*
俺はどうやらうまくいかないらしいと思った。
どうやら、うまくいかないようなのだ。
生まれた時にすでに在ったこの世界……
そこで俺は懸命に生きてきたわけなのだが、それは己の欲望のために外ならなかった。俺は欲望のために思考し行動した。その善悪を疑ったことなどなかった、存在の全ては俺のために在り、俺の人生は俺を主役とした最高の演劇であり、他の者らは脇役でしかないのだという考えが俺の根底にあった。しかし舞台は俺のために作られたものでなく脇役は主役を無視して前に出始めシナリオは途中で何度も不規則に書き換えられた。こんなことが許せるだろうか? しかしここで「許せない」と吠えてみたところで、他者を変えることはできない。邪魔者を殺してみたところで、世界を変えることはできない。既存の価値観を崩すことは決してできない。
俺は無力だ。
*
「ヘイ・ユー、誰を始末するのか決めたかい?」
ユー・キャン・ドゥ・イット本部長が笑顔で聞いてきた。こいつはいつも笑顔で、それが作られたものでなく本当に心から楽しそうに見えるのが腹立たしくさえ感じられる。それは彼の常用するドラッグのもたらす多幸感に違いないのだが、もし自殺しそうなほどの絶望感に襲われている者がいるのなら、ドラッグに助けを求めることはさほど悪い手段ではないとも思える。そうだ、死なないためには何でもアリだ。死なないためにやむを得ず取った手段はすべて正しい。
「始末したい人を考えてみたのですが、特にいませんでした」
「リアリィ?」
「ええ、腹が立つ人間はたくさんいますが、そんなやつらを殺していたらキリがありませんから」
「オーケーオーケー、それはとても良い判断だよ」
ユー・キャン・ドゥ・イット本部長は先ほどよりもさらに明るい笑顔でそう言ってから、拡声器を手に取りフロア全体に向けて叫んだ。
「お前ら全員クビだァー!」
*
突然の解雇通告に大きなどよめきが起こった。その場にいた数百人もの人間が怒り狂い、ユー・キャン・ドゥ・イット本部長に対して挑みかかったが、結局は一人残らず惨殺されてしまった。挑みかかった人間の中にはキャッチャーも含まれていたようで、唯現在論者であった彼が安定した未来を奪い取られたことに怒りを覚えたのだとすれば、俺は彼を軽蔑せねばならない。言うこととやることの違う人間を評価してはならない。彼は唯現在論者を気取っているだけのただの一般的な思想を持つ、いや、思想なんて持ち合わせていない、一個の凡庸な人間に過ぎなかったのだ。大半の人間の思想は圧倒的暴力の前に屈する。暴力に晒される機会が少ないからそれが露呈しないだけなのだ。
そして、圧倒的暴力の前に屈する思想は、思想ではない。
*
いつも職場で俺に笑いかけてくれた永島グレートヒェン紗枝子の死体を見つけた時、俺は胸にぽっかりと穴が空いていくように感じた。永島グレートヒェン紗枝子はあまり物事の本質を理解しようとしないので、俺はいつも彼女を軽蔑していたが、キャッチャーのようにハリボテの思想で周囲を威嚇する人間よりもよほど立派な人間であったという気が、その死体を見た時に初めてしたのだった。
さらに言えば、軽蔑されているなどとは思いもせず、俺のような人間に毎日笑いかけてくれた彼女を俺は愛していた気さえしたのだ。それはおそらく、津原マルガレーテ亜理沙への愛よりも強いものだった……津原マルガレーテ亜理沙への愛はカート・コバーンが生まれたことによる後付けにすぎなかった。しかし、永島グレートヒェン紗枝子への愛は自ら止めどなくあふれ出してくるようではないか。
「オパイコ!」
二階から駆け降りてくるのは池上シェフチェンコ篤史だ。一階は死体の山であったが、その中に大きなおっぱいを持っている女性を探しているようだった。
「オパイコ、オパイコ!」
池上シェフチェンコ篤史はついに俺のところまで辿り着き、そばに倒れている永島グレートヒェン紗枝子の死体を掴んだ。永島グレートヒェン紗枝子はFカップだったからだ。
「やめろよ、おい」
俺は永島グレートヒェン紗枝子の服を脱がそうとする池上シェフチェンコ篤史を止めようとしたが、凄まじい力で弾き飛ばされ、尻餅をついてしまった。俺がもたついている間に、池上シェフチェンコ篤史は目にもとまらぬ速さで永島グレートヒェン紗枝子を裸にし、ぎんぎんに勃起したペニスを挿入しようとした。
「やめろっつってんだろ!」
俺は愛する者の死体を好き放題にされることに我慢ならず、池上シェフチェンコ篤史の顔面に思い切り蹴りを入れた。池上シェフチェンコ篤史は仰向けに倒れ、ぎんぎんのペニスを天井に向けたまま静止した。
「いい加減にしろ」
俺は息を切らせて池上シェフチェンコ篤史に最大限の軽蔑の視線を送った。
しかし、池上シェフチェンコ篤史からは、それよりもさらに鋭い軽蔑の視線が向け返されていたようであった。
「何が『いい加減にしろ』なんだ?」
「え?」
「お前は永島グレートヒェン紗枝子を愛してなどいなかった。永島グレートヒェン紗枝子の死体を見て、愛していたような気になっただけだ。それほどに残酷な話があるだろうか?」
「お前、話せるようになったのか」
俺の言葉を無視して、池上シェフチェンコ篤史は天井を見つめながら独り言のように続けた。
「生きている間に何の興味も寄せず、その死後に突然惹かれるなんて、当人への冒涜行為だと思わないかね。だって、生きている間がその人間なのであって、死体を見てから発生した愛は、死体への愛なのだ。それは当人の生きて築いてきた人格をまるで無駄な、さらに言えば邪魔なものとして扱っていることだ。彼女が死ななければお前は彼女を愛さなかったのだ」
"シュトラーパゼムの穏やかな午後(5)"へのコメント 0件