ふっと意識が浮上する。部屋に微かな秒針の音を落とし続ける時計は、午前五時過ぎを指していた。
眩暈を起こさないようにゆっくりと身を起こす。座り込んだ姿勢で眠りに落ちるのにも慣れてしまった。眠ろうと思って目を閉じるより、気がつけば体の力が抜けて意識を失うことの方が多い気がするが、そのおかげか最近はひどい悪夢にもつきまとわれなくなった。
遮光カーテンの隙間から僅かに光が漏れている。夜が明ける直前の空が最も暗いというが、その時間はとっくに過ぎたようだった。カーテンを開け、建てつけのよくない窓も開ける。隣の建物の汚れた壁しか見えない景色は、眺めていても何の意味もなかった。
路地の向こう、カラカラと軽いものを転がすような音をたてて近づいたり遠ざかったりを繰り返しているのは、新聞配達のバイクだろう。恐らくチェーンが伸びきっている。やがてどこからか何かを焼いているような匂いが漂ってきて、白く澄んだ夜明けの空気に色をつけていった。以前の事務所兼自宅は地下階にあったので、こういった生活の気配とは無縁だったが、壁の薄いアパートの二階では何もかもを体のすぐ近くに感じた。
窓を閉める。もう一度眠ろうかとも考えたが、無意味に思えてやめた。全身に燻り続ける鈍い疲労感は、少々眠ったところで簡単に解消されはしない。
狭い机の上には資料が散乱していた。昨夜の自分は片付ける気力もなく眠ったらしい。一瞥してから全てシュレッダーにかけて、それからようやくキッチンに向かうと湯を沸かし、手が動くままに惰性でコーヒーを淹れた。
ふと何もかもが虚しく感じられて、わけもなく苛々とした。少し滅入っているのかもしれなかった。
明石は警察と神津組の汚れた関係を暴くべく、長年密かに行動していた。にわかには信じがたかったが、同時に心のどこかで深く納得もしていた。明石は昔からそういう奴だ。軽薄なようでいて真摯で、何も考えていないように見せかけつつ真面目だった。不良ぶってもワルになりきれない奴だった。
恐らく確実な証拠を求めてあれこれと手を伸ばすうちに、個人ではどうにもならないところまで深入りしてしまったのだろう。椎原が部分的に関知していながら何ひとつ協力できなかったのも当然に思えた。底なし沼に落ちた人間に細い棒切れを差し出して諸共沈むリスクをとるより、助けを呼ぼうとその場を離れる選択をして、そのまま時間切れを迎えただけだ。彼を責めることはできない。
とりあえず行方の知れない明石をどうにか引っ張り出すことを最優先にするとしても、問題はその先に山と残っている。神津と七澤の手の届かないところに彼を逃がすには、両者の間を縫っていかなければならない。波風立てることなく泳ぎきることなどできはしない。
焦っていると自覚している。思考が身体を置いて先行すればするほど、うまくいかなくなることはよくわかっていた。
正直打つ手は思いつかない。長く情報屋として仕事をしてきた自分自身が、手を引けと告げている。もう手遅れだ、面倒事に巻き込まれる前に手を引け、と。
相手がガキの頃からよく知る人間だから、それがなんだというんだ? そもそもそういうことをぐちゃぐちゃと考えたくなかったから、誰とも浅い関係を保とうとしたんじゃないか。現に今だってそうしている。そう、手を引くなら今しかない。今ならまだ致命傷にはならない。死ぬまで忘れることはできないだろうが、それでもいつかきっと、これが正しい選択だったと思う日がくる。情に流されるな。感情で動くのは最初で最後だと、あの日冷たくなった母の体を見下ろしながら決めたはずだ。
いつだって正しいのは理性だ。感情など邪魔だ。絞首台への階段を理性に後押しされながら歩くのなら受け入れるが、感情に引きずられて這い上るのは許せない。煩い。黙れ。わかってる。黙れよ。
視界が揺れている。眩暈でひどく気分が悪い。血か酸素か、あるいはその両方が足りていないらしい。このところは長く(といってもほんの数十分なのだが)立っているだけで動悸がしてきてふらふらと座り込む有様だった。
マグカップを置いてソファに腰を下ろした。走った後のように息が上がっている。つられて膨張した拍動の気持ち悪さに耐えかねて、気づけばきつく胸元をおさえていた。
「…っは、ハ………は、ッう――、ッ゛」
思わず嘔吐きそうになる。吐けるほど胃にモノは入っていないというのに、鳩尾を刺されるような苦しさは治まらない。吐いても余計に体力を消費するだけだ。そうわかっていても勝手に背中が震えるのを止められない。こみ上げるものさえないのに、冷や汗だけがだらだらと首筋を伝う。
「っ゛、う……けほ、げほっげほごほ、ぜッ…ぇ゛お、げほ……ッは、は、ッ は、ぁ゛、」
どくどくと跳ね回る鼓動が限界を超えて、明確な痛みに変わる。吸っても吐いても痛くて、吐く息に呻き声が混ざる。
ピルケールから薬を取り出すこともできない。痛い。ただただ、痛い。
