モヱンタウム

飽田 彬

小説

12,642文字

どこかで夜明けの汽笛が啼いている。
……『モヱンタウムの書』第一の書第五節

陽気なサンバ隊がまぶたの裏を往来するのは極度の疲労と空腹ゆえか。夜を徹して骨の折れる作業に取り組んできたのだから無理もない。われに返れば春愁たなびく昼さがり。わたしはデスクの片隅にそっと製図ペンを置き、蒼黒く凝り固まった手指を揉みほぐした。鉄道路線図作製はきわめて過酷であると同時に途方もなく意義深い仕事である。創建以来、鉄道とともに発展してきた都市が起点ならばなおのこと。しかも新世界に相応しく優美なニュアンスを重視したわたしは、コンピュータに頼ることなくすべて手作業で完遂する苦行を自らに課した。たとえ偏頭痛と目眩と肩凝りが悪化する一途であろうとも。

発端は中学時代に遡る。

睡魔が跳梁するうららかな教室の午後、わが数学のノートに突如新世界が誕生した。大洋、大陸そして島嶼群による荘重な創世序曲が眠気を吹き飛ばした。あわてて周囲を窺ったが、同級生も教師もまったく気づいていない。ほっとひと安心、わたしは大いなる期待とともにおごそかな調べに耳を傾けた。またたくまに多彩な有機生命体が誕生、ひしめき合い唱和しはじめた。ふしぎで浄らかな神秘にわたしは慄いた。ここまではすばらしかった。やがて当然のごとく人類が登場し無粋な不協和音を轟かせる。不毛な諍いを通奏低音に得手勝手な楽園を謳い上げる。不本意ながら、無量大数のアイデンティティと言語を手がかりとした鳥瞰図が必要であろう。意識が遠のくような大事業のはじまりだ。神の領域なのだから当然である。とどのつまり教室であろうと自室であろうと、生まれたての人類のための世界構築に追われる日々がはじまった。専心すべき分野は無限と思えたが、まずは精密なアトラスと歴史年表作成にわたしは取り組んだ。細心の注意を払い幾度も初心に立ち戻りつつ軌道修正することを厭わなかった。人類史を編む過程でわたしがもっとも神経をすり減らしたのは国名ならびに都市名の決定である。地名に宿る霊性こそが世界創造の核心であることを直感していたのだ。いっぽう異様な艱難を強いたのは政治体制の設計だった。それはまさしく魑魅魍魎との格闘であった。夏休み最終日の未明、ついにわたしは匙を投げた。中二の創造主が夢見る理想など、この世界は一顧だにしていないのだ。以降わたしは忠実な記録係に徹することを余儀なくされた。ノートはたちどころに四十数冊に達した。むろん周囲には慎重に秘匿していたものの、ある冷ややかな晩秋、うっかりして記述中の一冊をひとりの級友に取り上げられ囃したてられ教室中の嘲笑を浴びてしまった……なんだあこれ? わけわかんねえ、おまえとうとう完璧に頭イカレちまったのか?……たったひとり理解を示してくれた同級生がいた。漫画家志望の彼は、のちに百数十種類におよぶ国旗デザイン作成を請け負ってくれた。

あれから幾星霜、いまだ世界はその全貌を明らかにしていない。膨大な冊数のノートは十畳ひと部屋を占有、わたしの仕事はより困難で不確実な領域に踏み込みつつある。ひと月ほど前、とある迷宮都市の魔性に魅了されたことをきっかけに大きく計画を逸脱し、主要言語の祖語再建作業を一時中断、魔都旧市街にそびえ建つ壮麗なターミナル駅および放縦な鉄道網の美にとり憑かれたあげく、路線図作成という天啓のごとき使命に目覚め全精力を注ぐこととなったのだ。最新の交通哲学とデザイン思想、地形学的精緻さを高次元で結実させた至高の鉄道路線図である。進捗状況はいまのところきわめて順調だ。すこし休憩することとしよう。

 

おそい昼食を摂りつつ、なにげなくスマホをチェックすると、SNS上を逍遥する奇怪な情報に目がとまった。

 

 モヱンタウムで疹禍に克つ! あ~らフシギ! 煎じて服用すれば悪疹パッと退散! ただし八重咲きにかぎるよ!

