わかっていない

白城マヒロ

小説

11,633文字

短編集には未刊行のBIG LOVE小説です。品のないことを詰め込んだせいだと思っています。

こんなに疲れているのは誰のせいかと書き出してみると、わたしの日常生活で関わるほぼすべての人間の名前を書き連ねることになってしまった。それはとても悲しいことだと思う。こんなことになるはずじゃなかった、でもどんなことになるはずだったのかと考えてもわからない。ただいつもこんなことになるはずではなかったと思うだけ。へたに酒に強いせいでいくら飲んでも気分は良くならないまま、吐き気が増すだけで悲しくなる。結局いつも睡眠薬を二錠と処方された薬を飲んでからPCのスリープを解除してオナニーのおかずを探すけれど、人生で初めて目にしたポルノがワンピースのエロ同人誌だったせいか、それとも生来のものなのか、いつも見るのは電子書籍サイトで買ったエロ漫画とエロ同人誌。
こんなに二次元ポルノばかり、それも恋人が寝取られて快楽漬けにされたりモンスターと戦う美少女たちが不覚を取って触手の生えた生物やゴブリンにぐちゃぐちゃに蹂躙されるものばかり読んでいては現実の世界で生きている女の子に興奮することができなくなってしまうんじゃないかと高校生の頃には不安に思うこともあったけれどもそれは杞憂に過ぎず、女の子と手を繋ぐだけで勃起が収まらなかった。勃起状態をあまりにも長い時間放置すると後々涙が出てのたうち回るほど睾丸が痛くなるということをそのとき学んだ。それでもわたしは彼女の手を離さないで、何回でもいっしょに放課後を歩き回ったりカラオケに行ったり漫画喫茶のペアシートでキスをしたりした。彼女とどうして別れたのかいまでも聞かれるのは大学生になっても付き合っては別れてを繰り返していたからで、詳しいことを知らない友人たちは最後にわたしたちが別れた大学四年生を本当の終わりだと考えているようだけれど、本当の終わりはずっと前にあったはずだった。別れたり付き合ったりを繰り返しているあいだ、わたしは女に目をくれず、ほぼ引きこもりのような生活をしていたけれど、彼女はいつも新しい男を作っていた。彼女のファーストキスをもらったのはわたしだったけれど、彼女の処女を授かったのは別の知らない男だった。彼女と一、ニヶ月付き合うと、半年以上の別れが挟まる。それがいつものことだったから、いつもわたしが一方的にフラれる形だったけれどもわたしのなかでもなにかが少しずつ擦り切れていたんだと思う。彼女の名前はアキといったが、しかしアキの名前はリストにはあがらなかった。それはもう居酒屋の席で名前がでる以外にはアキがわたしの生活とは関わることがないからで、いまわたしを煩わせるアキに近い存在といえば優香とまひろで、優香はわたしの会社の同僚、まひろは高校の同級生の女の子だ。女女女、女にいちいち人生を乱されてやりたいこともできずストレスの発散と眠気を催すためにオナニーに狂っていると考えるとバカらしくなって泣きたくなりながらも睡眠薬が徐々に効きはじめ、わたしはやっと眠りにつける。

