ヤギ医者。

巣居けけ

小説

2,700文字

そして医者は今日の散歩コースを提案するような調子で宣言する。

そして年長者としての気質を持っている所長は咳をし始める。ガラガラの声の所長の席は危機として伝播し、路地裏にアジトを構える山羊頭の医者に出動を促した。

三十年の付き合いのジープで現場に向かった医者はまず素手の感触で所長の肺の辺りを摩る。彼は医者という身分のほかに歴史学者の身分を持ち、同時にラバース・ダイナマイトという名誉の名前と、フラストレーション・フリー・パッケージという正体不明の謎の活動名を持っていて、同時に酩酊医療外科医のメンバーでもある。

そして彼は探偵のような目つきと手つきで執刀医を演じながら、「これは三百回の腹筋のせいだな」と呟く……。
「あなた、そんなことをしていたの?」所長秘書が母親のような声で呟く。口を固定されている所長が頷きだけで肯定してみせる。
「切開の必要はないな……」医者が新品のカウチに腰掛けながら囁く。「こいつの腹を開けても筋肉しか出てこないだろう……。麻酔もいらない」白衣の下のポケットの中から覗くメスや注射器たちの腹を撫でながら言い放ち、所長の拘束具が勝手に解けていくのを待つ。

そして医者は今日の散歩コースを提案するような調子で宣言する。「こいつはカラビナだ」
「カラビナ? どういうことですか?」
「人間の病気でいうところの、肺炎。まず肺の壁がどろどろに溶け、かと思えば新しい壁になって固まる。しかし安全ではない。なぜなら新しい壁というのは、肺の空気の移動を阻害する壁だからだ。つまるところカラビナという病気は、息ができなくなって死に至る病ということだ」医者はカウチの先のテーブルの上にある麻雀牌を動かし始めた。最初にお気に入りの『中』を取り、それから『白』と交換しながら記憶の片隅の文献の文字列を暗唱する。「……この病気の治療方法は確立されていない。それは人間の医学社会でも、山羊の医学社会でも同様だ」
「そんな……。助かる術はないんですか?」
「ないね」医者は新しい『中』をテーブルの上に捨ててから再び吐いた。「ない。生粋のリーチュエですら治せなかったんだ」

落胆して崩れ落ちる秘書の上で一人麻雀を開始してしまう医者。彼は自分の賢明な観察眼で所長を観察しつつ、しかし素手の中ではすでに三暗刻を完成させていた。誰も居ない自家製の麻雀卓の上でロンをする医者は、カラビナと呼ばれる器具が人間の世界に存在していることをしっかりと理解していた。しかし彼は自分が今まで読んできた文献に嘘が混ざっているとは思えなかった。
「書店に置かれている書物」彼は改めて東風戦を開始する……。手癖の悪い素手の中で七対子を呼び起こす。

秘書は落とされた診断書を舐めるようにして必死に読み解いていた。流血のような温かさを孕んでいる文字の中で、自分の主が本当に難病に取り憑かれていることを自覚した。秘書は改めて診断書の中の病名を視た。そしてその瞬間に自分の中の眼球がせわしなく動き回り、とても硬い陶芸のような音を立てていることを冷水の温度と共に理解した。彼女は不確かな歪曲した直線の中の最も蠢く中心に位置していた。
「科学では誰も救えない」歓声のような質感で自分に与えられた選択肢を視ているような気概。立ち上がる彼女はぼろぼろと落ちていく麻雀牌を踏みつけながら自分の風を放出し、ホテルの二階で下痢を放出する窓拭き係や、売店でだらだらと喋り続ける主婦や、いつまでも卓を離れないはげた酒飲みや、園児の代打でやってきた少年の兵士たちの間をすり抜けて通り、夕暮れの後味による都会の風景に溶けるようにして闇に消えていった。

去り行く彼女の背中を眺めていた医者は、ちょうど今から四ヶ月前、古いホテルの最も埃臭い一室で抱かれた男のことを思い出していた。

息継ぎを忘れてしまった自分たちは同様の色の呼吸法でまだ見ぬプレイを同様に探究し、現れる奴隷に敬礼を教え込んだ。そして医者は彼女の中に忠誠心など微塵も入っていないことを空中切開で思い知った。空中切開とは空想の電撃で作られたメスを対象に入れ、その内部事情を改める最新の手法だった。この街の一般的な空想の医者の中で唯一その免許を持っている彼は秘書の中の大きな黒い核を素手に取り出し、横のカウチの上で『山羊の日よ……』の二番の歌詞を思い出そうとしている所長に投げた。すると彼の困惑の魅惑の顔がどろどろに解け、正体のような真実が露になった。彼は今時の山羊には珍しい軟体の人間で、酩酊をうろうろするには力量が足りていなかった。

そして医者は切開の後の処理を考えながら自分の医者鞄の中をまさぐり始めた。この街の医者は誰であろうと鞄を持ち歩いているが、彼のように客の前でわざとらしく中に手を入れるような動作をする医者は珍しかった。だからこそ所長はもうほとんど見えない目で医者の動作を観察した。同時に自分の身体が流血によって崩れていくことを自覚し、医者に助けを求めたがすでに時間切れだった。

所長は改めて『新しい山羊の日』の低音パートを口ずさみ、すっかり鞄の中身をひっくり返した医者が踊りを始める。すると所長室の壁紙が彼らだけのステージに成り代わり、居ないはずの客人たちがペンライトを振るってアンコールを叫んでいる。
「どうする? 次はリメイクか?」医者がボーカルを担っている所長に神聖なレッド・サインを送る……。紫色の星のマークの入れ墨を目元に浮かべている彼は空想のギターのふりで医者のサインを受け取り、そのまま自分の口でベースを初めてアンコールを受ける。

どこからともなく新曲が流れて対等してくる……。アンコールの声量が増え、客たちが新しい色のペンライトを持ち出して横にリズムを取り出す……。この街には常に頭を左右に動かしている男が一人、必ず居る……。だから探し出せ……! そしてそんなろくでなしの夢見がちナルシスト男には、渾身のドロップキックをくらわせてやれ。

医者が諦めたような顔でマイクを握り、そして知らない曲を歌い尽くす……。健全な山羊の尻尾のリズムで客が踊り、後方を向くと所長が回復した喉で低音のパートを歌っている……。
「誰もひっくり返らないよ」重厚なベースラインの合間に言葉を刺し込む。すると所長は必ず二番目の歌詞を答えてくれる……。お前はそれに乗るだけで良いんだ……。ただリズムに身を任せていれば良い……。そうするだけでほぼ全ての事柄が円満に解決する……。そして信じることこそが医療に役立つ……。おい、お前、研修医のお前、もし明日、看護師に自分の志願した配属先を訊ねられたら、取って付けたような泣きの声で、このように答えろ……。「肺炎かい? ああ、もちろんぼくなら、簡単に治すことができるよ」

2022年10月19日公開

© 2022 巣居けけ

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