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重畳回廊

飽田 彬

針とびワルキューレの騎行

小説

4,422文字

ちくちくムズ痒い膝丈の多年草群落をかきわけると黒ずんだ古畳のつらなりが現れる。幅およそ一間、前方はるか果てしない回廊である。右側は草いきれに混じり喧噪と猥雑の気配、左は磨りガラス窓と合板ドアが交互につづいている。淫蕩な風にうなじを嬲られながらドアノブのひとつに手を触れるとキキィッと鳴いて足首まで沈む深緋の部屋に転げこむ。暗黄色の電灯のもと埃っぽい室内は無人だ。音源もないのにトリスタン和音が揺蕩っている。部屋の中央にはのんびり揺れる安楽椅子。殺風景な壁の一隅には奥の間へつづく質朴なドアが待ち受けている。深緋の沼を漕ぎ渡り手をかけると、それは驚愕のベニヤ板ドアである。予想どおり、ばふばふ撓みながら向こう側へ開く。

 

そこは西陽まぶしい生活感に溢れた六畳間。訪れるたびにあやふやな表情の人たちが団欒しているけれど、きょうも五人ほどでちゃぶ台を囲んでいる。学芸会でブリュンヒルデを演じた同級生もいるようだ。どうやらもう小学生ではないらしい。

蜃気楼めいた老人がこちらに気づき鷹揚に手招きする。「ほれほれ、こっちさ来い、そこさ坐れ」ほかの人たちもそれぞれに声をかけてくれる。ブリュンヒルデは傍らの座布団を平手でぽてぽて叩きながら微笑んでいる。なんとなく報われた心持ちで彼女のとなりに腰を下ろす。
「もちろん現在の住まいじゃない」もったいぶった調子で老人が語りはじめる。「子どものころ住んだ憶えもないな」
「思い出のなかのだれかさんの家ってわけでもないんだよね」舌っ足らずな幼児が口を挟む。「でも来ちゃうのよねえ何度も、ここ」中年女性らしい奥行きのある声が重なる。
「けどさ、下世話な夢分析なんか信じないよね、うちら」ブリュンヒルデは声と口調だけ小学六年生のままだ。
「当たり前じゃ」老人が言下に吐き捨てる。
「あたしらにゃ関係ないね、そったらもん」中年女性がゆったり笑う。
「関係ねえなあ、そりゃ」ガテン系らしい筋骨隆々の男性がずるずる茶を啜りながら頷く。
「あっ、お茶あげてなかったよ、まだ」ブリュンヒルデがわたしを指さし、くつくつ笑う。「あら、ほんとだ」中年女性がよっこらしょと立ち上がり新しい湯呑みを用意する。
「あの、どうぞ、おかまいなく」
「わしら無粋な諷喩でもないぞ、なぜなら……」語りだした老人を遮るように幼児がぴょんぴょん飛び跳ねながら叫ぶ。「だれか来たよ、ほら、声が聞こえる」
「ちょっくら見てこい、おまえ」ガテン系が言いつける。

ほどなく幼児に導かれ十六名の防護服の男たちがどやどや部屋になだれ込む。あっというまに六畳間は人口爆発、ちゃぶ台を囲んでいた面々は迷惑そうに立ちあがる。
「んちゃあ、おくつろぎのところ失礼しゃあす」リーダーらしき男が防護マスク越しに胴間声を張り上げる。「やかましいな」ほとんど顔がくっつきそうなガテン系が舌打ちする。「さぁせん、元請けに言われて来たんすけどお」「なんだ下請けか」「さぁせん、気合い入れてやりぁすんで」防護服の男たちはおもむろに円陣を組み安全靴の踵を打ち鳴らすと雄叫びのようなヒヤリハット報告についで安全衛生体操に取りかかる。あまりに放恣なその動作にわたしたちは大慌てで壁に貼りつく。
「ぶほっ、あちゃちゃぁっっっ!!!」不自然な体勢のまま茶を飲もうとしたガテン系が顔面に熱い茶を浴び咆哮する。リーダーの腕がいきおいよくガテン系の湯呑みを振り払ったのだ。「お茶あげてなかったわねえ、まだ」中年女性が泰然と肩でわたしをつつく。「どうぞ、おかまいなく」「ねえ、この変てこりんな体操いつ終わるのお」「メチャ暑苦しい連中よねえ」「そもそもなにしに来たんだべな、こいつら」「ほんと、なんの用かしらねえ」「あっ、まただれか来たみたいだよ、ほらあ」

