06 サスピション

EOSOPHOBIA(第6話)

篠乃崎碧海

小説

20,811文字

真実に手を伸ばせ。リミットに呑まれるその前に。

 

 警察OBの親睦会には、驚くほど簡単に潜り込めてしまった。

 元々この会の存在自体がトップシークレットだから、開かれる日程と場所を知っている時点で、ほぼ招待客だと見做されるのだろう。入口で身分証の提示を求められ、簡単なボディチェックをされた程度で、特に疑われた様子もなく中に通された。これだけ警察関係者の集まるところに、のこのこ単身乗り込んでくるような馬鹿はいないという過信もあるのだろう。

 受付の人間は差し出された名刺を見るなり、あからさまに嫌な顔をした。色つきの眼鏡のレンズ越しににっこりと笑ってやれば、早く行けとばかりに手を振って奥へと促した。

 「青柳誠二」は、警察関係者の中では特に評判が悪い。半年ほど前に、警視総監と大物女優の不倫騒動をえげつない写真と品のない大見出しを掲げて大喜びでスクープした週刊誌のお抱えライターともなれば、嫌われて当然だった。

 もっと無難な人間として潜り込んでもよかったのだが、嫌われ者として名の通っている人間相手の方が話しやすい話題というものがある。出世レースに邪魔な存在を蹴落としたい奴や、後ろ暗い案件をスクープされたくない奴は、喜んで怪しい記者と組みたがるものだった。彼等が世にばら撒かれたくない物事を秘匿してやる代わりに(実際は用さえ済めば青柳以外の名義でいいように売り払ってやるのだが)、内部の人間しか知り得ない情報を取ってこさせる。警察や政治家など、体面と威信、派閥を重視する業界の人間相手であるほど有効な手だった。

 久々に袖を通したスーツに息苦しさを覚えつつ、薄く色の入った眼鏡越しに会場を見回す。

 事前の情報通り、現役の警察関係者もちらほら見受けられた。年功序列を重視する組織はわかりやすくて助かる。年齢が明らかに若いので、見分けるのは容易かった。

 こちらから積極的に話しかけると逆に怪しまれる。人目を憚るように壁際に寄ってきた人間にそれとなく目線をやり、向こうから声をかけさせるのが常だった。

「おや、久々ですね。ええと、“青柳さん”?」

「……これはどうも」

 ぼんやりとターゲットを探していたら、至極どうでもいい相手が釣れた。

 どこにでも居そうなくたびれたスーツ姿の、酒で腹の出っ張った四十がらみの男。どこぞの企業の営業担当者のように髪を撫でつけ、うだつの上がらなさそうな黒縁の眼鏡の奥から愛想笑いを向けていた。

「青柳さん……で合ってます?」

「ああ、合ってるよ。そっちは?」

「“仁藤”と申します。今日は、ね」

 仁藤と名乗った男は、丸々とした頬に人好きのする笑みを浮かべてみせた。

 こいつは同業者だ。ただ、こいつの場合は決まった組織について仕事をしている。神津組のお抱え情報提供者のうちのひとりである「仁藤」は、組織にとって損失になる事実を、どんな手を使ってでも揉み消すのが仕事だった。

