ドアを開けてすぐに、タイミングを間違えたことに気がついた。
礼儀として、一応ノックはした。とはいえここの部屋の主は大抵の場合返事をしない。今日もそうだった。明確に入室が禁じられているときは鍵がかかっているから、結局このノックにはほとんど意味がないことになる。自分は無遠慮にドアを開けるような人間ではないと伝えるためくらいにはかろうじて役立っているかもしれなかった。
部屋の主は先月購入したばかりの舶来の椅子に深々と腰掛け、側のテーブルに片肘をついて今まさに電話の最中だ。改めようと足を退きかけたが、それより一瞬早く目が合ってしまった。
そこで少し待っていてくれ、と手振りで伝えられる。どんな内容であれ、この部屋の電話が鳴るような用件――つまり神津組組長に直接かかってくる用件を、幹部でもない私がぼやぼやと立ち聞きしていいわけはなかったが、彼がここで待てというのなら従う他はない。
関係のないことからはなるべく距離を置こうと、せめてもの抵抗として壁の方を向いた。
この世界は知らない方がいい物事で溢れている。知って命を狙われるくらいなら、無駄に心を磨り減らすくらいなら、閉ざしていた方がいい。私はただ、穏やかに痛みなく一生を終えたいだけだ。こんな世界に身を置いて今更言えたことではないかもしれないが。
「お待たせ。こちらから呼び出しておいてすまないね」
幸いにも穏やかな案件だったようで、電話はすぐに終わった。彼の声かけを許しの合図と受け取って向き直る。
「いいえ。今日はこの後特に何もありませんので」
彼が本心からすまないと口にすることはあるのだろうか。これまでも、そしてこれからも恐らくないだろう。そんなことを考えながら、私は彼の好きそうな表情を浮かべてみせた。
彼――神津組組長、神津巳之助と良好な関係を築きたいのであれば、彼に好かれるような存在を演じ続けなければならない。勿論、演技だと気づかれてはいけない。
彼は恐ろしいほどに気分屋だ。しかし激昂して人や物に当たるとか、ころころと言動を変えて周囲を振り回すとか、そういうありがちでわかりやすいことはしない。
彼はそのときの気分ひとつで、絞首台のボタンに不注意からうっかり手を触れてしまったかのように人を切り捨てる。うっかりだから、弁解の余地も謝罪する暇も与えられない。彼はその行動の所以を長年組織を統めてきた勘だと主張するが、切られる側からしてみれば気まぐれ以外の何物でもないだろう。
彼は難しい。言葉の限りを尽くして誉めちぎればいいわけでもないし、イエスマンとなって媚び諂えばいいわけでもない。体の関係で満足してくれるわけでもないし、富と名声だけを至上とするわけでもない。何が彼の気分のスイッチを押してしまうのか、また一度押されたスイッチを元に戻せるのか、長く側にいても把握しきることはできないでいた。私が彼の気まぐれにまだ殺されていないのは、たまたま幸運が続いたからだ。
「そうそう、先日の襲撃事件の裏工作に力を貸してくれたお礼に、呉山くんに余ってた上物のワインをあげたんだけど。久々に話したついでに――ああ、今の電話は彼からでね――それとなく感想を求めたら、なんて答えたと思う?」
他愛のない世間話にしてはやや物騒な言葉が散らばっていたが、神津組にとってはこれが日常茶飯事だ。神津だけではなく、この街全体にとってありふれた出来事でもある。
襲撃、麻薬取引、暗殺、拷問。全部慣れてしまった。いまや都度人の命が失われている感覚さえ遠くなっている。幹部ともなれば、己の言動ひとつで数日後の死体の数が変わるだろうが、私は幸か不幸かそういった立場にはない。
自分が当事者でなければいい。そう思うしかない。
「たしか、呉山圭は酒は嗜まないのでは?」
「そう、そうなんだよ。私としたことがうっかり忘れていたんだ。呉山くん、ほとんど飲まないらしくて、味見もせずにさっさと部下にあげちゃったんだってさ。勿体ない」
しかもその部下は先日死んだってさ、結局感想は聞けず終いじゃないか。残念、と彼はおどけたように肩を竦めてみせた。
世話になった礼とはいえ、普通は今まさに跡目争いでピリピリしている若頭相手に呑気に贈り物などしない。しないというか、できない。各地から無駄に睨まれるのは必至であるし、火のない所に煙は立たぬと言うが、まさに燻る灰の上に火種を投げ込むに等しい行為だ。火種どころか、もしかしたら火炎瓶級かもしれない。