回廊の彼方に怒濤が轟いたと思うまもなく汚泥と汗と鬱屈の濁流が深緋の沼を駆け抜け、赤銅色の団塊が六畳間へ打ち寄せる。監督、選手、スタッフら総勢三十九名から成るサッカーチームである。「ここだここだ、間に合ったぞ」「ひゃあ、試合前だってのに汗びっしょり」「アップの手間はぶけたね」「おれもう喉カラッカラ」「すぐピッチ練習はじめようぜ」「無事にたどり着けてホッとひと安心だよ」「ばか、だれのせいで道に迷ったと思ってんだ」「だってカーナビがウソつくもんだからさ」「なに言ってんだ、おまえ」「まあまあ、とにかく間に合ったんだから」「よしとしようぜ」「あのぅちょっと監督ぅ、マジここでまちがいないんすかあ」全員が一瞬きょとんと周囲を見渡し、互いの顔を不安げに覗き込む。
「こほん」静寂を打ち破り、長身痩躯の監督がおずおず「え……っと、つかぬことを伺いますが、こちら第一次ラウンド戦会場のスタ……ジ……アっ」唐突に絶句し頭を抱えたとたん、ファンファーレとともにチーム全員いっせいにその場に頽れ落ちた。嘆声混じりに両拳で畳を乱打する者、へらへら笑いながら丸太のような足をばたつかせる者、虚空を睨みすえ静かに称名を唱えだす者……。
「あらららっ、失格かよ」火傷した唇を気に病みつつガテン系が憫笑する。「え、なになにい、このひとたち、もうサッカーできないのお」「場所まちがえたんなら不戦敗だべさ」「遅刻で没収試合てことなんじゃない」「もう間に合わないんだね、メダル無理かあ」「自業自得じゃない、ダッさあ」「これこれ、そんな言い方しないの」「あのう、お取り込み中のとこさぁせん、ここらへん、べろっと空けてもらっていっすかあ、そろそろ作業はじめたいんすけどお」

仰々しい機械をがちゃつかせた防護服の男たちが手際よくちゃぶ台を壁ぎわへ寄せ、六畳間の中央一メートル四方ほど畳を刳り貫き、凄まじい轟音とともに掘削作業を開始する。たちまち部屋中あちこち波打ち、四方の壁がぐらぐら派手に踊りだす。

「なんだか畳がぶよぶよ凹みはじめたぞ」「ジャンプして着地するとかだら・・・半分沈んじゃうよ、ほら見て、あはは」「やめなさいっ」「わし中風あたったんだべか、なんか、めまいしてきたわ」「まともに立ってらんねえな、もう」「あら、天井が回転してるわよ」「ねえ見て、首までめりこんじゃったよ、あは、あはは」「どうもども、このたびはたいへんお世話様でございまして、恐縮でございますがお邪魔させて頂きますよ」ベニヤ板ドアをばふばふさせながら肥満体の大会組織委員長が六畳間に入ってきた。「どうもども、お世話様でございまして、たいへん恐縮させて頂いております」「あんた、だれ」「おもてなしさせて頂きにあがりましたわけで、関係者全員部屋の外に待機させて頂いておりますのでして」「なにやらかすつもりだい」「今宵の催しものは『音楽の夕べ』となっております」「演歌まつりかい」「カラオケ大会だべさ」「アニソンがいいな」「声優さん来てるのかしら」「配信ライブなんじゃない、オールナイトの」「本日はオーケストラによる演奏会でございまして指揮者はじめみなさんご高名な演奏家ばかりでございますよ」「どんな曲目やるのさ」「今宵のプログラムはワーグナーとのことでございまして」「それじゃ四管編成じゃないか」「さようでございます」「それって人数どんだけなのお」「総勢百とんで五名となっております」

