蕎麦は切れにくい

渡海 小波津

小説

1,396文字

蕎麦屋の話-掌編-

丁度その曲がった通りに行きつけの蕎麦屋がある。偶然噂で名前を聞き、近くまで来て顔を出してみようという心持になったのだ。

店 を見つけたのは、学生時代に大学からアパートへの途中、住宅地を抜けて歩いていると、どこからか醤油とだしの薫りが空腹をくすぐってくる。

「寝起きに蕎麦か」と先程まで眠ったまま講義を終えたところだったが、腹は減るものは減るのだ。茜に染まる雲の浮く住宅路にぽつんと蕎麦屋の幟が立っていた。

ここらに並ぶどの家々よりも黒く照った壁板に、製粉までしているだろう、店の裏手に蔵のような建物がある。その蔵の白壁も夕陽に赤く染まっていた。

店の前まで来ると、紅葉おろしを乗せたかき揚げを頼もうと、まだ見ぬ品書きから蕎麦の付け合わせを決めながら暖簾の先の戸に手をかけた。

「いらっしゃいませえ」

入るとすぐ明るい声が飛んでくる。本来なら親父の渋い声がだるそうに迎えるのが相場だが、その店構えから予想だにしない天井を抜ける声が迎えたので、入る戸を間違えたかと室内を見渡したが、品書き紙が壁に並ぶ紛れもない蕎麦屋であった。

「お父さん、御客さんだよ」と声の持ち主は女将のようにどうぞと席を手で示し、奥の店主に呼びかけた。

「いらっしゃい」

奥からは確かに蕎麦屋らしい親父さんの声がしてやっと落ち着いて座ることができた。

お父さんと呼ばれた店主は、その子の幼さからは祖父と思えわれても仕方ない白髪の短髪に、同色の不精髭を生やしたそして、粉っぽくなった調理着であった。

「いらっしゃい。珍しいね学生さんかい」
「はい。かけそば一つ。あとかき揚げとイカ天で。」

あいよと店主は慣れた手つきで麺を鍋に放り込み、天ぷらの調理に手を付けた。夕食前の時間だからだろう、他の客はないが使いこまれた椅子やカウンターについた傷からはこの店にこれまでもたくさんの客が来ていたのだろうということは窺えた。

「熱いのでお気をつけて」と、先程の女の子が盆に乗せた湯呑を置く。

肩はカウンターの高さと同じくらいで危なっかしいように思えたが、彼女は慣れた様子でぺこんとお辞儀をすると、奥へと下がってしまった。

かき揚げに混じった桜エビと紅葉おろしが食べたくなると、いつでも店に足を運んだ。そして戸を開く度に、天井を抜けるような明るい声がいつも迎えてくれるのだった。

卒業式のあと、へべれけになって店に行ったことを覚えている。あの後、引っ越し前にお詫びに行ったとき、親父さんからぶっきら棒に蕎麦を渡されたのだ。いいから黙って受け取れと断ったらかえって叱られたのだ。

あれから十五年は経っている。

先日、近くに来たという知り合いからこの蕎麦屋の名前が出てきたとき、あの戸を開けたときの景色が鮮明に蘇り、なぜそれまで忘れていたのか、その方がむしろ不思議でならないくらいの驚きがあった。

住宅はあの頃と大差なく、少し古くなった物とペンキを塗り替えたらしい家が並んでいる。

茜雲の浮く空を正面に幟が蜻蛉と戯れている。暖簾のあるところから、確かに店はまだやっているらしい。懐かしい安堵感と、新しい緊張が胸を掴む。だしと醤油の薫りは記憶と同じにして鼻から喉に通ってくる。蕎麦が食べたい。

暖簾の先の戸に手をかけ開ける。

「あら、懐かしい」

薫り立つ店内に紅い頬の女が迎え出る。

「かけそば一つ。あとかき揚げとイカ天で」

 

2013年6月29日公開

© 2013 渡海 小波津

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