綺郷譚

飽田 彬

小説

9,276文字

凱旋リサイタルを成功させた音楽家に綺しき郷のおもてなし。

こうして、シワくちゃのハンカチみたいに喘ぐとき、きまって翔る夜行列車。

朝霧にかすむ終着駅を待ちきれず降り立った駅。有り得た生のように佇んでいた駅。漆黒の原野を往く軌道に紡いだ夢。

ひとり立ちつくす駅前広場。こだまする噴水のしぶき。夜明け前の玩具じみた町並み。われに返ると仄暗い車輛、古びた固い座席に蹲ったままなのだが、いずれまた降りてしまう。繰り返される夢。単調な鉄路のリズム。陰鬱な車窓に映る少女の横顔。幾度も繰り返される夢。

名も知らぬ駅に降り立ち、ひそやかな暁闇の町を彷徨ったすえ、あてどなく汽笛を待ったベンチは、あれはどこの駅舎だったのだろう。いくつもの駅があらわれては去り、禍々しい怪鳥のように翔る夜行列車。

 

あるいはまた、X嬢よ。

誤想された対位法めいて迸る妄夢は防ぎようもない……執拗に追いすがる旋律、みだりなまでに鉱物的な転調。

リサイタルの翌朝はいつでも快晴だ。プレジデンシャル・スイートの床に素足を降ろし、不毛な移調のようにこちらを凝視する壁のリトグラフに視線を向ける。昨夜は気づかなかった不穏な描線が酷薄な残響を呼び醒ます。わたしは用心深く無個性な窓辺に立つ……眼下を往来する無音の喧噪、ぎこちないウイルスみたいな車列、ひときわ目をひく満開のハクモクレン……それは歓びに咲き誇らず、至福に打ち震えることもない。清楚で奇態、可憐で冷然、まるで異形の白日夢だ。

ともあれ、リサイタルはまぎれもなく大成功だった。永き不在の果ての祝宴。わたしを識る者などもはや誰ひとりいないのに、放蕩息子の帰還のごとく歓待したハクモクレンの街。

芳醇なコーヒーの香りとともに祝宴の余韻に浸る……神託を待つかのように固唾を呑むホール、最初の音が解き放たれた瞬間の冷厳な揺振、昂然と構築される創世神話に圧倒され、深海魚のように客席に沈みゆく聴衆……

X嬢よ。

こうして陽光きらめく五月の只中にいると、なぜか一刻もはやく帰国し、円かな夢としてこの土地を想いたい……そんな奇妙な願望に囚われるけれど、わたしにはもうひとつだけ、ここでの仕事が残されている。わが生まれ故郷の町で開催される音楽祭。生まれ故郷といっても、とても幼いころに離れたのだから、わたしにはかすかな記憶すら残っていない。けれど生命を感じさせるものといえば、ただ吹き抜ける朔風のみ、すべてが捨て置かれ、忘れ去られ、朽ちるにまかせた亡骸のような小さな町は、なぜか瞭然たる原風景としてわが魂の奥底に深沈している。

それにしても、じつにおかしなことだ。ほとんどの住民が逃げ去り、まるで地上から掻き消されたようなあの町で、大きな音楽祭が開催されるとは……いずれにせよ、もうじき迎えがやってくる時間だ。音楽祭のプログラムにでも目を通しておこう。

X嬢よ。

うすっぺらで寒々しい印刷物の表紙写真に、わたしは目を奪われる。ひなびた風変わりな花で覆い尽くされ、ふしぎな光芒を放つ小高い丘。頂きにそびえる途方もない巨樹。丘の後方につづく深くしずかな森のシルエット。

わがX嬢よ。

わたしはまちがいなく、ここを知っている。

吹き渡る風の匂いも、きらめきも、大樹の葉むらのしわぶきすらも、堅牢な記憶としてわが脳核に刻まれているのだ。

いつの日のことか、そこに立つわたし。あいまいでありながら、揺るぎない少女の気配。かすかな息づかいも甘美でなつかしい。あたたかく痛く、魂の吃るような……それとも、あやうい……そう、あらわれては消え、けれど、そこに在りつづけ、そして、ゆらめいて……

 