女に乱されない人生をいつまで送ることができていたのか記憶にない、そもそもわたしは小学校一年生のころには可愛い下心ありきで女の子と手を繋いで下校をしていた。もちろんそのときは勃起なんてしていなかった。ただ純粋に手を繋ぐという行為を楽しんでいたのだと思いたい、わからない。でも小学校一年生のころから女の子にモテたいとは思っていた、要は女に人生を乱されていたわけで、たしかに女の子にはモテたけれどもその地続きでいまの人生があることを考えるととても悲しいことだと思う。
起きると優香から『おはよう(キラキラ)今日も仕事がんばろー』『(よくわからないクマのスタンプ)』とLINEがきていて、わたしは未読のまま朝の準備をする。優香は春からわたしと同じ部署に配属になり、三ヶ月前からLINEのやりとりをするような仲になった。三ヶ月前、プロジェクトにひとつ目処がつき、時勢もあるから大っぴらに飲み会をすることはできないものの、二、三人単位の飲み会を八名のプロジェクトメンバーで回すように開いていた。なぜかわたしは優香と二人きりで飲み会をすることになり、「やめといてもいいんだよ」というわたしの言葉を優香は振り切って二十時以降も店を開け酒を提供しているイタリアンで打ち上げをした。優香はモヒートを三杯以上注文していた気がする、二時間以上が経ったころ彼女から「先輩、家まで送ってくれませんか」と頼まれた。そのときのわたしがなにを考えたのか自分でもわからない。自分がなにをしているのか本当にわかっている人間なんているんだろうか。えっちだな、と感じたのはたしかだった。ただ、同時にここで断ったときの翌日からの気まずさや、大学生時代の出来事などが頭をよぎり、わたしはタクシーをとめて彼女を家まで送り、やっぱり彼女とセックスをした。
なんで女の子を家に泊めたり、女の子の家に泊まったりするとセックスをしないといけないのか、わたしはずっと心で理解できないまま生きている。それでも場が整ってしまった以上セックスをすることになってしまう。スーツを着ると吐き気がしてきた。上司は四年目になるわたしを自分の息子のようだと言うが、彼女は独り身で子供もおらず、生涯を仕事に費やしてきた。バブル以前から大企業のなかで揉まれてきた女性ならではの強さと迫力があり、部下を三人休職させた過去がある。また今日も仕事に行かないといけない。
大学一年生のころ、わたしは軽音楽部のサークルに入っていた。ある日、半端に可愛いことで微妙な立ち位置な女芸人に似た女の子がひとりでわたしの家にやってきた。彼女とはバンドを組んだ過去があり、打ち上げでメンバー全員を自宅に呼んで宅飲みをしたことがあったから、彼女はわたしの家を知っていた。台風で泊めてくれる家を探しているという彼女を、ちょうどその頃はアキと別れていた時期だったので泊めることにしたけれど、わたしにはセックスをするなんて発想がなかった。わたしは彼女を来客用の布団に寝かせ、自分はベッドでアザラシの抱き枕を抱いて眠った。
翌日彼女は特に変わった様子を見せず帰ったけれど、数日すると「アイツとヤらなかったってマジ?かわいそうじゃん」といった類の言葉をサークルのメンバー数人から言われることになり、そこではじめて彼女にかわいそうなことをしたのだと知った。わたしは人を悲しませたくはなかった。しかし彼女は悲しんでしまった。わたしはサークルを辞めた。
そういうわけでわたしは優香とセックスをしたのだけれど、そこにどこまでお互いの責任というものがあるのかわからない。アルコールを摂取した状態による判断能力の低下、据え膳に手を出されなければ女としての魅力がないという社会の風潮、セックスをひとつのステータスとする文化、いろいろなものがわたしたちを取り巻きセックスをさせたんじゃないか。それはわたしたちが自分自身の決断、責任のもと行った行為なのか。実際、わたしたちは環境、状況に左右されずただ己の責任と判断のみを持って行為を行うことなんて可能なんだろうか。わからない、なにも。ただ翌日から優香はわたしに個人的な事柄でLINEを送ってくるようになり、わたしもLINEを返すようになった。
シューズに足を入れると、今日も優香と上司に会うことになるという思考が押し寄せて吐き気が強まった。わたしは上司へ『昨晩から吐き気がおさまらないため今日は休暇とさせてください』とメッセージを送った。

