モヱンタウム

飽田 彬

小説

11,041文字

どこかで夜明けの汽笛が啼いている……早春の記憶をもとめて国境の街へ。

陽気なサンバ隊がまぶたの裏を往来するのは疲労と空腹ゆえか。夜を徹して緻密な作業に没頭していたのだから無理もない。我に返れば春愁たなびく昼さがり。製図ペンを置いて大きく伸びをし、痺れた指と手首を揉みほぐす。

鉄道路線図制作はきわめて峻厳な仕事である。創建以来、鉄道とともに発展してきた都市が起点ならば、なおのこと。しかもコンピュータに頼ることなく、すべて手描きで遂行しなければならない。たとえ偏頭痛と肩凝りが酷くなるいっぽうであろうとも。きっかけは中学時代に遡る。

 

ある日、数学のノートに世界が誕生した。大洋、大陸そして島嶼群によるおごそかな創世序曲。瞬く間に多彩な有機生命体がひしめき唱和する。ここまでは上首尾だった。やがて人類が登場し不協和音を轟かせる。絶え間ない諍いを通奏低音に自前の旋律を主張する。多様なアイデンティティと言語の譜面は必須だ。意識が遠のくような大事業。神の領域なのだから当然である。わたしは自宅でも学校でも無我夢中で世界設計に取り組んだ。専心すべき分野は無限とも思えたが、まずは精密なアトラスと歴史年表作成に寝食を忘れ没入した。幾度も初心に立ち戻り軌道修正を厭わなかった。人類史を編む過程でもっとも細心の注意を要したのは国名ならびに都市名である。地名に宿る霊性が新世界創造の鍵であることをわたしは得心していた。異様な艱難を強いられたのは宗教と政治経済の仕組みだった。それらは魔境に棲む魑魅魍魎だった。夏休み最終日の未明、わたしは承服した。中二の創造主が夢見る理想など世界は一顧だにしていない。わたしは忠実なる記録係なのだ。いつしかノートは二十数冊に達した。周囲には秘密にしていたけれど、ある日うっかりして級友にノートを取り上げられ、教室中の嘲笑を浴び囃したてられた……なんだぁこれ、まるっきりわけわかんねえ、おまえ頭イカレてるぞ……。たったひとり理解を示した同級生がいた。漫画家志望の彼は百数十種におよぶ国旗デザインを請け負った。

あれから数十年。いまだ世界はその全貌を明らかにしていない。膨大な数のノートはクローゼットまるごとと背の高い本棚三つを占有し、わたしの仕事はより繊細で濃密な領域に踏み込んだ。最近はある迷宮めいた都市の魔性に魅せられ、計画を大きく逸脱し、主要言語の祖語再建作業を一時休止、旧市街にそびえ立つ壮麗なターミナル駅と放縦な鉄道網にとり憑かれたあげく、路線図作成に全精力を注ぐこととなった。地理的精確さとデザイン思想が高次元で結実した鉄道路線図である。いまのところ満足のいく進捗状況だ。すこし休憩するとしよう。

 

おそい昼食を摂りつつ、なにげなくチェックすると、SNS上を逍遥する妙な情報に目がとまった。

 

あ〜らフシギ! 煎じて服用すれば悪疹パッと退散! モヱンタウムで疹禍に克つ! ただし八重咲きにかぎるよ!

 

さっそく出かける支度をしていると、猫がなにやら訴え啼くので、お手製防疹襁褓を装着してやったら、とても似合うのでほのぼのとうれしくなった。黒猫には深紅がじつによくなじむ。よし、連れて行くことにしよう。

 

寂寞のまちかど。甘やかな微風に歩みをとめ、あらためてスマホを確認すると、なぜかかの情報ヒットせず。まるで痕跡なし。いったいどうしたことだろう。なぜ消え失せたのだろう。こんなに素早く跡形もなく。それほどまでに貴重な情報だったのだろうか。なにやら選別のつもりだろうか。猫が不審げに周囲を窺う。さいわいなことに記憶は鮮明だ。ギリシャ語あるいはラテン語じみた語感。なにかの学名だろうか。無鉄砲に外出したはいいけれど、いったいどこで入手すべきものなのだろう……たしか情報には八重咲きにかぎる、とあったはず。ということは花卉類か。生花店やらフラワーショップやらで買い求めればよいのだろうか。そうだ。きっとそうにちがいないぞ。明晰なるわが頭脳にうれしくなり、ポルカのステップで歩みをすすめる。

