重畳家の災難

飽田 彬

小説

3,680文字

針飛び『ワルキューレの騎行』

 ちくちくムズ痒い膝丈の多年草群落をかきわけると、黒光りする板の間が姿をあらわす。幅百二十五センチ、前方はるかに果てしない回廊である。片側は草いきれに混じって喧噪と猥雑の気配、もういっぽうは磨りガラス窓と合板ドアが交互に連なっている。淫蕩な風にうなじを嬲られつつ回顧的なドアノブのひとつに触れると、キキィッと啼いて、足首まで沈む深緋の絨毯の間に誘われる。薄暗い電灯の下、埃っぽい部屋は無人だ。音源もないのにトリスタン和音が揺蕩っている。部屋の中央にはのんびり揺れる安楽椅子。殺風景な壁の一隅には質朴な戸口が待ち受けている。深緋の沼を漕ぎ渡り、手をかけてみると、それは驚愕のベニヤ板。ばふばふ撓みながら向こう側へ開く。

そこは西日眩しい生活感に溢れた八畳間。訪れるたびに表情のはっきりしない人たちが団欒しているけれど、きょうも五人ほどでちゃぶ台を囲んでいる。どうやら六年生のときの同級生もいるようだ。学芸会でブリュンヒルデを演じた女の子だった。もう小学生ではないらしい。

蜃気楼のような老人がこちらに気づき、鷹揚に手招きする。「こっちさ来い、ほれ、いっしょに坐れ」。ほかの人たちもそれぞれに声をかけてくれる。ブリュンヒルデが横の座布団をぽてぽて叩きながら、はしゃいでいる。報われた心持ちで彼女のとなりに腰を下ろす。

「もちろん、現在の住まいじゃない」もったいぶった声音で老人が語り出す。「子どものころ住んだ憶えもないな」。
「思い出のなかの誰かさんの家ってわけでもないんだよ」舌っ足らずな幼児が口を挟む。「でも来ちゃうのよねえ何度も、ここ」中年女性らしい幅広い声が重なる。
「けどさ、よくある夢占いなんか信じないよね、うちら」ブリュンヒルデは声と口調だけ六年生のままだ。
「当たり前だ、そったらもん」老人が吐き捨てる。
「金運だの仕事運だの健康だの恋愛だの、関係ないもんねえ、ぜんぜん」中年女性がゆったり笑う。
「関係ねぇわ、そりゃあ」茶をずるずる啜りながら、ガテン系らしい男性が頷く。
「あっ、お茶あげてなかったよ、まだ」ブリュンヒルデがわたしを指さし笑う。「あら、ほんとだ」中年女性が新しい湯呑みを用意するため、よっこらしょと立ち上がる。
「あの、どうぞ、おかまいなく」。
「ここは浅薄な象徴や暗喩でもないぞ、なぜなら……」語りはじめた老人を遮り、幼児がぴょんぴょん飛び跳ねながら叫ぶ。「誰か来たよ、ほら、声が聞こえる」。
「ちょっくら見て来い」ガテン系が言いつける。

ほどなく幼児に導かれ、十六名の防護服を着た男たちがどやどや部屋になだれ込む。あっというまに八畳間は人口過多、ちゃぶ台を囲んでいた全員が窮屈そうに立ちあがる。
「んちゃぁ、おくつろぎのところ失礼しゃっす」職長らしき男がマスク越しに胴間声を張り上げる。「やかましいな」ほとんど顔がくっつきそうな距離でガテン系が舌打ちする。「さぁせんっ、元請けに言われて来たんすけど」「なんだ下請けか」「さぁせんっ、気合い入れてやりぁす」。安全靴の踵を打ち鳴らすと、男たちは円陣を組み雄叫びのようなヒヤリハット報告、ついで入念な安全衛生体操をはじめる。彼らの動きがあまりに放埒なので、わたしたちは壁ぎわに退き立ち尽くす。
「ぶほ、あちゃちゃぁっっっ」立ったまま茶を飲もうとしたガテン系が顔面に熱い茶を浴び咆哮する。勢い余った職長の手がガテン系の湯呑みを振り払ったのだ。「まだお茶あげてなかったわね」中年女性が肉厚な肩でわたしの肩をつつく。「おかまいなく」「この変てこりんな体操いつ終わるのぉ」「メッチャ暑苦しいわ」「なにしに来たんだべな」「なんの用かしらねぇ」「あっ、また誰か来たよ、ほら」。