音楽誌の記者は、野獣じみた体臭を放つカメラマンとともに訪れ、アレグロ・ジョコーソで捲したてた。

「マエストロ、お約束どおりお迎えに参上しました。昨夜のリサイタルには、わたくし心から感動いたしましたわ。とりわけ、アンコールでそそくさと演奏された破綻調のカノンがすばらしかったわ」

彼女はつんのめるように駐車場に案内すると、陰気で前時代的な大型車を指さした。

「いのちより大切な楽器はうしろのシートへ……あら、安心してくださいな、マエストロ。こんな見てくれですけど、呆れるほど頑丈なんですよ、これ。どんな悪路をぶっ飛ばそうと、車内はまったく揺れないのです」

「しかも、おれの運転技術はフォトグラファーとしてのそれより数段上等、というもっぱらの評判でしてね」髭づらのカメラマンは黄ばんだ声で笑うと、助手席の撮影機材を平手でぽんと叩き、いきおいよく古めかしい車を発進させた。

「いざ出発、感動の音色が響きわたる、夢の音楽祭めざして」

運転席のうしろにわたしと記者。わたしの楽器はさらにうしろの座席にひっそりと横たわっている。

「さっそくですが、車中同行取材の主旨を再確認させていただきますわ、マエストロ」

記者は膝の上にノートパソコンを開くと、モニターにあらわれた文字を過剰なクレッシェンドで読みあげた……思わぬ大成功をおさめた凱旋リサイタル後、音楽祭客演のため、生まれ故郷の町へむかうわれらがマエストロ。なつかしき風土を征くドライヴにリラックスし、心安く大いに語る音楽家の狂気、孤絶、永遠に疚しき不在証明、うしろ冥い心象と対位法的風景のデュエット……

「あの町はいま、どんなふうかね」

「どんなふうって……そりゃ、じつにつまらないところだな、去年とうとう地図から抹消されちまってさ」胸ポケットからとりだしたパイプを齧りつつ、カメラマン兼運転手が馴れなれしく口を挟んだ。

「きみ、それはなんだか……」ふいに襲いかかる獣臭に、わたしは思わず声を荒げた。猛々しい体臭の発生源は、どうやら粗悪なパイプ煙草だったらしい。

「そうそう、道中、廃墟街道を通りますよ」カメラマンはわたしの抗議など無視し、盛大に毒煙を吐き出しつつ笑った。

「あら、その道筋だったかしら」と記者。「もうひとつのルートのほうが近道だし景色もいいし、きっと喜ぶんじゃないかしら、このひと」

「わたしは、どちらでも、かまわないが」

「おっ、ほらね、やっぱりおれの予想どおりのひとだったよ、この御仁。あんまり選り好みなんかすると、永遠にどこにもたどりつけないってことをちゃんと承知してるよ、こいつ」

朽葉のごとき無精髭が憎々しい。

「……どんなルートを通ろうが、一向にかまわないよ、わたしは。しかし、一刻もはやく目的地に到着したい気分でもあるんだよ。われながら、じつに奇妙なんだが……たしかにあの町はわが生まれ故郷であるものの、ほとんど記憶に残っていない。まして音楽祭会場のあたりなどまったく行ったこともないはずだ。どう考えても生まれてはじめてのはずなのに、なぜか胸が痛むほどなつかしい場所という想いに囚われていてね。じつにふしぎなことだよ」

「まあ! すばらしい発言だわ、マエストロ!」記者はシンバルのように華々しく膝を打ち、めくるめく金管で謳い上げた。「永遠の不在者ならではの故郷へのオマージュね。つまるところ煉獄に囚われた同胞に対するお門違いな優越感と、その裏に潜む哀れな劣等感と罪悪感の発露だわ、取材記事のイントロにお誂え向きよ」

「色彩を奏でる音楽家としては、その劣等感と罪悪感をどんな色で表現しますかね、マエストロ。そうそう、ついでに言っとくと、あのプログラムの表紙写真は、このおれの作品でね」運転席は毒々しい煙幕につつまれ、すでに朦朧としてさだかでない。

「ところで、ちょっと見てごらんよ、ここらの景色。みごとだよなあ、この茫漠とした零落と諦観の象徴みたいな風景。優れた写真家のイマジネーションを刺激して止まぬものがありますよ、これは」

