彼の一六歳日記

白城マヒロ

小説

11,061文字

短編集には未刊行の作品です、わたしなりのLove小説です。

彼はそのとき十六歳だった。五月生まれだから一六歳の高校一年生であり、そのときはまだ六月になる前だった。彼は何人かの女子生徒と連絡を取っていたけれど、連絡の手段はさまざまある。クラスのグループラインから連絡先を取得して連絡してきた女の子もいれば彼のインスタグラムをフォローしている女の子からメッセージが来てやりとりする場合もあった。彼はさまざまな手段で連絡を取っていたので、連絡相手のことを「LINEの子」「インスタの子」「ツイッターの子」などと覚えたりした。彼のインスタグラムやツイッターのアカウントはほとんど投稿がなく、友人と連絡先を交換するためや友人の投稿を見るためだけに使われた。
彼は入学してから二ヶ月のあいだに十人に近い女の子とやりとりをしたけれども、五日以上続けてやりとりをした女の子は二人だけで、彼にはどうして女の子たちが彼とのやりとりをやめていくのかわからなかった。相手から送られてきた文章に同じように返しているはずなのに、やりとりが弾む相手と途絶えていく相手がいることで、彼はむしろやりとりが続いている相手がいることもどうしてかわからなくなった。それでもやりとりは行われる。相手がメッセージを送ってくるかぎり彼は返すため、二人の女の子とのやりとりは一ヶ月以上毎日続いた。そのときには「LINEの子」しかいなかったために二人の名前も覚えていたが、二人ともクラスが異なるために顔はあやふやで、LINEのアイコンにされたプリクラだけが手がかりだった。

その二ヶ月のあいだに、彼は女の子とやりとりするだけでなく、はじめは同性の友人たちに誘われてさまざまな部活動を見て回っていた。彼だけが部活動に所属していなかったわけではない。しかし彼ととりわけ長い時間一緒にいることになる友人たちはそれぞれ部活動に所属していた。野球部、サッカー部、テニス部、ハンドボール部、剣道部、軽音楽部。一人の友人は彼の背丈が平均よりわずかに高く、手足が長い点に注目して熱心にハンドボール部に勧誘したが、彼はその友人の熱意に怯んでしまいハンドボール部を敬遠した。二ヶ月が過ぎた時点でそれぞれの部活動のなかで立ち位置やグループがほとんど固まりだしたように友人たちも彼も感じ、彼は勧誘されなくなっていった。
あるとき彼が友人たちに告げたのは自分が園芸部に入部したことで、それは彼の友人たちを驚かせた。彼自身も自分が園芸部に入部することになるとは思っていなかったため、友人たちに同意し、自分も驚いたと伝えたけれど、入部の意志は固かった。しかし園芸部に入部したことによる彼の教室での立ち位置は変化がなく、周囲の友人たちは想像していたよりすんなりと受け入れたように彼には思えた。実際、園芸部というのは誰もが噂程度には聞いたことのある部活で、その噂は悪い先輩がいるとか、麻を育てているとか、幽霊部員ばかりだとか、そういうものだったので、彼の立ち位置を下げるようなものではなかったのかもしれない。
彼はその時期、麻という植物に興味を持っていた。けれど彼は空間にゆとりのある一人暮らしではなく、兄と両親を含めた四人でマンションに住んでいる。そのため、彼には屋外にも屋内にも麻を栽培するための十分なスペースがなかった。彼は麻の栽培の方法を調べ、それが朝顔やトマトのようには簡単に育つものでないことを知っていた。また、トマトのように麻が育てば大麻としてすぐに使用できるわけではないことも知っていた。特に室内で麻を育ててあげようと思ったとき、適切な温度と十分な人工照明をきっかりと時間を定めて管理し、なるべく自然に近い環境にすることが必要だったが、そのための機材を準備するのにも費用がかかるうえ、親には確実に反対されるだろう。
そうした大麻への関心が植物への関心に移り変わり、彼は園芸部に入部することにしたのだと友人たちに伝えた。友人たちはみんな笑っていた。彼も一緒に笑った。ただ、できれば麻を味わってみたいという気持ちもある。彼は幸せを体感したかった。
「幸せ」といえば、それに近いものを得られたのではないかと感じるのは、今のところ彼にとってASMRしかなかった。ASMRとは直訳すると「自立感覚絶頂反応」となる文字列の略称で、シャンプーをされる音や耳かき、咀嚼音、炭酸水が弾ける音などがイヤホン、ヘッドフォンをつけた耳元で鳴ることで、心地良さと適度な刺激を得られるために一部の人々から好まれる。しかし彼がとくに好んで聞くのは、女性が「好きだよ」「安心して」「頑張ったね」「生きてるだけでエラいよ」等と囁きながら枕元をポンポンと叩く音を出し、聴く者を寝かしつけるような音声だった。彼自身はそれを寝るためには聞かなかったが、聞くと心が落ち着いた。それは普段では得ることのできないなにも考えることのない安らぎの時間だった。