 

ふむ、これはこれは。さっそく出かける支度をしていると猫がなにやら訴え啼くのでお手製防疹襁褓を装着してやったら思いのほか似合うので、ほのぼのとうれしくなった。黒猫には深紅がじつによく似合う。よし、猫もいっしょに連れて行くこととしよう。

 

寂寞のまちかど。甘やかに惑う早春の大気に歩みをとめ、あらためてスマホを確認してみると、なぜかさきほどの情報にヒットしない。いったいどうしたことか。なぜ、消え失せてしまったのだろう、こんなに瞬時に跡形もなく。それほどまでに危険な情報だったということか。ひょっとすると、なにやら不穏な機密情報だったのだろうか。猫が不安げに周囲を見渡す。たしかギリシャ語あるいはラテン語じみた語感だったはずだ。なにかの学名であろうか。無鉄砲に外出したものの、それはいったいどこで入手すべきものなのだろう……さいわいなことにわが記憶はじつに鮮明である。かの情報には八重咲きにかぎる、とあったはず。ということは花卉類であろうか。生花店やらフラワーショップなどと称する小売店で買い求めればよいのだろうか。そうだ。そうなのだ。きっとそうにちがいあるまい。あまりに明晰なるわが頭脳に俄然うれしくなり、うきうき沸き立つようなポルカのステップで歩みをすすめる。

それらしき店舗は午後の憂い揺蕩う一郭にあった。『お花』。瀟酒な入口の庇にしゃれた書体でそう記してある。『お花』という屋号なのであろうか。ごく近所でありながら、これまでこの店の存在にはついぞ気づかなかった。さっそく華奢な扉を開くと、静謐なる芳香と鮮やかな色彩がわたしたちを出迎えた。猫が小さく鼻をひくつかせ丸い目を大きく見開く。こじんまりした店内は無人だが、かすかにBGMが鳴り響いている。グレン・グールドによる乾いたスタッカートと呻り声。

「あのう、だれかいませんか。もしもし、お花さん。お客さまですよ」そう声をかけると、芳香と色彩の彼方から、ふんわりひとの気配が。

「あら、いらっしゃい」朝露を纏った声、ゆらり邂逅、ゆらめく時軸。「ごめんなさい、お待たせして。いまちょっと奥でだんじりしていたものですから。なにしろ、こんな小さなお店でしょう。いつのまにかいろんなもので溢れてしまって。この際だんじりしなくちゃって決心したところだったんです」

「は」

「でも、わたしったら、いざ処分しようとすると、ちょっと待って、やっぱり必要なものかもしれないわ、なんて迷いはじめちゃって。なんだかむずかしいものですわね、だんじりって」

「……あのう、ひょっとするとそれは、だんしゃり、では」

「あら、あなたも例のあれなのかしら」

とりあえず話ははやいものの、あなたも、ということは、すでに先客ありということだろうか。一抹の不安をおぼえつつ「ともかくそれはそうです。どれでしょうか例のあれは。おひとつくださいな。価格はいかほどでしょう」店内をきょときょと見渡しつつせっかちに財布を取り出す。さっさと例のあれを手に入れ帰宅し煎じて服用し悪疹からわが身を守らねば。そしてひきつづき鉄道路線図作製に取り組まねばならぬ。おうおう忘れちゃいけない八重咲きだぞ、まちがいなく八重咲きを買い求めるのだぞ。

「まあ、すてきなお襁褓だこと。とてもお似合いね、あなた」性急すぎる客に応えようとはせず黒猫に慈愛を手向ける花の精。満足げに喉を鳴らす猫。

「あ、その襁褓はわたしが手づくりしたものなのです。自分でいうのもなんですが手先がたいへん器用なもので。ちなみに猫とわたしとおそろいなのです。で、どれでしょう、どれが例のあれなのですか。これですか、それともこれかな」

「あら、それはパンジーですよ、そっちはバラ、それはガーベラです。例のあれは午前中に売り切れてしまいましたの。つぎの入荷はいまのところ未定なんですよ」

なんということだ。おそかった。これからは早朝より長蛇の列をなしたとて入手困難、などという事態なのではあるまいか。容赦なく悪疹に侵されたおのれの惨状が脳裏をよぎる。いったいどうしたらよいのだ。唐突なるゲリラ恐慌。全身激しく痙攣し、へなへなへたりこんで猫を抱きしめる。

