朝起きるとそこには

渡海 小波津

小説

5,833文字

何をしても時間は流れてゆく。
どんなことをしても疲れは蓄積される。
職が何であれ苦労はある。
どんな環境であれ悩みや不満を抱える。
それを払しょくする代わりがあるか否かでしかない。

――シャンプーの泡を洗い流そうと右目を開けたつもりが左を開け てしまい目に入ることに年を感じる。

 

 

朝起きるとそこには

 

 

仕事ばかりの毎日をただ忙しく過ごしていた夢だった。その夢があるとき暗転し、覚醒する。

 

朝、起きると家に妻子がいなかった。

新聞を読もうと思ったがない。朝食の支度もないので冷蔵庫を開けたらメモ用紙が一枚入っていた 。「探し物は学校にあります。」

冷たいメモを手に休日の朝から何馬鹿なことを考えているんだと思った。椅子に腰掛けるも静かすぎてか落ち着かず、誰もいないのだということが手にしんみりと伝わってくるのみだった。

空腹を何かで満たすため出掛けることにする。朝食も新聞もなくてはどうにもしっくりこない。近くのファミレスなら新聞もモーニングもあるはずだ。

日曜の朝、私服で馴染みの道を歩くのは悪くなかった。慣れたスーツで毎日歩くときとは時間も道も同じなのに、こうも景色に鮮やさが増すものなのかと驚かされる。

いつも通りにいつもと違って見える道を歩くのは悪くなかった。それでも少し道を外れてみたい気がして普段曲がらぬ道へ入ってみることにした。

いくつかくねりながら通りを行くと広いグラウンドと明るい声が飛び込んできた。学校だった。

校庭では野球部の少年たちが練習試合の真っ最中のようだ。二色のユニフォームがそれぞれのベンチから声援を送っている。父兄も応援に来ているようで何人か大人の姿が見えた。

今朝のメモに学校に探し物があると書かれていたなと折りたたんだメモ紙を取り出す。学校などどれくらい来ていなかっただろうと計算する気もなく娘の歳を思い出す。

そうか小学校はもう卒業していたのだったな。今いるのが小学校だということが正門まで来てわかった。校舎まで入るのは気が引けたが校庭くらいならいいだろうと校庭側から教室内を見て回る。硬い格言の掲げられた教室もあれば、かわいらしいイラストと文字が飾られた教室もありクラスの様子が垣間見える。

端の教室までくるとベランダ側の戸が開いていた。教室には誰もおらず、ひとつの机の上にだけパンとミルクティーのボトル、それと新聞が置かれてあった。遠目に見ると日付は今日のものだった。

「探し物は学校にあります。」というメモを思い出す。まさかこれではないだろう。きっと先生が休日勤務で来ていてたまたま席を外しているのだ。結論が出たところで空腹を思い出し戻ろうかというときに教室のドアが開いた。やはりそうじゃないか。と会釈を軽くして立ち去ろうとしたとき――。

「おや、さっきはなかったのに」と男の呟きが耳に入ってきた。

あれはあの男のではなかったようだ。答えが少し違った。

「すみませんが、これはあなたのでないですか?」

そう声を掛けられ振り返るとパンとあのメモ用紙をもった教師が近づいてきた。

「いえ、違います」

「そうですか。一応、お名前Iさんではないですよね?」

ドキリとした。それは私の名だったからだ。

「私の名前ですが――」

言うと、ではとその男は私の手にメモ用紙とパンを渡す。半ば押しつけるようにして教室へ戻ってしまった。

ただで物をもらうという行為に気が引けるのは、稼ぐということを知ったからか、対価を求められるに違いないと疑るようになったからか、すっかり大人の考えになっているなと気付いたが、そのときには男の姿はどこにもなかった。

朝食と新聞。とりあえずメモ通り探し物を学校で見つけることができてしまった。

校庭隅のベンチに腰掛けパンを開封する。ときおり目覚めのよい金属音が響く。歓声が起こる。日曜の朝に校庭でパンを食べて新聞を読んでいるというのは何とも不思議な感覚だった。まるで日常から零れ落ちた時間のように別のものが流れていて、その象徴のように空は、少女の描く空のように穏やかに雲が流れていた。

渡されたメモ用紙には名前だけ書かれてあり、次のヒントを期待していたがなかった。何となくこのメモがどこかへ導いてくれるものだとばかり思っていたのだがそうではなかったらしい。

日常など日周運動の繰り返しによる年周運動の反復に過ぎないものだと感じた。そんなことさえこの空は考えさせるほどに穏やかだった。

が一陣の風。手を振り切るように新聞は、はためき飛ばされると天高く舞い吸い込まれてしまった。それ以外はすべてまた穏やかに戻る。

行く当てもないが、居続ける理由もなかったので家に戻ることにした。妻子が戻っているという感覚はまるでなかったが探す当てのほうがもっとなかった。

もと来た通りをいくつかくねりながら行くと小さな神社の前に出た。

社の脇には雑木林への小道が見える。社と雑木林が暖かさも涼やかさも静かさも賑やかさも思わせる。

神社といえば夏祭りなんか子供の頃は行ったものだったな。遊ぶといったら近所の空き地や神社くらいだったっけ。――昔のことを思い出しながら雑木林のほうへと足を向けてみる。