目が回って世界が掴めなくなった。気がつけば横様に倒れていた。
力の入らない右手が見える。その指先はやけに白かった。爪の先まで色を失って、さながら死体のようだった。
この手の中はいつからこんなに余計なモノで溢れたのだろう。母を殺した相手をぶち殺す、それだけのために存在していたはずなのに。いつからこんな風に余計なことまで考えはじめるようになったのだろう。
――よく知る人間が目の前で死んでいくのが怖いなんて、どうにか繋ぎ止めたいだなんて。自分もいつかそうなるのが怖いだなんて、一体いつから。
目を閉じても痛みは引かなかった。それでも涙が溢れない分、いくらかマシだった。
†††
次に目を覚ましたとき、時計はまだ同じ時刻を指していた。夢かと思ったのもつかの間、ちょうど一周してきて同じところを指したのだと思考が追いついた。
まだこんなに眠れたのか。眠る体力さえ失われてきたら終わりだと思っていたが、もう少しだけなら進めるのかもしれない。
半分夢遊病のような気分で家を出た。路地に出ると、荷台の軽くなった配達のバイクとすれ違った。頭上を這ういくつもの配線の束が秋をはらみつつある風に揺れて、触れ合って微かな音をたてていた。
乱立するアンテナの群れのすぐ上を飛行機が飛び去っていく。夕暮れの光がぼやけた脳にずきりと刺さった。ジャケットの胸ポケットに入れたままだったサングラスで視界を覆えば、頭痛はゆっくりと引いていった。
どこを目指して歩いているというわけでもなかった。疲れて呼吸が苦しくなってきた頃に、明石と最後に会った喫茶店に辿り着いた。無意識の思考というのは恐ろしいもので、時々こうして身体を勝手に支配する。
ドアを押し開ける。ちょうど入り口近くに立っていた店員にコーヒーを注文すると、そのままいつもの席に座った。
客のほどんどいない店内には、夕暮れ時に相応しい空気が流れていた。深く哀しく、滔々としたアダージェット。少しずつ積もっていった時の重さがたてる微かなノイズも演奏の一部だった。
体から重さが溶けるように、ふっと深い息が零れた。
この旋律が止まるまでは誰も、何も邪魔しないでくれ。全てをなくしてしまいたい。最後の光が消えるそのほんの一瞬前に、生きることを手放したい。
このまま目を閉じて終わってもいいかもしれない。もう苦しまなくて済む。二度と痛みに溺れることもなければ、何ひとつ成し遂げられずに終わる無念を覚えることもない。とろりとした終わりの光に包まれて全てを手放しても、きっと誰も咎めはしない。
“なあアオ、死ぬなよ。少なくとも俺の知らないところで死ぬな”
どうして今、よりによって今、そんな言葉を思い出したりしたのだろう。声の記憶など何よりも先に消えるはずなのに、どうしてその抑揚まで、少し怒ったような口調まではっきりと覚えているのだろう。
もう明石に会うことはないのかもしれない。もうあいつは、この世のどこにもいないのかもしれない。近い未来そうなる予感があったから、こんなにも鮮明なのではないだろうか。
席を立って、ひとつ後ろの席に移った。明石がいつも座っていたところだった。
カーテンの端がほつれて小さな穴が空いていた。そこから光が入り込んで、カップに柔らかな影を落としていた。光の加減で、口をへの字にした不機嫌な人の顔のようにも見える。
あいつはいつもこんなものを見ながら話をしていたのか。そう思ったら少し笑えた。
明石は窓辺からメモを差し出すのが好きだった。不審に思われるからやめろ、椅子の間からにしろ。何度そう言っても頑なに変えようとしなかったので、最終的にはどうでもよくなってこちらが折れた。あいつとはそんなことばかりだった。
いつもこんな風にしていたっけな――そう思い出しながら窓辺に手をやった。
指先にかさりと紙の手触りがした。
カーテンの裏に、何かがピンで留められている。手探りで引っ張り出したそれは、四つ折りにされた紙片だった。
From Russia with Love
すぐ後には脱皮に失敗した蛇のようなサインが書かれていた。
「……ほんっと馬鹿だ、あいつ」
こんなときまでジェームズ・ボンド気取りかよ。苦笑を通り越して呆れるほどだった。
あいつはまだ諦めちゃいない。悲観してもいない。そして、少しだけ手助けを求めている。このふざけたメモが証拠だ。
いいだろう、乗ってやろうじゃないか。そう思ってしまうあたり、俺も人のことが言えないくらいには愚かだ。
万が一このメモが俺以外に見つけられてしまったときのために、明石は暗号を考えたのだろう。解析にかけられる可能性までは考慮していないだろうから、単純なつくりをしているはずだ。ただ、これは俺にしか解けないようにできている。暗号というより謎かけに近かった。
From Russia with Love ――ロシアより愛をこめて。明石の趣味を思えば、これが同名の映画を指していることくらいはすぐに察せる。どうせノリノリで考えたのだろう。しかしそこから先はさっぱりわからなかった。