「あの……入荷次第、ご連絡さしあげましょうか」

「あ。そうしていただけますか。ぜひそうしてください。入荷したら即座にご一報ください。心よりお待ちしておりますから。くれぐれもよろしく頼みましたよ」悲愴な剣幕に気圧された相手を見て、さすがに我ながら気恥ずかしさが込みあげてくる。「あの、それはそれとして、たいへん失礼ではありますが、ひょっとして以前にもお会いしたことはなかったでしょうか」

「お襁褓の似合う黒猫って、わたし、はじめて。なんだかおかしいわ、とっても」

 

生きとし生けるもの、なべて息をひそめる春暁。おぼろな光射す街路に目を凝らしつつ、はるかな記憶に想いを馳せる。

……中二の春休みとは、もっともその名に相応しい日々ではなかっただろうか。堅雪を踏みしめつつ同級生の家へいそぐわたしは三冊の本を抱えていた。江戸川乱歩、ジャック・ロンドン、モーパッサン。混沌かつ調和のとれた偏性。すべて苧環君から借りた本だった。返却がてら新しい本を借りるつもりだった。きょうは『火星年代記』と『幻想の未来』にしよう。わたしは新世界創造と同時に行き当たりばったりな濫読にも耽溺していた。その当時の苧環家はまるで図書館のごとく多彩な書物で溢れ返っていた。父親の書斎はもちろん、廊下もリビングも応接間もすべて鬱蒼たる書棚の森林だった。収まりきらない本は家中あちこち無造作に積み上げられていた。趣きある古き良きマンサード屋根の邸宅だった。現存していたら、いまごろ古民家カフェかなんかで人気だったかもしれない。

無施錠の玄関で「おーい、苧環ぃぃ」と靴を脱ぎ散らしているとき、そのひとはあらわれた。

「あら、いらっしゃい」朝露を纏った声。「タカシなら、すぐ帰ってくるわよ、あがって待ってれば」無造作にひらひら手招きしている。虚を突かれたわたしは、ァとかゥとか口ごもりつつ、導かれるがままにリビングのソファに腰をおろし目を伏せた。てっきり苧環しかいないはずと思い込んでいたのだ。そのひとはセンターテーブルを挟んだひとり掛けチェアに身を沈め、読みかけだったらしい雑誌を手にとった。あとは投げやりな沈黙。うらうら揺蕩う早春の斜光。あれれ。なんでここに座らされたんだろう。いったいどうしたらいいんだ。苧環はどこ行ったんだ。いつ帰ってくるんだろう。あいつの部屋で待たされるほうがよかった。気がきかないな、このひと。てか、そもそもいったいだれなんだろう。いままで一度も会ったことないぞ、この家で。苧環はひとりっ子だからおねえさんではない。親戚だろうか。イトコかなんかかな。たまたま遊びにきてるのだろうか。留守番か。それにしてもリラックスしすぎだよ。この家の本来の住人でもないくせに。初対面の中学生を勝手に家に招き入れて放置したまま雑誌なんか読みふけってる。まるでジョーシキないな。話しかけてくれるわけでなし、お茶やお菓子でもてなしてくれるでもない。てか、そんなこと期待するほうが厚かましいのか、あはは。だけど気まずいよな。苧環が帰ってくるまでどうしてたらいいんだろうな。いまからあいつの部屋に勝手に移動しちゃまずいかな。もしかしてそれは失礼なことなのかな。どこ行ったんだろうな苧環のやつ。いつ帰ってくるんだろう。このひとのいう「すぐ」ってどれくらいなんだろうな。てか、たとえ中学生といえども見ず知らずの人間とふたりきりなのに、よく平然と雑誌になんか集中できるよな。このシチュエーション気まずくないのかな。こっちは大いに困ってるんだよな。ひとをなんだと思ってるんだろう。まともに相手にする必要なしと判断したのかな。もしかして、こっちからなんか話しかけたほうがいいのかな。でも、なにをどうしゃべったらいいのかわかんないし。いま自分のノドを通過する声がふだんどおりとはとても思えないし。まったく、なにしてんだよ苧環、はやく帰ってこいよな。和毛の陽射しに揺蕩う静寂。およぐ視線の向こうはきらめく残雪。たちのぼる窓辺の戸惑い。眠たげに躓く柱時計……