それらしき店は午後の憂いたゆたう一郭にあった。『お花』。瀟酒な入口の庇に洒落た書体でそう記してある。『お花』という屋号なのだろうか。ごく近所でありながら今までこの店の存在には気づかなかった。華奢な扉をそっと押すと清冽な芳香と色彩が出迎えた。猫がちいさく鼻をひくつかせる。こじんまりした店内は無人だ。かすかにBGMが響いている。グレン・グールドの乾いた呻り声。

「あのう、だれかいませんか。もしもし、お客ですよ、お花さん」そう声をかけると、芳香と色彩の彼方からひとの気配が。

「あら、いらっしゃい」朝露を纏った声。ゆらり邂逅、ゆらぐ時軸。

「ごめんなさい、お待たせして。奥でだんじりしていたものですから。なにしろこんなちいさなお店でしょう、いつのまにかいろんなモノで溢れちゃって。この際だんじりしなくちゃって決心したんです」

「は」

「でもいざ処分しようとすると、ちょっと待って、やっぱり必要かも、なんて迷いはじめちゃうんですよね。なんだかむずかしいわ、だんじりって」

「あのう、ひょっとすると、それはだんしゃり、では……」

「あら、あなたも例のあれかしら」

とりあえず話ははやいものの、あなたも、ということは、すでに先客ありということか。一抹の不安をおぼえつつ「ともかくそれはそうです。どれですか例のあれは。くださいな。価格はいかほどで」芳香と色彩に溢れた周囲をきょときょと見渡し財布をせっかちに取り出す。さっさと手に入れ帰宅し煎じて服用し悪疹から身を守らねば。そして鉄道路線図に取り組まねばならぬ。おうおう忘れちゃいけない八重咲きだぞ、まちがいなく八重咲きを買い求めるのだぞ。

「まあ、すてきなお襁褓だこと。とてもお似合いね、あなた」性急な客に応えようとせず黒猫に慈愛を手向ける花の精。うれしげに喉を鳴らす猫。

「あ、それはわたしが手作りしたものです。自分でいうのもなんですが手先がたいへん器用なもので。ちなみに猫とわたしとおそろいです。で、どれです。どれが例のあれです。これですか、それともこれかな」

「あら、それはパンジーですよ、そっちはバラ、それはガーベラです。あれなら午前中に売り切れました。つぎの入荷はいまのところ未定なんです」

なんということだ。おそかったか。よもや今後は早朝より長蛇の列をなしたとて入手困難、などというまいな。容赦なく悪疹に侵されたおのれの惨状が脳裏をよぎる。いったいどうしたらよいのだ。ゲリラ恐慌。全身が激しく震え、へなへなへたりこんで猫を抱きしめる。

「入荷次第、ご連絡さしあげましょうか……」

「あ。そうしていただけますか。ぜひそうしてください。入荷したら即座にご一報ください。心よりお待ちしておりますから。くれぐれもよろしく頼みましたよ」悲愴な剣幕に気圧された相手を見て、さすがに気恥ずかしさが込みあげる。「あの、それはそれとして、失礼ですが、ひょっとして以前お会いしたことはなかったでしょうか」

「お襁褓の似合う黒猫には、はじめて会ったわ」

 

生あるものすべて息をひそめる春暁。おぼろに光射す街路を眺めながら記憶を手繰り寄せる。

……中二の春休みといえば、もっとも春休みらしい春休みではなかっただろうか。堅雪を踏みしめ同級生の家へ向かうわたしは三冊の本を抱えていた。江戸川乱歩、ジャック・ロンドン、モーパッサン。混沌かつ調和のとれた偏性。すべて苧環に借りた本だった。返却がてら新しい本を借りるつもりだった。きょうは『火星年代記』と『幻想の未来』にしよう。わたしは世界創造と同時に小説世界にも耽溺していた。苧環家はまるで図書館みたいに多彩な分野の本で溢れていた。父親の書斎はもちろんのこと廊下もリビングも応接間もすべて仄暗い本棚の森だった。収まりきらない本はあちこち無造作に積まれていた。けっして大邸宅ではないけれど趣きあるマンサード屋根の家だった。現存していたら今ごろは古民家カフェかなんかで人気だったかもしれない。