「初めて来てみたんですけど……これはなかなか、ピリピリとした空間ですね」

 仁藤は同業者である俺を見つけてあからさまに安心している。こういう場所には慣れていないのだろう。こいつの主戦場はもっと暴力やセックスの気配に満ちた場所だ。

「どうしてわざわざ、初めての場所へ?」

 どうせ教えてくれないだろうなとは思った。わざわざ危険を冒してこんなところに潜り込んでおいて、信用できるかも怪しい他人相手に目的をペラペラ話すとは思えない。

「あー……同業のよしみで教えてもいいかな」

 しかし仁藤は違った。きっと単純に話したくて仕方がなかったのだろう。

「モグラさんを探しにきてまして」

 仁藤の顔から笑みが消える。彼は声を落として言った。

「神津の飼ってるモグラか?」

 一瞬明石のことが頭に浮かんだ。

「いえ、柳井組の内部に潜り込んだやつを探してます」

「人の家を荒らすモグラを探してどうするんだ」

「ただのモグラさんじゃあない、賞金首ですよ」

 しかもレンガふたつです、と仁藤は興奮を隠しきれない声で囁いた。

 レンガ。一千万円を指す隠語だ。つまりそいつを柳井組の幹部連中に突き出せば、それだけで二千万円が手に入ることになる。

「柳井組にとってよろしくない情報……それが何なのかまでは掴めていないのですけど。とにかくそれを持ち逃げして、組の幹部連中……ああ、息子派の方の幹部です。ええとなんでしたっけ、つまり柳井組は裏切り者のモグラさんを消そうと躍起になってるわけですよ。で、そのモグラさんを匿ってるのが、どうも警察OBらしいってところまで掴んだので、こうして探りを入れにきているというわけです」

 どうにも要領を得ない説明だったが、つまるところ仁藤は単純に金目当てで訪れたらしい。神津の仕事で来たわけではないので、こうして気前よく喋ってくれるのだろう。

「なるほど、それで柳井の人間もちらほら出入りしてるわけか。警察の警備もザルだな」

「まともに機能しちゃいないんですよ。所詮この国の警察なんざお飾り、実権を握ってるのは米国様と英国様ですからね。ついでに最近はそこにソ連様も仲間入りしたがってますし」

 どうしようもないですね、と仁藤は困ったように笑った。口では困ったと言いつつ、どうでもいいと思っているのがはっきりとわかる態度だった。

「話は戻るが。恥も外聞も捨てて、組織外の人間に大金をちらつかせてまで捕まえようとするってことは、そのモグラは相当やばいものを握って逃げたってわけだ」

「……きみには色々と恩がある。いいですか、ここだけの話に留めておいてくださいよ」

 仁藤は少し嬉しそうに耳打ちする。どうやらこいつは神津の仕事以外ではだいぶ口が軽くなるらしい。身の安全のためにも、今後重要な情報を売るのはやめようと密かに決めた。

「モグラさんの本当のおうちは警察、つまりそいつは潜入捜査官だったんですよ。柳井の連中はずっとそいつを探し回ってたようなんですけど、最近になってようやっと尻尾を掴んだかと思いきや、七澤組の跡目争いのごたごたのせいでまたわからなくなって。いい加減我慢の限界というわけなんでしょうね」

「ずっと探し回ってた? 長年追ってたってわけか」

「二十年ほど前からの確執らしいですよ。まったく、執念深いにもほどがある」

 潜入捜査官。ここでそのキーワードが出てくるのか。

 早渕の情報も仁藤の情報も鵜呑みにできるほど信憑性があるとは思えないが、少なくともひとりだけが主張しているわけではなくなった。早渕と仁藤が手を組んでわざと同じ情報を差し向けている……という可能性もないわけではないが、そこまで考えていたら収拾がつかなくなる。

 二十年前。おおよその時期も一致する。二人の持つ情報を単純に掛け合わせるなら、五百蔵はかつて警察の潜入捜査官として柳井組の内部に入り込み、柳井が金を積んでも取り返したい何かを奪って姿を消したということになる。あの人ならやりかねない。

「柳井組も世代交代したがっているでしょう。あの馬鹿息子……おっと、そっちの派閥の人間の耳に入ったら殺されてしまいますね。あれは父親の代の膿を出し切ってから組のトップに就きたいだけだと思いますよ。そうでもしなければ反対派閥がついてきてくれませんから。なにしろ筋金入りの無能なので」

 二十年も沈黙を貫いてるモグラさんが今更騒ぎ出すとは思えないんですけどね。やれやれと仁藤は首を振った。

「で、きみは? これだけ話したのですから、きみも少しくらい今日の目的を教えてくれてもいいですよね」

 盛大な紆余曲折の後、仁藤は一番訊きたいであろうことをようやく口にした。

「私用だ」

「それだけですか? ……いいですよ、言う気がないのはわかってましたから。まったく、きみは口が堅くて困る」

「この仕事なら当然だろう」

「まあ、それもそうですね」

 仁藤は神津組に雇われている人間だから、彼の目や耳はそのまま神津の目となり耳となる。不用意に喋るのは災いの元だった。

「きみ相手にこんな井戸端会議で情報を引き出せるとは端から思っていませんでしたけど。本気で聞き出したいなら、もっとやり方を考えなくてはね」

 今日のところは勘弁してあげます。仁藤は朗らかに笑って言った。

 こいつは同じ笑みを浮かべたまま、人を死ぬ寸前まで殴れる男だ。日陰に生きる人間なら、彼だけは敵に回してはいけないと知っている。

 

