重畳回廊

飽田 彬

小説

4,364文字

針とびワルキューレの騎行

ちくちくムズ痒い膝丈の多年草群落をかきわけると黒光りする板の間が姿をあらわす。幅およそ一間、前方はるか果てしなくつづく回廊である。右側から草いきれに混じり喧噪と猥雑の気配、もういっぽうは磨りガラス窓と合板ドアが交互につらなっている。淫蕩な風にうなじを嬲られながらドアノブのひとつに手を触れると、キキィッと啼いて足首まで沈む深緋の絨毯の間に誘われる。暗黄色の電灯のもと埃っぽい部屋は無人だ。音源もないのに室内いっぱいにトリスタン和音が揺蕩っている。部屋の中央にはのんびりと揺れる安楽椅子。殺風景な壁の一隅に奥の間へとつづく質朴なドアが待ち受けている。深緋の沼を漕ぎ渡り手をかけてみると、それは驚愕のベニヤ製ドアである。ばふばふ撓みながら向こう側へ開く。

 

そこは生活感に溢れた西日眩しい八畳間。訪れるたびにあやふやな表情の人たちが団欒しているけれど、きょうも五人ほどがちゃぶ台を囲んでいる。学芸会でブリュンヒルデを演じた同級生もいるようだ。どうやらもう小学生ではないらしい。

蜃気楼じみた老人がこちらに気づき、鷹揚に手招きしている。「ほれ、こっちさ来い、いっしょに坐れ」。ほかの人たちもそれぞれ声をかけてくれる。ブリュンヒルデは傍らの座布団を平手でぽてぽて叩いている。なんとなく報われた心持ちで彼女のとなりに腰を下ろす。
「もちろん現在の住まいじゃない」もったいぶった調子で老人が語りだす。「子どものころ住んだ憶えもないな」。
「思い出のなかのだれかさんの家ってわけでもないんだよね」舌っ足らずな幼児が口を挟む。「でも来ちゃうのよねえ何度も、ここ」中年女性らしい幅広い声が重なる。
「けどさ、下世話な夢分析なんか信じないよね、うちら」ブリュンヒルデは声と口調だけ小学六年生のままだ。
「当たり前だ」老人が言下に吐き捨てる。
「あたしらにゃ関係ないねえ、そったらもん」中年女性がゆったり笑う。
「そりゃ関係ねえわ、もちろん」茶をずるずる啜りながら、ガテン系らしい筋骨隆々の男性が頷く。
「あっ、お茶あげてなかったよ、まだ」ブリュンヒルデがわたしを指さし、くつくつ笑う。「あら、ほんとだ」中年女性がよっこらしょと立ち上がり新しい湯呑みを用意する。
「あの、どうぞ、おかまいなく」。
「無粋な諷喩でもないぞ、わしら。なぜかというと……」語りだした老人を遮るように、幼児がぴょんぴょん飛び跳ねながら叫ぶ。「だれか来たよ、ほら、声が聞こえる」。
「ちょっくら見てこい、おまえ」ガテン系が言いつける。

ほどなく、防護服を着た十六名の男たちが幼児に導かれどやどや部屋になだれ込んでくる。あっというまに八畳間は人口過密、ちゃぶ台を囲んでいた面々は迷惑そうに立ちあがる。
「んちゃあ、おくつろぎのところ失礼しゃあす」リーダーらしき男がマスク越しに胴間声を張り上げる。「やかましいな」ほとんど顔がくっつきそうな距離でガテン系が舌打ちする。「さぁせん、元請けに言われて来たんすけどお」「なんだ下請けか」「さぁせん、気合い入れてやりゃあす」。防護服の男たちはいっせいに安全靴の踵を打ち鳴らし円陣を組み雄叫びのようなヒヤリハット報告、ついで入念な安全衛生体操をはじめる。その動作があまりに放逸なので、わたしたちは大慌てで壁に貼りつく。
「ぶほっ、あちゃちゃぁっっっ!!!」不自然な体勢のまま茶を飲もうとしたガテン系が顔面に熱い茶を浴び咆哮する。リーダーの腕がガテン系の湯呑みを勢いよく振り払ったのだ。「まだ、お茶あげてなかったわねえ」中年女性が肉厚な肩でわたしをつつく。「どうぞ、おかまいなく」「この変てこりんな体操いつ終わるのかなあ」「メチャ暑苦しい連中ねえ」「そもそもなにしに来たんだべ、こいつら」「ほんと、なんの用かしらねえ」「あっ、まただれか来たみたいだよ、ほら」。

