モヱンタウム

飽田 彬

小説

11,770文字

どこかで夜明けの汽笛が啼いている……早春の記憶をもとめて国境の街へ。

陽気なサンバ隊がまぶたの裏を往来するのは疲労と空腹ゆえか。夜を徹して骨の折れる緻密な仕事に没頭していたのだから無理もない。われに返れば春愁たなびく昼さがり。製図ペンを置き大きく伸びをして痺れた手指を揉みほぐす。

鉄道路線図作製はきわめて峻厳な仕事である。創建以来、鉄道とともに発展してきた都市が起点であれば、なおのこと。しかもこの仕事はコンピュータに頼ることなく、すべて手作業で遂行しなければならぬ。たとえ偏頭痛と肩凝りが酷くなるいっぽうであろうとも。

 

すべてのきっかけは中学時代に遡る。

あるうららかな午後だった。わが数学のノートに世界が誕生した。大洋、大陸そして島嶼群によるおごそかな創世序曲。大いなる期待とともに聴き入っていると、またたくまに多彩な有機生命体がひしめき唱和した。ここまでは上首尾だった。やがて人類が登場し不協和音を轟かせる。絶え間ない諍いを通奏低音として自前の旋律を主張する。多様なアイデンティティと言語の譜面は必須である。意識が遠のくような大事業のはじまりだ。神の領域なのだから当然である。自宅でも学校でも、わたしは無我夢中で新世界設計に取り組んだ。専心すべき分野は無限とも思えたが、まずは精密なアトラスと歴史年表作成に文字どおり寝食を忘れて没入した。幾度も初心に立ち戻り、細心の注意を払い軌道修正することを厭わなかった。人類史を編む過程で、わたしがもっとも神経を研ぎすましたのは国名ならびに都市名である。地名に宿る霊性こそが新世界創造の鍵であることをわたしは得心していた。思いがけず異様な艱難を強いたのは政治体制の仕組みだった。それはまさに魔境に棲む魑魅魍魎だった。夏休み最終日の未明、ついにわたしは屈服した。中二の創造主が夢見る理想など、この世界は一顧だにしていないのだ。わたしは忠実なる記録係に徹することにした。いつしかノートは三十数冊に達した。もちろん周囲には秘密にしていたけれど、ある日うっかりして級友にノートを取り上げられてしまい、教室中の嘲笑を浴び囃したてられた……なんだぁこれ、まるっきりわけわかんねえ、おまえ頭イカレちまったのか……。たったひとりだけ理解を示した同級生がいた。漫画家志望の彼は、百数十を超える国旗デザイン作成を請け負ってくれた。

あれから幾星霜。いまだ世界はその全貌を明らかにしていない。膨大な数のノートはクローゼットまるごとと天井までの高さの本棚四つを占有し、わたしの仕事はより濃密で繊細な領域に踏み込んだ。ふとしたきっかけで、最近ある迷宮めいた都市の魔性に魅了され、計画を大きく逸脱し主要言語の祖語再建作業を一時休止、旧市街にそびえる壮麗なターミナル駅および放縦な鉄道網にとり憑かれたあげく、路線図作成に全精力を注ぐ成りゆきとなった。デザイン思想と地理的精確さが高次元で結実した鉄道路線図である。いまのところ満足のいく進捗状況だ。すこし休憩することにしよう。

 

おそい昼食を摂りつつ、なにげなくスマホをチェックしていると、SNS上を逍遥する奇妙な情報に目がとまった。

 

 モヱンタウムで疹禍に克つ! あ~らフシギ! 煎じて服用すれば悪疹パッと退散! ただし八重咲きにかぎるよ!