「あら、あなた、ひょっとしてこんなところで車を停めて撮影したいってこと? なんだか殺風景で退屈そうなところじゃないの……でも、そうね、なんだかそこがいいわね、なかなかいいアイデアって気がしてきたわ、じゃそうしましょう、停めて、さあマエストロ、ぐずぐずしないでさっさと降りなさい」

乱暴に背を押され転げ落ちるように車から降りたわたしは、とりあえず肺のなかを入れ換えるため忙しく喘いだ。新鮮な外気を吸っていくらか気分が楽になりようやく周囲を見渡す余裕ができたものの、そこは冬ざれた原野がひろがるばかり、遠い空に低く重い雪雲がたれ込め、いかにも辺境じみた、がらんとした寂風が頬に痛い。

「ここは、いったい……」

「さあ行きましょうマエストロ、唯一無二の撮影ポイントをもとめて。うそみたいな男前に撮ってさしあげますよ」カメラマンはよっこらせと機材を担ぎ片手でわたしの腕をつかんで歩きだす。

寒い。

往けどもいけども風のふきすさぶ荒涼とした原野。ふり払おうとするのだが、カメラマンはもの凄い力でわたしの腕をつかんだまま離さない。

「ここはいったい、どこなんだ……」

「故国そのものにきまってるじゃないか、うしろ冥い永遠の不在者にとっては。強いられた忘却と沈黙が塵みたいに降り積もるにまかせた原風景、そこはもはや気まぐれなノスタルジアなど寄せつけぬ冷徹な異域と化してふしぎはないだろう? ……おっ、このあたり、なかなかいい雰囲気じゃないの。ここで演奏するショットなんか撮ろうじゃない」パイプを齧りながら、うしろを歩く記者に頷きかける。

「あら、それじゃ、わたくし車へもどって楽器をとってくるわね」朗々たるアリアで応じる。

「ま、待ってくれ。こんなところにわたしのだいじな楽器を持ってくるなんて、と、とんでもな、い、いててててててててててててて……」万力のようなもの凄い力で腕が締めあげられる。

「ほら、ごらん、マエストロ。強いられた忘却の欺瞞が見えてきたよ」

だしぬけに眼前にあらわれたのは、朽ち果てた駅舎。白骨じみた駅名表示板らしき残骸が痛々しい。そこに記された駅名は、すでに判読不明だ。

いきなりカメラマンが大笑いする。

「なんだ、これは。かんじんの駅名がまるっきりわからないじゃないか、わは、わはははははははははははははははははははははは」

はるか過去の駅舎は、その輪郭すでにあやしく、慟哭のごとき寒風に曝され、もはや実在すら覚束なげだ。彼方へ繋がっていたであろう鉄路も、廃線以来の沈黙と無関心の腐葉土に分解され、干上がった河跡のようにさだかでない。

妄霧にかすむプラットフォームには、そこだけ淋しげな陽炎の匂いと色褪せた薄陽がまといつき、ゆらめく少女が病みあがりの子のように風に吹かれている。

 

……ここでずっと待っていたのよ。あなたは、いままで、どこにいたの?

 

虚ろな双眸が、はかなく痛く魂を穿つ。

「どうして……どうして、あんなところに少女がいるんだ」

「え、どれどれ、なんだ、だれもいないじゃないか」プラットフォームを指さすわたしにカメラマンが応える。

「ここにいるのは、われわれ三人だけだよ」

「そうよ、少女なんて、どこにもいないじゃないの」重そうに楽器をひきずりながら戻ってきた記者が苛立たしげに喚く。

「でも、たしかに……ほら、あそこに侘びしそうに佇んでいるじゃないか」

「うそはいけないな、うそは」と苦々しい表情のカメラマン。「うそをつくのは、こんな場合、どうかと思うよ」

「そうよ、こんな身のほど知らずなもの見せびらかしちゃってさ。うそつきにはもったいないくらい高いんでしょ、これ」記者はわたしの楽器を尖ったヒールのさきでこつんと蹴ると、学校演劇ふうにカメラマンと目くばせし意地悪笑いを洩らした……荒漠たる風に嬲られるがまま、わたしはがっくりうなだれた。

