2008年幕張「能天気な僕は数年後に苦しむ」

無職紀行(第3話)

消雲堂

小説

4,754文字

一昨昨日は、船橋職安に行って“職探し”をした。一応スーツを着込んでいるが実は本気で職を見つける気はない。今のところはね。独立したいからさ。適当にやって自由を謳歌して身体壊すってのがいいじゃんかねえ。最終的には職業訓練校にでも行って介護なんぞを勉強してみようかなと考えているからだ。

 

職安に着くと、不況なんだねえ求職者がいっぱい・・・。無言で「職検索PC」の画面に向かう姿がネット難民のよう。この人たちに比べりゃ僕はなんとまあ呑気というか厳しさ知らずというか・・・もともと生活なんてどうでもいいってこと。困ったときに慌てればいいさ。

 

受付で職検索PCの番号票をもらう。その番号のPCを使って職探しをするのだ。技術、営業、販売といったカテゴリーで検索すると・・・「59歳以下学歴不問未経験可」という仕事があるわあるわ・・・50歳以上の就職は厳しいというけれどこの募集数はいったい何だろう? そうはいってもその職種というか該当業務は「IT技術者、営業管理職・・・」といったものばかりで、がっかり。僕は無責任でいい加減にやっても許してやるというような仕事じゃないと嫌なのよね。

 

とりあえずは、「これは」という会社の求人票を印刷して持ち帰る。ちなみに職安での求人票の印刷は5枚までとなっている。ケチだねえ。

 

職安を出て、本当の目的地に向かう。後藤明正さんの小説「首塚の上のアドバルーン」のテーマとなっている“馬加康胤(まくわりやすたね)の首塚”と後藤さんが住んでいた幕張ファミールハイツを見に行くのだ。

 

「首塚の上のアドバルーン」は後藤さんが幕張に移り住んだときのことを書いたものだ。彼が住んでいたのはJR幕張駅近く(歩いて10分くらい?)の幕張ファミールハイツの14階。かすかに三浦半島も見えるという眺望のよいベランダから周囲を眺めると再開発中の幕張の街並みが見える。そして・・・その向こうにこんもりと繁った丘のようなものも見えたのだった。これが馬加康胤の首塚がある大須賀山(標高15メートル)だった。

 

以前からこの首塚に興味があった僕は、その首塚を見て後藤さんの小説の雰囲気を味わいたいと思っていた。京成船橋駅から幕張本郷駅に向かう。見学コースは事前に2つのパターンを想定していた。ひとつは幕張駅から後藤さんが書いている散歩コース通りに歩くコース(幕張駅から幕張ファミールハイツ~大須賀山~首塚を見た後、幕張本郷駅に至る)。もうひとつは幕張本郷から歩いて大須賀山~首塚を見た後、幕張ファミールハイツ~幕張駅に至るコースだ。

 

電車が幕張本郷に到着する際に、スラリと長いきれいな肉付きの脚を持った女子高生だか女子中生だかが目の前を出口に向かって歩いて行った。「おお、美脚ってのはああいうのを言うんだねえ」と見惚れていたら僕も降車してしまった。断っておくが僕はロリコンではない。どちらかというと年増好きなのである。

 

その女子高生だか女子中生だかが海浜幕張行きのバスに乗ったのを横目で見ながら、僕は徒歩で幕張方面に向かう。馬加康胤の首塚は幕張本郷駅と幕張駅の中間ぐらいにあるのだ。

 

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馬加康胤(千葉康胤)というのは・・・。1398年?から1456年まで生きた室町時代の武将で、千葉氏は、時代は異なるが平将門と同じ桓武天皇を元とする桓武平氏である。平氏もこのように桓武天皇からのもののほか、仁明天皇からの仁明平氏、文得天皇からの文得平氏、光孝天皇からの光孝平氏の4系統があるが、武将として活躍するのは平清盛や北条時政などを輩出する桓武平氏である。桓武平氏でも平将門と北条のように坂東を拠点とした平氏を坂東平氏とするようである。ほかに三浦、千葉、上総、秩父、長尾・・・などが坂東平氏である。

 

ちなみに清和天皇を元とする系統が源氏であるが、頼朝の妻となったのは北条時政の娘、政子である。北条は平氏だが、頼朝が平氏を討つために協力したのは面白い。坂東平氏に対して新田、足利、佐竹、武田、小笠原、里見などが坂東源氏だ。

 

馬加康胤は千葉介(千葉氏の総領の呼称)である千葉満胤の子だが所謂妾腹で、享徳の乱でクーデターを起こして千葉宗家を滅ぼして千葉氏19代当主となる。康胤は馬加村(幕張)に居を構えていたことで馬加姓を名乗っていた。またまたちなみに、その272年前、伊豆で北条とともに挙兵した頼朝が箱根(石橋山の戦い)で大敗して船で海路房総に脱出し千葉常胤(千葉氏2代目)に協力を要請。千葉氏だけでなく坂東武将の多くが頼朝に協力して平氏を滅ぼしたのであった。房総で体制を建て直したときに幕張に館を構えた。館に幕を張ったことで幕張となったのか?

