0
商店街の隅にある古書店の、棚と棚の間を、色黒の肌をした白髪の男が静かに分け入った。映画に出てくるような洒落た店でも、小説の様に美女の店員が鎮座するような古書店でもない。白い天井も鼠色の書架もそして色とりどりの本も静かに黙っている。この時間、古書店には店主夫妻と男しかいない。やがて白髪の男は三百円均一の棚から、一冊の古びた本を抜き取り、それだけを持ってレジに向かった。
「はいどうも、三百円」
頭頂が禿げて眼鏡をかけている店主は、テレビの野球中継からすぐ目を離しつつ、本のタイトルを一瞬見た。『無知の涙』。白髪の男は無言で百円玉三枚を出し、本を受け取った。店主は気を利かせた様に、男の横顔に話しかける。
「……あいや、今年はどこ優勝するんだろうね」
「……野球ですか」
「え、ええ」
「……」
男は硬い表情で視線を下に落としたままだ。好きなチームとか選手の名前とか、何か……急に気まずくなった店主は、「そう言えば」と言う風を装ってチラシを渡し、早口で説明した。
「ああ今度この古書市にね映画のパンフとか色々たくさん出すんですよ、是非来てください、ダーティハリーとかねえ、あなた日焼けしてるけどイーストウッドに似てるね、ハハ」
「どうも」
店主の笑いに、男は口角を少し上げただけのぎこちない笑みを浮べ返し、本とチラシを受け取ってそのまま出て行った。別の棚を掃除していた妻が、本の束を店主の横に下ろしながら苦言を呈した。
「あなたねェ、あの人随分長いお得意さんなんだしもうちょっと気を利かせたら」
「利かせたよ、利かせてアレなんだよ」
「何がイーストウッドだって」
「いや、似てるから……でもどこに住んでるかも良く分からないんだよな」
「本当に色々な本を買っていくねー」
しかしそれ以上の事は話さなかった。誰が何を買っていったなど、売り上げ以上の事はない。古本屋の窓から微かに見えた男の後姿は、一ヵ月後の改元を祝う飾りの向こうに消えた。
1
俺は狭い路地の間を抜け、錆び切った金網の門を開けた。ブロック塀の閉塞から解き放たれた場所に、時代から忘れ去られたかのような、朽ちたベージュ色のアパートが横たわっている。階段を昇りながらチラシを隅に捨て、先ほどの会話を思い出していた。
「仮に俺が……あの映画に出たとしても、正義じゃなくて、犯罪者として殺される側だろうな……」
俺は正義って観念が――少なくとも、その一辺倒が大嫌いだった。だが、今やそんなことを考えても何も意味はない。鍵を開け部屋に入ると、すかさず罵声が飛んでくる。
「負け犬!」「どの面下げて生きてる?」
部屋には俺の他に誰もいない。ただ、無数の本が一間に積み上げられている。夕日が差し込むが美しくはない。ドアや台所の前、古びた家電、敷き布団と机がある場所以外はほとんど本が占有している。
「お前の人生に意味なんかねえよ」「寝てもクズ、動き出してもクズだ」「クズにクズ並みの人生なんかないぞ、朽ち果てるだけだ」
この罵声は、俺にしか聞こえない。そして、現実の罵声だ。机の前に座り静かに部屋を見回すと、本棚に収まっている本は三割か四割ぐらいで、残りは積みあがったり転がったりしている。完全に時代から取り残されている。いや、自分から落伍したのか。人が主で時が従なのか、あるいはその逆なのか。俺は机の前から這いつくばって布団に移り、天井を見上げた。ここは犬小屋だ。負け犬の小屋だ。それも、昨今のニートやフリーターなどの意味ではなく、もっと悲惨な……途方もない時間の奴隷だ。
「お前は社会を裏切っただけじゃない、その逃げ先ですら裏切り、自分すら裏切ってんだぜ」
