読んだ。そしてすべてわすれた。あるいは読みながらわすれていった。筋のつながらないところがあった気がしたが、なにせ読みながらわすれていくので、じっさいはきちんとつながっているのかもしれなかった。だが読むひとや読むひとの状態によって小説はいかようにも変化するのだ。すくなくともいまのぼくにとってその小説は読みながら内容をわすれていくたぐいのものだった。
水にちかいのかもしれない。ただ身体を素どおりしていった。水であればのどにうるおいをもたらすが、小説は……はたしてなにをもたらしたか。読んだという事実を得ただけである。それでは、ふじゅうぶんなのだ。
読んだのは読書会のためだ。「文壇」という組織ではいまだにそんなことをやっている。読んでどうおもったかをこの世の一大事としてあつかっている。なんともまあ平和な組織である。だがこの読書会に顔を出すことがこの組織で政治をするにとりなにより重要なのだ。
もちろん、顔を出せばよいというわけではない。なんらかの「おどろき」を参加者に提供するひつようがある。
たとえば御年八十九歳の滝川井水先生は、先月、「読まない」という選択で以てその需要にこたえた。
「さすが、先生ともなれば読まなくてもわかるのか」
そんなどよめきと感心が場にながれようとした瞬間、
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