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重畳回廊

飽田 彬

針とびワルキューレの騎行

小説

4,410文字

ちくちくムズ痒い膝丈の多年草群落をかきわけると垢染みた古畳が姿を現す。幅およそ一間、前方はるか果てしない回廊である。まっすぐ歩くと目眩を起こしそうだ。右側は草いきれに混じり喧噪と猥雑の気配、左の土壁には磨りガラス窓と合板ドアが交互につらなっている。淫蕩な風にうなじを嬲られつつドアノブのひとつにそっと触れると、思いがけず足首まで沈む深緋絨毯の部屋に引きずり込まれる。暗黄色の電灯のもと埃っぽい室内は無人だ。音源もないのにトリスタン和音が揺蕩っている。部屋の中央にはのんびり揺れる安楽椅子。殺風景な壁の一隅には奥の間へいざなう質朴なドアが待ち受けている。深緋の沼を漕ぎ渡り手をかけてみると、それは驚愕のベニヤ板ドア。案の定ばふばふ撓みながら向こう側へ開く。

 

そこは西陽まぶしい生活感に溢れた六畳間。訪れるたびにあやふやな表情の人たちが団欒しているけれど、きょうも五人ほどでちゃぶ台を囲んでいる。学芸会でブリュンヒルデを演じた同級生もいるようだ。どうやらもう小学生ではないらしい。

蜃気楼めいた老人がこちらに気づき鷹揚に手招きする。「ほれほれ、こっちさ来い、そこさ座れ」ほかの人たちもそれぞれに声をかけてくれる。ブリュンヒルデは傍らの座布団を平手でぽてぽて叩きながら微笑んでいる。なんとなく報われた心持ちで彼女のとなりに腰を下ろす。
「もちろん現在の住まいじゃない」もったいぶった調子で老人が語りはじめる。「子どものころ暮らした憶えもないな」
「思い出のなかのだれかさんの家ってわけでもないんだよね」舌っ足らずな幼児が口を挟む。「でも来ちゃうのよねえ何度も、ここ」中年女性らしい奥行きのある声が重なる。
「けどさ、下世話な夢分析なんか信じないよね、うちら」ブリュンヒルデは声と口調だけ小学六年生のままだ。
「当たり前じゃ」老人が言下に吐き捨てる。
「あたしらにゃ関係ないねえ、そったらもん」中年女性がゆったり笑う。
「関係ねえなあ、そりゃ」ガテン系らしい筋骨隆々の男性がずるずる茶を啜りながら頷く。
「あっ、お茶あげてなかったよ、まだ」ブリュンヒルデがわたしを指さし、くつくつ笑う。「あら、ほんとだ」中年女性がよっこらしょと立ち上がり新しい湯呑みを用意する。
「あの、どうぞ、おかまいなく」
「わしら無粋な諷喩でもないぞ、なぜなら……」語りだした老人を遮るように幼児がぴょんぴょんとび跳ねながら叫ぶ。「だれか来たよ、ほら、声が聞こえる」
「ちょっくら見てこい、おまえ」ガテン系が言いつける。

ほどなく幼児に導かれ十六名の防護服の男たちがどやどや部屋になだれ込む。あっというまに六畳間は人口爆発、ちゃぶ台を囲んでいた面々は迷惑そうに立ちあがる。
「んちゃあ、おくつろぎのところ失礼しゃあす」リーダーらしき男が防護マスク越しに胴間声を張り上げる。「やかましいな」ほとんど顔がくっつきそうなガテン系が舌打ちする。「さぁせん、元請けに言われて来たんすけどお」「なんだ下請けか」「さぁせん、気合い入れてやりぁすんで」防護服の男たちはおもむろに円陣を組み安全靴の踵を打ち鳴らすと雄叫びのようなヒヤリハット報告、ついで安全衛生体操に取りかかる。あまりに放恣なその動作にわたしたちは大慌てで壁に貼りつく。
「ぶほっ、あちゃちゃぁっっっ!!!」不自然な体勢のまま茶を飲もうとしたガテン系が顔面に熱い茶を浴び咆哮する。勢い余ったリーダーの腕がガテン系の湯呑みを振り払ったのだ。「お茶あげてなかったわねえ、まだ」中年女性の悠然たる肩がわたしをつつく。「どうぞ、おかまいなく」「ねえ、この変てこりんな体操いつ終わるのお」「メチャ暑苦しい連中よね」「そもそもなにしに来たんじゃろ、こいつら」「ほんと、なんの用だべな」「あっ、まただれか来たみたいだよ、ほらあ」