突然、春雷のごとく大気を切り裂く笑い声。心臓がでんぐり返ってソファから転がり落ちる。

「おかしいわ」

「ほぇ」

「ほんと、おかしい」くつくつ笑うそのひと。おかしくてたまらないらしい。

「子豚」

「は」

「気がつかなかったわ、いままで」

「……」

「子豚だとばかり思ってた」笑いつづける。

「……」

「イベリコ豚なんですって、メインディッシュ」誌面を目で追いながら笑いつづけている。

「子豚と勘違いしてたわ、これ読むまで。いべり・こぶたって思い込んでた。ほんとはいべりこ・ぶた、なのよ。ああ、おかしいわ、とっても」

 

あの日、どれくらい苧環君を待っていただろう。彼はたしかに帰ってきたのだろうか。憶えていない。ちなみに後日わたしは彼に訊ねなかった。あのひとはいったいだれなんだ、と。なぜか自分でもわからない。あの家であのひとに遭うことはその後二度となかった。後年、苧環君はアシスタントを経て漫画家デビュー、少年誌連載中に急逝した。苧環家とあのひとはどういう関係だったのだろう、いまもわからないままだ。

われにかえると怜悧に輝く街路はまるで苧環君が描いたひとコマのようだ。

 

暁闇のむこうにずっと想い焦がれていたとてつもなく甘美でなつかしい存在が待っている。夜明けの汽笛とモヱンタウムの芳香に導かれ、そこへ近づいていく。もう少し、あともう少しでたどり着く、あるいはたどり着いた、そう思った瞬間なにものかに両足首をむんずと掴まれ、むりやり引きずり戻されてしまう。ほんの一瞬かいま見たそこにはたしかにかぎりなく甘やかでなつかしいものが待っていた。とはいうものの、そこはけっしてあちら側ではなかった。どちらかといえばこちら側であり、あえていうならもうひとつのこちら側だったようにも思う。ぶざまに引きずり戻されながら「ああ、おかしいわ、とっても。またこんど挑戦して」という声が聞こえた気もする。

 

朝飯を催促する猫に起こされ、朦朧とした状態ではるかな汽笛の余韻のようなコーヒーを啜る。

ふと思いつき例のあれを検索してみる。あらわれたのは「一致する情報はみつかりません」という冷淡な表示。

このところネットを飛び交っているのは激烈なおしぼり論争だ。もっとも悪疹を防ぐ効果があるのは熱いおしぼりか、それとも冷たいおしぼりか。専門家の知見とてバラバラだ。全国民にリサイクル紙おしぼりを配布致しますという不気味な町内会だよりが舞い込んで以降、世論は一気に混沌化した。巷では忖度金縛りが流行している。ちなみにあれから四カ月経つがリサイクル紙おしぼりはまだ我が家に届いていない。今朝はひときわ気が滅入り末梢神経が凍裂のような音を立てるので、わたしは路線図作成の手を休め外出することにした。

外国人観光客が消え失せた街は淋しい。生命力に充ち溢れた彼らはいったいどこへ行ってしまったのだろう。捨て猫気分で彷徨っていると、いつのまにやらうらぶれた小路に迷い込んでしまった。ふと、たてつけの悪い破戸を押し開ける気配とともに初老の男がひょっこり顔をあらわした。ねずみ色の腹巻きに左手を差し込み、もういっぽうで楊枝をつかいつつ「よっ」とこちらに顎をしゃくってみせる。なじみの古民家カフェ店主であった。

「毎度のことながら配給食ってのは不味くてかなわんなあ。おまけに栄養皆無ときちゃ味蕾ぼろぼろ胃は断末魔の悲鳴、ついでにわが稼業はコーヒー滓に至るまで徴発の憂き目にあっちまうとは、わしの人生いったいなんの罰ゲエムなのかね。おや、そちらは散歩かね、けっこうけっこう。せいぜい相互ソーシャル監視ディスタンスを保つんだな」。