午前中はスターバックスで本を眺めて過ごした。平日八時前のスターバックスにいる人間たちは、受験勉強中の十代か、いかにも自由なノマドワーカー然とした男ばかりで、わたしは自分が周囲から浮いていないかそわそわする。ホットのラテを注文し、仕事用のリュックから本を取り出すと、ページを開いて眺めはじめた。本を眺めて過ごすということは、本を読むということではなく、ページに印刷されている文字列をひたすら見つめるということで、わたしには時々文字に対してそうしかできないことがあるため病院に通っている。午後には神保町でシーシャを吸う。シーシャを吸うと、なんとなく思考が曖昧になり、遠くの物事や人生を考えなくてすむような気持ちがするからシーシャは好きだ。アルコールとは違い、酸欠による思考力の低下なのがわたしと相性がいいのかもしれない。シーシャを吸っているあいだは目の前のことだけに集中することができ、わたしは余計なことを考えない時間を使ってサブスクリプションサービスで適当な映画を観ることにした。わたしは優しい気持ちが必要だと感じたので今日はジブリの日と決めて、『紅の豚』『猫の恩返し』『となりのトトロ』を見たところで、高校の同級生から別のシーシャ屋にいると誘われて渋谷に向かうと、着いた店内には誘ってきた昭仁の他にまひろもいっしょにいた。
渋谷の店では緊急事態宣言下でもアルコール類を提供しているため、彼ら二人はすでに飲みはじめていた。「いっしょなの珍しいじゃん」と言うと、べつに珍しくはないと言い、わたしはべつに珍しいことではないと知った。彼らはわたしの話が出たので呼んだのだと言う。
「おまえなんでアキと別れたの」と昭仁に聞かれ、わたしがわからないと答える前にまひろが「アキっていま配信者やってるの知ってた?」と言った。
わたしは知らなかったが、彼女について知りたくもなかった。
「え、YouTuberなん?」と昭仁が言った。
「ううん、なんかアプリで配信してる。アーカイブ見てみる?」とまひろが言った。わたしは見たくなかった。
まひろのスマートフォンのなかで、二十七歳になったアキがノースリーブのワンピースを着て手を振っていた。『彼方さんお茶ありがとうございます!いっつも来てくれてありがと!もう名前覚えちゃった!あっ。初見さんもいらっしゃい、ユキオさんお茶ありがとうすっごく嬉しい!』久しぶりに聞くアキの声は、こんなに高かったか思い出せない。
「けっこう稼げてるらしいよ」まひろが言った。
「こんな感じなんね、でもだいぶよくはなったんじゃん?もう前の仕事は辞めたんでしょ」昭仁が言った。
「うん、アキも元気っぽいしよかった」まひろが言った。
わたしは大学を卒業して以降のアキのことをなにも知らなかったので、もちろん前の仕事も、なにからよくなったのかもわからなかった。ただまた吐き気がしてきただけだった。
「そんなことよりさ、『紅の豚』ってめっちゃ良くない?」わたしは言った。
「わかる、ジブリのなかでめっちゃ好き!千と千尋がいちばんだけど」まひろが言った。
「いや、そんなことじゃないでしょ。別の動画も観ようぜ」と昭仁が言ったので、わたしはすこしヤニくらんだと告げて席を立つことにした。
トイレに行き、吐き気止めの頓服を飲んだ。振動があって確認したスマートフォンには優香から『生きてるー?』『なんか買って行こうか?』というメッセージと、まひろから『このあと飲み直さない?』というメッセージが来ていた。
トイレから戻ると席にはまひろひとりが座っていて、「昭仁いま仕事の電話」と言ってまひろは外を指さした。
「で、このあと時間ある?」とまひろが言った。
「あー、ちょっと待ってね」とわたしは言い、スマートフォンで優香に『生きてる、いっぱい寝て元気ー』『ふつうにコンビニ行けるし大丈夫よ、ありがと!』と返しながら、どうするか悩んでいた。
まひろはスマートフォンをいじるわたしを見ていた。
数ヶ月前に二人だけで会うようになってからも、まひろとはセックスをしたことはなかった。わたしは高校生のころ、アキと付き合っていたせいでまひろと仲良くすることはなかったが、可愛いとはずっと思っていた。あのころはまひろとセックスもしてみたかった。だから二人だけで会うようになったときは心が弾んだのに、あのころのようにセックスをしたいとは思わなくなっていた。しかし、わたしの思い上がりでなければまひろは様々な手段で好意をほのめかしていて、セックスは時間の問題のような気がしてしまう。いまのわたしはもっと純粋にまひろと話がしたかった、わたしは誰かと心から話がしたかった。
「今日昼から吸ってるせいでヤニくらがヤバいからきついかも」わたしは言った。
「え、スーツなのに昼から吸ってたの?」
「今日は朝からサボりよ」そう言ってわたしはシーシャを吸った。このまま本当にヤニくらんで酸欠になり、なにも考えられないようになりたかった。
ポーズも作ろうとソファに深くもたれて座ると、ちょうど電話から戻った昭仁が「おまえ大丈夫か?」と訊いてくれた。
「けっこうヤバいしもうすこし吸ったら帰るわ」と言った。そういえばわたしの話をしていたから呼ばれたということを思いだしたが、なんの話なのかも聞きたくなかった。
「俺もこのあと打ち合わせ入ったから一緒に出るよ」と昭仁が言ったおかげで、なんとなく救われた気持ちになった。