小鳥の囀りに魅かれるように入ると外からは聞こえなかった蝉の声が夕立のごとく全身を打ち付ける。この中を駆け抜けなければいけない気持ちになりながらも子供のように走る身軽さも気軽さも失っていた。ゆっくりと時雨を浴びながら生い茂る青草の上を歩く。見上げると空高く幹を伸ばした木々は緑のフィルムを透かしたように木漏れ日を篩う。吸い込まれそうな三六〇度の緑から視線を戻すと雑木林はすっかり消えすすき野が広がっている。

青々とした穂を揺らしながら心地よい風を見せるすすきに招かれて歩を進める。どこからか子供たちが私の前を横切っていく。片手を伸ばし手にしたエノコロ草を国旗を持ったドラクロアの絵のようにして年下の友達を率いるガキ大将らしき少女。彼女の歩く手前には一本の木があってその先は秋になっていた。木を通り過ぎる子供たち。一斉に走り出し手にしたエノコロはいつの間にか虫取り網に変わっていてアキアカネを追いかけていった。

西日を手で遮り目を細める。釣瓶落としとはよく喩えられたもので夕日は引き擦り込まれるように西の地平へと消えていく。

暗くなる空。見上げると雲だけはあの少女の描いた穏やかな雲のままだった。ただ月明かりが優しく雲を照らしている。

いつのまに夜になったのだろうと驚くように風が穂を波立てる。夜ならば帰らねばと振り返る。社が見え、周りは雑木林でその木々に囲まれるように私も立っていた。風は幹にぶつからないようにゆっくりと流れる。歩かねば風を感じぬほどにゆっくりと流れていた。

何時になっただろうと腕を見るが仕事でもないので時計はしていなかった。日も高いことから昼くらいにはなっているだろうと検討をつける。来た道をまっすぐ戻ると家へ着いた。

家に帰って時計を見ると朝と同じ時刻を指しており、裏返せば電池はぽっかり抜けていた。独り言を吐きながら時間のわかる物を探してみたが腕時計は見つからず、テレビの時間すら存在しない時間を指していた。

「六〇進法と十二進法の円盤。日時計のなごりを時計回りと言い換え文字盤に仕込まれた太陽光パネルで動く――。止まることなく」

どこかで聴いた歌詞だったろうか。時計を探しているうちに口ずさんでいた。これも探し物ということだろうか。たしかに学校まで行けば時計もあるだろうが、そこまでして時間を確認したいと思うわけではない。ただ一度気になってしまったからという理由でまだ探しているようなものだった。

日曜だ。時間など気にせずに過ごしてみるのもいいだろうと諦める理由をつけてソファーに腰掛ける。近所を通るのだろう。それでも遠くでだが車の音が聞こえるだけであとは音のない家だった。ソファーの軋む音が気になると身動きが増え余計に気になっていった。

十分ほど経っただろうか。いやもしかするとまだ五分くらいかもしれないが家中にインターホンの音が鳴り響いた。それまで音のなかった家中の空気を一斉に揺るがしたように大きな音に驚きつつも宅配便か何かだろうと出る。

「お届けに参りましたァ」

語尾延ばしな赤茶けた制服にキャップの男が平たい箱を手に言う。

「I様ですよね。オリジナルピザ、お支払いは戴いていますので」と男はピザを押し付けるように手渡すとさっさと帰っていってしまった。

頼んでもいないピザの箱の上には小さくたたまれたメモ用紙がまた、一枚乗せられている。

久しく食べることのなかったものをテーブルに置く。一人で食べるには少し多い気もしたので妻子に残しておこうかと思った。だが支払いが済んでいると言っていたのを思い出し、妻子が私に頼んだのかもしれないと考え残りは夕飯にしようと一切れ手を伸ばした。

中指と親指で支え人差し指で谷折りになるようにし、持ち口へ運ぶ。塩気の利いたチーズの匂いが口の中でとける。もう片手でメモを開き手に取った。そこには私の名前しか書かれていなかった。ただひとつ不思議だったことは四つ折りにされた紙の一番中側はもちろん、そこから一度折った内側にも名前は書かれていた。それをテーブルへ放り、二枚目に手を着ける。チーズがどろりと底へ落ちた。

三枚目を食べ終えずに箱に蓋をしキッチンへ置いてしまった。溜息をつくと今度は部屋の匂いが気になって仕方がなくなってきた。チーズの濃い臭いが不快に感じられるのだ。消臭スプレーを探してみたが、案の定見つからず――探している途中でおそらく見つからないだろうとは感付いていた。換気のためにリビングの窓を開けることにした。