そんなことは百も承知で、いとも容易く成し遂げてしまうのが、この神津巳之助という男なのだ。
「呉山くん、声を聞く限りはあんまり元気そうじゃなかったな。まだ若いのに大変だね」
「意図せぬ長電話に辟易としたのではないですか」
「私の所為かい? はは、困ったものだね」
七澤組とうちは、どちらかといえば対立組織だ。当代の破天荒な気質とカリスマ性に惹かれて構成員となった者の集う、よく言えば求心力の強い、悪く言えば勢いだけの半端者集団である七澤組と、終戦直後に焼け跡に闇市を興したことをきっかけに、時間をかけて土地に根ざしてきた神津組は、そもそもの組織の気質からしてそりが合わない。そんな組織がひとつの街で共存しているのだから、些細なぶつかり合いやトラブルは日常茶飯時だった。ヒトなど愚かなもので、暇になれば適当な理由をつけて戦争をしたがるものだと相場が決まっている。
全面抗争にならないのは、たまたま互いにそれよりも忙しい物事を抱えているからだ。七澤組は跡目争いに端を発した内部分裂、うちは……まあ、そう軽々しく口にすべきことでもないだろう。
「最近どう?」
組長が私を執務室に呼んで尋ねることは、これひとつきりだ。出会って間もない頃は他にも色々とあったが、少しずつ立場が軽くなっていって今に至る。尤も、それに不満はない。
「特にこれといってお耳に入れるようなことはありません」
「まあそう言わずに、ね?」
彼は私が今何を一番口にしたいと思っているか、それだけに興味を持っていた。だからいつもこんな雑な問いかけをする。私が何を言おうが、例えば真っ赤な嘘を吐こうが、その中身には何の意味もない。どうして私がそんなことを口走ろうと思ったのか、そこに行き着いた心理を抉り出すのが目的だ。彼は人の内心を白日の下に曝すのが好きだった。
「呉山圭をどう思いますか」
いつ何時だって楽しい話題を提供できるわけではない。もっと言えば、元来世間話を楽しむタイプでもない。今日のところは仕方なく、蒔かれた種を拾うことにした。
「呉山くん? そうだね……優秀だ、彼は。あらゆる意味で優秀、優等生。可愛く思えてくるほどにね」
つまりはただの玩具か。
組長は恐らく呉山圭を気に入っている。少なくともあっさりこの世界から退場したらつまらない、くらいには思っているだろう。
「呉山は、七澤の次期組長になれると思いますか」
「本人次第じゃない? 周りが派手に囃し立てているだけで、呉山くん自身はあまりそれを望んでいるようには思えないけれど」
それについては全く同意見だった。呉山自身に組織のトップに立ちたいという欲は然程見えず、むしろ周囲の勢いに圧されてという印象すら抱かせる。
「ねえ、きみはどう思う? 呉山くんがトップに立つことで、うちに何か不都合はあるかな」
そんなの貴方が判断することでしょう、そう言いたいのを堪えて冷静に返す。
「別に。どう転ぼうと、我々にはさしたる影響はないかと」
「怖い言い方をするね。それじゃあまるで呉山くんがどうなろうと……たとえば抗争の最中に生じた隙を突かれて消されてもいいみたいに聞こえるじゃないか」
「貴方の言いたいことを推察して発言したまでですが」
彼はきっと私の真意などとっくにお見通しだ。ただ私の口から言わせたかっただけ。私に発言させて、その声を私自身に刻み込ませたかっただけだ。
「きみは本当に賢くて怖い子だ」目元をくしゃりと歪めて、彼は満足げに笑った。
今日も無事に正解の答えを選べたらしい。皺の深い笑みを見て、私は心の片隅で安堵した。
私がただ生き延びたいだけの臆病者だということは、彼が一番よく知っている。
ドアが控えめにノックされた。
笑いの余韻を引きずったまま、組長はどうぞ、と告げた。返事をするなんて珍しいなと思う。今日はそういう気分だったのだろう。
「失礼します。……変なガキが訪ねてきてるんですが、追い返しますか」
ドアを開けたのは若い男だった。そこらの浮ついた若者らしからぬ風体で、誰にそうしろと言われたわけでもあるまいに、勤め人よろしく短い黒髪をきっちりと撫でつけている。まるで真面目さと気の利かなさが服を着て歩いているかのようだった。
たしかつい数週間前に組織に入ったばかり、どうにも頼りなく任せたい仕事も見当たらず、どの下部組織も彼を欲しがらずに、結局屋敷に出入りする人間の顔と名前を覚えさせるためという名目で、とりあえず門番代わりに外に立たせておいたのだったか。毎日朝晩とすぐ横を通り過ぎているはずなのだが、顔すらきちんと認識していなかったと今更ながらに気がついた。