 

さっそく出かける支度をしていると、猫がなにやら訴え啼くので、お手製防疹襁褓を装着してやったら、思いのほか似合うので、ほのぼのとうれしくなった。黒猫には深紅がじつによく似合う。よし、いっしょに連れて行くこととしよう。

 

寂寞のまちかど。甘やかな微風に歩みをとめ、あらためてスマホを確認すると、なぜかかの情報はヒットしない。まるで痕跡なし。いったいどうしたことだろう。なぜ消え失せてしまったのだろう。こんなに瞬時に跡形もなく。それほどまでに重要かつ危険な情報だったのだろうか。ひょっとして、なにやら選別のつもりなのだろうか。猫が不審げに周囲を見回す。さいわいなことにわが記憶はじつに鮮明だ。ギリシャ語あるいはラテン語じみた語感だった。なにかの学名だろうか。無鉄砲に外出したはいいけれど、それはいったいどこで入手すべきものなのだろう……たしか情報には八重咲きにかぎる、とあったはず。ということは花卉類だろうか。生花店やらフラワーショップなどと称する小売店で買い求めればよいのだろうか。そうだ。きっとそうにちがいないぞ。明晰なるわが頭脳に非常にうれしくなり、ポルカのステップで歩みをすすめる。

午後の憂い揺蕩う一郭にそれらしき店舗はあった。『お花』。瀟酒な入口の庇に洒落た書体でそう記してある。『お花』という屋号なのだろうか。ごく近所でありながら今までこの店の存在には気づかなかった。さっそく華奢な扉を押すと清冽な芳香と色彩がわたしたちを出迎えた。猫が小さく鼻をひくつかせる。こじんまりとした店内は無人だ。かすかなBGMが鳴り響いている。グレン・グールドの乾いた呻り声。

「あのう、だれかいませんか。もしもし、お客ですよ、お花さん」そう声をかけると、芳香と色彩の彼方からひとの気配が。

「あら、いらっしゃい」朝露を纏った声。ゆらり邂逅、ゆらぐ時軸。「ごめんなさい、お待たせして。いま奥でだんじりしていたものですから。なにしろこんな小さなお店でしょう、いつのまにかいろんなもので溢れてしまって。この際だんじりしなくちゃって決心したところだったんです」

「は」

「でもいざ処分しようと思うと、ちょっと待って、やっぱり必要なものかも、なんて迷いはじめちゃって。なんだかむずかしいですね、だんじりって」

「……あのう、ひょっとすると、それはだんしゃり、では」

「あら、あなたも例のあれなのかしら」

とりあえず話ははやいものの、あなたも、ということは、すでに先客ありということだろうか。一抹の不安をおぼえつつ「ともかくそれはそうです。どれでしょうか例のあれは。おひとつくださいな。価格はいかほどでしょう」芳香と色彩に溢れた周囲をきょときょと見渡しつつせっかちに財布を取り出す。さっさと手に入れ帰宅し煎じて服用し悪疹からわが身を守らねば。そして引きつづき鉄道路線図作製に取り組まねばならぬ。おうおう忘れちゃいけない八重咲きだぞ、まちがいなく八重咲きを買い求めるのだぞ。

「まあ、すてきなお襁褓だこと。とてもお似合いね、あなた」性急すぎる客に応えようとはせず黒猫に慈愛を手向ける花の精。うれしげに喉を鳴らす猫。

「あ、その襁褓はわたしが手づくりしたものなのです。自分でいうのもなんですがたいへん手先が器用なもので。ちなみに猫とわたしとおそろいです。で、どれでしょうか。どれが例のあれなのですか。これですか、それともこれかな」

「あら、それはパンジーですよ、そっちはバラ、それはガーベラです。あれなら午前中に売り切れてしまいました。つぎの入荷はいまのところ未定なんです」

なんということだ。おそかったか。よもや今後は早朝より長蛇の列をなしたとて入手困難、などというのではあるまいな。容赦なく悪疹に侵されたおのれの惨状が脳裏をよぎる。いったいどうしたらよいのだ。唐突なるゲリラ恐慌。全身が激しく痙攣し、へなへなへたりこんで猫を抱きしめる。