「ほうら、やっぱりうそだったのね、少女なんてどこにも存在しないのに」

「もう、どうでもいいよ。はやいとこ撮影を済ませて出発しようぜ、そうしないといつまでたっても感動の響きわたる音楽祭にたどりつけないよ、なあ、マエストロ」

車にもどると、ふたたび猛々しい毒煙に包囲されてしまった。激烈な頭痛に襲われ、いつのまにか意識が遠のいた……どれくらい経っただろう、ふいに目醒めると、カメラマンは相変わらずパイプを齧ったまま鼻歌まじりでハンドルを操り、記者はといえば、なにを思ったかバッグからとりだした香水を胸もとにふりかけ、やおら身をすり寄せてきた。「どう、これ。いい香りでしょう」無慈悲なファンファーレとともに黝いプワゾンの奔流がわたしを奈落へ突き落とした。

「申し訳ないが、窓をあけていいだろうか」

「だあめ、いけません」

「おっと。つぎの橋を渡って右手へ行くと、いよいよ地図から抹消された町の搦手門が見えてくるよ、マエストロ」

「か、勝手に入っていいのかい? そこって」

カメラマンと記者は同時にげらげら笑いだした。

「勝手に入れないからこそ地図から抹消されたんだろうが、このうすらばか。去年地図から抹消されると同時に、歴史上そんな町は一度たりとも存在しなかったことにされたんだよ」

「そうよ、そんな町は世界のどこにもございません」

「だが、そこにはかつておれの家族……祖父母と両親、それに弟や妹たちが住んでいたんだ。もちろん地図から抹消される以前の話だがね」カメラマンは一転してしんみりした口調になった。「きっといまもそこに暮らしているのだろうが、彼らにはもう二度と会えない。だって、そんな町は存在しないのだから。もしかすると、おれの家族など、そもそも実在しなかったのかもしれないな……いや、まてよ、あれは遠い夏のことだったが、たしか帰省して片目のじいさんと酒を酌み交わした記憶があるぞ、このおれには。あれはいったい、いつのことだったのかな……

 

……剛毅果断な男を輩出することで高名なるわが一族。熱風のような昂揚を漲らせた隻眼の若者が足を踏みいれたとき、この地の妄魔は目醒めたといってよいだろう。長い年月を隔てて帰郷したおれと酒を酌みかわし、なつかしき夢の宵が紙魚のように更けるにつれ初夏の漁火めいた酔いが灯り、浮揚感に溺れた祖父がガラスの眼玉をきらめかせ問わず語りに述懐したところによると、崩壊した原郷を逐われ幽明境を彷徨ったあげく、ようやく辛気くさい雲下に横たわる新天地にたどりついた当初は、鬱然たる原生林をまのあたりにし、文字どおり暗澹たる前途に立ちすくむばかりだったという。なにやら明るい方角を見いだし希望の最後の烽火と願い密林を拓き藪を払いわけ入ってみたものの、そこは途方もない巨樹を頂き酷薄に照りかがやく不毛の丘にすぎなかった。あともどりしようにも、けものみちの成れの果てみたいに見捨てられた囚人道路のむこうには帰るべき郷土などもちろんない。無慈悲な丘から吹き降る止めどないメランコリイの朔風に冒され、迷妄と夢魔に惑った根なし草たちは、ずぶずぶと生温かい旧世界から隔絶された掴みどころのないこの土地で、永劫に互いの悪夢を往き交うなりゆきと悟った。