家に帰ったあと、まひろが見せたアプリをインストールして、アキが配信していないかを探してみた。アーカイブの時間からするといつも二十二時ごろに配信をしているようだったのでアプリを開いてみたけれど、今日は配信していないようだった。
アキがどのように生きているのか、本当に聞きたくなかった。ただ、上手くやっていてくれればいいとだけ思っていた。彼女のことはどうでもよかったはずだった、ただ、みんなが幸せになってくれればいいと思う。
これで再びわたしを疲れさせるもののリストにアキの名前が入ることになってしまった。スマートフォンにはまひろから『また遊ぼうねー』とLINEが来ている。わたしはただ、みんなが幸せになってくれればいいと思う。
風呂からあがっても気分は晴れず、どうしてこんなに悲しいのかと考えるはめになってしまった。しかし結局のところわたしが勝手に悲しがっているだけで、わたしと同じ状況に置かれても悲しいと感じることのない人もいるわけで、わたしは自分自身になにかしらの甘えがあるのだと思う。でもせめて悲しみの正体を知らなければ、わたしは一生このままなのだろうかと考えると不安が押し寄せ、動悸が強まった。
わたしは睡眠薬を二錠と処方された薬を飲んでからPCのスリープを解除してオナニーのおかずを探した。今日は社会人になった主人公が高校生のころに憧れていた女の子と再会するも、優しく接してくれる女の子は実はヒモ男を養っており家では男の性欲処理道具として人間の尊厳を奪われたように扱われていて、彼女もその性の快楽にはまっているという内容の過去に読んだことのある漫画に決めた。射精の疲労感は百メートル走に匹敵すると聞いたことがある。わたしはすっかり疲れ果てて眠りにつくことができた。