「入荷次第、ご連絡さしあげましょうか」

「あ。そうしていただけますか。ぜひそうしてください。入荷したら即座にご一報ください。心よりお待ちしておりますから。くれぐれもよろしく頼みましたよ」悲愴な剣幕に気圧された相手を見て、さすがに気恥ずかしさが込みあげる。「あの、それはそれとして、失礼ですが、ひょっとして以前お会いしたことはなかったでしょうか」

「お襁褓の似合う黒猫って、はじめて。おかしいわ、とっても」

 

生あるものすべて息をひそめる春暁。おぼろに光射す街路を見つめながらはるかなる記憶をまさぐる。

……中二の春休みといえば、もっとも春休みらしい春休みではなかっただろうか。その日、堅雪を踏みしめつつ同級生の家へ向かうわたしは三冊の本を抱えていた。江戸川乱歩、ジャック・ロンドン、モーパッサン。混沌かつ調和のとれた偏性。すべて苧環君に借りた本だった。返却がてら新しい本を借りる予定だった。きょうは『火星年代記』と『幻想の未来』にしよう。わたしは世界創造と同時進行で小説世界にも耽溺していた。そのころの苧環家は並みの図書館以上に多彩な分野の本で溢れかえっていた。父親の書斎はもちろんのこと、廊下もリビングも応接間もすべて仄暗い書棚の森だった。収まりきらない本は家中あちこち無造作に積み上げられていた。けっして大邸宅ではなかったけれど、なかなかに趣きのあるマンサード屋根の住宅だった。現存していたら、いまごろは古民家カフェかなんかで人気だったかもしれない。

無施錠の玄関で「おーい、苧環ぃ」と靴を脱ぎ散らしていると、そのひとはあらわれた。

「あら、いらっしゃい」朝露を纏った声。「タカシならすぐ帰ってくるわよ、あがって待ってたら」無造作にひらひら手招きした。ァとかゥとか口ごもりつつわたしはリビングのソファに導かれ目を伏せた。てっきり苧環しかいないはずと思い込んでいたのだ。そのひとはセンターテーブルを挟んでひとり掛けチェアに身を沈め、読みさしだったらしい雑誌を手にとった。あとは投げやりな沈黙。うらうら揺蕩う早春の斜光。なんでここに座らされたんだ。いったいどうしたらいいんだ。苧環はどこ行ったんだろう。いつ帰ってくるんだろう。あいつの部屋で待たされるほうがよかった。気がきかないな、このひと。てか、そもそもだれなんだろう、このひと。いままで一度も会ったことないぞ、この家で。苧環はひとりっ子だからおねえさんのはずない。親戚だろうか。イトコかなんかかな。遊びにきてるのだろうか。留守番か。それにしてはリラックスしすぎだよ。この家の本来の住人でもないくせに。初対面の中学生を勝手に家にあげて、しかもあろうことか放置したまま雑誌なんか読みふけってる。ジョーシキないな。話しかけてくれるでなし、お茶をだしてもてなしてくれるでもない。てか、そんなこと期待するほうが厚かましいのか、あはは。だけど気まずいな。苧環が帰ってくるまでどうしたらいいんだろう。いまから勝手にあいつの部屋に移動しちゃまずいかな。もしかしてそれは失礼なのかな。どこ行ったんだろうな苧環。いつ帰ってくるんだろう。このひとのいう「すぐ」ってどれくらいなんだろう。てか、たとえ中学生といえど見知らぬ人間とふたりきりなのに、よく平気で雑誌になんか集中できるな。このシチュエーション気まずくないのかな。こっちは大いに困るんだけどな。ひとをなんだと思ってるんだろうな。まともに相手する必要なしと判断したのか。もしかして、こっちからなんか話しかけたほうがいいのかな。でも、なにをしゃべったらいいかわかんないし。いまノドを通過する声がふだんどおりとはとても思えないし。なにしてんだ苧環、はやく帰ってこいよ。泳ぐ視線のさきにきらめく残雪。たちのぼる窓辺の戸惑い。和毛の陽射しに舞う静寂。ねむたげな柱時計……