週刊誌の山の方から嘲笑する声がした。
「今からでも遅くはない、こっちに来なさい、謝るなら三等臣民にしてやるから……」
古新聞の一面で笑顔を浮かべる天皇。
「まあまあ彼を馬鹿にするなよ」
資本論の解説本が低い声で語りかけてくる。マルクスの声なのか本の声なのか分からない。俺は布団に横たわって、頭を抱えた。
2
色々な声に惑わされる中、記憶のまどろみの中で俺は、はっきり思い出せる中では一番古い、幼い日々の記憶を掘り出した。どの記憶からも、頭上から航空機の鋭い爆音がした。その鋭い音がする中、狭い家の中で、母親は、奇妙な壇の前で唱題を上げていた。畳の縁を道路に見立て、どこで買ったのか知らない、「Greyhound」と書かれた安っぽいバスのおもちゃを転がす私の向こうで、母は小刻みに震えながら熱心に「南無妙法蓮華経」と唱えていた。
俺が相変わらず古臭いバスのオモチャを前後させていると、母親は立ち上がり、ちゃぶ台に冷めた飯とミートボールが適当に盛られた皿を置いた。
「後で食べるんだよ。夜は寝な」
そして、母親は鏡の前で身だしなみを整えると、まだ幼児の俺を家に置いたまま、出ていった。狭い部屋から母親がいなくなり、猶更私には狭くなった。幼い俺には相対的に大きいちゃぶ台で、膝を立てながら食事する。その真正面にはあの鏡があり、食事をする俺のぎこちない動きがそのまま表れる。その私の肌の色は褐色だった。
その数日後の昼前だったか。朝帰りの母は、崩れた化粧のまま、畳に横になっていた。その時、郵便屋がガタついた戸を叩いてきたので、母が伏せたまま俺の名を呼んだ。
「ルキオ……おい、ルー坊。行って」
俺が戸を開けると、郵便屋は視界を落とし、小さい俺に何かの封を「郵便です」とぶっきらぼうに渡してすぐに去っていった。
「何が書いてあんの」
俺が見ると、それは明らかに日本語ではなかったが、その時俺はイングリッシュとかアルファベットという言葉も知らなかった。封の中に、手紙以外にも何か入っているらしく、封の下の方が膨らんでいた。
「わかんない。きちのかんばんみたいなじ。なんかはいってる」
それを聞くと、母は飛び上がって、せわしなく俺から封を奪うとちゃぶ台に駆け寄って、すぐにその封を開けた。俺にはよく見えなかったが、手紙と、何かの束が入っていた。母親はぶつぶつうめきながらその手紙を見ていたが、次第に震え、そして手紙をいきなり左右に破いた。そして、入っていた紙幣の束を床に叩き付けた。紙幣は何枚かまとまって床に散らされた。それは後に俺も何度か触れた、ドル紙幣だった。
「あいつ! こんなのが何になるってんだよ!」
母はひとしきり泣き喚き、俺は背中に回って摩った。その内、母は俺に、無理に笑ったような顔を見せた。そして母は写真立てに入っていた、ただでさえ少ない写真の何枚かを破いてしまった。引きつった笑いのような声が響いた。
「ルー坊。パパはアメリカだよ。国なんだ。あ、め、り、かぁ」
3
学校の帰り道というものに、何かロマンチックな記憶は大してなかった。そしてまた、頭上の遠くを戦闘機が飛び去っていた。
「おい、もう一回言ってみろ」
「言ってやろうじゃん。黒んぼサンボ! 日本語喋るな英語喋れ!」
俺の目の前で、三人ぐらいの小学生が立ちふさがっている。主犯格というべきガキに対し、私は声を張り上げた。
「お前、一人じゃそんなこと言えねえだろ」
俺は前に似たような状況で、このガキを一対一で制圧したことがあった。だが、状況など良くなりもしなかった。やられたらやりかえせ。そして、やりかえしたらさらにやられるのだ。
「くたばれ!」
"廃兵"へのコメント 0件