回廊の彼方で怒濤が轟いたと思うまもなく汚泥と汗と鬱屈の濁流が深緋の沼を呑み込み、赤銅色の団塊が六畳間へ打ち寄せる。選手、監督、スタッフら総勢四十九名から成るサッカーチームである。「ここだここだ、間に合ったぞ」「ひゃあ、試合前だってのに汗びっしょり」「アップの手間はぶけたね」「おれもう喉カラッカラ」「すぐピッチ練習はじめようぜ」「無事にたどり着いてホッとひと安心だ」「ばか、だれのせいで道に迷ったんだよ」「だってカーナビがウソつくもんだからさ」「なに言ってんだ、おまえ」「まあまあ、とにかく間に合ったんだから」「試合に集中しようぜ」「あのぅちょっと監督ぅ、マジここでまちがいないんすかぁ」全員が一瞬きょとんと周囲を見渡し、互いの顔を不審げに覗き込む。
「こほん」静寂を打ち破り、長身痩躯の監督がおずおず「え……っと、つかぬことを伺いますが、こちら第一次ラウンド戦会場のスタ……ジ……アっ」唐突に絶句し頭を抱えたとたん、ファンファーレとともにチーム全員いっせいにその場に頽れ落ちる。嘆声混じりに両拳で畳を乱打する者、へらへら笑いながら丸太のような足をばたつかせる者、虚空を睨みすえ静かに称名を唱えだす者……。
「あらららっ、失格かよ」火傷した顔面を気に病みつつガテン系が憫笑する。「え、なになにい、このひとたち、サッカーできないのお」「場所まちがえたんだから不戦敗だべさ」「遅刻で没収試合てことなんじゃない」「もう間に合わないんだあ、メダル無理だね」「自業自得じゃない、ダッさあ」「これこれ、そんな言い方しないの」「あのう、お取り込み中のとこさぁせん、ここらへん、べろっと空けてもらっていっすかあ、そろそろ作業はじめたいんすけどお」

仰々しい機械をがちゃつかせた防護服の男たちが手際よくちゃぶ台を壁ぎわへ寄せ、六畳間の中央一メートル四方ほど畳を刳り貫き、凄まじい轟音とともに掘削作業を開始する。たちまち部屋中あちこち波打ち、四方の壁がぐらぐら派手に踊りだす。

「なんだか畳ぶよぶよ凹みはじめたぞ」「ジャンプして着地するとかだら・・・半分沈んじゃうよ、ほら見て、あはは」「やめなさいっ」「わし中風あたったんじゃろか、なんか、めまいしてきたわ」「まともに立ってらんねえべや、もう」「あら、天井が高速回転してるわよ」「ねえ見て、首までめりこんじゃった、あは、あはは」「どうもども、このたびはたいへんお世話様でございまして、恐縮でございますがお邪魔させて頂きますよ」ベニヤ板ドアをばふばふさせながら肥満体の大会組織委員長が六畳間に入ってきた。「どうもども、たいへんお世話様でございまして、恐縮させて頂きます」「あんた、だれ」「おもてなしさせて頂きにあがりましたようなわけで、関係者全員部屋の外に待機させて頂いておりますので」「なにやらかすつもりだい」「今宵の催しものは『音楽の夕べ』とさせて頂いております」「演歌まつりかい」「カラオケ大会だべさ」「アニソンがいいな」「声優さん来てるのかしら」「配信ライブなんじゃない、オールナイトで」「本日の企画はオーケストラによる演奏会でございまして指揮者はじめご高名な演奏家ぞろいでございますよ」「どんな曲目やるのさ」「今宵のプログラムはワーグナーとのことでございまして」「それじゃ四管編成じゃないか」「さようでございます」「それって人数どんだけなの」「総勢百とんで五名とさせて頂いております」