いきなり笑い声。心臓がでんぐり返ってソファから転げ落ちる。

「おかしいわ」

「ほぇ」

「ほんと、おかしい」くつくつ笑うそのひと。おかしくてたまらないらしい。

「子豚」

「は」

「気がつかなかったわ、いままで」

「……」

「子豚だとばかり思ってた」笑いつづける。

「……」

「イベリコ豚なんですって、メインディッシュ」誌面を目で追いながら笑いつづけている。

「子豚と勘違いしてたわ、これ読むまで。いべり・こぶたって思ってたの、いままで。でもほんとはいべりこ・ぶたなのね。ああ、おかしい、とっても」

 

あの日、わたしはどれくらい苧環君を待っていたのだろう。彼は帰ってきただろうか。憶えていない。そして後日わたしは彼に訊ねはしなかった。あれはいったいだれなんだ、と。なぜかは自分でもわからない。あの家でふたたびあのひとに遭うことはなかった。後年、苧環君はアシスタントを経て漫画家デビュー、少年誌連載中に急逝してしまった。あのひとと苧環家はどういう関係だったのだろう。いまもわからない。

われにかえると、冷たく冴えた街路はまるで苧環君の漫画のひとコマだ。

 

暁闇のむこうに、ずっと想い焦がれていたとてつもなく甘美で懐かしい存在が待っている。夜明けの汽笛とモヱンタウムの芳香に導かれながら、そこへ近づいていく。もう少し、あともう少しでたどり着く、あるいはたどり着いた、そう思った瞬間、なにものかに足首を掴まれ引きずり戻されてしまう。ほんの一瞬かいま見たそこには、たしかにかぎりなく甘美で懐かしいものが待っていた。とはいえ、そこはあちら側ではなかった。どちらかといえばこちら側であり、あえていうならもうひとつのこちら側であったように思う。ぶざまに引きずり戻されながら「ああ、おかしい、とっても。またこんど挑戦して」という声を耳にしたような気もする。

 

朝飯を催促する猫に起こされ、はるかな汽笛の余韻のように苦いコーヒーを啜る。

ふと思いだし、例のあれを検索してみる。あらわれるのは「一致する情報はみつかりません」の表示。

このところネット上を飛び交うのは激烈なおしぼり論争ばかりだ。悪疹に効果があるのは熱いおしぼりか冷たいおしぼりか。専門家の知見とてあいまいだ。全戸に紙製おしぼりを配布しますという町内会だよりが届いて以来、論争は混沌化した。三カ月を経て紙製おしぼりは未着である。忖度金縛りはつづく。全身の神経が凍裂のような音を立てはじめたので、路線図作成の手を休め、わたしは外出する。

外国人観光客が消えた街は淋しい。生命力に溢れた彼らはいったいどこへ去ってしまったのだろう。捨て猫気分で歩いていると、いつのまにかうらぶれた小路に迷い込んでしまった。たてつけの悪い破戸を押し開ける気配とともに初老の男がむくんだ顔をあらわした。ねずみ色の腹巻きに左手を差し込み、もういっぽうで楊枝をつかいつつ「よっ」とこちらに顎をしゃくってみせる。なじみの古民家カフェ店主であった。

「毎度のことながら配給食ってのは不味くてかなわんなあ。おまけに栄養皆無ときちゃ味蕾ぼろぼろ胃は断末魔の悲鳴、ついでにわが稼業はコーヒー滓に至るまで徴発の憂き目にあっちまうなんて、わしの人生いったいなんの罰ゲエムなのかね。おや、そちらは散歩かい。けっこう。せいぜい相互監視距離を保つことだ」。