園芸部は彼を含めて五人の生徒しかおらず、新入生は彼のみだった。活動はそれぞれが自分の好きな植物を育てることで、与えられた区画に自分の持ち寄った種を植え、水を与えることが部の活動だったので、入部している五人もほとんど部室や園芸場に立ち寄ることはなかった。見学のときにそう説明されたことも、実際に熱心に活動している生徒はいなかったことも彼にとっては好ましかった。歓迎会は、先輩が一人欠席した四人の状態で行われた。なにが入部の決め手になり、今後どういう植物を育てていきたいのか、という質問が冗談めかして訊かれ、「えー、じゃあ立派で人のためになる植物を育てたいので、まずは大麻ですかね」と笑いながら答える。先輩たちも笑っている。「大麻はむずかしいよー、設備整えないとねー」と先輩たちは言った。彼は四人の先輩の顔と名前をしっかりと覚えることのないまま、一ヶ月以上を過ごすことになった。放課後の時間を一人きりの部室で本を読んだり音楽を聴いて過ごし、部活動が終わる時間になると友人たちと待ち合わせていっしょに帰った。

その間も彼は二人の「LINEの子」とやりとりを続けていて、日に日に話題が尽きていくのを身をもって体験していた。もはやなんのためにやりとりをしているのか、中身の磨耗した会話を続ける相手の気持ちがわからなくなり、彼自身も話題を提供し合うことに疲弊しはじめたころ、やりとりをしている片方、美沙希が先に、「スタバいっしょに行きたいです」と提案した。
はじめ、先に店内で席を取っていた彼の前に現れた美沙希はマスクをしていたので、プリクラのアイコンよりも可愛く見えると彼は思った。それから彼女が自分の飲み物を買っているあいだ、彼は半分になって容器の周りに水滴をつけたコーヒーフラペチーノを飲みながら、自分はどうなるのだろうと不安になった。こうして会ったからには、なにかしらが今までと変わることになる。そう彼は思っていた。
彼女がホットのホワイトモカを飲むためにマスクを外したとき、彼はすこしだけ期待はずれに思ったが、それでも十分に美沙希は美人だった。彼は彼女とやりとりをしていることを友人たちに話したとき、面食いだと冗談めかして言われていたが、たしかに彼は面食いに括られる。そういう家庭環境だった。母親はテレビを見ながら画面に向かって、「彼女は美人」「彼女はあまり可愛くない」「彼女は化粧を落とすと一般人」などと評価を下し、「ひとなんて内面はわからないんだから美人と付き合いなさいよ」と事あるごとに彼に言った。彼にとって母は美人ではなかった。ルッキズムが彼に染み込んでいたし、それを自覚する環境にはいなかった。
美沙希はマスクを外した状態でいることが落ち着かない様子で、はじめは完全に外してテーブルのうえに置いたマスクをもういちど手に取り、顎の下に付け直した。彼女のそうした動作を見たことで彼は自分がマスクを外しっぱなしであることに気がついたが、彼女も彼の顔にしか主な興味がないことを自覚していたため彼はあえてマスクを付け直そうと思わなかった。彼はある種の争いをしている気分になり、その争いのなかではマスクを外したままの自分の方が優位に立っていると思った。彼は優位な気分のまま、
