重畳回廊

飽田 彬

小説

4,366文字

針とびワルキューレの騎行

ちくちくムズ痒い膝丈の多年草群落をかきわけると黒光りする板の間が姿をあらわす。幅一間、前方はるか果てしなくつづく回廊である。右側からは草いきれに混じり喧噪と猥雑の気配、もういっぽうは磨りガラス窓と合板ドアが交互につらなっている。淫蕩な風にうなじを嬲られつつドアノブのひとつに手を触れると、キキィッと啼いて足首まで沈む深緋の絨毯の間に誘われる。暗黄色の電灯のもと埃っぽい部屋は無人だ。音源もないのに室内いっぱいにトリスタン和音が揺蕩っている。部屋の中央にはのんびりと揺れる安楽椅子。殺風景な壁の一隅には奥の間へとつづく質朴なドアが待ち受けている。深緋の沼を漕ぎ渡り手をかけてみると、それは驚愕のベニヤ製ドアである。ばふばふ撓みながら向こう側へ開く。

 

そこは生活感に溢れた西日眩しい八畳間。訪れるたびにあやふやな表情の人たちが団欒しているけれど、きょうも五人ほどでちゃぶ台を囲んでいる。学芸会でブリュンヒルデを演じた同級生もいるようだ。どうやらもう小学生ではないらしい。

蜃気楼じみた老人がこちらに気づき、鷹揚に手招きしている。「こっちさ来い、ほれ、いっしょに坐れ」。ほかの人たちもそれぞれに声をかけてくれる。ブリュンヒルデは傍らの座布団を平手でぽてぽて叩いている。なんとなく報われた心持ちで彼女のとなりに腰を下ろす。
「もちろん現在の住まいじゃない」もったいぶった調子で老人が語りだす。「子どものころ住んだ憶えもないな」。
「思い出のなかのだれかさんの家ってわけでもないんだよね」舌っ足らずな幼児が口を挟む。「でも来ちゃうのよねえ何度も、ここ」中年女性らしい幅広い声が重なる。
「けどさ、下世話な夢分析なんか信じないよね、うちら」ブリュンヒルデは声と口調だけ小学六年生のままだ。
「当たり前だ」老人が言下に吐き捨てる。
「あたしらにゃ関係ないよねえ、そったらもん」中年女性がゆったり笑う。
「そりゃ関係ねえわ、もちろん」茶をずるずる啜りながら、ガテン系らしい筋骨隆々の男性が頷く。
「あっ。お茶あげてなかったよ、まだ」ブリュンヒルデがわたしを指さし、くつくつ笑う。「あら、ほんとだ」中年女性がよっこらしょと立ち上がり新しい湯呑みを用意する。
「あの、どうぞ、おかまいなく」。
「無粋な諷喩でもないぞ、わしら。なぜかというと……」語りだした老人を遮るように、幼児がぴょんぴょん飛び跳ねながら叫ぶ。「だれか来たよ、ほら、声が聞こえる」。
「おまえ、ちょっくら見てこい」ガテン系が言いつける。

ほどなく防護服を着た十六名の男たちが幼児に導かれ、どやどや部屋になだれ込んでくる。あっというまに八畳間は人口稠密、ちゃぶ台を囲んでいた面々は窮屈そうに立ちあがる。
「んちゃあ、おくつろぎのところ失礼しゃあす」リーダーらしき男がマスク越しに胴間声を張り上げる。「やかましいな」ほとんど顔がくっつきそうな距離でガテン系が舌打ちする。「さぁせん、元請けに言われて来たんすけどお」「なんだ下請けか」「さぁせん、気合い入れてやりゃあす」。防護服の男たちはいっせいに安全靴の踵を打ち鳴らすと円陣を組み雄叫びのようなヒヤリハット報告、ついで入念な安全衛生体操を開始する。彼らの動作があまりに放逸なので、わたしたちは慌てて壁に貼りつく。
「ぶほっ、あちゃちゃぁっっっ!!!」不自然な体勢のまま茶を飲もうとしたガテン系が顔面に熱い茶を浴び咆哮する。体操するリーダーの腕がガテン系の湯呑みを勢いよく振り払ったのだ。「まだお茶あげてなかったわねえ」中年女性が肉厚な肩でわたしをつつく。「どうぞ、おかまいなく」「この変てこりんな体操いつ終わるのかなあ」「メチャ暑苦しい連中ねえ」「そもそもなにしに来たんだべな、こいつら」「ほんと、なんの用かしらねえ」「あっ、まただれか来たみたいだよ、ほら」。