白い衣が舞うようにカーテンがなびく。隙間から覗き見える空はマーブルで、搾り出した白を薄く延ばしたように流れていく。まるで少女が描いた雲のようで――、ふとそのひとつの形に注目して名前をつけてみた。それは穏やかな雲だった。

揺れるカーテンを眺めながらソファーに座る。一分立たずに溜息が漏れる。音がないということがこんなにも溜息を多くさせるとは知らなかった。毎日喧騒の中でどれだけ生活をしてきていたのかを思い知らされるほどだった。日はまだ高い。これがあと半日も続くと思うと家にいても変わらぬ虚空があるだけだと感じ、行く当てのなくとも外へとりあえず出ようと、早々に家を出た。家にいることを強いられそこから解き放たれた飼い犬の気持ちに少し触れた気がした。

家を出て何も考えず左折してしまったが、これだとおそらく職場へ足を運んでしまうことになるだろう。そこで脇道に入り、職場からほど遠くもないが広い運動公園へ行ってみることにした。

緩やかな坂を上ったり下ったり、右へ傾いたり左へ傾いたり、立ち並ぶ家々は土塀、ブロック塀、和洋様々に移ろっていく。名前をつけた雲はゆっくりと西へ流れていて、人の見えない住宅地を歩くことがそもそも非日常的だった。意味のないメモ、与えられるように取る食事。忙しかった日々の中では気づくことすらなかった物事がたった半日でこれだけだ。いつ戻るとも知れぬ妻子を思いながら夕、晩までかもと思うと肩の力がかくんと抜け頭も垂れる。一息吸いなおし、また歩くことに専念した。

住宅地を抜けたところにある大通り、六車線で車の通りが多く――、休日だから、だけど、車は一台も通っておらず、難なく渡れてしまった。

渡りきると公園の芝が広がっているはずが、真白に透き通っていた。

街路樹からは粉砂糖の降るようにときおり視界に流れると思えば道には舞い上がった塊が樹へ吸い込まれるように枝のを一度に下ろす。

見上げれば、外灯のガラスには結晶が張り付き、ゆっくりとゆっくりなかなか消えない洗剤泡のようにくるくると小さくなっていく。雪上がりは空気が澄んでいるという言葉を思い出す。空気中の塵も埃も取り込んでなお真白に一面を覆いつくすそれは、陽の光を吸い込んで一層清らかに沈黙している。地に目を戻せば、猫の足跡、鳥の足跡、割れた水溜り、泥でぐしゃぐしゃの歩道に佇む雪ダルマ。耳を澄ませると聞こえてきそうな雪の呼吸。どこかで水の流れる音も聞こえた。街路樹からまた粉砂糖が降っている。

その奇跡的な光景の公園にすら子どもの姿どころか人ひとりいなかった。芝地をぐるり回って歩いてみる。すると遊具の、ブランコのところに子どもの姿があった。少女はその下にうずくまるようにして泣いていた。――どうしたんだい? 声を掛けようとして足を止める。

その子の足元には死んだぞうきんがあり、彼女はそれを土中に埋めていたのだ。買い換えれば済むものを悲しみ、惜しみつつ弔う姿は子どもらしいものだと思うと同時に、踏み入ってはならない神聖なもののようにも感じられ、そっとその場を後にした。

始終消防車のサイレンを背後に聞き続けながら通りを渡ると、その音もぴたりと止んだ。こちらは雪などどこにもあらず、穏やかな、名のつけた雲が流れていた。が、違和感に気づく。名のついた雲はもう少し西になかったろうか。いや、気のせいか場所のせいだろう。名のついた雲はあんなにもゆっくりと流れている。

坂を下ったり上ったり、左へ傾いたり右へ傾いたりしながら家へ戻ろうかと歩いていたが、途中残ったピザを思い出す。あれと時間を過ごすのも気が乗らずもう少しそこらをぶらぶらしていこうと道を小脇へ入ってみることにした。

こういった日は趣味でもあると違うのだろう。暇というものを感じる暇さえない日常の中、――暇さえ。また気づく。なぜ、暇を持て余しているのだろうか。時間を潰すことに若干の退屈さを覚えているのだろうか。やることはなかったろうか。疑念が意識を暗転させる。空はなおくるくると回っていた。

 

――、することもなく過ごしている夢だった。夢はあるとき暗転し、覚醒する。

目が覚めると妻子がいた。テーブルには新聞も朝食も、――そして本当に求めていた妻子があった。おはよう。

 

公園では少女が泣いている。空は穏やかで、彼女の描いたような白雲がくるくると回り灯籠。同じ模様を空に映し続けている。

彼は気づかない。

そうか、少しは家族サービスとやらもしておけばよかった。あの子の授業参観や行事も見に行けばよかったなどと。

男の背後では今も音が鳴り続けている。――赤い音が。

もうメモも、彼の耳には届かなかった。

 

2014年3月11日公開

© 2014 渡海 小波津

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