昭和38年(1963)3月31日の夕刻、台東区にある建築業者の長男、村越吉展ちゃん(4歳)が、入谷南公園から忽然と姿を消した。
両親は警察に通報し、捜索が始まった。4月2日の夕刻、男から身代金50万円を要求する電話があった。
7日の夜、警察は犯人逮捕のために捕縛体制を整えて(つもりだった)犯人が現れるのを待った。吉展ちゃんの母親が、犯人が指定した場所に金を持って行くのだが、肝心の警察は身代金受け渡し場所を間違えて犯人と遭遇しながらも取り逃がしてしまう。
身代金を奪われ、吉展ちゃんは返らないという最悪の事態となった。警察は世論による激しい罵倒を浴びながら必死の犯人追求を開始した。
犯人の手がかりは誘拐後に9回もかかってきた電話の録音音声だった。男の声は北関東から東北にかけて使われている特徴ある訛りだった。
捜査本部は録音音声をラジオで全国に放送し、協力を呼びかけた。捜査線上に浮かび上がったのが元時計修理工、小原保(当時30歳)だった。
下谷北署捜査本部は、5月20日に小原を横領の罪で別件逮捕し、誘拐事件について追求した。小原は犯行を否認してアリバイを主張した。捜査本部は小原を誘拐犯と特定できないまま釈放した。
築地署が賽銭泥棒の罪で再逮捕すると警視庁は好機とばかりに2ヶ月の拘留期間で小原を取り調べたが、事件当日に故郷の福島にいたというアリバイを崩せずにまたも釈放せざるをえなかった。
2年後の昭和40年(1965)、警視庁捜査本部はFBI方式をとって、捜査員は4人の専門捜査員のみとなった(専従者を置くってことね)。
小原容疑者は自分の誘拐犯としての噂が広がったために雇用するところがなく、結局は窃盗を働くことになり、前橋刑務所に服役する。
警視庁は小原の取り調べを平塚八兵衛刑事に担当させ、小原を東京拘置所に移送。東京拘置所内での平塚の温情的(僕は疑問)な取り調べによって嘘がつけなくなって、ついには福島にいたという事件当時のアリバイも崩れ、自供を始めた。
小原の自供から、誘拐後、身代金の受け取り前に吉展ちゃんを殺害し、南千住の円通寺の墓石の下に隠したことがわかり、捜査員が円通寺の墓から吉展ちゃんの遺体を発見した。2年3ヶ月ぶりの解決となった。
昭和42年(1967年)に最高裁で小原の死刑が確定。昭和46年(1971)12月、「真人間になって生まれ変わります」という書置きを遺して小原は処刑台の露と消えた。
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