この男が戦時妄想にとり憑かれたのは何ゆえか不明であるものの、古民家カフェ店主としては有為な人物なので日頃からいちおうの敬意を払うようにしている。話相手に飢えているらしいので、さりげなく促してやると堰を切ったように語りはじめた。「しかしまあ、釈然としないよなあ、各戸でいちばんの悪夢を供出せよだなんてお達しが下るとはなあ。やわらかな猫の頬を愛撫しつつわしは考え込んだもんさ。いったいどうしたものか。だって、よりによって悪夢と呼ばれるなかでもいちばんおぞましいそれを差し出せだなんて、そんな途方もなくおぞましい命令、だれだってあまりのおぞましさに怖気を震っておぞましがるにきまってるじゃないか。だいたいそのようなおぞましさの極みがいったいなんの役にたつというのだ。じつに空虚で無意味で莫迦げた茶番としか思えぬではないか。そもそも当局が定義するところの悪夢とはいったい如何なる代物を指すというのか。もがけどあがけど冷や汗ぐっしょり妖異夢、あるいは汚穢にまみれた糞虫のごとき恥辱夢、もしくは夢魔ですら目を背けるであろう超絶変態夢、おおかたそんなところであろうよ。ふん、べつだん夢に見るまでもないではないか。傍らの猫が大きく天を仰ぎ嘆息すると、ランプの火屋をみがいていた妻が美しい表情をさっと曇らせた。「きっと悪夢をたくさんあつめてお団子みたいにまるめて大きな爆弾をこさえようって算段なのよ。そうしてにっくき敵を懲らしめようって魂胆なんだわ。どれほど非人間的な存在であろうとも人間と名乗る以上は悪夢が怖ろしいにきまってますからね。そうよ、きっとそうにちがいないわ」

「ええい、なんだかむしゃくしゃしてきた。酒でも飲みにいこうではないか」

朽ちかけた長屋が連なる煤けた路地は静謐なるモヱンタウムの香り。見あげる夜空にはきらめく星座をかすめ帝都防疹研究所へ向かうカーマインレッドとコバルトブルーのだんだら爆撃機。妻と猫を従えぞろり細民街を往けば、いつもながらに歪んだ棟割長屋の連なりは果てしない虚夢の回廊を想わせる。各戸からはうすぼんやりした灯火のもと貧しげな夕餉のにおい、縁の欠けた食器の触れあう音、病んだ幼な児や老人たちの儚げで抑揚のないつぶやきが洩れてくる。ふいに、たてつけの悪い破戸を押し開けひょっこりと初老の男がむくんだ顔をあらわした。ねずみ色の腹巻きに左手を差し込み、もういっぽうで楊枝をつかい「よっ」とこちらに顎をしゃくってみせる。国旗デザイン作成中の漫画家を志す同級生であった。

その後の至って淋しい懦春の明け暮れは、和毛の陽射しみたいにささやかなまどろみが憂鬱でいがらっぽいウイルスに侵されていく日々だった。居丈高で卑屈な軍属興行師やリモート風紀係やとんからりとネトナリ組がうようよ我が家にやってきた。彼らは驟雨のようにあらわれてはちゃぶ台を蹴散らし邪悪な胴間声で恫喝し仏壇の菓子を掠めて卒然と去っていくのだった。そのころにはわしの妄執はかなり捨て鉢になっていて、ぬめぬめしたおちょぼ口の飛沫女王だのアラートカラーの政策秘書だの土中から白面をあらわし嬌声を上げるおうちアイドルだのが果たして自分自身の迷妄なのか、それとも遠い祖先のオブセッションなのか判然としなくなってしまった。猫や妻との境界なんぞもあやふやになってしまい誰が誰の日常なのか誰がどんな妄夢に囚われたままなのかかすら見当がつかなくなってしまった。そうこうしているうちに供出の日を迎えたのである。

 

しかしながら情緒にまかせた戯言でもなければ誰かが口走るのを耳にした記憶とてない。あるいは胚夢の領域に蹲る口跡……はるかな払暁の残滓が思いがけず起ち顕れたのかもしれないが、長い年月を隔てて打ち棄てられたはずの声と再会するなんて、あまりにもお値打ちな感傷あるあるである。