「美人さんとこうやって話すの緊張するな」と言った。相手は下を向いて「そんなことないです」と言ったが、彼女も自分の顔の良さを自覚して生きてきたはずであり、内心はどう考えているのだろうと思った。
「LINEさ、美沙希さんが毎日してくれるのうれしい」彼はその言葉には嘘はないと考えた。摩耗していても惰性になっていても、その気持ち自体は嬉しいもののはずだ。
「ううん、うちも光さんが返してくれるの嬉しくて、迷惑じゃないかなーとかめっちゃ不安だったからそう言ってもらえていますごい救われた」
彼は美沙希がそう言ってうれしそうに微笑むのを見た。
「光さんが園芸部入ったの正直ウケるって話題になってたよ」
「五組で?」
「うん、でもなんかそのマイペースさがいいって感じだったけど」
彼にはそれが教室でバカにされたことをフォローされているのか、純粋に褒められているのかわからなかった。わからないまま曖昧に笑うと、美沙希も笑って、「部室行ってみてもいい?」と訊いた。
「じゃあ先輩のいない日あったら連絡するよ」
「え、ほんと?緊張するー!でも部室気になるからお願い!」彼はこれが付き合うためのステップにすでに入っているのか、なにかの判断を迫られているのかわからないまま頷いた。彼は中学生の頃に一人の女の子と付き合ったことがあったが、そのときもなにもわからないまま付き合い、気が付いたら別れることになっていた。おそらく彼が何かをした、もしくは何かをしなかったことが原因だと考えたけれど、それが何かはわからなかった。

屋外で麻の栽培を始めるには春が最も適した季節だったが、すでに6月の下旬になり夏が近づいていた。彼は部室から適当な種を見つけて、自分に与えられた区画に蒔いて水をやっていた、先輩たちが来ない、彼も時間つぶしに使っている園芸部で、それだけは続けている。ただ、その種が育つのに適切な時期も彼は知らないまま植えたので水をやったところで蕾をつけるかもわからなかった。大麻のことは調べていたが、他の植物については特に調べていなかった。大麻に興味を持ったのは兄が大麻の抽出成分であるCBDをリキッド状にしたものを体内に取り込む電子タバコを吸っていたからで、兄はそのおかげで寝付きがよくなり、気持ちが落ちつくのだと言っていた。本当は、CBD以外の成分、THCなどの気分が「ハイ」になるものがあればもっと幸せなはずだと兄は言っていた。さらにTHCには味覚や聴覚、視覚がより鮮明になる効果があるという。それがどう「ハイ」や「多幸感」に繋がるのかは彼にも兄にもわからなかった。彼も兄に言って電子タバコでCBDのリキッドを吸ってみたことがあるが、喉が刺激を受けて痛み、むせ込んだだけで、リラックスや落ち着きが得られたとは思わなかった。その晩に聴いたASMR「高性能マイクでいーっぱいの癒やし(ハート)」のほうがリラックスや落ち着きを得ることができた。配信している女性が「よしよし、生きてるだけで偉いね。よしよし、キミのこと好きだよ、生きててくれてありがとうね」等の囁き声、まるで自分の頭が撫でられているように錯覚するような音を聴いていると、一時的にでも不安がなくなっていくような気がする。しかし、実際に大麻を吸ったこともないだろう兄が語るTHCには興味が惹かれた。聴覚がより過敏になれば、この錯覚はもっと鮮明なものになるのではないだろうか。彼は幸福になってみたかった。