掘削作業の轟音が一段と激しさを増す。床下を往来する作業員たちの動きに合わせ六畳間が豪快に浮沈する。ひときわ凄まじい震撼とともに室内にいた全員が舌を噛み悶絶する。

ふいに押し入れの襖を突き破ってひとりの作業員が転がり落ちてきた。「あれれっ、床下掘ってたら、こんなとこに出ちゃった」またひとり転がり落ちてくる「なしてだあ」さらにもうひとり「この押し入れ、床下と繋がってるんだわ」

めりめり、めりめり回廊が軋む気配とともに、押し入れを通り抜け四管編成のオーケストラがやってきた。六畳間の壁三面すでに崩落、残る一面とて激しく撓み、ベニヤ製ドアは何処ともさだかならずばふばふ飛び去った。誰もが不吉な予兆に怯え身をすくめるさなか、防護服の作業員たちのみ床下と押し入れのなかを忙しそうに出入りしている。

魂が抜け落ち呆然と佇んでいたサッカーチームの一員がふいに思いつき、夢と感動とレガシーを共有し未来に勇気と希望を与えるべくボランティアとして作業に参加することを提案する。チーム全員がそうしましょそうしましょと押し入れと室内を幾度も往復、大量の脂漏性古畳を六畳間に運び入れ、そこらへんに立ちすくんでいたバイオリン奏者を捕まえ古畳の上にむりやり横たえ、その上にじくじく妄執にまみれた古畳を重ね敷き、その上にチェロ奏者を横たえ、さらにその上に湿っぽい古畳を積み重ね、そしてさらにもうひとり……やがて古畳とオーケストラ団員のミルフィーユが六畳間の天井を突き抜け、燦然と輝く一大モニュメントとして天空めざし屹立する。
「接収、接収」作業員たちをかき分け押し入れから転がり落ちてきた第一師団長が、上空で旋回するヘリ旅団の爆音に負けじと破鐘声を張り上げる。「総員一千とんで七十八名、これより当地に駐留する。ただちに全軍の糧食を用意願いたいのだが、ここの女将はどこにおるか、女将は」「そったらこと言われたってあんた、米だのオカズだの、いきなり用意できるわけないべさ、はんかくさいね」「えばりんぼだね、このおじさん」「なんだべなあ、どいつもこいつも」
「還りましょうか、いまのうちに」ふいにブリュンヒルデが耳もとにささやく。あやしい声音、なやましき吐息。不条理と混沌の六畳間を逃れ手に手をとり艶やかな回廊へまろび出る。

片側から砂混じりの淫蕩な夜風、もういっぽうは磨りガラスと合板ドアのつらなり。後方から途切れとぎれにささめきが追いすがる。「へんなのお」「逃げる気かよ」「わけわかんなあい」「だらだら垂れ流しといてさ」「まるで真夜中の公衆便所扱いねえ」「いい気なもんだ、どこのだれべえが」

前方は往けどもいけども果てしない回廊。曲がりかどがあったり微妙にカーブなどしていれば四囲を巡っていると判断でき安堵も感じようが、あくまで果てしなくまっすぐな回廊なので極度に不穏で不安なオーケストレーションが総身を駆け巡るばかり。このさきいったい何が待ち受けているだろう。おや、なんだか気温が下がりはじめたみたいだ。周囲の佇まいも微妙に変化してきた。おやおや、どうやら暁闇の森のようだ。暗緑色の冷気が這い出し足もとに絡みつく。鞭のような小枝がぴしゃりと頬を打つ。思わず涙が滲んだ。前方を凝視したままブリュンヒルデがくつくつ笑う。なつかしき樹相に追憶の濃霧がまといつきはるか彼方で精霊じみた影が手招きしている。そうか、そういうことか。つまりこれよりは大気、樹木、川、記憶、本来の名を朗誦しつつ歩めということなのだな、ひとり勝手に納得する。そうとなれば我がなつかしき面々よ、いつかふたたび、かの内在律に従い巡り逢うとしようよ。

© 2024 飽田 彬 ( 2024年1月11日公開

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