「そんなことよりきみ、最近乱数放送を使って妙なことしてるでしょう」

「は?」

「ソ連のやり口を真似してるようですけど、詳しい人間が解析すれば国内からやってるってすぐわかっちゃいます。下手なことはやめておいた方が身のためですよ」

「何のことかよくわからないが、それは俺じゃない。生憎そんなに暇じゃないんだ」

 質問の意図をはかりかねながらも答えると、仁藤はほっと息を吐いた。

「ああやっぱり、きみじゃないんですね。多分違うだろうとは思ったのですけど、万が一ということもありますから。反応を見たかったんです」

 どうか今の質問は忘れてください、と仁藤は言った。

「俺が嘘をついていたらどうするんだ?」

「きみのそういう反応は嘘じゃない。嘘ならきみ――笑うでしょう」

「そうかもな」

 少なくともこの男の無邪気ゆえに不敵な笑みよりは凶悪でないはずだが、と密かに思う。

「やはり第三勢力がうろちょろしているようですねえ……消しておいた方がいいかな。まあいい、きみも気をつけたほうがいいですよ。……それじゃあ、また」

「ご忠告感謝するよ」

 仁藤はひらりと手を振ると去っていった。

 

 早渕はあの依頼で、俺の力量を測ろうとしたのではないだろうか。

 あのとき――花嶋を使って俺を消そうと七澤側にタレコミを入れたのは早渕なのだろう。確証はないが、そう考えるのが自然だった。俺がうまいこと死なずに依頼を達成できたら、信用に足ると判断して、五百蔵の情報を与える代わりにもっと重要な案件を任せようとしていたのではないだろうか。

 結局あのときは早渕の望み通り混乱こそ起こしたが、その後呉山が三科の孫娘を放り出したのは、単純に七澤の組長が急死して忙しくなったからで、俺が手を回した結果ではない。早渕は望む成果を手に入れたが、単なる幸運だ。だから早渕はあの大量の医薬品のみを報酬として、五百蔵の情報は出さなかった。当然の態度だと思ったから、こちらもそれ以上取引を求めることはしなかった。互いに相手を胡散臭く思っていたのも、早めに取引を終わらせたかった理由としてあるだろう。

 しかし、仮に早渕がまだ五百蔵の情報を正確に掴んでいないとしたら?

 早渕の本当の目的が、俺を使って五百蔵の行方を突き止めることだとしたら。俺を生かしておいて好きに泳がせ、真相に辿り着かせる作戦を、今まさに進行形で遂行しているとしたら。潜入捜査官というわかりやすいキーワードを与えて、何が出てくるのかを密かに観察しているとしたら。

 早渕の目論見はまだ終わっていない。彼はそう遠くないうちに、また接触してくるだろう。

 

      †††

 

 無駄に思索をしただけで、時間だけが無為に過ぎ去ろうとしている。

 柳井組が賞金を懸けてまで探し出そうとしている人間の情報が、警察関係者に少々聞き込みをやった程度で出てくるわけがない。そもそも、その潜入捜査官と五百蔵がイコールで繋がると決まったわけでもない。

 今回は大した情報は得られなさそうだ。そう簡単に手に入るとも思っていないが、リスクと結果が見合っていない。関係ない事柄でもいいから、もう少し収穫が欲しかった。

 諦め半分、そろそろ引き上げるかと思ったときだった。

 目の前をひとりの男が通り過ぎた。こちらには目もくれず、フロアの中央にいた初老の男に声をかけると、へりくだって話しはじめた。

――俺はあいつを知っている。

 ぐらりと目の前が揺らぐような感覚。実際に揺れたわけではなく、記憶の中の映像と現実が混ざってダブったように感じたのだった。

 

 隙間風の吹き込むドアをそっと開ける母の背中を見ていた。外には男が数人。みな母を値踏みする目で見ていた。

 場所を変えましょう。母は掠れた声で男達に言った。自分はいつも置いていかれた。一度出ていけばいつ帰ってくるのかわからない。一日、二日、三日が経つ頃には食べられるものも少なくなり、ときには寒さから熱を出して胸の痛みに体を丸めて過ごした。