無施錠の玄関で「おーい、苧環ぃ」と靴を脱ぎ散らしているとき、そのひとはあらわれた。

「あら、いらっしゃい」朝露を纏った声。「タカシならすぐ帰ってくるわよ、あがって待ってれば」ひらひら手招きした。ァとかゥとか口ごもりながらわたしはリビングのソファに導かれ目を伏せた。てっきり苧環しかいないと思い込んでいた。そのひとはセンターテーブルを挟んだひとり掛けに身を沈め、読みさしの雑誌を手にとった。あとは投げやりな沈黙。うらうら早春の斜光。いったいどうしたらいい。なんでここに座らされたんだ。苧環はどこ行ったんだ。いつ帰ってくるんだろう。あいつの部屋で待たされるほうがよかった。気がきかないな、このひと。てか、そもそもだれなんだろう。いままで会ったことないぞ、この家で。苧環はひとりっ子だからおねえさんのはずない。親戚だろうか。イトコかなんかかな。遊びにきてるのかな。留守番か。それにしてもリラックスしすぎだよ。この家の住人でもないくせに。初対面の中学生を勝手に家にあげて、あろうことか放置したまま雑誌なんか読みふけってる。ジョーシキないな。話しかけてくれるでなし、お茶を出してくれるでもない。てか、そんなこと期待するほうが厚かましいのか、あはは。だけど気まずいな。苧環が帰ってくるまでどうしたらいいんだ。今からあいつの部屋に移動しちゃまずいかな。もしかしてそれは失礼なことなのかな。どこ行ったんだろう苧環。いつ帰ってくるんだろうな。このひとのいう「すぐ」ってどれくらいだろう。たとえ中学生といえど見知らぬ男と一軒家にふたりきりなのに、よく平気で雑誌なんかに集中できるな。このシチュエーション気まずくないのかな。こっちは大いに困るんだけどな。ひとをなんだと思ってるんだろう。まともに相手する必要なしと判断したのか。もしかして、こっちからなんか話しかけたほうがいいのかな。でも、なにしゃべったらいいかわかんないし。いまノドをとおる声がふだんどおりとはとても思えないし。なにしてんだ苧環、はやく帰ってこい。およぐ視線にきらめく残雪。たちのぼる窓辺の戸惑い。和毛の陽射しに舞う塵。ねむたげな柱時計。本の森の深いしじま……

いきなり笑い声。心臓がでんぐり返ってソファから転げ落ちる。

「おかしいわ」

「ほぇ」

「ほんと、おかしい」くつくつ笑うそのひと。おかしくてたまらないらしい。

「子豚」

「は」

「気がつかなかったわ、いままで」

「……」

「子豚だと思ってた」笑いつづける。

「……」

「イベリコ豚ですって、メインディッシュ」誌面を目で追いながら笑いつづけている。

「子豚と勘違いしてたわ、これ読むまで。いべり・こぶたって。でもほんとはいべりこ・ぶたなのね。ああ、おかしい、とっても」

 

あの日、どれくらい苧環を待っていただろう。彼は帰ってきただろうか。憶えていない。後日わたしは彼に訊ねなかった。あれはだれなんだ、と。なぜか自分にもわからない。あの家でふたたびそのひとに遭うことはなかった。後年、苧環はアシスタントを経て漫画家デビュー、少年誌連載中に急逝した。苧環家とあのひとはどういう関係だったのだろう。今もわからない。

冷たく冴えた街路はまるで苧環の漫画のひとコマだ。

 

暁闇のむこうに、ずっと想い焦がれてきたとてつもなく甘美で懐かしい存在が待っている。夜明けの汽笛とモヱンタウムの芳香に導かれ、そこへ近づいていく。もう少し、あともう少しでたどり着く、あるいはたどり着いた、そう思った瞬間、なにものかに引きずり戻されてしまう。ほんの一瞬かいま見たそこには、たしかにかぎりなく甘美で懐かしいものが待っていた。とはいえ、そこはあちら側ではなかった。どちらかというとこちら側であり、あえていうならもうひとつのこちら側だったように思う。ぶざまに引き戻されながら「ああ、おかしい、とっても。またこんど挑戦して」という声を耳にした気もする。