美沙希が二回ほど部室に来たあたりから、メッセージのやりとりをしていたもう一人の女の子からは連絡が来なくなった。彼はなにか、もう自分は美沙希によって占められている、というような気持ちになった。自分が美沙希と親しくしていることが周囲に伝えられているのだろう。そう考えると彼は自由が失われているように感じたが、改めて美沙希から告白されたとき、彼はまだ自分が自由であるのだと思った。しかし彼に告白を断るという選択肢はおそらくないということがわかっていたので、それはやっぱり自由ではなかったのかもしれない。
そうして彼は美沙希と付き合うことになった。放課後にスターバックスに行き、プリクラを撮り、休日はカフェをめぐった。個室のインターネットカフェでお互いに初めてのキスをした。美沙希は他の男子生徒の前では見せないような笑顔を彼に見せた。
「人生で一番好き(ハート)ずっと一緒にいようね、もう光以外のひとといっしょって考えられない(笑)」
こうしたメッセージが届くたびに、彼はドキドキと胸が高鳴り嬉しくなると同時に、たぶん美沙希は好きになった、これから好きになる男にも同じことを言うのだろうという気がした。それが常に全力でいまの恋人と向き合うということなのか、それともただ気分に任せて言っているだけなのか、彼にはわからなかった。彼は嬉しい反面、憂鬱な気持ちになる自分を自覚した。自分が同じような気持ちになれず、真剣に彼女の気持ちに応えることができていないのか、彼女が考えなしなのか、考えると吐き気がし、彼はASMRを聴くためにイヤホンを耳につけた。彼は部室でひとり、ASMR「頑張っている君へ全肯定囁き(ハート)高音質KU100マイク使用」を聞いた。彼はこのASMR音声について、特に女性が「君が頑張っていると思わなくても、実はとっても疲れてるし、本当は生きるだけで頑張ってるんだよ。だから君は、今日はここで癒やされて、ゆっくり休んでいいんだよ」という言葉が気に入っていた。彼は自分が疲れていると思っているが、何事かをひとよりも頑張っているのかについては疑問だった。自分がこうしたものを本当に必要としているのかはわからなかったが、確実に心は満たされていた。それに彼は、美沙希に「好き」と言われるより、この音声で「すき、だーいすき、だいすきだよ」と言われるほうが心地よかった。彼はここに大麻が育っていれば、この心地よさが実感を伴った幸福感として表れるだろうかと考えた。本気で大麻を育てようとは思っていなかった。ただ、もしあれば、と思っていた。そう考えながら、彼はイヤホンの中で鳴る「君が落ち着けるように、心音を聞かせてあげるね」という言葉を聞いていた。それからイヤホンからはがさごそと音が鳴り、しばらくすると脈打つ音が鳴った。それからチャイムが鳴り、彼は片付けをして部室を出た。