 やっと帰ってきた母はいつも疲れきった顔をして、何を話しかけてもごめんねと愛してるしか言わなかった。窶れた腕で髪を梳き、他人の性のにおいのする体で俺を抱きしめ、そうしてくっついて眠った。心地良いような、気持ち悪いような生ぬるさを、皮膚のどこかで覚えている。視覚情報より鮮明なそれは、触れ合った生の記憶だった。

 もう二度と温もりを抱かない白い腕。流れ出した鮮血に沈む髪は、まるで白薔薇を無理矢理に赤く染めたかのようで。

 

「ッ……は、」

 記憶に吞まれる。早まった呼吸と不安定な精神に引きずられて、胸に鈍い痛みが走った。

 制御の利かない呼吸がうるさい。過呼吸を起こしそうになって、ひたすら息を吐くことに集中した。

 視界が揺れる。今度は本当に揺れている。たまらず膝をつきそうになって、こんなところで倒れるわけにはいかないと壁に手をついて耐えた。

 フラッシュバック。見たものをそのままフィルムに焼きつけるように記憶する特性は、その代償に思い出したくないものまでもを鮮明に再現してしまう。ヒトの脳とは厄介なもので、「見ている」と一度でも認識してしまえば、そこに想像で音やにおいまでも生じさせることができる。幼い頃は現実との区別がつかずパニックに陥ったこともあったが、慣れてしまえばそれがどちらかくらいは判別できた。ただ判別はできても、それが精神に痛みを与える事実は変わらない。

 白飛びしかけた視界が徐々に戻ってくる。ここまで強烈に呑まれかけたのは久々だった。

 どくどくと強く脈打つ鼓動が、胸元を不快に締めつけてくる。しかしそれも額を伝った汗を拭う頃には治まってきていた。

 呼吸が落ち着くにつれて、思考も凪いでくる。

 あの男はこちらのことなど気にもかけず、相変わらずフロアの真ん中で話を続けていた。

 

 偶然か必然かはわからないが、俺は運がいい。

 

       †††

 

 トイレの個室を出た男は、手を洗いながら何の気なく目の前の鏡を見た。

 冴えない顔が映っている。やや疲れて薄っすらと隈の浮いた目元をすっきりさせようと、男は冷たい水で顔を洗った。

 ぽたぽたと落ちる雫を拭う。そう、さっき聞いたことを早めにメモしておこうと思ったのだった。ジャケットの胸ポケットから手帳とペンを取り出す。苦労したわりに収穫の少ない一日だった――そんなことを考えながら、男はペンを走らせようとした。