回廊の彼方で怒濤が轟き、濁流が絨毯の間を呑み込み、赤銅色の集団が八畳間に打ち寄せた。監督、選手、スタッフら総勢三十七名のサッカーチームだ。「ここだここだ、間に合ったぞ」「ひゃぁ、試合前なのに汗びっしょり」「アップの手間はぶけたな」「おれもう、のどカラッカラ」「すぐピッチ練習だぞぉ」「無事にたどり着いてホッとしたぁ」「誰のせいで道に迷ったんだよ」「カーナビがウソつくもんだから」「なに言ってんだ、おまえ」「まぁまぁ、とにかく間に合ったんだから」「あの、監督ぅ、マジここでまちがいないんすかぁ」。全員が一瞬きょとんとし、互いの顔を不審げに窺う。
「え……と」沈黙を破り、長身痩躯の監督がおずおず「こちら本日第一次ラウンド戦……のド……ーム、あっ」絶句し頭を抱えると、チーム全員いっせいに頽れ、嘆声とともに両拳で畳を乱打する者、へらへら笑いながら丸太のような足をばたつかせる者、虚空を睨みすえ称名を唱えだす者。
「あららっ、没収試合かぁ」火傷した唇を気に病みながらガテン系が憫笑する。「え、なになにぃ、このひとたち、サッカーできないのぉ」「場所まちがえたんなら失格だべさ」「遅刻で不戦敗でしょ」「もう間に合わないのぉ、メダル無理かぁ」「自業自得よね、ダッさぁ」「これこれ、そんな言い方しないの」「お取り込みのとこ、さぁせん、ここらへん、べろっと空けてもらっていっすかぁ、作業はじめるんで」。

ものものしい機械をがちゃつかせた作業員たちがちゃぶ台を壁ぎわへ寄せ、八畳間の中央一メートル四方ほど刳り貫き、凄まじい轟音をたてて掘削作業を開始する。部屋中あちこち波打ち、壁がぐらぐら踊り出す。

「なんか畳ぶよぶよ凹むぞ」「ジャンプして着地するとカダラ沈むね、ほら」「やめなさい」「めまいする、中風だべか」「立ってられねぇわ」「天井も揺れてるよ」「あは、頸までめりこんじゃった、あはは」「このたびはどうも、お世話様でございます、お邪魔させて頂きます」ベニヤをばふばふさせ、組織委員が入って来た。「どうもども、たいへんお世話様でございます、恐縮させて頂きます」「なんだべ」「おもてなしさせて頂きます、関係者全員、外に待たせて頂いております」「なにやるんだい」「音楽会でございます」「演歌まつりかい」「カラオケ大会だべさ」「アニソンがいいな」「声優さん来てるのかしら」「ライブでしょ、オールスタンディングの」「オーケストラでございますよ、指揮者はじめ高名なメンバーでございます」「どんな曲目やるの」「ワーグナーだそうで」「四管編成じゃないか」「さようで」「それって人数どんだけぇ」「総勢九十五名でございます」。

掘削作業の轟音が激しさを増す。床下を往来する作業員の動きに合わせて部屋が豪快に浮沈する。油断していた全員が舌を噛み悶絶する。

押し入れの襖を突き破って作業員がひとり転がり出てきた。「あれれっ、床下掘ってたら、ここに出ちゃった」。もうひとり転がり出る「なんでだぁ」。さらにまたひとり「この押し入れ、あちこち繋がってるわ」。めりめり、めりめり板の間が軋み、回廊の彼方から押し入れを通り抜け四管編成のオーケストラがやって来た。

八畳間の壁三面はほぼ崩落、残る一面も大きく撓んでベニヤが何処かへ飛び去った。天井も不吉な予兆に呻吟するなか、作業員たちが忙しそうに床下と押し入れを出入りする。呆けたように眺めていたサッカーチームが、ボランティアとして夢と感動を共有するため作業に参加する。押し入れと室内を幾度も往復し、脂漏性の古畳を大量に運び込み、そこらへんにいたひとりを捕まえ畳の上に横たえると、その上に妄執にまみれた畳を重ね、その上にまたひとり乗せ、さらにその上に畳を積み重ね、そしてさらにまたひとり……古畳と人類のミルフィーユが天井を突き破り、燦然と輝くモニュメントとして聳える。

「接収、接収」喚きつつ作業員をかきのけ押し入れから転がり出た司令官が、上空のヘリ軍団の爆音に負けじと破鐘声を張り上げる「これより総員十一万千三百七十九名、此処に駐屯する。ただちに人数分の兵糧を用意願いたい。女将はどこか女将は」「そったらこと言われたって、米もオカズもいきなりは無理だよ、はんかくさいね」「えばりんぼだね、このおじさん」「なんだべなぁ、どいつもこいつも」。

「もう還りましょう、いっしょに」ブリュンヒルデが耳打ちする。妖しい吐息と懐旧の旋律。潰えた八畳間をあとに、手に手をとり艶やかな回廊へ逃れる。

片側から砂混じりの淫猥な微風、もういっぽうは磨りガラスと合板ドア。背中から途切れとぎれのささめきが聞こえる。「だらだら垂れ流しちゃって」「いい気だな」「真夜中の公衆便所」「承認欲求満たされたつもり」「どこのだれべえが」。

往けどもいけども果てしない回廊。曲がり角があったり微妙にカーブしていれば四囲を巡っていると判断できるのに。このさき何が待つだろう。おや、ふいに気温が下がったぞ。周囲の佇まいが変化してきた。おやおや、どうやら森林地帯。暗緑色の冷気が足もとを這い、鞭のような枝が頬を打つ。ブリュンヒルデがくつくつ笑う。慣れ親しんだ樹相に濃霧がまといつき、精霊が彼方で手招きしている。これよりは、土地、川、樹木、それら本来の名前を朗誦しつつ歩むこととしよう。すべて、かの内在律に従うまで。

2021年7月11日公開

© 2021 飽田 彬

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