映画は観ていないが、小説なら読んだ。作者のイアン・フレミングはジェームズ・ボンドシリーズの自主映画化を目論み、そちらに専念するため原作小説を打ち切ろうとして、この作品をもってボンドを殺して終わろうとしていたという。結局出版社からの猛反対の末にボンドは生かされ、シリーズは続くことになったわけだが、目下消息生死ともに不明の明石が暗号として残すにはあまりに皮肉なタイトルだ。
しばらくじっと考える。コーヒーが尽きて、店内に流れる音楽が切り替わるタイミングで二杯目を注文した。
今日は映画音楽ばかりを流している。映画音楽、ロシアより愛をこめて。From Russia with Love ――ああ、同名なのは映画と小説のタイトルだけではなかったか。
通りかかった店員を呼び止めて、曲のリクエストを出してみる。店員はひとつ頷くと、スピーカー近くのレコードの要塞に近づき、しばらくうろうろと探したのちに一枚引き抜いた。
針を落とした店員は、忙しいのかそのまま足早に去っていった。店内には往年の名曲が朗々と流れ出す。クラシックがメインのこの店には些か不似合いだったかもしれない。
リクエストしたレコードが流れる間、ジャケットはスピーカー近くに展示される。著名人のサインが入っているような場合は、わざわざ席を立って眺めにいく客もいた。
目的は曲ではなく、そのジャケットの方だった。
明石は悪戯のような謎かけが好きだ。ついでに遊び心のあるスパイ映画も大好きだ。あいつならきっとこうする。確信にも似た思いで、ジャケットに興味を抱いた風を装って静かにスピーカー前まで歩み寄った。
手を伸ばす。近くでよく見ようと屈み込んだようにしか見えなかっただろう。
インナースリーブとジャケットの間に紙が挟まっていた。そっと抜き去り、手の中に隠して席まで戻る。
The Fox and the Lemons
「レモン? ブドウじゃないのか」
元は The Fox and the Grapes, イソップ寓話のキツネとブドウ。出てくるのはレモンではなく、酸っぱいブドウのはずだ。
酸っぱいレモン、当たり前じゃないか。何を意味しているのかさっぱりわからない。
ふざけるなよ、自分の命がかかったこんなときにまで、どうしようもない謎かけに興じやがって。
レモン。ブドウではなくレモン。
手の中に収まる鮮やかなレモンイエロー。どこかの文豪は爆弾に見立てたりもしていたか。
カットされた断面。カップの底に沈んだレモン。窓から差し込む光。不機嫌な人の顔の形に穴の空いた古いカーテン。
――あいつはあの日、何を注文していた? いつからかコーラをやめてコーヒーと酒ばかり飲むようになったあいつが、あの日は珍しくそうじゃなかった。この店のコーヒーを気に入っていたはずなのに。
手にしたメモは僅かに縒れていた。まるで、一度濡らして乾かしたかのように。
哀しいくらいに単純だ。ジェームズ・ボンドは炙り出しなんて稚拙な手は使わない。だからやっぱりあいつは、スパイに憧れただけのどうしようもないガキだ。
そこからは呆気ないくらいに簡単だった。メモを持ち帰って炙ってみると、書かれていたのは飲食店の名前だった。考えずとも何を指しているかわかる。明石が仲間とともに長年住んでいた、あの隠れ家のことだ。仮に第三者に炙り出しのトリックまで見抜かれたとしても、このメッセージが何を指すかは俺にしかわからないだろう。それならはじめからもっとわかりやすくしておけよ、と毒づきたくもなる。
訪れる人の絶えた建物に、数年ぶりに足を踏み入れた。あの頃居場所のなかった少年達は、みな大人になってここを離れていった。今もそれぞれの場所で孤独を抱えているのかもしれないし、幸福な人生を歩んでいるのかもしれない。そのうちの何人かは、もうとっくにこの世にはいないのかもしれない。
明石は最後までここに残っていたときいている。どんな思いでいたのだろうと、今更ながらに想像を巡らす。
帰る人がいなくなっても、馬鹿騒ぎできる仲間がひとり、またひとりと巣立っていっても、たったひとりで何を思っていたのだろう。誰の声を待っていたのだろう。
何の音もしない。気配もない。自分のたてる足音が耳のそばで震えるくらいに静かだった。
傾いたドアは蝶番が壊れて半分開いたままだった。開けたら閉めろよ! と明石はよく怒鳴っていたっけか。見た目から想像がつかないくらいに、几帳面で丁寧な奴だった。
彼が使っていた部屋はすっきりと片付けられていたが、年月が降らせた埃と汚れの侵入は阻止できなかったらしい。
黴びて朽ちはじめたベッドの上には、大きく膨らんだ封筒がぽつんと残されていた。
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