大地が吐息をついたような濃霧の明けがた、わたしはなにものかの耳打ちで目醒めたのだった。それまで見ていた夢は瞬時に消え失せたのである。

 

フクジュソウの光降りしきる朝。

すがすがしい心持ちで鉄道路線図に向かったものの微かな汽笛に鬼胎は萌すのだ。集中できない。今日こそ入荷の報せは届くのだろうか。うわさによれば忖度金縛り中に不要不急の息を殺したあげく亡くなったひとが続出という。

新疫疹に感染した際の症状が詳らかになるにつれ大恐慌を来したのは当然である。潜伏期間は五〜二十日とされる。その後、下肢にごく微かな痒みをともなう発疹があらわれる。やがて全身に拡がった患部は徐々に硬化し激烈な掻痒感に見舞われる。それは狂気に陥ったかのごとく掻き毟らずにはいられないほどだそうだ。瞬く間にそれは全身に拡がる。そして嚢腫化を経たのち真皮にまで達した悪疹はどす黒い瓜実状の腫瘍へと病変する。ひそやかな悪徳めいて増殖する瓜実状腫瘍は最終的に表皮へ蝟集。症例写真によれば、半ば頭をもたげ半ば体内にめりこんだ瓜実状腫瘍に全身を覆われたさまは、まさに怪奇瓜人間である。この時点では掻痒感はかなり軽減している。そして疹痕こそ残るものの、やがて瓜実はぽろぽろと剥落する。うわさによれば罹患者は例外なく自らが産み落とした数百万粒の瓜実を丁寧に掻きあつめ大きなガラス容器に保管するという。そして折りにふれガラス容器の中身に向かい愛しげに淋しげに語りかけるという。それは漸次長時間におよび、あれよあれよというまに瓜実との対話のみが全人生となるに至る。ガラス容器を取りあげると激しい痙攣発作を起こし昏倒してしまうというのだ。しかもそのまま死に至るケースが圧倒的だ。たとえ死を免れても、とどのつまり廃人である。

 

駆りたてられたように黒猫とふたり防疹襁褓を装着し外出する。冷ややかな街路には冴えた斜光が射している。シャッター通りのしじまをくぐり抜け瀟酒な庇の下に立ち止まる。扉に貼られたA4のコピー紙には殴り書きが黒々と踊っている。

 

コッカノテキ!

 オマエノ ハナナンカ ゼンブ カレテ シマエ!

 

引きちぎりポケットに押し込み、そっと扉を押す。溢れる芳香と色彩。呻るグレン・グールド。

「あら、いらっしゃい」そのひとは訝しげにこちらを見る。朝露を纏った花を束ねているところだった。「まだ入荷してないの」

「あ、あの、そうじゃないんです」とっさに言い繕ってしまう。「つまりその、べつに入荷の報せが待ちきれないわけじゃなくて……」猫がわたしの脛をつんつんし眼前の鉢植えに視線を促す。それは記憶の蕾のように可憐な青い花。「あの、きょうは花を買いにきたんです。なにか、とてもきれいでやさしい花を」

「あら、ギフトですか、それとも記念日かしら」

「ちょっとした仕事のつきあいの得意先の、えとあの、ま、そんなところで」

「アレンジフラワーにしましょうか、どんなお花がいいかしら」

「そこの鉢植えの花を、ぜひ」まるで吐息めいて群れ咲く青い花。「それがいいです」

「あら、丁寧にお手入れすると、ずっと咲いてくれるんですよ、それ」

「ください、ぜひ。あ、あの領収書もください」

「ありがとうございます。領収書のあて名はどうなさいますか」

「それは、上で」

「はい、わかりました……えっと、ウエって、クサカンムリのウエだったかしら……」

朝露に潤んだ蕾がいっせいに開花する……ATMの時間よとMRI検査室へ案内する看護師、極上の源泉タレ流しですと自慢するツアー添乗員、ドライブスルー取り付けてねとアドバイスする事故処理警察官。こだまする朝露を纏った声、声、声……

鉢植えを抱え家路をたどりつつ考える。「どんな漢字だろうな、クサカンムリのウエって」

 