 

朝飯を催促する猫に起こされ、はるかな汽笛を咀嚼しつつコーヒーを啜る。

ふと思いたち例のあれを検索したものの「一致する情報はみつかりません」。このところネット上を飛び交うのは激烈なおしぼり論争だ。悪疹に効果があるのは熱いおしぼりか冷たいおしぼりか。専門家の知見とてあいまいだ。全戸に紙製おしぼりを配布するとの町内会だよりが届いて以来、論争は混沌化した。三カ月を経て紙製おしぼりは未着。自主金縛りはつづく。全身の神経が凍裂のような音を立てるので路線図作成の手を休め外出する。

外国人旅行者が消えた街は淋しい。生命力に溢れた彼らはどこへ行ってしまったのだろう。捨て猫気分で歩いていると、うらぶれた小路に迷い込んでしまった。たてつけの悪い破戸を押し開ける気配とともに初老の男がむくんだ顔をあらわした。ねずみ色の腹巻きに左手を差し込み、もういっぽうで楊枝をつかい「よっ」とこちらに顎をしゃくってみせる。なじみの古民家カフェ店主であった。

「毎度のことながら配給食ってのは不味くてかなわんなあ。おまけに栄養皆無ときちゃ味蕾ぼろぼろ胃は断末魔の悲鳴、ついでに稼業はコーヒー滓に至るまで徴発されちまうなんて、わしの人生いったいなんの罰ゲエムなのかね。おや、そちらは散歩かい。けっこう。せいぜい監視距離を保つことだ」。

この男が戦時妄想にとり憑かれたのは疹禍のせいなのかどうか不明だが、古民家カフェ店主としては優秀な人物なので日頃から敬意を払うようにしている。話相手が欲しかったらしいので、さりげなく促してやると「釈然としないよなあ、各戸でいちばんの悪夢を供出せよとのお達しがあったことは。やわらかな猫の背をなでつつわしは考えたもんさ。いったいどうしたものか。よりによって悪夢と呼ばれるなかでもいちばんおぞましいそれを差し出せだなんて、そんな途方もなくおぞましい行為、だれだってあまりのおぞましさに怖気を震っておぞましがるにきまってるじゃないか。だいたいそのようなおぞましさの極み、いったいなんの役にたつというのだ。じつに無意味で空虚な茶番としか思えないではないか。そもそも当局が定義するところの悪夢とはいったい如何なる代物を指すのか。もがけどあがけど冷汗ぐっしょり妖異夢、汚穢にまみれた糞虫の恥辱夢、夢魔ですら目を背ける超絶変態夢、おおかたそんなところであろう。ふん、べつだん夢に見るまでもないではないか。猫が天を仰ぎ大きく嘆息。ランプの火屋をみがいていた妻が美しい顔を曇らせた。「きっと悪夢をたくさんあつめてお団子みたいにまるめて大きな爆弾をこさえようって考えなのよ。そうしてにっくき敵を懲らしめようって算段なんだわ。どんなに非人間的であろうと人間である以上悪夢が怖ろしいにきまってますからね。そうよ、きっとそうにちがいないわ」

「ええい、なんだかむしゃくしゃする。酒でも飲みにいこう」

朽ちかけた長屋が連なる煤けた路地は静謐なるヒヤシンスの香り。見あげる夜空にはきらめく星座をかすめ帝都防疹研究所へ向かうカーマインレッドとコバルトブルーのだんだら模様機。悠然と尻尾を揺らす猫を従え妻とともに細民街をぞろり往けば、いつもながらに歪んだ棟割長屋の連なりは果てしない虚夢の回廊を想わせる。各戸からはうすぼんやりした灯火のもと貧しげな夕餉のにおい、縁の欠けた食器の触れあう音、病んだ幼な子や老人たちの儚げで抑揚のないつぶやきが洩れてくる。ふいにたてつけの悪い破戸を押し開け初老の男がむくんだ顔をあらわした。ねずみ色の腹巻きに左手を差し込み、もういっぽうで楊枝をつかい「よっ」と顎をしゃくってみせる。国旗デザイン制作中の同級生であった。