起きると、優香から『おはよー(太陽) 今日は元気に出社しましょう!』『(よくわからないクマのスタンプ)』というLINEが来ていた。今日の打ち合わせではわたしが客先に進捗を説明する必要があるので、休むわけにはいかなかった。それを考えるとまた吐き気がぶり返してきたが、わたしは『おはよう! 打ち合わせ頑張ろう』と返信して出社の準備をした。電車に乗り込みさえすれば、ある程度吐き気が治まることは経験からわかっている。たぶん、もう逃げられないと身体が思い込むのだろう。本当はいつでも逃げられるということを忘れずにおきたかった。
自席に着くと、優香がお菓子をもって「藤井さん、おはようございます。体調どうですか」と言いながら近づいてきた。それから「これどうぞ、今日頑張りましょうね」と言ってストレス低減効果があるとうたうチョコレートを差しだしてきた。礼を言って受け取ると、優香は笑顔で頭を下げて自分の席に戻っていった。優香は社内でこういうふうに声をかけてくることが増えた。それが周囲にどのように受け取られるかということは二十五歳になる彼女にもわかっているはずで、つまり彼女はわざとアピールをしているんだと思うと自分が締めつけられているような気分になる。
そもそもわたしと彼女は付き合っているのか、付き合うとはなんなのだろうか、わたしは彼女を悲しい気持ちにはあまりさせたくないが、それは彼女を好きだということなんだろうか。わたしは彼女からもらったストレス低減チョコレートを食べた、これで本当にストレスや吐き気が減ってくれればうれしかった。
わたしの出社から一時間ほどあとに上司が出社してきて、「藤井くん今日の資料チェックしてないけど発表できるよね」と言う。大丈夫です、と力をこめて答えたつもりが、喉の奥になにかがひっかかったような感覚がして変な声が出てしまった。
それでも午前中の打ち合わせはつつがなく進行することができた。あとは数時間会社にいることに耐えることができれば、無事に今日を終えることができる。動悸や吐き気はある程度は頓服で抑えることができる。ただ、悲しさだけがどうしようもなかった。わたしはレンタル彼女のサイトを開き、今日の十九時から食事のできる子を予約した。これはわたしが友人から教わったライフハックのひとつで、なにかを吐きだしたいときにガールズバーではぼったくられるし、風俗ではウザがられながら適当に射精させられて帰される、最悪スタッフを呼ばれる。それに対してレンタル彼女は、あらかじめ時間と料金が定まっているので、余計な心配がないらしい。わたしはどこの馬の骨とも知らない望月さんに洗いざらい苦痛を吐き出すことを心の支えに午後を過ごすことにして、優香から『今日の夜いっしょに食べれる?(うるうるした目の人間の顔)』というLINEに断りを入れるとき以外は苦痛を感じずにやっていくことができた。
望月さんは宣材写真には劣るものの綺麗な女の子で、礼儀正しかった。お互いに頭を下げて挨拶をし、会う前に緊張したと話し合った。予約したレストランに向かう途中、望月さんは「あの、いちおう彼女だから、手、つないでいいですか?」と聞いてきたけれどわたしは今日“恋人”とデートをするためではなく悲しみを吐き出すために望月さんを呼んだので、恋人ごっこをした後に彼女の気分を壊してしまうのは悪いかと思い、「まだちょっと恥ずかしいので」と言葉を濁した。レストランでは、つねに彼女はわたしに料理を先に選択させ、自分はそれと同じものか値段の安いものを選ぶようにしている。たしかにガールズバーではこうはいかないだろうと、話でしか聞いたことのないガールズバーの様子を想像した。急に、いまの会社の後輩の女の子が一度セックスをしたあとから恋人のように振る舞いだして、と切り出すのも望月さんに悪いと思い、彼女の趣味やどうしてレンタル彼女をしているのか、好きな映画など他愛もない話で場を整えようとすると、どうも彼女とわたしは同い年らしく、好きなバンドも同じで、話は大きく弾んだ。彼女は話を聞くことがとりわけ上手かったが適切なタイミングで自分から話を切り出すことも心得ていて、わたしたちはアルバムやバンドメンバーへの思いの丈を語り合った。そのようにして予定していた時刻になり、わたしは彼女に一万五千円と店に食事代を支払った。結局本当のことはなにも話すことができなかったけれど、楽しかったことに違いはない。このようにお互いになんの感情もなく、ただ話をする楽しみを久々に味わった気がする。会話というのはこれでいいんだと思った、なにか湿り気のある駆け引きや色っぽさなんかじゃなくてこういうもので。
帰り道、彼女は「お別れ寂しいから、最後だけでも繋いでいい?やっぱり嫌かな?」と言った。わたしはそれがビジネスだとわかっていたけれど、彼女のプライドを傷つけたくなかったので手を繋いで駅までを歩いた。改札で見送るとき、彼女は姿が見えなくなるまでチラチラとこちらを振り返り手を振った。
しばらく時間を空けてから、わたしも自宅へ帰るために改札をくぐった。その日は久しぶりに、睡眠薬を飲むことなく眠ることができた。