「ガキ? 要件はなんだと言っているんですか」
わざわざ直接組長に報告しにくるような案件だとはとても思えないが、ひとまず落ち着いて話を聞いてやるくらいの心の余裕はあった。
まるでドアを境にしてこちら側一帯が地雷原にでもなっているかのように、彼は一歩たりとも部屋に踏み込もうとはしない。
「組長に呼ばれて来たと言ってます。チビなガキです、妙ななりをした……」
彼の説明は要領を得ない。要件を聞いたなら、ついでに名前を尋ねるくらいのことはできないのかと思う。
些細な苛立ちが伝わったのか、彼は怯えた様子でさらに一歩後ずさった。これでは門の前に立たせていたところで役には立たないだろう。銃撃の盾にすらなれそうにない。
「やっと来たんだね。いいよ、通してあげて」
不毛で刺々しい沈黙を破ったのは、穏やかな組長の声だった。
「甘いお菓子はあったかな。紅茶に合うのがいいね」
てっきりつまみ出せと言うかと思ったが、意外にももてなす気らしい。知り合いだろうか。
きみ、紅茶は淹れられる? 雲の上の存在である組長から突然話しかけられた警備の男は、脳の処理能力が現実に追いつかなかったのか、面白いくらいに固まった。数秒後にようやく追いついて、縦とも横ともつかない曖昧な頷きひとつを置き土産のように残してぎくしゃくと去っていった。
あの様子では紅茶はおろか、湯だって自分で沸かしたことがないんじゃないだろうか。せめてやり方を知っている者に任せるくらいの理性が残っていればいいが、と不安になった。
それにしても、組長はまたも『悪癖』を存分に発揮しているらしい。
「また子供囲ったんですか」
「きみ、もう少し言い方というものがあるだろう」
組長は呆れたように笑った。彼が所謂「綺麗な見た目の少年」を好むと知っているから、敢えてこういう言い方をしたのだ。この程度の冗談が通じない人ではない。
「せっかくだから、きみにも会ってもらおうか」
「珍しいですね。いつもは二人きりでの逢瀬を希望なさるのに」
「だからきみ、言い方ってものがね……。今回はそういうんじゃないんだよ。まあ、会えばわかる」
再びドアがノックされた。
部屋の主がどうぞ、と言う前にドアは開かれた。
向こうには小柄な子供が立っていた。体の線を隠すだぼだぼののシルエットの白いカットソーと、同じく白くゆったりとしたズボン姿。身長はドアの半分ほどしかなく、体格だけで判断するなら十から十二歳くらいに見える。
私は思わず言葉を失った。その子供――恐らく少年と思われる――は一般的と呼ばれる範囲から明らかに逸脱した容姿をしていた。
少年の肌と髪は雪を纏ったように白く、よく見ると眉や睫毛までも白い。瞳だけに色があって、しかしそれも淡く霞みがかっていた。白一色に統一された服装も相まって、清浄さを通り越して異様な雰囲気を醸し出している。国籍さえもはっきりしないが、顔つきは東洋人らしく思えた。
先天的にメラニンが生合成されない異常、たしかアルビノというのだったか。存在は知っていても、こうして実際に目にするのは初めてだった。
「久々だね。また痩せた?」
私の驚きをよそに、組長は穏やかな口調で少年に話しかけた。声だけ聞けば、幼い孫に飴玉を差し出す老人のようである。
少年は怯えた様子もなく泰然と頷いた。私にもちらりと目線をくれたが、興味を抱いてはいないらしい。部屋にもうひとりいるのを認識した、というだけの様子だった。
彼は小さな歩幅で中央のテーブルへと向かい、許しも得ぬ前から当然のように着席した。床に届かない足を、振り子のようにぷらぷらと揺らしている。
しばらくして、使用人が菓子と紅茶を運んできた。まともな食器が使われているのを見る限り、警備の若者は無事に給仕役に引き継げたらしい。
出てきたのは名も知らぬ洋菓子だ。ココア色の生地の上に、重そうなクリームが上品に乗っている。いつも用意がいいのか、それとも今日この少年が訪ねてくるのを知っていて準備していたのか。組長の表情から読み取ろうと目を向けたが、彼は少しも変わらず、ただ少年を眺めてニコニコと笑っているばかりだった。
少年は用意されたナイフとフォークをしばらく見つめてから、手づかみで食べることを選択した。マナーも品位もあったものではないが、不思議と汚らしいとは感じない。まるで小鳥がパンくずを啄むように見えたからだろうか。