 瞬間、鏡の向こうに黒い何かが映った。

 人影だ。しかしそう認識するよりも早く腕をとられて、ぐるりと視界が回った。気がつけば一瞬で床に組み伏せられていた。

「な、んだお前っ……!」

 相手は長身の男だった。ダークグレーのスーツを着て、色素の薄い長い髪を後ろでひとつに束ねている。見覚えはない。突然こんなことをされるような覚えもない。

「誰、だ」

 襲撃者は答えなかった。答えの代わりに掠れた声で笑った。

 殺される。何故か直感的にそう思った。こいつは俺を殺しにきたのだ。

「忘れたとは言わせねえよ」

 地を這うような声だった。襲撃者はかけていた色つきの眼鏡を投げ捨てた。

 あらわになった瞳は深い夜の色をしていた。ひとつの星さえ望めない、ぞっとするほど冷たく凪いだ瞳からは、一切の感情が抜け落ちていた。

 とられたままの腕を、男は容赦なく捻り上げた。関節が可動域ぎりぎりを僅かに超えて、気がつけば叫び声を上げていた。

「うるさいな」

 男はぼそりと呟いた。彼の顔色も自分とそう違わずひどいものだった。

「思い出せないなら特別にヒントをあげようか。十五年前、廃ビルから女性が突き落とされて死んだ事件の関係者、と言えばわかるかな」

 男は淡々と言った。

「……お前、あの女のガキか」

 正直なところ思い出したというには程遠い、朧気な記憶だった。しかしそう正直に告げたら、次は腕を折られるだろう。

 十五年前。吐く息も凍りそうな冬の夜、どこにでもいそうな女が死んだ。その女には、十歳前後のガキがひとりいたはずだ。

 こいつが本当にあのガキなのだろうか。母親に似ていたのはなんとなく覚えている。しかしどうにも当時の朧気な像とは結びつかなかった。

「記憶にあったようでなにより。さて、もう少しはっきり思い出してもらおうか?」

 組み伏せる力を緩めぬまま、男は静かに笑った。こいつは今から俺を拷問する気なのだ。こんな、警察関係者の巣窟のような場で、白昼堂々と。

「俺はやってない」

「知ってるよ」

 予想外の返答に思わず口を噤んだ。こいつが何を求めているのか全くわからない。

「お前はやってない。が、お前は手を下した奴の舎弟だったんだろ」

「違う! 兄貴も騙されたんだ。兄貴もやってない」

「当時のことをすぐに思い出してもいいし、じっくり時間をかけてもいい。いつまでも待ってやるよ。あんたが待てるかは知らないが」

 男は後ろ手にねじ伏せたところに、ゆっくりと膝を落とした。ぎしりと関節が軋む。耐えられないほどではない、鈍い痛みが続く均衡点を敢えて保っている。

「まて、やめろ、俺は本当に何も知らない」

「それが答えか?」

「復讐ならお門違いだ。答えもなにも、それがしんじ」

 ばきりと小枝をまとめて踏んだような音がした。それが自分の腕から鳴った音だと、一瞬遅れて理解した。

 叫び声を上げることさえ許されなかった。襲撃者は自身の袖口で声の出口を塞いでいた。

「利き腕は残してやったんだから感謝しろよ」

 痛みのあまりにぼろぼろと涙がこぼれる。耳元に囁かれた男の柔らかい声が、蜃気楼のように幾重にもこだまして聞こえた。

「許しっ、て、くれ……ッ」

「何に対しての謝罪だ?」

 男は床に落ちていたペンを拾い上げた。しばらく指先でくるくると弄んでから、折られて痛覚以外の感覚の飛んだ腕にそっと押し当てた。

「曖昧に謝ってんじゃねえよ」

 熱いものが突き刺さる感触がした。

 襲撃者は組み伏せた腕を解いて距離をとった。血の気の失せた顔はさながら亡霊のようだった。そこに愉悦はなかった。こいつは人に危害を与えることに快楽は覚えない。つまり、そこにあるのは純粋な憎悪。

 自由にされた左腕を鏡の中に見た。だらりと垂れ、赤く染まって親指が逆を向いたそれを目にした瞬間、胃の中身が全て逆流した。

 

「だから、おれ……は、何もッ、知らない……!」

 洗面台に浅く腰掛けた襲撃者は、何を言っても無表情で見下ろしていた。

「兄貴が、サツに捕まる前に、俺はあの組を離れてた! 俺はただガキにクスリを売ってただけだ。おまけに帰ってきたときにはもう、組は消滅してた」

 この男がどんな真実を求めているのかは知らない。知らないが、とにかく楽になりたかった。臆測でも噂話でもなんでもいいから全て話して解放されたかった。殺されたくなかった。

「慕ってたその兄貴が獄中で不審死したってのに、お前は知らぬ存ぜぬか」

 案外薄情なんだな。男は感情の見えない声で言った。

「兄貴が、死んだ……?」

 聞いてない。そんなのは、知らない。

「ああ、お前もハズレか。血縁者なら何か知ってるだろうと思ったのに、これで全員ハズレだ」

 男はあからさまな溜息を吐いた。こちらの動揺などどうでもいいという態度だった。

「な、なあ、兄貴が、死んだって、」

「うるせえよ」

 男はうんざりした様子で首を振ると、やけに白い頰にひとしずくだけ跳ねた血液を穢らわしいもののように拭った。

「まさか、あの組にいた全員を問い詰めたのか」

 男は無言で笑った。その目はたしかな肯定を示していた。

「生きてる奴には、な」

 死んでたら聞き出せないだろ。夜の底から響くような声で男は言った。

 こいつは何人か殺したのかもしれない。眉ひとつ動かさず、淡々と。そう思った瞬間全てがどうでもよくなった。 

 