回廊のはるか彼方怒濤が轟いたかと思うと、あっというまに汚泥と汗と鬱屈の濁流が深緋絨毯の部屋を駆け抜け、赤銅色の集団が八畳間へと打ち寄せた。選手、監督、スタッフら総勢三十九名から成るサッカーチームである。「ここだここだ、間に合ったぞ」「ひゃあ、試合前だってのに汗びっしょり」「アップの手間はぶけたな」「おれもう喉カラッカラ」「すぐピッチ練習はじめるぞお」「無事にたどり着いてホッとひと安心だな」「ばか、だれのせいで道に迷ったと思ってんだよ」「だってカーナビがウソつくもんだからさ」「なに言ってんだ、おまえ」「まあまあ、とにかく間に合ったんだから」「よしとするかあ」「あのう、ちょっと監督ぅ、マジここでまちがいないんすかあ」。一瞬、全員がきょとんと周囲を見回し、不安げに互いの顔を覗き込む。
「こほん」静寂を打ち破り、長身痩躯の監督がおずおず「え……と、つかぬことを伺いますが、こちら、本日第一次ラウンド戦会場の……スタ……ジ……アっ」絶句し頭を抱えたとたん、チーム全員ファンファーレとともにいっせいにその場に頽れ落ち、嘆声混じりに両拳で畳を乱打する者、へらへら笑いながら丸太のような足をばたつかせる者、虚空を睨みすえ静かに称名を唱えだす者……。
「あらららっ、失格かよ」火傷した唇を気に病みつつガテン系が憫笑する。「え、なになにい、このひとたちサッカーできないのお」「場所まちがえたんだから不戦敗だべさ」「遅刻で没収試合てことなんじゃない」「もう間に合わないんだね、メダル無理かあ」「自業自得よね、ダッさあ」「これこれ、そんな言い方しないの」「あのう、お取り込み中のとこさぁせん、ここらへん、べろっと空けてもらっていっすかあ、そろそろ作業はじめたいんで」。

仰々しい機械をがちゃつかせた防護服の男たちが手際よくちゃぶ台を壁ぎわへ寄せ、八畳間の中央一メートル四方ほど畳を刳り貫き、凄まじい轟音とともに掘削作業を開始する。たちまち部屋中あちこち波打ち、四方の壁はぐらぐら踊りだす。
「なんだか畳、ぶよぶよ凹みだしたぞ」「ジャンプして着地するとカダラ沈んじゃうよ、ほら見て」「やめなさいっ」「わし中風あたったのかなあ、なんか、めまいしてきたわ」「まともに立ってらんねえな」「天井踊ってるわあ」「ねえ見て、首までめりこんじゃったよ、あはは」「どうもども、このたびはお世話様でございます、たいへん恐縮でございますが、お邪魔させて頂きましたよ」ベニヤ板ドアをばふばふさせて肥満体の大会組織委員長が八畳間に登場した。「どうもども、お世話様でございまして、たいへん恐縮させて頂きます」「あんた、なんだべ」「お・も・て・な・し、させて頂きにあがりました、関係者全員外に待たせて頂いておりますのでして」「なにやるつもりなんだい」「今宵の催しは『音楽の夕べ』でございまして」「演歌まつりかい」「カラオケ大会だべ」「アニソンがいいな」「声優さん来てるのかしら」「配信ライブなんじゃない、オールナイトで」「本日はオーケストラでございまして。指揮者はじめ、みなさん有名な演奏家ばかりでございますよ」「どんな曲目やるのさ」「本日のプログラムはワーグナーとのことでございまして」「それじゃ四管編成じゃないか」「さようでございます」「それって人数どんだけなのお」「総勢百とんで五名となっております」。