掘削作業の轟音が一段と激しさを増し床下を往来する作業員たちの動きに合わせ六畳間が豪快に浮沈する。ひときわ凄まじい震撼とともに室内にいた全員が舌を噛み悶絶する。

ふいに押し入れの襖を突き破り作業員が部屋に転がり落ちてきた。「あれれれっ、床下掘ってたのに、こんなとこに出ちゃったぞ」またひとり転がり落ちてくる「なしてだあ」さらにもうひとり「うひゃあ、この押し入れ、床下と繋がってるみたいだぞ」

めりめり、めりめり回廊が軋む気配とともに、押し入れを通り抜け四管編成のオーケストラがやってきた。六畳間の壁三面すでに崩落、残る一面とて激しく撓み、ベニヤ製ドアは何処とも知れずばふばふ飛び去った。だれもが不吉な予兆に怯え身をすくめるなか、防護服の作業員たちのみ床下と押し入れを忙しそうに出入りしている。

魂が抜け落ち呆然と佇んでいたサッカーチームの一員がふと思いつき、夢と感動とレガシーを共有し子どもたちに勇気と希望を与えるべく作業にボランティア参加することを提案する。そうしましょそうしましょとサッカーチーム全員で押し入れと室内を幾度も往復、大量の脂漏性古畳を六畳間に運び入れ、立ちすくんでいたバイオリン奏者を捕まえ古畳の上に横たえ、その上にじくじく妄執にまみれた古畳を敷き、その上にチェロ奏者を載せ、さらにその上に湿っぽい古畳を重ね、そしてさらにもうひとり……やがて古畳とオーケストラ団員のミルフィーユが六畳間の天井を突き破り、天空めざし燦然と輝く一大モニュメントとなって屹立する。
「接収、接収」押し入れから転がり落ちてきた第一師団長が、作業員やサッカーチームをかき分け、上空で旋回するヘリ旅団の爆音に負けじとばかりに破鐘声を張り上げる。「総員一千とんで十七名、ただいまより当地に駐留する。ただちに全軍の糧食を提供願いたいが、ここの女将はどこにおるか、女将は」「そったらこといきなり言われたってあんた、米だのオカズだの、そったら人数分すぐに用意できるわけないべさ、はんかくさいねえ」「えばりんぼだね、このおじさん」「なんだべなあ、どいつもこいつも」
「還りましょう、いまのうちに」ふいにブリュンヒルデが耳もとにささやく。悩ましき吐息、妖しき声音。手に手をとり混沌の六畳間を逃れ、はるかな回廊へまろび出る。

片側から砂混じりの淫靡な夜風、もういっぽうは磨りガラス窓と合板ドアのつらなり。後方からは途切れとぎれにささめきが追いすがる。「へんなのお」「逃げる気かよ」「わけわかんなあい」「だらだら垂れ流してさ」「まるで真夜中の公衆便所扱いねえ」「いい気なもんだ、どこのだれべえが」

前方は往けどもいけども果てしない回廊。曲がりかどやカーブなどあれば幾分か安堵も感じようが、まっすぐ意識下を貫き不穏な迷妄が総身を駆けめぐる。このさき何が待ち受けているのだろう。おや、なんだか気温が下がりはじめたみたいだ。周囲の佇まいも微妙に変化してきたぞ。おやおや、どうやらここは暁闇の森のようだ。ゆっくりと這い出した暗緑色の冷気が足もとに絡みつき、鞭のような小枝がぴしゃりと頬を打つ。思わず涙が滲む。ブリュンヒルデが前方を凝視したままくつくつ笑う。懐古的な樹相に追憶の濃霧がまといつき、はるか彼方で精霊じみた影が手招きしている。そうか、そういうことなのか、つまりこれよりは大気、樹木、川、記憶、本来の名を朗誦しつつ歩めということなのだな、ひとり合点する。そうとなれば我がなつかしき面々よ、いつかふたたび、かの内在律にしたがい巡り逢うとしようよ。

© 2024 飽田 彬 ( 2024年1月11日公開

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