おなじころ、入植者同様立ちすくんでいたのは、凶々しい白日夢に翻弄される先住者たちとその神々だったが、不吉な予兆に居ても立ってもいられなくなった神々はこぞってあたりを右往左往、入植地にほど近いコタン全域にせわしげな嘆声を轟かせた。われもわれもと登場したためコタンだけではおさまりきらず、ついには移住者の集落にまで物思わしげな神々がどっと押し寄せるありさまだった。それらのなかには何を血迷ったものか、パウチカムイ(淫魔神)までがまぎれこんでいて、なにやら仕事に励んだかと思えば途中でなげだして子づくりに精をだしたり雪崩のような痴話喧嘩なんぞおっぱじめる始末、なにしろそれはあたたかい魂魄が苛烈な行く末に嘆息する早暁、妄魔が思うまま人間の運命を左右する御時世のことだったでの、しかもそれだけじゃねえ、カムイたちだけじゃねえぞ、わしら移住民が内地からつれてきた仏さんや氏神さんまでがいつのまにやら切株だらけの開墾地をのそのそ歩きまわり、やれここの水はわしには合わなんだだの、やれはやくクニさ帰してくんろだのと泣きごとをいいだす始末、そのうえどさくさまぎれに間引きされた水子たちやらいつの時代のだれの血筋とも知れぬ嬰孩連中まであらわれ憑かれたように泣き喚く姦しさ、さらには騒ぎに乗じてコロポックルどもがどんちゃらずんちゃら唄い踊り登場するありさま、余談じゃが、わしら最初の草小屋を拵えたときにゃ気のいいコロポックル衆総出で手伝ってくれたもんよ濁酒ひと樽でな、おまけにはるばる太洋を越えてきた伝道隊一行が長旅の途上で置き去りにしていった梅毒の宣教師のゴーストだの、それに惑わされたか二世紀ばかり前に斬首された百とんで六人の殉教者やら蜂起軍の指導者たちやら夜っぴいて怨みごとを唱えるその喧しさといったらなかった、余談じゃが、これらに関しては後年わしのもとへ取材に訪れた妙な男が『綺郷譚』という手稿のなかで触れておる、さらには賑々しさに誘われたものか、フーリという名のコシンプ(魔物)までがひょっこりあらわれ度外れた悪さをはじめたには震えあがったぞ、異文化間を無造作に越境し襲来したフーリは、片翼だけで三里ほどもある鋼鉄のような翼を持ち、全身どす黒く目の縁と口のまわりだけが朱塗りのように赤いという、なんとも毒々しくおぞましい風体の怪鳥、しかもこのコシンプときたら、凄惨な腐臭を四囲に撒き散らし、やつが風上にあらわれると悪気のため身体じゅう腫れ上がってしまう凄絶さ、突如頭上に凶々しい翼音が轟きわたると、みな慌てて鍬や鋤を放り投げ散りぢりに逃げ惑うも、フーリのやつめ、目をつけた可愛い小娘を翼の一撃でもって昏倒せしめ、なんともいやらしい巨大な鉤爪で獲物を摘みあげ悠然と天空の彼方へ連れ去ってしまう、ねぐらへ戻ってゆっくりゆっくり弄びながら蕾のように愛らしい娘を喰らい尽くすためにな、いやはやこれには心底まいったぞ、内地じゃ想像だにできなかった新天地の物怪の怖気を震う脅威、わしらただ怯えるしかなかったんじゃが、そのころこの辺り一帯でもっとも敬われていた名なしのフチ(媼)が「どうやら、おまえたちが連れてきた神仏はまるっきりあてにならぬようじゃ、ここは天地を司る偉大なカムイの力を仰ぎ、わしらみんなでフーリに闘いを挑むよりほか手だてはあるまい」と、まるで天上の福寿草みたいに清冽な声で諭してくれての、名なしのフチというお方は、ときにあいまいな輪郭を揺らめかせ蒼じろく透きとおったりもする、六世代を通して生き抜いた老媼、なぜ名なしと呼ばれているかについては壮大な伝承が残されているものの、それについてはいずれ語る機会もあるはず、ともかく凛とした威厳はあたりをなぎ払うばかり、それはそれは堂々たる風格に満ち溢れた女傑じゃった、先住の衆はもちろんのことわしら移住者からもたいそう畏れ敬われておっての、そもそもわしらみじめったらしい喰詰め棄民の群れなんぞ、新天地に到着したてのころは、名なしのフチをはじめとした先住の衆のおかげでようやく露命をつないだもんじゃった、『綺郷譚』にもあるとおり、どの山道を通ればキムンカムイ(羆)やホロケウカムイ(狼)の逆鱗に触れずにすむのか、あるいは、どの野草がアエキナ(食草)で、どの野草がスルク(毒)なのか、はたまた想像を絶する厳寒を凌ぎ無事にパイカラ(春)を迎える智慧、それらすべて先住の衆に手をさしのべられ、導いてもらったんじゃよ、わしら。