目が覚めたとき、スマートフォンを確認するとまだ三時だった。まひろからLINEが来たことで起きてしまったらしい。通知には『最近わたし避けてる?』というメッセージがあった。わたしは未読のまま、なにも見なかったことにする。朝になるとメッセージは取り消されていて、『間違って藤井に送っちゃった笑』『気にしないで笑』というメッセージが届いている。いったいどうしたらいいのだろう、わからない、なにも。わたしはなにもわからないまま生きているし死んでいくのだろう。今朝は珍しく優香からはLINEが来ていなかった。昨晩友達と飲んだりしていたのだろうかと思うけれど、そういう日にはだいたい『今友達と飲んでる〜』『(自撮り)』というLINEが来たりする。ただ、そういうやり取りに相手も飽きてきたのならいいことだと思う。わたしたちはやり取りをするという行為自体にしか意味のないやり取りを続けすぎた。
休日はだいたいいつも午前はスターバックスに行くか家で眠るかして過ごし、午後はシーシャを吸いに出かけている。でもその過ごし方は一昨日もしたばかりだったし、最近まひろを避けていたのは事実で、それはこの友人という関係を変えずにやっていく方法はないかと思案するうちに自然と距離を置いてしまっていて、きっとわたしは決断を迫られているのだと思う。また「決断」だ。わたしは優香や昭仁、アキ、職場環境、精神状態もろもろから影響を受けて「決断」を下さないといけない、それはわたし自身による判断と言えるのだろうか?それにわたしには自分がいったいどうなりたいのか具体的に想像もできない、ただ楽になりたいと思っているだけなのに。なにが楽なのかもわからない。まひろに、『そういうの気になる笑 今日時間あったら午後から渋谷のシーシャ行かない?』とLINEをした。すぐに、『行く行くー』という返信があった。
結局午前中は家で本を眺めて過ごした。最近では文字を眺めるだけにとどまらず、装丁や表紙の汚れ、ページのすみの染みなども鑑賞の対象になっていた。その日はAmazonで買った古本を眺めていたので、年季の入ったさまざまな模様があって面白かった。
十六時ごろからわたしたちはシーシャ屋で合流してシーシャを吸いながら酒を飲みはじめた。昨晩のメッセージをなにも見なかったように振る舞うことができているのかわからない、気にすれば気にするほどまひろのほうもぎこちない態度に思えて話にいちいち間ができ、なんで呼んでしまったのだろうと後悔しはじめる。
「昨日ってなにしてたの」まひろが言った。
その声に冷たいものを感じた気がして、とにかく取り繕わないといけないと思い「昨日の夜はねー」と言葉を濁そうとしたが、そう言ってからどうして焦る必要があるのかもわからなくなった。それから昨日の夜にレンタル彼女を借りて起こったことの顛末を、わたしが結局なにも解消することができなかった経緯を聞かせた。
「二万近く払って女に飯食わせただけなのつらすぎるわ」そう締めくくると、まひろは「なんかあるならわたしが聞くのに」と言った。そして、「なに、手も繋いだの」と言ってふざけるようにわたしの手を掴んできた。
「だって失礼じゃん」と言いながらわたしは今すぐ逃げ出したくてたまらなくなる。店をでてどこかに隠れて潜み、誰にも見られずにただ眠りにつくだけの生活を送ることができればどんなにいいだろう、いや、そんなことを本当にしたいわけではない、そう本当に思うならできないことじゃないのだ。じゃあわたしはどうしたいのだろう、泣きたくなってくる。
「まひろさん、おさわり禁止ですよ」と言って手をほどこうとしたけれど、まひろは笑いながら「いいじゃんいいじゃん」と握る手の力を強めたり弱めたりする。
「タチの悪いおっさんじゃん」とわたしも笑う、笑いながら泣きたい。わたしたちはいったいなにをしているんだろう。わたしはもう片方の手でウイスキーをあおった。ウイスキーをもう一杯注文した。まひろももう一杯モヒートを注文した、手は離されなかった。わたしはウイスキーをあおった、吐き気はウイスキーのせいだと思いたかった。
「ヤニくらんできちゃったかも」まひろが言った。「そろそろ店でない?外の空気吸いたい」
「じゃあ出たほうがいいわ、ちょっと外歩いてから帰ろ。酒とシーシャって組み合わせそんなよくないし」
そうしてわたしは無事に家に帰った。こういう逃げ方がいつまで通用するのだろう、そもそもまひろにはその気はあるんだろうか、わたしが勝手に一人で怯え、発展しつつある友情を台無しにしているんじゃないか。誰かがわたしに人生のやっていきかたを教えてくれればと思う、きっとみんなはそういう”誰か”を手に入れて生活しているんじゃないだろうか。どこかでミスをしたのではないか、”誰か”を手に入れるチャンスを逃してしまったのではないだろうか。