エリカが部室に来て彼に声をかけたのは、夏休みに入る前のことだった。
「失敗しちゃったね」エリカははじめに彼にそう声をかけた。
彼はなんのことかしばらくわからなかったが、エリカが「彼女さんとさ」と言ったことで、それが数日前に、彼が部室のなかで美沙希の服の下に初めて手を入れたとき、やめて、と断られたことだと思い当たった。
「見てたんですか。すみませんでした」彼は言った。
「いいよ、いっつも全然部室とか来ないのわたしたちのほうだし。むしろ水やってるぶん光くんのほうが怒っていいくらいじゃん。見ちゃってごめんね」エリカは言った。
彼がエリカを見るのは歓迎会以来だった。間が悪いときに来たなと彼は思ったが、見られたからには部活を辞めるのもいいかもしれないとも思った。放課後の時間を潰す場所のひとつがなくなるのは残念だったが、それは他のどこでもよかった。
「部活辞めるんで内緒にしてもらってもいいですか、美沙希にも悪いですし」
「言わないし辞めなくてもいいよ、あのあと大丈夫だった?気まずくない?」エリカは言った。
彼は何を言えばいいのか分からなかった、そのまま困惑が相手に伝わればいいと黙ったまま椅子に座ってエリカを見上げていた。
「わたしとする?」エリカは言った。彼はエリカを見上げたまま、彼女もまた十分に美人であることを認めながら、彼女がどういう意図でものを言っているのか図りかねていた。だから彼は愛想笑いを浮かべて、「いやー、気まずいっすね」と言うだけにとどめた。エリカも笑っていた。それから彼はエリカも園芸部にまつわる悪い噂のひとりだったことを思いだしたが、どんな噂だったのかは噂の数が多すぎて忘れてしまった。思えば彼もすでに噂のひとりになっているのかもしれない。
彼は部活を辞めようと思ったが、部活を辞めるときの正式な手続きを知らなかった。
「エリカさん、部活ってどうやったら辞められるか知ってます?」
エリカは首を振った。彼は正式な手続きなどせずとも、ただもう来なければいいだけだということをわかっていたので、間を埋めるために聞いた質問のせいでバカだと思われないかと心配したが、部室で彼女に手を出している時点で十分にバカの一人だと考えて諦めた。
彼は荷物をしまって席を立った。
「わたし、夏休みは来るつもりだよ、大麻くん」エリカは言った。
「大麻くんって、自分ですか?」彼は言った。
「そだよ、大麻育てたいって言ってたじゃん。キミも来てねー」エリカは言った。

彼は自宅の、兄と二人部屋になっている自室でベッドに寝そべり、ASMR「君のことを大好きな彼女が癒してあげる(ハート)高音質KU100マイク使用」を聞いていた。あれから美沙希とのあいだにはギクシャクとした空気が流れ、すべての物事が以前とは同じように進まなくなり、彼らのあいだには自然と距離ができている。そのまま夏休みに入った。しかしこのASMRの音声を録音している人間の台詞から感じる心地よさは相変わらず彼を包みこんでいた。彼は、思えば美沙希と一緒にいるときにこのような安らぎを感じたことがないと気づいた。彼は音声を聴きながら大麻のことについて考えていた。実のところ、大麻なんて必要ないと思っていた。ただこのような安らぎが淡い幻想ではなく、もっと色濃いものになるのなら、それはうれしいと思っていた。
コロナの影響による一昨年ぶりの長い休みを、彼は部活に励む友人たちとも、声をかけかねる美沙希とも過ごせずに一週間が経っていた。イヤホンを外して、まだ日の沈まない午後八時、学校に足を運んだ。エリカのことを思いだしていた。彼女がどういう意図で自分に美沙希との一幕を見たことや誘惑するような言葉、夏休みに学校に来るつもりだと伝えたのかということが気になった。同時に、自分がエリカとの関係に期待しているのか疑問が生じた、そんなことはないつもりだが、行動と矛盾しているようにも思えた。彼には自分がわからなかった。