この男が戦時妄想にとり憑かれたのは疹禍のせいかどうか不明であるが、古民家カフェ店主としては善良な人物なので、日頃から敬意を払うようにしている。どうやら話相手に飢えていたらしいので、さりげなく促してやると、「しかしまあ、釈然としないよなあ、各戸でいちばんの悪夢を供出せよだなんてお達しがあったことは。やわらかな猫の背をなでつつわしは考え込んだもんさ。いったいどうしたものか。だって、よりによって悪夢と呼ばれるなかでもいちばんおぞましいそれを差し出せだなんて、そんな途方もなくおぞましい行為、だれだってあまりのおぞましさに怖気を震っておぞましがるにきまってるじゃないか。だいたいそのようなおぞましさの極み、いったいなんの役にたつというのだ。じつに空虚で無意味な茶番としか思えぬではないか。そもそも当局が定義するところの悪夢とはいったい如何なる代物を指すのか。もがけどあがけど冷汗ぐっしょり怪異夢、汚穢にまみれた糞虫みたいな恥辱夢、夢魔ですら目を背けるであろう超絶変態夢、おおかたそんなところであろうが、ふん、べつだん夢に見るまでもないではないか。猫が天を仰ぎ大きく嘆息し、ランプの火屋をみがいていた妻が美しい表情を曇らせた。「きっと悪夢をたくさんあつめてお団子みたいにまるめて大きな爆弾をこさえようって考えなのよ。そうしてにっくき敵を懲らしめようって算段なんだわ。どんなに非人間的であろうと人間である以上は悪夢が怖ろしいにきまってますからね。そうよ、きっとそうにちがいないわ」

「ええい、なんだかむしゃくしゃする。酒でも飲みにいこうではないか」

朽ちかけた長屋が連なる煤けた路地は静謐なるモヱンタウムの香り。見あげる夜空にはきらめく星座をかすめ帝都防疹研究所へ向かうカーマインレッドとコバルトブルーのだんだら爆撃機。妻とともに悠然と尻尾を揺らす猫を従え細民街をぞろり往けば、いつもながらに歪んだ棟割長屋の連なりは果てしない虚夢の回廊を想わせる。各戸からはうすぼんやりした灯火のもと貧しげな夕餉のにおい、縁の欠けた食器の触れあう音、病んだ幼な子や老人たちの儚げで抑揚のないつぶやきが洩れてくる。ふいにたてつけの悪い破戸を押し開け初老の男がむくんだ顔をあらわした。ねずみ色の腹巻きに左手を差し込み、もういっぽうで楊枝をつかい「よっ」と顎をしゃくってみせる。国旗デザイン制作中の漫画家志望同級生であった。

その後の至って淋しい懦春の明け暮れは、和毛の陽射しのようにささやかなまどろみが憂鬱でいがらっぽい異物に侵されていく日々だった。居丈高な軍属興行師やリモート風紀係やとんからりとネトナリ組が頻繁にわが家を訪れた。彼らは驟雨のようにあらわれては邪悪な目つきで恫喝しちゃぶ台を蹴散らし卒然と去っていくのだった。そのころにはわしの妄執はかなり投げやりになっていて、ぬめぬめしたおちょぼ口の飛沫女王だのアラートカラーの保護猫だの土中から白面をあらわし哄笑するおうちアイドルだのが果たしてわし自身の迷妄なのか、それとも遠い先祖のオブセッションなのか判然としなくなってしまった。猫や妻との境界なんぞもあやふやになり誰が誰の日常なのか誰がどんな異界に囚われているのかすら見当がつかなくなってしまった。そうこうしているうちに供出の日を迎えたのである。

 

しかしながら、情緒にまかせた戯言ではない。誰かが口走るのを耳にした記憶もない。あるいは胚夢の領域に蹲る口跡……はるかな払暁の残滓が思いがけず起ち顕れたのだろうか。けれど長い年月を隔てて、打ち棄てられた声に再会するだなんて、あまりにお値打ちな感傷あるあるである。

大地が吐息をついたような濃霧の明けがた、わたしはなにものかの耳打ちで目醒めた。それまで見ていた夢は瞬時に消え去った。

 