やさしい霧雨にライラックの蕾が震えている。

このごろなぜか戦時妄想が蔓延しているらしい。ラジオの人生相談で中年女性が訴えている。

……たしかに兵隊さんが就寝中に、それは敵軍かそれとも自国兵なのか、さだかではありませんけど、あたしんちに侵入するんです。ええ、あたしがベッドにはいるといつもなんです。玄関もベランダもお風呂やトイレの小窓も、家じゅうどこもかしこもしっかり戸締まりしたはずなのに、あたしが就寝するとすぐに兵隊さんが寝室にやってくるんです。もやもや、ゆらゆらした翳みたいで彼の表情ははっきりしませんけど、汗の滲みた軍服や背嚢や銃油や火薬のにおいで、まちがいなく兵士だということがわかります。あたし、いつも驚いて跳び起きてしまうんです。どきどきする胸を両手で押さえながら周りに目を凝らすと姿はなくて気配だけが残っているんです。いつもそうなんです。兵隊さんがやってくるたびに驚愕して跳ね起きてしまいます、あたし。ああ申しわけないな、お気の毒だわと思いながら、ものすごくびっくりしてしまうんです。

それでいて、あたしにはわかっているんです。兵隊さんはしずかな佇まいだけどいつもギラギラ激情に苛まれていましたし軍服の下のせつない衝動を痛いくらい感じることができましたから。あたしがあんまり驚愕するものだから、彼は面喰らってためらってしまい、なにもできずにいたのです。それがとてもお気の毒で痛々しくて。ちゃんとしよう礼節をわきまえなくちゃと思うのだけど、いざとなるとやっぱりあたしは酷く驚愕してしまうのでした。

そんなある日の午後、狂烈な睡魔に襲われたあたしは好物のごぼ天と読みかけの本を床に落とし、まるで吸い込まれるようにソファの上で寝入ってしまいました。するとすぐに兵隊さんがやってきました。いつもみたいに跳ね起きようとしたけど、このときばかりはあまりに身体がだるくて、まるで縛りつけられたみたいにソファにぐったり横たわったままでした。くろぐろした翳が真上から覗き込みごくりと唾を呑む気配がしました。

ですから、あたしにはよくわかっていたんです。わっと泣きだしたい軍服の下の衝動、そこには底知れぬ飢餓があります。ああ、お気の毒だわ可哀想。恥も外聞もなく瞳をギラつかせ涎を垂らすなんて。こんなに卑しくて下賤なものに。ああなんて可哀想なんでしょう、哀れにもほどがあるわ、だったら、そう、あたしちゃんと満たしてあげましょう、ちゃんとしたお食事をつくって差し上げましょう、なにかうんと美味しくて栄養のあるもの、お腹いっぱいになるものを。こんなご時世なんですから、おうちクッキングがなによりですもの。なにがいいかしらねえ、そう、こんな場合はやっぱりお肉料理にかぎるわ。ぶあついステーキもいいしスキヤキしゃぶしゃぶジンギスカンにシュラスコハンバーグ骨付きカルビに特上ハラミロースそしてサガリにホルモン牛タンハツレバーミノセンマイコブクロそれからユッケに牛刺しもいいでしょ、ああ涎がでそう堪らないわ、たっぷり脂ののった臀部やツウ好みのこりこり睾丸なんかはやっぱりシチューが最適かしら、火薬や銃油臭さえ目をつぶれば喰らい尽くし甲斐あるってもんでしょう、まずたまねぎとじゃがいもはひと口大に切り、にんじんは皮をむいて乱切りにします。よく鍛えられ筋肉質な肩ロースや腿肉は血抜きをしたあと食べやすい大きさに切断します。かるく塩コショウしてもみ込んだあと深めのフライパンにバターを熱し焦げないように中火で慎重に焼きます。ここがポイントですから、できたらメモしておいてくださいね。あらかじめ塩コショウしてもみ込み充分柔らかくしておくのが美味しく仕上げるコツ。中火で全面に焼き色をつけたら鍋を火にかけ沸騰させ弱火で二十分ほど煮込みます。しつこい銃油臭が気になるようでしたら香辛料を加えてさらに二十分ほど煮ましょう。煮汁が煮詰まって濃すぎるようでしたら水を加えて調整しましょうね。浮いている脂はしっかり取り除きましょう。焦がさないようにときどき混ぜながら弱火でじっくり丁寧に煮込みます。さあ、そろそろいい香りがしてきたでしょうか、お待ちどうさま。上質でまろやかなコク、まるで天涯までいざなうかのような奥深い味わいのシチューの出来上がりです。