その後の至って淋しい懦春の明け暮れは、和毛の陽射しのようにささやかなまどろみが憂鬱でいがらっぽい世界に侵されていく日々だった。居丈高な軍属興行師やリモート風紀係やとんからりとネトナリ組が頻繁にわが家を訪れた。彼らは驟雨のようにあらわれては邪悪な目つきで恫喝しちゃぶ台を蹴散らし卒然と去っていくのだった。そのころにはわしの妄執はかなり投げやりになっていて、ぬめぬめしたおちょぼ口の飛沫女王だのアラートカラーの保護猫だの土中から白面をあらわし哄笑するおうちアイドルだのが果たしてわし自身の迷妄なのか、それとも遠い先祖のオブセッションなのか判然としなくなった。猫や妻との境界なんぞもあやふやになり誰が誰の日常なのか誰がどんな世界に囚われているのかすら見当がつかなくなってしまった。そうこうしているうちに供出の日を迎えたのである。

 

情緒にまかせた戯言ではない。誰かが口走るのを耳にした記憶もない。あるいは胚夢の領域に蹲る口跡……はるかな払暁の残滓が思いがけず起ち顕れたのだろうか。けれど長い年月を隔てて、打ち棄てられた声に再会だなんて、あまりにお値打ちな感傷あるあるである。

大地が吐息をついたような濃霧の明けがた、なにものかの耳打ちで目醒めた。それまで見ていた夢は瞬時に消え去った。

 

フクジュソウの光降りしきる朝。

すがすがしい心持ちで鉄道路線図に向かったものの微かな汽笛に鬼胎が萌す。集中できない。今日こそ入荷の報せは届くだろうか。うわさによると自主金縛り中に不要不急の息を殺し亡くなったひとがいるらしい。

新疫疹に感染した際の症状が詳らかになり大恐慌を来したのは当然のことだ。感染すると数日で下肢にごく微かな痒みをともなう発疹があらわれる。一週間ほどで患部は硬化し激烈な掻痒感に見舞われる。まるで狂気に陥ったかのごとく掻き毟らずにいられぬそうだ。それは次第に全身に拡がる。滲血と嚢腫化を経て真皮に達した悪疹はどす黒い瓜実状の腫瘍に病変する。ひそやかな悪徳めいて増殖した瓜実状腫瘍はその後競って表皮に蝟集。症例写真によると、半ば頭をもたげ半ばめりこんだ瓜実に全身覆われたさまはまるで怪奇瓜人間である。この時点では掻痒感はかなり軽減しているらしい。やがて疹痕こそ残るものの瓜実はぽろぽろ剥落する。うわさによれば大多数の患者は自ら産み落とした数百万粒の瓜実を丁寧に掻きあつめ巨大なガラス容器に保管するという。そして折りにふれ侘しげにかつ愛しげにガラス容器に語りかけるという。それは漸次長時間におよび、最終的に瓜実との対話のみが全人生になる。心身に障るからとガラス容器を取りあげると激しい痙攣発作を起こし昏倒する。そのまま死に至るケースも多い。たとえ死を免れても、とどのつまり廃人である。

 

駆りたてられたように黒猫とともに防疹襁褓を装着し外出する。冴えた光が冷たい街路に射している。シャッター通りのしじまを抜け瀟酒な庇の下に立ち尽くす。扉に貼られたA4の紙に黒々と殴り書きが踊っている。

 

ハジシラズ!

 ゼンブ カレテ シマエ!

 

引きちぎりポケットに押し込みそっと扉を押す。溢れる芳香と色彩。呻るグレン・グールド。

「あら、いらっしゃい」訝しげにこちらを見る。朝露を纏った花を束ねているところだった。「まだ入荷してないの」

「あ、あの、そうじゃないんです」とっさに言い繕ってしまう。「つまりその、入荷の報せが待ちきれないわけじゃなくて……」猫がわたしの足をつんつんし眼前の鉢植えに視線を促す。記憶の蕾のように青い花。「あの、きょうは花を買いにきたんです。なにか、とてもきれいな花を」