フクジュソウの光降りしきる朝。

すがすがしい心持ちで鉄道路線図に向かったものの微かな汽笛に鬼胎が萌す。集中できない。今日こそ入荷の報せが届くだろうか。うわさによると忖度金縛り中に不要不急の息を殺して亡くなったひとがいるという。

新疫疹に感染した際の症状が詳らかになるにつれ大恐慌を来したのは当然のことである。潜伏期間は五〜二十日とされる。その後、数日で下肢にごく微かな痒みをともなう発疹があらわれる。一週間ほどで全身に拡がった患部は硬化し激烈な掻痒感に見舞われる。まるで狂気に陥ったかのごとく掻き毟らずにはいられない。それは次第に全身に拡がる。滲血と嚢腫化を経てやがて真皮に達した悪疹はどす黒い瓜実状の腫瘍へと病変する。ひそやかな悪徳めいて増殖した瓜実状腫瘍はその後競うかのように表皮に蝟集。症例写真によれば、半ば頭をもたげ半ばめりこんだ瓜実に全身覆われたさまはまるで怪奇瓜人間のごとくである。この時点では掻痒感はかなり軽減している。やがて疹痕こそ残るものの瓜実はぽろぽろと剥落する。うわさによれば患者は例外なく自ら産み落とした数百万粒の瓜実を丁寧に掻きあつめ巨大なガラス容器に保管するという。そして折りにふれ侘しげに、愛しげにガラス容器に語りかけるという。それは漸次長時間におよび、最終的には瓜実との対話のみが全人生となる。心身に障るからとガラス容器を取りあげれば激しい痙攣発作を起こし昏倒する。そしてそのまま死に至るケースが多い。たとえ死を免れても、とどのつまり廃人である。

 

駆りたてられたように黒猫とともに防疹襁褓を装着し外出する。冴えた光が冷たい街路に射している。シャッター通りのしじまを抜け瀟酒な庇の下に立ち尽くす。扉に貼られたA4の紙に黒々と殴り書きが踊っている。

 

ハジシラズ!

 ゼンブ カレテ シマエ!

 

わたしはそれを引きちぎりポケットに押し込みそっと扉を押す。溢れる芳香と色彩。呻るグレン・グールド。

「あら、いらっしゃい」そのひとは訝しげにこちらを見る。朝露を纏った花を束ねているところだった。「まだ入荷してないの」

「あ、あの、そうじゃないんです」とっさに言い繕ってしまう。「つまりその、入荷の報せが待ちきれないわけじゃなくて……」猫がわたしの足をつんつんし眼前の鉢植えに視線を促す。それは記憶の蕾のように可憐な青い花。「あの、きょうは花を買いにきたんです。なにか、とてもきれいでやさしい花を」

「あら、ギフトですか、記念日かしら」

「ちょっとした仕事のつきあいの得意先の、えとあの、ま、そんなところでして」

「アレンジフラワーにしましょうか、どんなお花がいいかしら」

「そこの鉢植えの花を、ぜひ」吐息めいて群れ咲く青い花。「それがいいです」

「丁寧にお手入れすると、ずっと咲いてくれますよ、それ」

「ください、ぜひ。あ、領収書もください」

「ありがとうございます。領収書のあて名はどうなさいますか」

「それは、上で」

「はい、わかりました……えっと、ウエって、クサカンムリのウエだったかしら……」

朝露に潤んだ蕾がいっせいに開花する……ATMの時間よとMRI検査室に案内した看護師、極上の源泉タレ流しなんですとツアー添乗員、今後はドライブスルー取り付けなきゃねと事故処理警官。朝露を纏った声、声、声……。

鉢植えを抱え家路をたどりながらわたしは考える。「どんな漢字だろうな、クサカンムリのウエって」

 