掘削作業の轟音が一段と激しさを増す。床下を往来する作業員たちの動きに合わせ八畳間が豪快に浮沈する。ひときわ凄まじい震撼とともに室内にいた全員が舌を噛み悶絶する。

いきなり押し入れの襖を突き破ってひとりの作業員が転がり落ちてきた。「あれれっ、床下掘ってたら、こんなとこに出ちゃった」。またひとり転がり落ちてくる「なしてだあ」。さらにもうひとり「この押し入れ、あちこちと繋がってるんだわ」。

めりめり、めりめり板の間が軋む気配とともに、回廊の彼方から押し入れを通り抜け四管編成のオーケストラがやってきた。八畳間の壁三面ほぼ崩落、残る一面とて激しく撓み、ベニヤ製ドアなど何処とも定かならずばふばふ飛び去った。誰しも不吉な予兆に怯え呻吟するさなか、防護服の作業員たちのみ床下と押し入れのなかを忙しそうに出入りしている。

魂が抜けたように呆然と佇んでいたサッカーチームの一員がふと思いつき、夢と感動とレガシーを共有するためボランティアとして作業に加わることを仲間たちに提案する。そうしましょそうしましょとサッカーチーム全員で押し入れと室内を幾度も往復、脂漏性の古畳を大量に運び入れ、そこらへんに立ちすくんでいた第二バイオリン奏者を捕まえ畳の上にむりやり横たえ、その上にじくじく妄執にまみれた畳を重ね敷き、その上にまたひとりオーケストラ団員を横たえ、さらにその上に湿っぽい古畳を積み重ね、そしてさらにもうひとり……やがて古畳と人類のミルフィーユが八畳間の天井を突き抜け国家モニュメントとして燦然と輝き屹立する。
「接収、接収」ふいに作業員たちをかき分け押し入れから転がり落ちてきた第一師団長が、上空で旋回するヘリ旅団の爆音に負けじと破鐘声を張り上げる。「総員一千とんで七十八名、これより此処に駐留するものである。ただちに全軍の糧食を用意願いたいが、ここの女将はどこにおるか、女将は」「あんた、そったらこといきなり言ったって、米だってオカズだってすぐ用意できるわけないべさ、はんかくさいねえ」「えばりんぼだね、このおじさん」「なんだべなあ、どいつもこいつも」。
「還りましょう、いまのうちに」ふいにブリュンヒルデが耳もとでささやく。あやしき声音、なやましき吐息。混迷の八畳間をあとに手に手をとり艶やかな回廊へ逃れ出る。

片側から砂混じりの淫蕩な夜風、もういっぽうは磨りガラスと合板ドアのつらなり。背中から途切れとぎれにささめきが追い縋ってくる。「へんなのお」「わけわかんなあい」「逃げる気かよ」「だらだら垂れ流しといてさ」「まるで真夜中の公衆便所よねえ」「いい気なもんだ、どこのだれべえが」。

往けどもいけども果てしない回廊。曲がりかどがあったり微妙にカーブなどしていたら四囲を巡っているものと判断できただろうに。極度に不安なオーケストレーションが総身を駆け巡る。このさき何が待ち受けているだろう。おや、なんだか気温が下がりはじめたようだぞ。周囲の佇まいも微妙に変化してきた。おやおや、どうやら暁闇の森。暗緑色の冷気が足もとを這い絡みつき、鞭のような小枝がぴしゃりと頬を打つ。思わず涙が滲む。ブリュンヒルデがくつくつ笑う。なつかしき樹相に追憶の濃霧がまといつき、はるか彼方に精霊らしき影が手招きしている。そういうことか。つまりこれよりは大気、樹木、川、記憶、本来の名を朗誦しつつ歩めということなのだな。それではなつかしき面々よ、かの内在律に従い、いつかふたたび巡り会おうよ。

2021年7月11日公開

© 2021 飽田 彬

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