階段の踊り場を上がったところで、閉じられている部室のカーテンの隙間から明かりが漏れているのが見えた。そのまま部室に近づこうとしたが、「いまはダメだよ」と囁きながらエリカが後ろから彼の手を掴んだ。彼は驚いて声をあげた。彼は驚いて声をあげるのはいつぶりだろうと思った。それほど驚いた。エリカはくすくすと声を控えめに笑って、部室のドアに向けて「大丈夫だよー」と言ったあと、彼を上の階へつづく階段に連れていって座るように言った。
「なかでヤってるんだ、いま」エリカは言った。「わたしはここで見張り中」
「帰ります」彼は言った。状況がつかめなかったが、夏休みを利用して部室で居心地の悪いことが行われていることはわかった。
「待ってよ、いっしょに時間潰そ」エリカは彼のシャツの裾をつかんだ。「光くんも同じことしようとしてたじゃん」
「立ち聞きするとか趣味ないですから、あ、いや、エリカさん責めるわけじゃないですけど。あの日はおれが悪かったですし」
「わたしはお願いされて見張ってるだけだし。ね、お話ししようよ」エリカは言った。
彼には彼女に話したいようなことはなかったけれど、エリカが一方的に話を始めたため、彼は座っていることにした。弱みを握られている相手のご機嫌取りくらいしよう。そう彼は自分に言い聞かせたつもりだったが、実のところ自分がこの状況をどう思っているのか曖昧でもあった。
エリカはホテルの代わりに部室を貸し出して小銭稼ぎをしているらしい。パパ活もやってみたけれど思ったよりも面倒くさく、そこまでしてお金が欲しいわけでもない。とくに使い道もないが、ただお金があれば楽しくなるかと考えただけ。ちょっと遊ぶくらいのお金なら、こういうことでも稼げる。自分もこういうことをしているし、彼が部室でしていたことを公言するつもりは本当にない。そうしたことを彼女は語った。
「お金あると、楽しいっすか」彼は言った。
「あんまり。ま、ないよりはマシってくらい」エリカは言った。
彼はなにも言うことが思い浮かばず黙っていた。しばらくのあいだ沈黙がつづいたけれど、帰るタイミングを見失ってしまっていた。
ふいにエリカが言った。
「それに、大麻育てるのにもお金いるでしょ、大麻くん」

逢い引きの手助けが終わってから、彼とエリカは夜の街を徘徊した。緊急事態宣言下で二〇時以降はほとんどの店が閉まるが、学校自体が十九時に下校時間となるため、スターバックスやマクドナルドで買い物をする時間はあった。
彼がエリカと夏休みにはじめてあった日、スターバックスでフラペチーノを買ってから、彼らは手近な公園を見つけて過ごすことにした。その頃には彼もエリカについて性にまつわる噂が多いことを思いだしていたが、噂について触れるつもりはなかった。エリカが何をしていようと自分には関係のないことだと思った。エリカは彼が想像していたより落ち着いた、少なくとも美沙希よりは大人だと感じる人間だった。学費のことや塾のこと、先のことまで考えている。
「べつに大学行かなくても生きてける気がしてるんだけどね」エリカは言った。
「エリカさんはなにしてもうまく生きていけそうですよね」彼はそう言いながら、とても虚しいことを言ったと考えた。彼自身が、友人から羨ましがられる発言を受けたり、実際に過去にいじめなどの苦痛にも遭わずむしろ周囲から甘やかされるように生きている。しかし彼は幸福を感じてみたかった、幸福を感じたことがないと思っていた。
そのため、エリカが「でも、楽しくないんだよね」と言ったとき夏休みは彼女の時間潰しに付き合うことに決めたのだと思う。
彼にはエリカの遊びを理解することができなかった。彼はなるべく逢い引きの終わりそうな時間、学校が閉まるのに近い時間に部室近くの踊り場に立ち寄った。エリカは彼を連れてスタバやコンビニで飲み物を買い、適当に歩きまわる。ときには部室を貸していた男女がいっしょに着いてくることもあったり、エリカの連れてきた同じ学校や別の学校の女の子といっしょに過ごしたりした。こうすることでエリカは楽しいのか、彼にはわからなかったが、彼も自分自身が楽しいのかわからなかった。
ある日の階段で、エリカは「今日は楽しめると思うよ」と予告した。彼は楽しめるといいと期待した。駅前のロータリーには私服姿の彼らよりいくつか年上に見える女性が二人、先に待っていて、エリカに久しぶりと挨拶するなり彼の腕や肩を触って「かわいい〜」と言った。エリカのほう見やったが、エリカは笑顔でいるだけだった。彼女たちはコンビニでそれぞれの飲み物と食べ物を買って、一〇分ほど歩いたところにある人の少ない公園で飲み食いをはじめた。彼とエリカはカフェオレを飲み、彼女たちは缶チューハイを何本も飲む。
ね、彼女いるの。いま何年生だっけ。こんな悪いことしてていいの、いっか。あはははははははは。キミもちょっと飲んでみる?ね、間接キスいや?あはははははははは。あんま喋らないね。それもかわいくない?緊張してるって。あはははははははは。今日帰るの、二人とも泊まってく?アイのとこは嫌だって、あたしのうち泊まるよね?あはははははははは。
彼にはこれが楽しいのかどうかわからなかった、嫌な気はしなかったが、居心地の悪さもあった。エリカはときどき彼に話しかける程度で、主に缶チューハイを飲んでいる二人の相手をしていた。時刻は二十二時を過ぎたところだった。彼は親が気にかけるから帰ると告げて立ち上がった。「帰っちゃうの」「さびしい〜」そんな二人に笑いかけながら頭を下げ、公園から去った。
彼は家に帰るとベッドのなかで「高音質ダミーヘッドマイクでよしよし寝かしつけ(囁きASMR)」を聴いた。エリカからは、『いやだった?ごめんねー』とメッセージが来ていた。イヤホンから聞こえる女性の小さな声が「今日もよく頑張ったね。ダメなときはいっぱい休んで、甘えてもいいんだからね」と言った。彼はあまりにも虚しく、泣きそうになったが、なにに対しての涙なのかわからず、それを考えてみると涙は出てこなかった。