零れそうになったクリームを舐め取る舌は白くなく、血の通った色をしていた。当たり前のことなのだが、妙な感動を覚える自分がそこにいた。
「美味しい?」
食べるのに忙しいのか、少年は返事をしない。無視されたというのに、組長はただ満足そうに食事風景を眺めていた。
湯気の落ち着いてきた紅茶に、少年は角砂糖をひとつ落とした。サイコロでも振るように放られた砂糖は少し跳ねて、白いテーブルクロスと彼の胸元に小さな染みを作った。
「なあきみ、流石に失礼だろう」
見かねて声を上げた。この哀れな少年が組長の気まぐれなスイッチを押してしまう前にどうにかしてやらなくては、と思ったのもある。
しかし嗜められたのは私の方だった。組長は目線を少年に向けたまま、ひらひらと私の方へ片手を振った。いいから黙って見ていなさい、そう言っているのだった。
盛大に食べかすを撒き散らして、少年は食事を終えた。
テーブルを派手に汚されたことに腹を立てる様子もなく、組長はにこやかな笑みを浮かべたまま、少年にハンカチを差し出した。少年はこくりとひとつ頷いて受け取ると、小さな口元を何度か拭った。
ハンカチの間から、二つ折りにされた手のひら大の紙が滑り落ちた。テーブルに落ちたそれを少年は拾い上げて、中身を見た。
「いつまで?」
それが少年の発した第一声だった。声変わりをする途中でぱったり成長を止めてしまったような、大人と子供の境目に位置する不思議な響きをしている。ふわふわとして重力を持たない、何か大切なものが欠けている声。それが非現実的な容姿の少年の口から放たれる様は、まるで悪夢の一部分を切り取ったようだった。
「急ぎじゃないけど……あんまり悠長にしていると色々なところから怒られるから、一週間以内で。期限さえ守ってもらえれば、タイミングは任せるよ」
組長の言葉に、少年はまたひとつ頷いた。紙切れをズボンのポケットに雑に突っ込むと、ぴょんと飛び降りるように椅子から立ち上がる。
「いいかい、任務中はいつものホテルを使うんだよ。くれぐれも迷子にならないで」
聞いているのかいないのか、少年はこくこくと機械的に首を動かして、ごちそうさまも言わずにそのまま背を向けて部屋を出ていった。
出ていく直前、少年はちらりと私のことを見た。そうだもうひとりいたんだった、とでも言いたげなその瞳は、やや赤みがかった薄い灰紫色をしていた。
まるで血を飲んだアメジストのようだ。ふと頭に浮かんだ形容が正しかったことを、私は数カ月後に知ることになる。彼に葬られた、犠牲者の惨憺たる死体によって。
†††
「……なんなんですか、あの子供は」
私の反応を見るなり、組長は可笑しそうに笑った。
「最近新しく雇ったデリーターだよ」
可愛いでしょう、気に入ってくれた? とでも言わんばかりの緩んだ声に、私はあからさまな溜息を返した。
「デリーターってことは、殺しが専門ですか。あんな子供に任せられるとはとても思えませんが」
刃物を見ただけで逃げ出しそうな頼りない警備員に、年端もいかない、目上の人間への礼儀も知らない殺し屋。神津組もいよいよ傾いてきたか。
「ああ見えて彼、二十一歳だ。立派な成人男子だよ」
「さすがにその冗談はないでしょう。どう見ても義務教育すら終えていない年頃に見えましたが」
容姿が好みだったからスカウトしたと正直に話してくれた方がまだいい。しかし組長は大真面目だった。
「本当だよ。病気の影響で体が育たなかったらしい」
「病気?」
「見ての通り、彼は生まれつき色素が欠落しているのだけど。詳しくは知らないが、それと関係のある免疫疾患らしい。……ああ、うつるものではないから安心するといい」
つまり、散歩に出かけたらちょっと珍しい色をした小動物を見かけたので拾ってきた、そんなところか。元いた場所に返してきなさいと言える者は生憎この組織には存在しない。気に入ったものは人であろうが物であろうが、とりあえずなんでも手元に置きたがるのは彼の悪い癖だ。
「デリーターが最後に消さなければならないものはなんだと思う?」
出来の悪い生徒に問いかけるように彼は言った。
求められている答えはわかっていたが、あまり言葉にしたくなかった。口を噤んでいると、彼は歩み寄ってきて、私の肩にそっと触れた。そこに込められていたのは慈しみでも憐れみでもなかった。正解を教えてあげようという静かな圧力だった。