「まあ、ギフトですか、記念日かしら」

「ちょっとした仕事のつきあいの得意先の、えとあの、ま、そんなところでして」

「アレンジフラワーにしましょうか、どんなお花がいいかしら」

「そこの鉢植えの花を、ぜひ」吐息めいて群れ咲く可憐な青い花。「それがいいです」

「丁寧にお手入れすると、ずっと咲いてくれますよ、それ」

「ください、ぜひ。あ、領収書もください」

「あて名はどうなさいますか」

「それは、上で」

「はい。……えっと、ウエって、クサカンムリのウエだったかしら……」

朝露に潤んだ蕾がいっせいに開花する……ATMの時間よとMRI検査室に案内した看護師、極上の源泉タレ流しなんですとツアー添乗員、今後はドライブスルー取り付けなきゃねと事故処理警官。朝露を纏った声、声、声……。

鉢植えを抱え家路をたどりながら考える。「どんな漢字だっけ、クサカンムリのウエって」

 

やさしい霧雨にライラックの小枝が震えている。

なぜか戦時妄想が蔓延しているらしい。ラジオの人生相談で中年女性が訴えている。

……たしかに就寝中に兵隊さんが、それは敵兵かそれとも自国兵かさだかではありませんけど、あたしんちに侵入するんです。ええ、眠るといつもです。玄関もベランダもお風呂やトイレの小窓も、家じゅうどこもかしこもしっかり戸締まりしたはずなのに、あたしが眠りに落ちるとすぐに兵隊さんが寝室にやってくるんです。ゆらゆら、もやもやした翳みたいで表情ははっきりしませんけど。汗の滲みた軍服や背嚢や銃油や火薬のにおいで、まちがいなく兵士だとわかります。あたしいつも驚いて跳び起きてしまうんです。どきどきする胸を両手で押さえ目を凝らすと周りに姿はなく気配だけが残っているんです。いつもそうなんです。兵隊さんがやってくるたびに驚愕して跳ね起きてしまうんです。ああ申しわけないな、お気の毒だわと思いつつ、ものすごくびっくりしてしまいます。

それでいて、あたしにはわかっていたんです。いつもしずかな佇まいだけど兵隊さんはギラギラした激情に苛まれていましたし軍服の下のせつない衝動が痛いくらいに感じとれましたから。あたしがあんまり驚愕するものだから面喰らい、ためらってしまい、なにもできずにいたのです。とてもお気の毒に思ってちゃんとしよう、礼節をわきまえなくちゃと思うのだけど、いざとなるとやっぱり酷く驚愕してしまうのでした。

そんなある日の午後、狂烈な睡魔に襲われたあたしは好物のごぼ天と読みかけの本を床に落とし、そのままソファで吸い込まれるように寝入ってしまいました。すぐに兵隊さんがやってきました。いつもみたいに跳ね起きようとしたけど、このときばかりはあまりに身体がだるくて、まるで縛りつけられたみたいにソファの上にぐったり横たわったままでした。くろぐろした翳が真上から覗き込み、ごくりと唾を呑む気配がしました。

ですから、あたしにはよくわかっていたのです。わっと泣きだしたい軍服の下の衝動、そこには底知れぬ飢餓があります。ああ、お気の毒だわ可哀想。恥も外聞もなくこんなものにすら瞳をギラつかせ涎を垂らすなんて。こんな卑しい下賤なものにまで。ああ、なんて可哀想なんでしょう、哀れにもほどがあるわ。だったら、そう、あたしちゃんとしたお食事をつくりましょう、なにかうんと美味しくて栄養のあるものを。お腹いっぱいになるものを。こんなご時世ですから、おうちクッキングがなによりですもの。なにがいいかしら。そう、こんな場合はやっぱりお肉料理にかぎるわ。ぶ厚いステーキもいいしスキヤキしゃぶしゃぶジンギスカンにハンバーグ骨付きカルビに特上ロースハラミそしてサガリにホルモン牛タンハツレバーミノセンマイコブクロそれからユッケに牛刺しもいいでしょう、ああ涎がでそう堪らないわ、たっぷり脂がのった臀部やこりこりツウ好みの睾丸なんかはやっぱりシチューが最適かしら、銃油や火薬臭さえ目をつぶれば喰らい尽くし甲斐あるってものでしょう、まずたまねぎとじゃがいもをひと口大に切りにんじんは皮をむいて乱切りにします。筋肉質で美味しそうな腿肉や肩ロース肉は血抜きをしたあと食べやすい大きさに切断します。塩こしょうを軽くふりもみ込んだあと、深めのフライパンにバターを熱し焦げないように中火で焼きます。ここがポイントですから繰り返しますけど、あらかじめ塩でもみ込んで十分に柔らかくしておくのが美味しく仕上げるコツ。中火で全面に焼き色をつけたら鍋を火にかけ沸騰させ弱火で二十分ほど煮込みます。しつこい銃油臭が気になるようでしたら香辛料を加えてさらに二十分煮ましょう。煮汁が煮詰まって濃すぎるようでしたら水を加えて調整しましょうね。浮いている脂はしっかり取り除きましょう。焦がさないようにときどき混ぜながら弱火でじっくり丁寧に煮込みます。さあ、お待ちどうさま。上質でまろやかなコク、まるで天涯までいざなうかのような奥深い味わいのシチューの出来上がりです。