 

「ここが、その搦手門だよ」

鬱蒼たる原初林のあいまを清冽な川がひっそりと走っている。わたしたち一行に気づいた野鳥が羽音高く飛びたち、さらにその音に驚いたらしい小動物が慌てて川のなかへ逃げこんだ。巨木を利用した橋を渡れば道は双手にわかれている。上手へむかう小径の手前には、なにかの儀礼のように野生の小枝が刺してある。

「われわれを悪夢あるいは亡者とみなしてるんだろうよ、イヌエンジュの枝は悪夢から身を祓い浄めるために用いられてきたらしい、またあるときは墓標としても、ね」

下手の道を往くと、猥雑なビルが林立する喧しい大通りに出くわす。一郭に佇むハクモクレンの下に、少女はいた。あまりに場違いで、とても心細げに見えた。痛々しかった。

パイプを取り落としたカメラマンが、うっそりと笑う。

「ふたたび強いられた忘却に出逢っちまったよ。きっと彼女はわれわれと同行するつもりなんだろうが、もちろんどこにもたどりつけない。見放され、切り捨てられたトポスに囚われたものは、永遠にその迷妄から逃れることを許されないのだからね」

だれも顧みない一日が暮れ、シワくちゃのハンカチみたいなわたしたちは、無言で場末のホテルにチェックインする。少女の気配を濃密に感じながら食事を済ませ、ひっそり各自の部屋へ引きこもる。

夜半かすかなノックの音にドアをうすく開けると、記者が無遠慮に入ってきた。

「さあ、ぐずぐずしてないで、夢のなかでみる夢の訴えに耳を凝らしたらどうなのよ」

漆黒の闇のむこうでは森が不吉にざわめいている。永すぎた不在を咎めるかのように、フーリが啼き喚く夜の森。

X嬢よ。

わたしは永遠にどこにもたどりつけないだろう。

混乱し疲弊しきった旋律、幾度も繰り返される転調、凶兆と同義のノスタルジア。

 

古来、とても豊かな土地だからこそ、人びとが途切れることなく降りてきて集落を形成したのだ……けだるい谷間の午後、村はずれの丘の頂きにそびえる大樹めざして、わたしは歩いた。あれはいったい樹齢何万年になるのだろうか。樹冠のひろがりの壮麗さは息を呑むばかり。呆れるほど太い幹は百人がかりで輪になっても手が届きそうにない。老樹の下にたどりつき、強い陽射しを避けて、のたくる大蛇のごとく節くれた根方に腰をおろしてみる。まるで誂えた安楽椅子のような心地よさ。ここならば忌わしき災厄など、まるで異次元の話だ。まばゆすぎる陽光は樹冠にさえぎられ、甘いそよ風がかろやかに頬を嬲ってゆく。やさしい葉ずれのささやき、かすかに鼻腔をくすぐる可憐な野花の香り……

 

あどけない禍機の気配に目醒めると、終末的風景を背に少女が微笑み、病みあがりの子のように風に吹かれている。

ふいに記憶がゆらめき立ちのぼる。わたしたちは夜行列車を待ちわびていた。はかない恋の懊悩めいて、ただひたすら妄霧の彼方の汽笛を想い焦がれていたはずだ。

ひめやかな萌芽の兆しに酔う暇もなく、ゆらゆら、ゆらゆら、伸びきった磁気テープの声で彼女は言い放つ。

わたし、きょうで百になったわ。

そうか。そうだった。むろん、わしとて、とうに世紀を閲している。うす笑いを浮かべる彼女の横顔を見つめながら、狭隘な胎道をゆっくり遡る。

 

……ここでずっと待っていたのよ。あなたは、いままで、どこにいたの?

 

どこ。

わがX嬢よ。

こうして、シワくちゃのハンカチみたいなわしには、安穏な覚醒など願うべくもない。こうなったら老いぼれらしく腰折れのひとつもひねるしかないではないか。

 

妄魔郷ゆめさとは君がふるさと降り立てばわが手とりにしおさなき日顕つ

2021年5月7日公開

© 2021 飽田 彬

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