小春日和の陽が落ちるまでに原稿用紙とのにらめっこを演じるが、まだ一文字も進んでいなかった。その間にも万年筆のインクが乾いていく。オイオイ。架橋下の影は夕暮れの中に溶け込んで、暗闇が書かないことの言い分を作ってくれるまで、もう少しという時間だった。
「おじさん、おじさん、僕だよ」
顔を上げると、クリボーが立っていた。膝下まで伸びるアディダスのハーフパンツはロゴが古い楓型のままで、親近感を持たせた。
「なんだよ、いじめられっ子が俺を見下しに来たか」
クリボーは頻りに頷いた。が、フェンスにかけた指の幼さからいって、見下すという言葉の意味も解っていないらしい。
「調べ学習の続きだよ」
「他の奴等はどうしたんだよ。逃げたか」
「僕が調べたのを出すって」
「それじゃあ使いっ走りじゃねえか。プライドねえのか」
「だって、僕しからやらないから」
「だから、プライドは無えのかよ」
クリボーは下唇をぷうと突き出して、なんとか涙を堪えている。なんにせよ、母親が美容院なぞで髪を切らせるから悪いのだ。クリボーの髪型は女みたいだった。母親が息子に向ける捻じ曲がった理想の子供像に忠実過ぎて、弱さ、柔らかさばかりが目立っている。
「他人に使われんじゃねえよ。おまえの人生だろ」
クリボーは頷いた。しかし、プライドも他人も人生も、たかだか十歳かそこらの子供には言葉本来の意味を持たない。説き伏せたところでクリボーはあの子鬼どもに殴りかかったりはしないだろう。ひきこもりは寝転んだ。ラッパズボンのあちこちに開いた穴が、相変わらず冷気を吸い込んでいる。
「解ったよ。協力してやるから、勝手に調べろ」
堤防のコンクリート製小段の上で、東武伊勢崎線架橋の下。そこにでんと寝そべる三十男の迫力は、おお、とクリボーを慄かせる。子供には知る由も無いが、ロックスターの怪しい迫力に通ずるものがあった。クリボーはジャポニカ学習帳を開いて前のめりになった。かつて田舎を出るときに夢想した、『ロッキンオン』の編集者にインタビューされる妄想も色鮮やかに、ひきこもりは、ファック、と呟いた。
「場所を変えようぜ。ここじゃロックできねえよ」
そう言われて虹の広場のベンチへ向かったが、開口一番に問われたのが、「将来の夢は何ですか」だったために、思わずぐむうと鳴いてしまった。三十を過ぎてこの状態では夢も語れない。それにそもそも、私小説を書くという決意は夢としてぽろぽろ漏らすものでもない、ある種の悪どさとして封じ込めておくものだ。その封印の隙間から漏れ出る瘴気が文学となる。
「まあ、夢は無えな」
「無いの?」
「よく見るけどな。嫌になるほど寝てるから」
「その夢じゃないですよ。もっと……」
突き出した掌でクリボーの言葉を押し止めて、ひきこもりは目を瞑った。
「解ってるっつうの、そんぐらい」
「じゃあ、ほんとに夢が無いんですか? それじゃあに……」
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