「あの女には、別れた旦那がいたんだよ。元柳井組の男がな。多分幹部だったと思う。俺はそいつが賞金首だと思ってる」

「お前、賞金首目当てで潜り込んだのか」

 もう何を隠す気力もなかった。力なく頷くと、男は続きを促した。

「金に困ってんだ。賞金首の話を聞いたときにピンときたんだ、もしかしたらあいつかもしれないって」

「どうしてそう思った? お前の兄貴がそう言ったのか」

「話してるのを聞いただけだ。あの女には手出しできない、旦那が危険すぎるからって……下手なことをしたら柳井組に殺されるとも言ってた」

 事実、一連の事件のことはほとんど何も知らない。女の旦那にも会ったことはないし、そもそも女が不審死したのだって、人づてに聞いてやっと知ったくらいだ。こいつが拷問すべきは俺じゃない。

「というかお前、その旦那と女の間のガキだろ」

「さあな。俺は父親のことはほとんど何も知らない」

 誰の間の子かなんてどうでもいい。男は吐き捨てるように言った。

 こいつの母親は仕事柄、不特定多数と関係を結んでいたはずだ。無理もない。

「俺は兄貴があの女を殺したんじゃないと思ってる」

「奇遇だな、俺もだ」

「は……? じゃあどうして、こんな」

「お前も、お前の兄貴も犯人じゃないと思ってる、話を聞かせてくれないか、なんて言われたとして、お前は何か喋ったか? 殺されると思ったから吐いたんだろ」

 男は膝を屈めると、わざわざ目線を合わせて言った。

「改めて聞く。言っておくが三度目はないからな。お前は女を殺した奴を知っているか? そいつはお前の兄貴にありもしない罪を被せて獄中に追いやった挙げ句、不審死に見せかけて殺した犯人ってことにもなるんだが」

 深い藍色をした瞳の底に、ぞっとするようななにかがあった。

 ああ、こいつは“無理”だ。こいつはきっと悪魔に魂を売ったのだ。そうでなければ、こんな常軌を逸したことはできない。

「知ら、ない……心当たりもない」

「そうか」

 使えない、と男は吐き捨てるように言った。

「最後にもうひとつだけ訊く。この男に見覚えは?」

 男は写真を取り出して見せてきた。

 どこかの街中で、壁を背にして見知らぬ男が佇んでいる。

「ない。会ったことも、見たこともない」

「この男の名は五百蔵という。五百蔵空、お前の探してる賞金首の候補者かもしれない奴だ」

 女の旦那だけが賞金首と決まったわけじゃないってことだよ。男は諭すような声で言った。

「五百蔵? 名前だけなら兄貴から聞いたことがある。海外とも繋がってるブローカーだろ」

「そんなことは百も承知だ。他に知ってることは?」

「ない。俺が知ってるわけないだろ、俺は兄貴の言う通りに動いてただけなんだから」

 男はやれやれと首を振ると、べったりと血のついたペンをゴミ箱に投げ捨てた。

「もういい。もうお前は用済みだ」

 

 殺されたくない。そう思って咄嗟に口走った。

「あの女、事故で死んだんじゃないのか。大体、俺に言わせりゃあんな半分洗脳されたみたいな女――」

 目の前が暗くなる。何か甲高い音がした。

「同じことをもう一度でも口にしてみろ。二度と喚けないようにしてやる」

 首の皮一枚隔てたところに突き立てられたナイフ。その銀色と、つっと流れた赤を視認したかどうかのうちに、後頭部に鈍い痛みが走って意識が消えた。

 

      †††

 

 父親についての記憶はほとんどない。それはつまり、この目で見る機会がほとんどなかったということの証明だった。

 そもそも血の繋がった実父だという確証すらない。母は体を売っていたから、父親候補はいくらでもいた。母との繋がりだけが唯一確かなものだった。

 一番家に出入りしていた男を父だと仮定するならば、覚えているのは煙草を吸っていたこと、気に食わない相手を灰皿にするのが好きだったこと――それくらいだ。母のことは愛していたようで、手を上げることはなかったが、どうやら自分は嫌われていたらしい。脇腹や背に今も残る火傷痕がその証拠だった。