回廊のはるか彼方で怒濤が轟いたかと思うと、あっというまに泥と汗の濁流が絨毯の部屋を駆け抜け、赤銅色の集団が八畳間へと打ち寄せた。選手、監督、スタッフら総勢三十九名から成るサッカーチームである。「ここだここだ、間に合ったぞ」「ひゃあ、試合前だってのに汗びっしょり」「アップの手間はぶけたな」「おれもう喉カラッカラ」「すぐピッチ練習はじめるぞお」「無事にたどり着いてホッとひと安心だなあ」「ばか、だれのせいで道に迷ったと思ってんだよ」「だってカーナビがウソつくもんだからさ」「なに言ってんだ、おまえ」「まあまあ、とにかく間に合ったんだから」「よしとするかあ」「あのう、ところで監督ぅ、マジここでまちがいないんすかあ」。一瞬、全員がきょとんと周囲を見回し、不審げに互いの顔を覗き込む。
「こほん」静寂を打ち破り、長身痩躯の監督がおずおずと「え……と、つかぬことを伺いますが、こちら、本日第一次ラウンド戦会場の……スタ……ジ……アっ」絶句し頭を抱えたとたん、チーム全員がファンファーレとともにいっせいにその場に頽れ落ち、嘆声混じりに両拳で畳を乱打する者、へらへら笑いながら丸太のような足をばたつかせる者、虚空を睨みすえ静かに称名を唱えだす者……。
「あらららっ、失格かよ」火傷した唇を気に病みつつガテン系が憫笑する。「え、なになにい、このひとたちサッカーできないのお」「場所まちがえたんだから不戦敗だべさ」「遅刻で没収試合てことなんじゃない」「もう間に合わないんだね、メダル無理かあ」「自業自得よね、ダッさあ」「これこれ、そんな言い方しないの」「あのお、お取り込み中のとこさぁせん。ここらへん、べろっと空けてもらっていっすかあ、そろそろ作業はじめたいんで」。

仰々しい機械をがちゃつかせた防護服の男たちがちゃぶ台を手際よく壁ぎわへ寄せ、八畳間の中央一メートル四方ほど畳を刳り貫き、凄まじい轟音とともに掘削作業を始める。たちまち部屋中あちこち波打ち、壁がぐらぐら踊りだす。
「なんか、畳がぶよぶよ凹みだしたぞ」「ジャンプして着地するとカダラ沈んじゃうよ、ほらあ見て」「やめなさいっ」「わし中風あたったのかな、なんか、めまいしてきたわ」「まともに立ってらんねえな」「天井も揺れだしちゃったわあ」「あは見て、首までめりこんじゃった、あはは」「どうもども、このたびはお世話様でございます。たいへん恐縮でございますが、お邪魔させて頂きますよ」ベニヤ板ドアをばふばふさせながら肥満体の大会組織委員長が八畳間に入ってきた。「どうもども、お世話様でございまして、たいへん恐縮させて頂きます」「なんだべ」「お・も・て・な・しさせて頂きにあがりました。関係者全員、外に待たせて頂いておりますのでして」「なにやるつもりなんだい」「今宵は『音楽の夕べ』でございまして」「演歌まつりかい」「カラオケ大会だべさ」「アニソンがいいな」「声優さん来てるのかしら」「配信ライブなんじゃない、オールナイトの」「本日はオーケストラ演奏でございまして。指揮者はじめ、みなさんご高名な演奏者ばかりでございますよ」「どんな曲目やるの」「本日のプログラムはワーグナーとのことでございます」「それじゃ四管編成じゃないか」「さようでございまして」「それって人数どんだけなのお」「総勢百とんで五名となっております」。

