重畳家の崩壊

飽田 彬

小説

4,099文字

針飛び『ワルキューレの騎行』

ちくちくムズ痒い膝丈の多年草群落をかきわけると黒光りする板の間が姿をあらわす。幅一間、前方はるか果てしなくつづく回廊である。右側は草いきれに混じり喧噪と猥雑の気配、もういっぽうは磨りガラス窓と合板ドアが交互に連なっている。淫蕩な風にうなじを嬲られつつドアノブのひとつに触れると、キキィッと啼いて、足首まで沈む深緋の絨毯の間に誘われる。薄暗い電灯のもと、埃っぽい部屋は無人だ。音源もないのにトリスタン和音が揺蕩っている。部屋の中央にはのんびりと揺れる安楽椅子。殺風景な壁の一隅には奥の間へつづく質朴なドアが待ち受けている。深緋の沼を漕ぎ渡り手をかけてみると、それは驚愕のベニヤ板である。ばふばふ撓みながら向こう側へと開く。

そこは西日眩しい生活感に溢れた八畳間。訪れるたびにあやふやな表情の人たちが団欒しているけれど、きょうも五人ほどでちゃぶ台を囲んでいる。どうやら六年生のときの同級生もいるようだ。学芸会でブリュンヒルデを演じた子だ。もう小学生ではないらしい。

蜃気楼じみた老人がこちらに気づき、鷹揚に手招きしている。「こっちさ来い、ほれ、いっしょに坐れ」。ほかの人たちもそれぞれに声をかけてくれる。ブリュンヒルデが自分の横の座布団をぽてぽて叩いている。なんとなく報われた心持ちで彼女のとなりに腰を下ろす。

「もちろん、現在の住まいじゃない」もったいぶった調子で老人が語りだす。「子どものころに住んだ憶えもないな」。

「思い出のなかのだれかさんの家ってわけでもないんだよね」舌っ足らずな幼児が口を挟む。「でも来ちゃうのよねえ何度も、ここ」中年女性らしい幅広い声が重なる。

「けどさ、よくある夢分析なんか信じないよね、うちら」ブリュンヒルデは声と口調だけ六年生のままだ。

「当たり前だ、そったらもん」老人が言下に吐き捨てる。

「まあ、あたしらにゃ関係ないもんねえ、ぜんぜん」中年女性がゆったり笑う。

「関係ねえなあ、そりゃ」茶をずるずる啜りながら、ガテン系らしく逞しい男性が頷く。

「あっ、お茶あげてなかったよ、まだ」ブリュンヒルデがわたしを指さし笑う。「あら、ほんとだ」中年女性がよっこらしょと立ち上がり新しい湯呑みを用意する。

「あの、どうぞ、おかまいなく」。

「わしら浅薄な寓意やら暗喩やら象徴などではないぞ、なぜならば……」語りだした老人を遮るように、ぴょんぴょん飛び跳ねながら幼児が叫ぶ。「だれか来たよ、ほら、声が聞こえる」。

「おまえ、ちょっくら見てこい」ガテン系が言いつける。

ほどなく十六名の防護服を着た男たちが幼児に導かれ、どやどやと部屋になだれ込む。あっというまに八畳間は人口過多となり、ちゃぶ台を囲んでいた面々が窮屈そうに立ちあがる。

「んちゃあ、おくつろぎのところ失礼しゃっす」職長らしき男がマスク越しに胴間声を張り上げる。「やかましいな」ほとんど顔がくっつきそうな距離でガテン系が舌打ちする。「さぁせん、元請けに言われて来たんすけどお」「なんだ下請けか」「さぁせん、気合い入れてやりぁす」。いっせいに安全靴の踵を打ち鳴らすと、男たちは円陣を組み、雄叫びのようなヒヤリハット報告、ついで入念でパワフルな安全衛生体操をはじめる。彼らの動作があまりに放恣なので、わたしたちは壁ぎわまで退かざるを得ず、呆然と立ち尽くす。

「ぶほっ、あちゃちゃぁっっっ」不自然な体勢のまま茶を飲もうとしたガテン系が顔面に熱い茶を浴び咆哮する。体操する職長の腕が勢い余ってガテン系の湯呑みを振り払ったのだ。「まだお茶あげてなかったわねえ」中年女性が肉厚な肩でわたしをつつく。「どうぞ、おかまいなく」「この変てこりんな体操いつ終わるのお」「メッチャ暑苦しい連中ねえ」「なにしに来たんだべな、こいつら」「なんの用かしらねえ」「あっ、まただれか来たよ、ほら」。

回廊の彼方に怒濤が轟き、汗と泥の濁流が絨毯の間を呑み込み、赤銅色の集団が八畳間に打ち寄せた。監督、スタッフ、選手ら総勢三十七名から成るサッカーチームだ。「ここだここだ、間に合ったぞお」「ひゃあ、試合前だってえのに、汗びっしょり」「アップの手間はぶけたな」「おれもう、のどカラッカラ」「すぐピッチ練習はじめるぞお」「無事にたどり着いてホッとひと安心だなあ」「だれのせいで道に迷ったと思ってんだよ」「だってカーナビがウソつくもんだから」「なに言ってんだ、おまえ」「まあまあ、とにかく間に合ったんだから」「あのお、ところで監督う、マジここでまちがいないんすかねえ」。全員が一瞬きょとんとし、互いの顔を不審そうに窺う。

「え……と」沈黙を破り、長身痩躯の監督がおずおずと「あのう、つかぬことを伺いますが、こちら本日第一次ラウンド戦会場の……スタ……ジ……アム、あっ」絶句し頭を抱えると、チーム全員がいっせいに頽れ落ち、嘆声とともに両拳で畳を乱打する者、へらへら笑いながら丸太のような足をばたつかせる者、虚空を睨みすえ称名を唱えだす者……。

