藤倉さん
ひとつだけ、ここに残しておこうと思います。言葉で伝えるには差し出がましい気がして、このような形をとりました。これは私が残すささやかな、未来へのひとつの道標です。とはいえあまり気負わずに、目印程度に思ってくださいね。
数年後に、隣町の小学校が合併して大きくなります。臨時教員として私も声をかけていただいたのですが、もう教師として立つことはできないと断りました。
代わりに、貴方のことを推薦しておきました。勝手に決めて申し訳ありません。もしかしたらこれを読むよりも先に、突然そういった話を聞かされて驚いているかもしれませんね。
藤倉さん。教師になってください。子ども達を導き、愛すること、愛されることを教え、見守る存在になってください。私の代わりではなく、貴方の思う、こうあるべきと思う教師に。
これは押し付けかもしれません。貴方を縛る鎖なのかもしれません。しかし私にはどうにもこれが正しいことのように思えてならないのです。貴方に教師になってほしいと伝えることができるのは、私だけなのではないかと思うのです。
世界は広いのだと、子ども達に教えてあげてください。連れていってあげてください。自らの目で見ることが叶わないのならば、想像力で飛び立つ術を、手に届く距離に隠れている沢山の幸せの見つけ方を教えてあげてください。藤倉さんにならできます。なぜならばもう、私に教えてくれたのですから。
貴方との日々で新しく知ったこと、思い出したこと、ずっと私の中にあったのだと気づかされたこと。できるだけ、ここに残していきます。私なりに形にしようと思います。
直接言葉で伝えられたことも、改めて書いておきます。そう遠くない日に貴方が私の声を思い出せなくなっても、言葉だけは残るように。
藤倉さんに出会えて、幸せでした。 平野啓司
手紙の後に続く物語。それは藤倉のよく知る話だった。
主人公の男は高校を卒業してすぐに家を飛び出し、気ままな旅に出た。西へ東へあてもなく、様々な場所で様々な人に会い、出会っては忘れ、また出会って、男は町から町へと渡り暮らした。
そこに藤倉は生きていた。先生の筆で、先生を通して生きていた。悲しい物語はひとつも無かった。藤倉の道筋は先生の目を通して温かい光に照らされていた。
藤倉は物語を夢中で読んだ。いつしかすっかり日が暮れて手元が見えなくなっても、卓上の弱い灯りひとつで読み続けた。
物語の最後は唐突に訪れた。ある町に辿りつき、桜の咲く道を子どもを背負って下りてきて、小さな町を見渡して――そこで前触れもなく終わっていた。最後の方の文字は震えていた。後には空白の原稿用紙だけが延々と残されていた。
「これじゃあ、終われないな」
藤倉はペンをとった。とってくれと言わんばかりに置かれたままの、先生の愛用していたガラスペンをインクに浸し、迷うことなく書き綴った。
『――とある片田舎の小さな町で旅人は一人の若い男に出会う』
何も書かれていない一枚目に記す題名はもう決まっている。
いつも西日の差しているそこは、薄暮教室と呼ばれていた。
(終)
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