 

どこかで夜明けの汽笛が啼いている。

どうやらまた一日がはじまるらしい。

 

路線図は佳境を迎えた。鉄路はいつしか国境間近。列車は隣国の首都めざして穀倉地帯をひた走る……飛び発つ渡り鳥の群れ、芳醇な田園の香り、大地を這う懐かしい光と霧、淡くやさしい調べと触覚、忘却のしずけさ……国境の街の紋章は可憐な青い花。

ふいに言いしれぬ倦怠をおぼえ、窓辺に置いた鉢植えで眼を休める。入荷の報せは来ない。しかるに町内会の監視を掻い潜った黒猫がさまざまな情報を持ち帰る。……衣服の締めつけこそ新疫疹の元凶とヌーディスト集団が高級ブティックを襲撃。防疹研究所では掻痒感を痛覚で滅すべく患者を殴打する人体実験中。深海魚をワクチン化と某国際機関。これを受け近くおさかな通貨発行が閣議決定、毎食十尾の深海魚摂取を義務化する見通し。そもそも瓜実疹の定義はない。疹禍など実在しない。すべては胡乱勢力による陰謀である……。入手した雑多な情報を列挙しつつ黒猫は身体中を掻き毟っている。その様子をじっと眺めていたら眼と眼が合った。妖しい瞳に朝露が光る。すぐに出かける支度をする。もう防疹襁褓は要らない。

猫もわたしもひっきりなしに立ち止まり、狂ったように身体じゅう掻き毟るので、なかなか歩みは捗らない。以前の数倍も時間をかけ、ようやく瀟酒な庇の下にたどり着く。ガラス扉が粉々に砕けている。真暗な店内は無人だ。グレン・グールドの呻りも聴こえない。逆巻く寒風が両頬を嬲っていく。ホワイトアウトとブラックアウトが同時に襲いかかった気分。ならば捜さねばならない。幾夜もあてどなく捜し歩いたのだ。これからも捜し歩かねばならない。

耐えがたい痒みに苛まれ、全身を掻き毟りつつターミナル駅まで急ぐ。ようやく並んだ窓口で、花核貨にて切符を手に入れる。中二の創造主が実物通貨を採用したためだ。キオスクに立ち寄り、残りの花核貨で海苔弁当とお茶とチョコ大福を購入する。そして黒猫とともに朝露色の列車に乗り込む。ほかに乗客はいないので好みの座席に腰を据える。列車は国境の街めざして定刻どおりホームを滑りだす。次第に速度を増す鉄路のリズム。窓外の風景を眺めながら弁当を食べお茶を飲む。チョコ大福はあとの楽しみにとっておく。掻き毟りすぎて疲れ果てたのか猫は座席に丸まり寝息を立てはじめる。わたしもまた睡魔に誘われ目を閉じる。鉄路のリズムが心地よい。もう少し、あともう少しでたどり着くだろう。かぎりなく甘美で懐かしい朝露の記憶……思わず笑みを洩らし目を開けると、周囲は薄暗い夜行列車内。陰鬱な車窓に映る瓜人間。ゆらめく車内灯のもと、お互いを凝視しながらチョコ大福をのろのろ頬張る。身震いするほど甘い、はずなのに、なぜか無味。

「ああ、おかしい、とっても」。

2021年3月15日公開

© 2021 飽田 彬

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