「あららっ、没収試合かあ」火傷した唇を気に病みながらガテン系が憫笑する。「え、なになにい、このひとたち、サッカーできないのお」「場所まちがえたんだから失格だべさ」「遅刻で不戦敗てことでしょ」「もう間に合わないのお、メダル無理かあ」「自業自得よねえ、ダッさあ」「これこれ、そんな言い方しないの」「お取り込み中のとこ、さぁせん、ここらへん、べろっと空けてもらってもいっすかあ、作業はじめたいんで」。

仰々しい機械をがちゃつかせた作業員たちが手際よくちゃぶ台を壁ぎわへ寄せ、八畳間の中央一メートル四方ほどを刳り貫くと、凄まじい轟音をたてながら掘削作業を開始する。部屋中あちこち波打ち、壁がぐらぐら踊りだす。

「なんか畳ぶよぶよ凹みはじめたぞ」「ジャンプして着地するとカダラ沈むよお、ほら」「やめなさいっ」「わし、なんだかめまいしてきた、中風だべか」「立ってられねえわ」「天井も揺れだしたよ」「あは、首までめりこんじゃった、あはは」「このたびはどうも、お世話様でございます、たいへん恐縮ですがお邪魔させて頂きますよ」ベニヤのドアをばふばふさせながら、恰幅のよい大会組織委員長が八畳間に入ってきた。「どうもども、たいへんお世話様でございます、恐縮させて頂きます」「なんだべ」「おもてなしさせて頂きにあがりました。関係者全員、外に待たせて頂いておりますので」「なにやるつもりだい」「音楽会でございますよ」「演歌まつりかい」「カラオケ大会だべさ」「アニソンがいいな」「声優さん来てるのかしら」「ライブじゃないの、オールスタンディングの」「オーケストラでございますよ、指揮者をはじめ、みなさんご高名な方々でございます」「どんな曲目やるの」「本日はワーグナーとのことで」「それじゃ四管編成じゃないか」「さようで」「それって人数どんだけえ」「総勢百とんで五名とさせて頂いております」。

掘削作業の轟音が一段と激しさを増す。床下を往来する作業員たちの動きに合わせて部屋じゅうが豪快に浮沈する。呆気にとられた全員が舌を噛み悶絶する。

押し入れの襖を突き破って、ひとりの作業員が勢いよく転がりでてきた。「あれれっ、床下掘ってたら、こんなとこにでちゃった」。もうひとり転がりでる「なしてだあ」。さらにまたひとり「この押し入れ、あちこちと繋がってるんだわ」。めりめり、めりめり板の間が軋み、回廊の彼方から押し入れを通り抜けて、四管編成のオーケストラがやってきた。

八畳間の壁三面ほぼ崩落、残る一面も大きく撓みベニヤのドアがばふばふ何処か遠くへ飛び去った。だれもが不吉な予兆に呻吟するさなか、作業員たちは忙しそうに床下と押し入れを出入りしている。

魂が抜けたように眺めていたサッカーチームのひとりがふと提案し、夢と感動を共有するためボランティアとしてチーム全員で作業に参加することを決定する。押し入れと室内を幾度も往来し、脂漏性の古畳を大量に運び込んで、そこらへんにいたバイオリン奏者のひとりを捕まえ畳の上に横たえると、その上にじくじく妄執にまみれた畳を重ね、その上にまたひとりオーケストラ団員を乗せ、さらにその上に畳を積み重ね、そしてさらにまたひとり……やがて古畳と人類のミルフィーユが天井を突き破り、燦然と輝くモニュメントとして屹立する。

「接収、接収」押し入れから転がりでてきた司令官が、作業員たちを押しのけ、上空のヘリ軍団の爆音に負けじと破鐘声を張り上げる。「総員四万二千三百七十九名、ただいまより此処に駐屯する。ただちに全員分の糧食を用意願いたい。ここの女将はどこか、女将は」「そったらこといきなり言われたって、米もオカズもすぐには無理だよ、はんかくさいねえ」「えばりんぼだね、このおじさん」「なんだべなあ、どいつもこいつも」。

「もう還りましょうよ、いまのうちに」ふいにブリュンヒルデが耳打ちする。妖しい吐息に混じる懐旧の旋律。混迷の八畳間をあとに、手に手をとり艶やかな回廊へと逃れる。

片側からは淫蕩な砂混じりの夜風、もういっぽうは磨りガラスと合板ドア。背中から途切れとぎれのささめきが聞こえてくる。「へんなのお」「わけわかんなあい」「だらだら垂れ流しちゃってさ」「いい気なもんだな」「まるで真夜中の公衆便所」「承認欲求満たされたつもりなんだよ」「どこのだれべえが」。

前方は往けどもいけども果てしない回廊である。曲がり角があったり微妙にカーブなどしていれば四囲を巡っていると判断もできるだろうに。このさき何が待っているのだろう。おや、なんだかいきなり気温が下がったぞ。周囲の佇まいが微妙に変化してきた。おやおや、どうやら森林地帯だ。暗緑色の冷気が足もとを這いだし、鞭のような小枝がぴしゃりと頬を打つ。思わず涙が滲む。ブリュンヒルデがくつくつ笑う。慣れ親しんだ樹相に追憶の濃霧がまといつき、はるか彼方では精霊が手招きしている。そういうことか。これよりは土地、川、樹木、大気、なつかしき人々、彼ら本来の名前を朗誦しつつ歩むこととしよう。すべては例の内在律に従うまで、なのだろう。

 

2021年7月11日公開

© 2021 飽田 彬

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

SF メタフィクション 実験的 純文学

"重畳家の崩壊"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る