やさしい霧雨にライラックの蕾が震えている。

最近なぜか戦時妄想が蔓延しているらしい。ラジオの人生相談で中年女性が訴えている。

……たしかに就寝中に兵隊さんが、それは敵兵かそれとも自国兵かさだかではありませんけど、あたしんちに侵入するんです。ええ、眠るといつもです。玄関もベランダもお風呂やトイレの小窓も、家じゅうどこもかしこもしっかり戸締まりしたはずなのに、あたしが眠りに落ちるとすぐに兵隊さんが寝室にやってくるんです。ゆらゆら、もやもやした翳みたいで表情ははっきりしませんけど。汗の滲みた軍服や背嚢や銃油や火薬のにおいで、まちがいなく兵士だとわかります。あたしいつも驚いて跳び起きてしまうんです。どきどきする胸を両手で押さえ目を凝らすと周りに姿はなく気配だけが残っているんです。いつもそうなんです。兵隊さんがやってくるたびに驚愕して跳ね起きてしまうんです。ああ申しわけないな、お気の毒だわと思いつつ、ものすごくびっくりしてしまいます。

それでいて、あたしにはわかっていたんです。いつもしずかな佇まいだけど兵隊さんはギラギラした激情に苛まれていましたし軍服の下のせつない衝動が痛いくらいに感じとれましたから。あたしがあんまり驚愕するものだから面喰らい、ためらってしまい、なにもできずにいたのです。とてもお気の毒に思ってちゃんとしよう、礼節をわきまえなくちゃと思うのだけど、いざとなるとやっぱり酷く驚愕してしまうのでした。

そんなある日の午後、狂烈な睡魔に襲われたあたしは好物のごぼ天と読みかけの本を床に落とし、そのままソファで吸い込まれるように寝入ってしまいました。すぐに兵隊さんがやってきました。いつもみたいに跳ね起きようとしたけど、このときばかりはあまりに身体がだるくて、まるで縛りつけられたみたいにソファの上にぐったり横たわったままでした。くろぐろした翳が真上から覗き込み、ごくりと唾を呑む気配がしました。

ですから、あたしにはよくわかっていたのです。わっと泣きだしたい軍服の下の衝動、そこには底知れぬ飢餓があります。ああ、お気の毒だわ可哀想。恥も外聞もなくこんなものにすら瞳をギラつかせ涎を垂らすなんて。こんな卑しい下賤なものにまで。ああ、なんて可哀想なんでしょう、哀れにもほどがあるわ。だったら、そう、あたしちゃんとしたお食事をつくりましょう、なにかうんと美味しくて栄養のあるものを。お腹いっぱいになるものを。こんなご時世ですから、おうちクッキングがなによりですもの。なにがいいかしら。そう、こんな場合はやっぱりお肉料理にかぎるわ。ぶ厚いステーキもいいしスキヤキしゃぶしゃぶジンギスカンにハンバーグ骨付きカルビに特上ロースハラミそしてサガリにホルモン牛タンハツレバーミノセンマイコブクロそれからユッケに牛刺しもいいでしょう、ああ涎がでそう堪らないわ、たっぷり脂がのった臀部やこりこりツウ好みの睾丸なんかはやっぱりシチューが最適かしら、銃油や火薬臭さえ目をつぶれば喰らい尽くし甲斐あるってものでしょう、まずたまねぎとじゃがいもをひと口大に切りにんじんは皮をむいて乱切りにします。筋肉質で美味しそうな腿肉や肩ロース肉は血抜きをしたあと食べやすい大きさに切断します。塩こしょうを軽くふりもみ込んだあと、深めのフライパンにバターを熱し焦げないように中火で焼きます。ここがポイントですから繰り返しますけど、あらかじめ塩でもみ込んで十分に柔らかくしておくのが美味しく仕上げるコツ。中火で全面に焼き色をつけたら鍋を火にかけ沸騰させ弱火で二十分ほど煮込みます。しつこい銃油臭が気になるようでしたら香辛料を加えてさらに二十分煮ましょう。煮汁が煮詰まって濃すぎるようでしたら水を加えて調整しましょうね。浮いている脂はしっかり取り除きましょう。焦がさないようにときどき混ぜながら弱火でじっくり丁寧に煮込みます。さあ、お待ちどうさま。上質でまろやかなコク、まるで天涯までいざなうかのような奥深い味わいのシチューの出来上がりです。