 暴力性は遺伝する。正確に言えば血を介して継がれるのではなく、思考と環境を通して遺伝する。伝染する。

「ッ……、ぅ…! っは、ぅ、ぐ……ッ、」

 今日だけで何度呑まれれば気が済むというのだろう。おかしくなっていることを自覚してはいたが、最早制御は利きそうになかった。

 誰も行き交うことのない廊下に膝をついた。遠くの喧騒さえ届かないそこに、己の呼吸の音だけが響く。

「…っあ、う゛……! っは、はーッ、は……ッけほ、こほっ……ぃ、っく、そ……」

 痛みのあまり思うように動かせない手で、それでもなんとかピルケースの蓋を開けた。

「……――ッ! あ、ァ」

 錠剤ひとつ、口腔内の熱で溶ける前に次の痛みの波がくる。

 これは、だめだ。霞む視界の先に、非常口と赤く印字された鉄の扉が映った。気力だけで辿り着き、なんとか押し開けて外へと転がり出る。

 非常階段の隙間越しに強いビル風が吹き込んでくる。風圧でドアの閉まる大きな音がして、人の来ない場所に逃げのびた安堵と、今の音で誰か来やしないかという警戒が一瞬過ぎった。

 心臓は限界らしかった。周囲に気を配る余裕など最早なく、その場に膝をついて喘ぐことしかできない。

「ぅ……う、ッ………は、…ぜぉッ、けほ、――ッ゛う、…く、」

 僅かながら効いた薬の影響か、少し和らいだ痛みの代わりにやってきた暴力的な疲労感に襲われて、その場に転がった。

 階段の隙間から空が見える。黒というよりグレーに近いぼやけた空、微かな星の瞬き。その全てがちかちかと明滅を繰り返しているのは、身体がおかしくなっているからか。

 発作のせいか、ひどく寒く感じた。気温は二十度を超えているはずなのに、体の周囲だけが冬に逆戻りしてしまったかのようだ。木枯らしかと錯覚したのは、己の細い呼吸音だった。

 母が最期に見たのもこんな景色だったのだろうか。地面に転がって、冷たい夜空を見上げて。いや、あの高さから落ちたならきっと即死だっただろう。星など目にするはずがない。ましてや、それを綺麗だと思うことなど。

「ッ……う、ぅ……はーッ、は、ハ……ッ゛あ…! ぅ、――…ッ、」

 横になったせいか、再び胸痛が強まってきていた。堪らず追加で錠剤を服用する。

 ひとつ、ふたつ足してもまだ治まらない。

「ぁ゛…っく、ぅ……っけほ、こほっ………ッけほ、」

 三つ目に手を伸ばしてようやく呼吸が通るようになった。規定量でも十分に強い薬だ、これ以上過剰摂取すればどうなるかわからない。

 ピルケースは空になった。この調子ではふた月分処方されたところで、半月と保たない。

 ひとつだけ余計なことを思い出した。かつて、家には時折空の注射器が転がっていた。母のものではない。客にせがまれて打つことはあっても、決して自分からは手を出さなかった。

 クスリに溺れていたのは父親だ。

 なんだ、つまり結局は同じようなものじゃないか。

「ハ……はは、どうし、ようも、ねぇ、な」

 精神性は遺伝する。俺も遠からずロクに効きやしない薬に溺れて自滅するのだろう。ドラッグだろうが強心薬だろうが大差ない。

 

 早渕の情報を元に辿り着く「潜入捜査官」は五百蔵だと思っていた。しかしあの男の話を元にすれば、柳井組と繋がりを持っていたのは顔も知らない実の父親ということになる。

 二十年前から行方の知れない謎の潜入捜査官。何者かに殺された母と、蒸発した父。十五年前に天涯孤独の浮浪児を拾い、そして九年前に突然姿を消した五百蔵。それら全てと繋がりがあるのは。

「俺、か」

 母が殺された理由に、柳井組が絡んでいたとしたら。消えた父の謎を追うこともまた、真実に繋がるのではないか。

 五百蔵と実の父親。どちらかが潜入捜査官で、柳井組の賞金首なのは間違いないだろう。根拠はこれから探せばいい。長く情報屋をやってきた勘が、この仮定はきっと正しいと叫んでいた。

 ひとつ、現状ではどうにも見えないものが残った。

 

 どちらかがモグラなら、残ったもうひとりは一体何だ?

2022年5月13日公開

作品集『EOSOPHOBIA』第6話 (全9話)

© 2022 篠乃崎碧海

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