「最後に消さなければならないもの、それはデリーター自身の存在だ。私たちだって殺しは最終手段にしたい、人ひとりがこの世から永遠に消えるというのは大事だからね……腐ってはいるが一応法治国家だ、警察だって黙っちゃいない。だから組織の殺しを一手に引き受けるデリーターには、最終的には罪を全部背負った上で消えてもらわなきゃならない」
人を呪わば穴二つ、というわけだ。どこかしみじみと彼は言った。他人に墓穴を掘らせるばかりで自分はその下に埋まることなど考えもしない彼に最も不似合いな言葉だと思った。思ったが、口にはしなかった。
「保って三年。あの子の残り時間ね」
「そんなに深刻な病気なんですか」
「免疫がないに等しいから、人より何倍も病にかかる。すでに繰り返した炎症で左耳はほとんど聞こえていないし、心肺機能にもだいぶ損傷があるとか。風邪でも拗らせると死んじゃうから普段は病院で暮らしていて、仕事のときだけこうして呼び出しているというわけ」
先程私は少年の左後ろに立っていた。話しかけても返事のひとつもなかったのは、無視されたのではなく、聞こえていなかったからかもしれない。
「デリーターは殺しのプロだから、彼等の存在を処分するのが一番厄介だ。デリーターを消すために雇ったデリーターが尽くやられて、最後は組織ごと乗っ取られてしまった……なんて、映画の中だけの話じゃないんだよ」
その点あの子はいい、と彼は続ける。
「あの子は自らの掃除まで完遂してくれることが約束されている。こんなに扱いやすいことはないよ」
わかっていた。ここはそういう世界だ。私に変えられることなど、何ひとつない。
「なんだか、哀れですね」
「そうかい? あの子たち……ああ、あの子には双子の兄がいるんだけど。あの子たちは長く親に虐待されて育ったんだ。運悪く、いや運良くかな? 抗争に巻き込まれて死んだ親の代わりに、私が引き取って適切な衣食住や医療を与えた」
そんなに悪い話じゃないだろう? 彼は笑って言った。
彼は本気でそう思っている。組織の殺し屋になることを、使い潰されて死ぬことを「適切だ」と、心の底から。
「彼が自らデリーターになることを望んだんですか」
「いいや、望んだのは神様だね。彼の狙撃の才能と間合いを読む力は天性のものだ。一度仕事を見学したが、惚れ惚れするような手腕だった。人を殺すために生まれてきたような子なんだよ」
親を殺してしまわなかったのが不思議なくらいだ。彼はそう呟きながらドアを開けると、ちょうど通りかかった者に部屋の掃除を言いつけた。
「本当はもう一人、天賦の才に恵まれた子を知ってるんだけど。高待遇を示してうちの専属にならないかと何度誘っても、のらりくらりと逃げられてばかりでね」
ふと思い出したように彼は言った。
「例の情報屋ですか」
「そう。しばらく静かだったんだけど、最近また動き出したみたいでね」
組織外の人間についてあまり知らない私でも、その存在は噂程度に知っていた。優秀な情報屋ではあるがそもそも依頼を受けるかどうかは気まぐれ、何を考えているのか、何が目的でこの街に居座り続けているのかはっきりせず、まるで亡霊のようで気味が悪いとも。
「あの子はいい……特に目がいいね」
眼裏に思い浮かべるように、彼は目を閉じて言う。
「夜が明けたら世界の全てがひっくり返っていたとしても決して揺らがない、命尽きる瞬間まで光を失わない、そういう強い目だ。……まったく、もう少し早く出会えていたなら、あんなどうしようもない男の弟子になどならなかっただろうに」
「結局また見た目ですか。本当にいい加減にしないと部下に呆れられますよ」
そういえばあの情報屋も変わった風体をしていたように思う。見世物小屋じゃあるまいし、そう奇抜な者ばかり集められても困る。
「きみがその呆れた部下の筆頭というわけか」
いつも見た目だけで気に入って側に置くわけじゃない、と彼は笑った。
「意思の力だ。あの子の意思が、私の中に響いたんだよ」
「でも振られたんでしょう?」
それを言うな、と彼は溜息を吐いた。
「断られてもしつこく誘い続けたらどうなったと思う?」思い出し笑いに肩を震わせながら彼は言った。
「先日私が賭けポーカーで大敗したことが裏社会中に広まったよ。おかげで大損だ」
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