エリカと踊り場で時間を潰しているとき、彼のスマートフォンに美沙希からの着信があった。美沙希は夏期講習に行っている時間のはずだが、合間に電話をしてきたのだろうか、彼は迷ったあげくに電話に出た。
「ひさしぶり」彼は言った。
「うん、最近なにしてるの」美沙希が言った。
「とくになにも。部活行ったり、てきとうに時間潰してるよ」彼は言った。
「いまは?」
「部室に来てる」
「ひとりなの?」
「先輩もいっしょにいるよ」
「そう。なんか最近ずっとごめんね、それだけ。じゃあ授業だから」そうして電話が切れた。
エリカがすぐそばに来ていた。彼女なんて?とエリカは彼に尋ねた。別になにも、と彼は答えたが、おそらくなにもないわけではなかったのだと思う。部室内の行為が終わったあと、彼とエリカはいつものように夜の街に出た。あの女子大生二人を連れてきて以降、エリカは他の人間を連れてくることはなかった。彼はエリカと二人だけで夜を過ごし、さまざまなことを話したが、それでなにかが深まったようには感じなかった。
二十一時頃、彼とエリカは駅で美沙希と対面した。その時間、美沙希は塾にいるはずだった。美沙希はもうなにもかも知っているようだった。知らないことといえば、彼とエリカが二人でいるときになにをしているかくらいのようだった。
「そういうことなんだよね」美沙希が言った。
「たぶん、美沙希が考えていることとは違うと思う」彼は言ったが、その言葉に意味があるとも思えなかった。美沙希はそのまま改札を通り抜けていった。
「追ったりしてなんか言わないの」エリカは言った。
「わかりません」彼は言った。
その夜、美沙希からは別れるとの一方的なメッセージが来た。彼はエリカとの経緯について弁明しようとしたが、一向に既読はつかず、おそらくブロックされていた。

翌日、いつものように彼が踊り場にいったとき、エリカはおらず、部室の扉は開きっぱなしになっていた。『停学になっちゃった><』と、その夜にエリカからLINEが来ていた。
彼はベッドのなかでASMR「頑張っている君へ全肯定囁き(ハート)高音質KU100マイク使用」を聞いた。女性が「君が頑張っていると思わなくても、実はとっても疲れてるし、本当は生きるだけで頑張ってるんだよ。だから君は、今日はここで癒やされて、ゆっくり休んでいいんだよ」と囁いた。
次の日、彼は午前中に学校に行った。鳥の餌として販売されている麻の種を彼とエリカの区分に蒔き、水をやった。季節はそろそろ夏も終わりに近づき、秋になろうとしていた。彼はそれを、幸福の種を蒔いたのだと考えた。

2022年5月22日公開

© 2022 白城マヒロ

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