台座に立てかけるとき、女の指先は迷いなく動いた。何度も繰り返してきた所作だった。
犬が駆け寄った。ゴールデンレトリバーが女の膝に鼻を押しつけ、尻尾を振った。
「すみません、リク! 来い!」
飼い主の男が走ってきた。リードを引いて犬を戻した。
「すみません、人懐っこくて」
女は微笑んだ。四十代後半か、五十代の入り口か。肌が白かった。均一に白く、日焼けの跡がどこにもなかった。首筋から耳の後ろにかけて、微かな裂傷の跡が見えた。そこだけわずかに色味が違う。碑に向いている側の首筋は磁器のように滑らかで、耳の裏に近づくにつれて肌理が変わり、産毛の生え際に薄い段差があった。風がコートの襟を揺らすと、その境目は見えなくなった。
犬が慰霊碑の台座に鼻を寄せた。供えられた菊の横に、もう一つ古い花束の残骸があった。セロファンだけが残り、花はとうに枯れていた。碑面の下のほうに、水難とは異なる区画があった。焼死——と刻まれ、男の名前が一つだけ並んでいた。
飼い主がリードを引きながら碑文を覗き込んだ。
「ああ——東京湾のボートの」
女の菊を添える手が一瞬止まった。指先が茎の上で硬くなり、それからゆっくりと離れた。
犬が砂を掘り始めた。波が防波堤にぶつかる音がした。
「ええ、兄がね」
女はそれだけ言った。碑面に刻まれた名前の上に、指の腹をそっと置いた。石の冷たさを確かめるように、一度だけ撫でた。
飼い主は何か言いかけたが、犬がリードを引いた。男は会釈して、砂浜のほうへ歩いていった。犬の足跡が波打ち際に続き、やがて風の音に紛れて、リードの金具の音も聞こえなくなった。
女は碑の前にひとり残された。
風が菊の花弁を一枚剥がして、海に運んだ。
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