掘削作業の轟音が一段と激しさを増す。床下を往来する作業員たちの動きに合わせ八畳間が豪快に浮沈する。室内にいた全員が舌を噛み悶絶する。

いきなり押し入れの襖を突き破り作業員がひとり勢いよく転がり出てきた。「あれれっ、床下掘ってたら、こんなとこに出ちゃった」。またひとり転がり出てくる「なしてだあ」。さらにもうひとり「この押し入れ、あちこちと繋がってるんだわ」。

そのとき、めりめり、めりめり板の間が軋む気配とともに、回廊の彼方から押し入れを通り抜け四管編成のオーケストラがやってきた。八畳間の壁三面ほぼ崩落、残る一面も大きく撓み、ベニヤ製ドアは何処ともしれずばふばふ飛び去った。不吉な予兆にだれもが怯え呻吟するさなか、作業員たちは床下と押し入れを忙しそうに出入りしている。

魂が抜けたように呆然と佇んでいたサッカーチームのひとりがふいに思いつき、夢と感動とレガシーを共有するためにボランティアとして作業に参加することを仲間に提案する。さっそくサッカーチームは押し入れと室内を幾度もがやがや往復し、脂漏性の古畳を大量に運び入れ、そこらへんに立ちすくんでいた第二バイオリン奏者を捕まえると畳の上にむりやり横たえ、その身体の上にじくじく妄執にまみれた畳を重ね敷き、その上にまたひとりオーケストラ団員を横たえ、さらにその上に畳を積み重ね、そしてさらにもうひとり……やがて古畳と人類のミルフィーユが八畳間の天井を突き破り、燦然と輝くモニュメントとして屹立する。
「接収、接収」ふいに作業員たちをかき分け、押し入れから転がり出てきた軍司令官が、旋回する上空のヘリ軍団の爆音に負けじと破鐘声を張り上げる。「総員一千とんで七十八名、ただいまより此処に駐留する。ただちに全員分の糧食を用意願いたいのだが、ここの女将はどこか、女将は」「はんかくさいねえ。そったらこと、いきなり言われたって、米だってオカズだってすぐには無理にきまってるべさ」「えばりんぼだね、このおじさん」「なんだべなあ、どいつもこいつも」。
「還りましょう、いまのうちに」ふいにブリュンヒルデが耳もとにささやく。なやましき吐息、妖しくもなつかしき声音。混迷の八畳間をあとに、手に手をとり艶やかな回廊へ逃れ出るふたり。

片側から砂混じりの淫蕩な夜風、もういっぽうは磨りガラスと合板ドアのつらなり。背中から途切れとぎれのささめきが追いかけてくる。「へんなのお」「わけわかんなあい」「逃げる気かよ」「だらだら垂れ流しちゃってさ」「まるで真夜中の公衆便所扱いねえ」「いい気なもんだな、どこのだれべえが」。

前方は往けどもいけども果てしない回廊である。曲がりかどがあったり微妙にカーブなどしていれば四囲を巡っていると判断できるだろうに。ただただ、まっすぐだ。極端に不安なオーケストレーションが脳裏を駆け巡る。このさき何が待っているだろう。おや、なんだか急に気温が下がりはじめたぞ。周囲の佇まいも微妙に変化してきた。おやおや、どうやら森のなかの小径。暗緑色の冷気が足もとを這うように絡み、鞭のような小枝がぴしゃりと頬を打つ。思わず涙が滲む。ブリュンヒルデがくつくつ笑う。慣れ親しんだ樹相に記憶の濃霧がまといつき、はるか彼方で精霊らしき影が手招きしているではないか。そういうことか。これよりは大気、樹木、川、土、彼ら本来の名前を朗誦しつつ歩めということなのだなあ。なつかしき面々よ、かの内在律に従って、いつかふたたび巡り会おうよ。

2021年7月11日公開

© 2021 飽田 彬

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