帰ると、優香から『昨日いっしょにいた人だれ?』というLINEがあった。昨日と言うことは、望月さんといっしょにいるところのどこかを見られていたということで、もしかすると帰り際に手を繋いでいたところを見られたのかもしれない、でもそれに怯える必要があるのだろうか?なんでわたしはこんなに怯えているんだ?『中学の友だちだよ ってか見てたの? 声かけてくれたらよかったのに』わたしはそう返して、PCのスリープを解除した。別にオナニーなんかしたくなかった。ただそうしないと眠れないだけ、オナニーのかわりに百メートル走をしてもいいんだろう、その気概がないだけで。優香からは返信がなかった。わたしは睡眠薬と薬を飲んで、日課のようにオナニーをしてベッドに入った。
日曜、朝になっても優香からの返信はなかった。ひとつの終わりとしてこれもいいんじゃないかと考えようとした。優香が会社でまったく関係のない人間ならそれでもよかった。でも会社に行くと優香と顔をあわせる必要があり、わたしたちは何食わぬ顔をしてプロジェクトを続けないといけないと思うと動悸がする。わたしは頓服と睡眠薬を飲んで横になった。今日はなにもしたくなかった。眠れはしないが、頭は薬でぼやけて曖昧で、これはこれでいいという気がした。今後はこんな風に過ごすのもいいかもしれない、なにも休日に出かけたり、無理に本を読もうとしたり、シーシャを吸わなくても、こんなふうに過ごしたら。
けれど午後になると『見てー(目を開いた人間の顔) すごい上手に焼けた』『(ショコラケーキの写真)』と優香はLINEをしてくる、彼女はいったいどう消化して、どう感じているのだろう。

翌日出社しても、優香はいつも通りに声をかけてきて、いつものように笑っていて、またあのストレス低減チョコレートを渡してきた。わたしはチョコレートを食べたあと、トイレに行って頓服を飲んだ。でも今日の吐き気は治まらない。いっそ打ち合わせの最中に優香と上司の目の前で盛大に机に吐瀉物をぶちまけて帰ってやりたい。実際はそんなことをする勇気もない、わたしにはなにもない。優香の笑顔が怖い、上司が怖い、みんながどうやって生きているのかがわからない。
「藤井くん、最近休みが多くない?病院とか行ってみたら」上司に早退を告げると、そう言われた。
「そうですね、大丈夫だと思うんですけど。病院探してみます」わたしは言った。病院には何ヶ月も前から通っている、中程度の鬱症状だと診断されている。休職するか職場を変えるように何度も言われた。わたしはなにもできないでいる。
わたしはその足で病院に行き、もっと強い頓服を処方してくれるように医者に言う。医者はこれ以上は難しいと言う。
夜、あの配信アプリを開くと、アキが配信を行っていた。じっくり見るアキは、わたしの知らない五年分の歳をとっていた。視聴者数は五十人前後、アキは笑顔で投げ銭の礼を言い、高い声でどうでもいいことを、本当にどうでもいいことを喋っていた。わたしは上限額の投げ銭をした。『えっ、名無しさん上限ですか?ありがとうございます!え、ほんとに?配信まちがってないですか、わたしですか?うれしいー!名前教えてください、ぜったい覚えます!』画面の向こうでアキが喋っていた。わたしはアプリを閉じた。なにもわからなかった、ただ、みんなが幸せになってくれればいいと思う。
わたしは睡眠薬を二錠と処方された薬を飲み、新しく発売された角の生えたドラゴンの種族の女たちが彼女たちの半分ほどの身長しかないが屈強なドワーフたちに角をへし折られたり羽根を縛りあげられたりしながら犯されるエロ同人誌をおかずにオナニーをしてベッドに入った。わたしはベッドのなかで、ただ、みんなが幸せになってくれればいいと思った。

2022年5月22日公開

© 2022 白城マヒロ

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