 

どこかで夜明けの汽笛が啼いている。

どうやらまた一日がはじまるらしい。

 

わが路線図はついに佳境を迎えた。鉄路はいつしか国境間近。列車は隣国の首都めざして穀倉地帯をひた走る……飛び発つ渡り鳥の群れ、豊かで芳醇な田園の香り、大地を這うなつかしい光と霧、淡くやさしい古楽器の調べと触覚、忘却のしずけさ……国境の街の紋章は群れ咲く可憐な青い花。

ふいに電撃が背筋を走り窓辺に置かれた鉢植えに視線を逃がす。入荷の報せはまだ来ない。しかるに町内会世話役の監視を掻い潜った黒猫がさまざまな情報を集めては持ち帰る。……衣服の締めつけこそが新疫疹の元凶と主張するヌーディスト集団が高級ブティック襲撃、防疹研究所では痛覚で掻痒感を滅すべく患者を殴打する人体実験を強行、あるいは某国際機関が深海魚DNAによるワクチン開発成功と発表、これを受けて政府がおさかなクーポン発行を閣議決定、毎食十尾以上の深海魚摂取を義務化する法案可決、待て待てそもそも瓜実疹の定義などないし疹禍は実在しない、すべては某陰謀勢力によるはかりごとである、云々……それら雑多な情報を報告しつつさかんに黒猫は身体中を掻き毟っている。その様子をじっと見つめていたらふいに黒猫と眼が合った。妖しい瞳の奥に朝露が光っている。わたしはすぐに出かける支度をはじめる。もう防疹襁褓など必要ないだろう。

猫もわたしもひっきりなしに立ち止まり全身を狂おしく掻き毟るので、なかなか歩みは捗らない。以前の数倍も時間がかかったすえ、ようやく瀟酒な庇の下にたどり着く。入口のガラス扉が粉々に砕け散っている。覗いてみると真暗な店内は深閑としている。さまざまな鉢植えや花が無惨に床に散っているようだ。もはやグレン・グールドの呻り声も聴こえない。あざ笑うかのように逆巻く寒風が両頬を嬲っていく。まるでホワイトアウトとブラックアウトが同時に襲いかかった気分。ならば、捜さねばならない。幾夜もあてどなくわたしは捜しつづけたのだ。これからも捜し歩かねばならぬ。

耐えがたい痒みに苛まれ全身を掻き毟りつつターミナル駅へ急ぐ。ようやく並んだ駅の窓口で目的地までの切符を本来の通貨ではなく花核貨にて購入する。これは中二の創造主が実物通貨を採用したせいである。キオスクに立ち寄り残りの花核貨を使用して三色弁当とほうじ茶とチョコ大福を買い求める。そして黒猫とともに朝露色の列車に乗り込む。ほかに乗客がいないので好みの座席に腰を据えることができた。やがて列車は国境の街めざして定刻どおりにホームを滑りだす。次第に速度を増す心地よい鉄路のリズム。窓外の風景を眺めながら弁当を食べ、お茶を飲む。チョコ大福はあとの楽しみにとっておく。全身を掻き毟りすぎて疲れ果てたらしい猫は座席にまるまりしずかな寝息を立てはじめる。わたしも睡魔に誘われてまぶたを閉じる。ゆったりと鉄路を往くリズム。もう少し、あともう少しでたどり着くのだ。かぎりなく甘美でなつかしい朝露の記憶が蘇る……思わず笑みを浮かべてまぶたを開くと、なぜか周囲は薄暗い夜行列車の気配。陰鬱な車窓に映るのは怪訝な表情の瓜人間。ゆらゆらちかちか、ゆらめく車内灯の下わたしたちは互いを凝視しつつ同時にのろのろとチョコ大福を頬張る。それは身震いするほど甘いはずなのに、なぜか無味である。

「ああ、おかしいわ、とっても」。

 

2021年3月15日公開

© 2021 飽田 彬

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