 

どこかで夜明けの汽笛が啼いている。

どうやらまた一日がはじまるらしい。

 

わが路線図はついに佳境を迎えた。鉄路はいつしか国境間近。列車は隣国の首都めざして穀倉地帯をひた走る……飛び発つ渡り鳥の群れ、芳醇な田園の香り、大地を這う懐かしい光と霧、淡くやさしい調べと触覚、忘却のしずけさ……国境の街の紋章は可憐な青い花。

ふいに言いしれぬ不安をおぼえ、窓辺に置いた鉢植えで眼を休める。入荷の報せはまだ来ない。しかるに町内会の監視を掻い潜った黒猫はさまざまな情報を寄せ集め持ち帰る。……衣服の締めつけこそ新疫疹の元凶であるとヌーディスト集団が高級ブティック襲撃。防疹研究所では掻痒感を痛覚で滅すべく患部を殴打する人体実験を行っている。深海魚のワクチン化に成功と某国際機関が発表。これを受け、おさかな通貨発行を閣議決定、毎食十尾の深海魚摂取を義務化する法案が可決見通し。待て待て、そもそも瓜実疹の定義はない。疹禍など実在しない。すべては胡乱勢力による陰謀なのである……。それら入手した雑多な情報を列挙しつつ黒猫は身体中を掻き毟っている。その様子をじっと見つめていたらふいに黒猫と眼が合った。妖しい瞳に朝露が光っている。わたしはすぐに出かける支度をする。もう防疹襁褓など要らない。

猫もわたしもひっきりなしに立ち止まり、狂ったように身体じゅう掻き毟るので、なかなか歩みは捗らない。以前の数倍も時間をかけ、ようやく瀟酒な庇の下にたどり着く。入り口のガラス扉が粉々に砕けている。真暗な店内は無人だ。グレン・グールドの呻りはもはや聴こえない。逆巻く寒風が両頬を嬲っていく。ホワイトアウトとブラックアウトが同時にやって来た気分。ならば捜さねばならない。わたしは幾夜もあてどなく捜し歩いたのだ。これからも捜し歩かねばならない。

耐えがたい痒みに苛まれ、全身を掻き毟りつつターミナル駅へ急ぐ。ようやく並んだ駅の窓口では、本来の通貨ではなく花核貨で目的地までの切符を購入する。中二の創造主が実物通貨を採用したせいである。途中キオスクに立ち寄り、残った花核貨で海苔弁当とほうじ茶とチョコ大福を買い求める。そして黒猫とともに朝露色の列車に乗り込む。ほかに乗客はいないので好みの座席に腰を据えることができた。やがて列車は国境の街めざして定刻どおりホームを滑りだす。次第に速度を増す鉄路の心地よいリズム。窓外の風景を眺めながら弁当を食べ、お茶を飲む。チョコ大福はあとの楽しみにとっておく。全身を掻き毟りすぎて疲れ果てたものか猫は座席に丸まって寝息を立てはじめる。わたしも睡魔に誘われて目を閉じる。ゆったりとした鉄路のリズム。もう少し、あともう少しでたどり着くのだ。かぎりなく甘美で懐かしい朝露の記憶……思わず笑みを洩らしながら目を開けると、周囲は薄暗い夜行列車の気配。陰鬱な車窓に映る瓜人間。ゆらめく車内灯のもと、わたしたちは互いを凝視しつつのろのろとチョコ大福を頬張る。それは身震いするほど甘い、はずなのに、なぜか無味である。

「ああ、おかしい、とっても」。

 

2021年3月15日公開

© 2021 飽田 彬

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