 

おっと脱線。

 

千葉宗家である千葉胤直と弟の賢胤を滅ぼして千葉氏19代当主となったあと、佐倉の将門山に城を築きます。しかし翌年に東常緑(とうのつねより:平常緑たいらのつねより 歌人であるらしい)率いる「反馬加派連合軍」が康胤を攻める。常緑は、その時期に将軍であった京都の足利義政(応仁の乱を引き起こす馬鹿将軍)に康胤追討の命を受けて錦の御旗を掲げている。連合軍には長尾、上杉、康胤に滅ぼされた千葉宗家の胤直の弟の息子(なんじゃそりゃ)がいた。

 

哀れ康胤は上総国分寺があった市原まで逃れるが、とうとう追い詰められて自殺してしまう。その首は京都まで送られ晒されるが、康胤の家臣たちが首を盗み出して、幕張まで運び首塚を建てるのである。

 

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住宅街をとぼとぼと歩いていく。スーツを着ているので歩きにくい。仕事をしていたときには営業だったので歩き慣れているはずなのに、無職期間が長かったからかもう足腰が痛くなってきた。驚きである。

 

首塚はどこなのか? 周囲は高層マンションばかり。GPSの表示地図もよく見ると大雑把なので目的地がはっきりとわからない。困った・・・。と、そこにこんもりとした森が見える。あれか? あれが首塚のある大須賀山なのか?

 

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何故かここから”ですます調”。

 

後藤明生さんは既に故人です。後藤さんは85年に習志野の谷津遊園ハイツから幕張ファミールハイツに転居。翌年から「首塚の上のアドバルーン」のうち「ピラミッドトーク」などをシリーズとして発表していきます。その後4年間にシリーズとして発表したものを89年に1冊にまとめて刊行します。同作品は第40回芸術選奨文部大臣賞受賞しています。

 

その後、近畿大学文芸学部教授となったため90年に大阪に居を移しますが、99年8月2日に肺がんによって67歳で亡くなっています。後藤さんは幕張で「首塚~」を書いている時期に虎ノ門病院で食道がんの手術をしています。

 

僕は講談社文芸文庫になっている、この「首塚の上のアドバルーン」と「挟み撃ち」の2作品しか読んだことはありません。挟み撃ちは、コートを探すだけという何だかよくわからない内容ですが、カフカのような幻想純文学の傑作だと思います。でも僕は難解な挟み撃ちよりは“ややわかりやすい”この「首塚」のほうが好きなのです。わかりやすいといっても、今のブログ記事のような・・・単なるエッセイのようなものだったのものがシリーズ化(当人はシリーズと考えていたかどうかは知りません。おそらく考えてはいなかったのだと思います)を経て次第にまとまっていったという感じです。小説ではなく単なるエッセイのようなものと理解しなければ、この作品は難解といえば難解でもあるのです。

 

「首塚~」は、後藤さんが幕張に引っ越してきた際の他愛のない出来事から始まります。文章はすべて「語り」で進んでいきます。語りで書かれることで全体が軽くなり、単なるエッセイにしか見えない・・・ところが違うのです。

 

転居祝いにもらったピラミッド型の時計「ピラミッドトーク」は、ピラミッドのてっぺんを押すことで人工的な女性の声が「何時何分です」と答えるもので(作者はそれを“お告げ”と呼びます)作者がピラミッドのてっぺんを押して時間を確認する時間が当然まちまちであって、作者は自分の予想する時間と異なることからなぜか気になって仕方がない。

 

それからなぜ一戸建てではなくマンションに移り住むのかということをドストエフスキーが20回アパートを転居していることに触れて、それがドストエフスキーの作品に関連していることを述べたり、ベンヤミンの「19世紀パリの住宅は一種のケース」であると書いていたことにも触れて、「つま私はエレベーターつきの人間の入れものを求めたのである」と結論する。それから近所を散歩し、古書店に立ち寄って店番を務める女性の事務的な話し方を思い出したり・・・近景描写といった雰囲気の1編でしかなかったものが、2回目の「黄色い箱」から近景描写が徐々に雑多な情報がごちゃまぜになりながらもひとつの作品として成り立っていくという妙な作品なのです。

 

初回のピラミッドトークでも「視線と水平のかなたに小高い丘のようなものが二つ見える」と僅かに触れてはいますが、まさかこの「小高い丘のようなもの」が主題になっていくとは誰もが思いません。二話目の「黄色い箱」から作者は14階のベランダの窓から見える“こんもり繁った丘のようなもの”に対して異常なる興味を持ち始めます。

 

作者は散歩しながらその小高い丘を散策します。小高い丘は大須賀山という小山で、その山には馬加康胤の首塚があったのでした。三話目の「変化する風景」では14階から見える近景をパウル・クレーの絵に例えて池袋西武美術館でクレー展を見た話から画集に触れて・・・画集中の「建造中のL広場」が、87年の14階ベランダから見た千葉街道に面した黄色い箱と首塚にそっくりだと言ったり・・・。図書館で首塚を調べようかと思ったら、代わりに「太平記」を読み始め新田義貞の首塚に触れて、京都で偶然、義貞の首塚を発見したことなど・・・というようにあちこち食い散らかした感じに話が進んでいきます。

 

作者は「偶然性の探求というのが僕の小説のテーマの一つ」と言っています。ひとつのテーマで話が進むのかと思えば、脱線しつつ・・・さまざまな引用が行間を埋めていきます。幕張と言う土地に移り住んで、マンションの14階に住むことになる。そこから外を眺めると小高い丘というか森が見える。それは馬加康胤という武将の首塚であった。首塚の主・・・康胤のことを調べようとしたら、首塚といえば、自分は10年前に京都で新田義貞の首塚を発見したことがある。それを思い出して太平記を読み出す。それからは新田義貞のくだりが続き・・・。途中食道がん手術で空白。1年ぶりに書き始めると・・・。

 

ええい、ここまで書いてきて、文章力がない僕に苛立ってきました。文章のプロと違って、まとまることを知らない僕の文章は自分で書いていてもうんざりするのです。この項はここまでにしましょう。とにかく、「首塚~」は、最終話の「首塚の上のアドバルーン」でまとまりを見せるのです。

2012年11月13日公開

作品集『無職紀行』第3話 (全10話)

© 2012 消雲堂

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