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綺郷譚

飽田 彬

……ここでずっと待っていたの

小説

9,272文字

こうしてシワくちゃのハンカチみたいに喘ぐとき、きまってよぎる夜行列車……朝霧にかすむ終着駅を待ちきれず降り立った駅、有り得た生のように佇んでいた駅……ひとり立ちつくす駅前広場、こだまする噴水のしぶき、夜明け前の玩具めいた町並み……漆黒の原野を往く軌道に紡いだ夢……

われに返ると仄暗い車輛、古びた固い座席に蹲ったままなのだが、いずれまた降りてしまう……繰り返される夢、単調な鉄路のリズム、陰鬱な車窓に映る少女の横顔、幾度も繰り返される夢……

名も知らぬ駅に降り立ち、ひそやかな暁闇の町を彷徨ったすえ、あてどなく汽笛を待ったベンチは、あれはどこの駅舎だったのだろう。いくつもの駅があらわれては去り、禍々しい怪鳥のように翔る夜行列車……

 

あるいはまた、X嬢よ。

誤想された対位法めいて迸る妄夢は防ぎようもない……執拗に追いすがる旋律、鉱物的に繰り返される転調……

リサイタルの翌朝はいつでも快晴だ。かろやかな移調のようにプレジデンシャル・スイートの床に素足を降ろし、こちらを凝視する壁のリトグラフに目を止める。昨夜は気づかなかった不穏な描線は酷薄な残響を思わせる。注意深くゆっくりと無個性な窓辺に立つ。眼下を往来する無音の喧噪、ぎこちないウイルスじみた車列の軌跡、ひときわ目をひく異形のハクモクレン……清楚で冷然、可憐で奇態、生命の歓喜に咲き誇ることなく至福に打ち震えることなき満開の白日夢……

ともあれ、リサイタルはまぎれもなく大成功だった。永き不在ののちの祝宴。わたしを識る者など誰ひとりいないはずなのに、放蕩息子の帰還のごとく喝采を浴びせたハクモクレンの街。

コーヒーの芳香とともに祝宴の余韻に浸ってみる……神託を待つかのように固唾を呑むホール、最初の音が解き放たれた瞬間の冷厳な揺振、昂然と構築される創世神話に圧倒され、深海魚のように客席に沈み込む聴衆……

X嬢よ。

こうして陽春の光彩を浴びていると、なぜか一刻もはやく帰国の途につき、まどかな夢として遥かにこの地を偲びたい……そんな奇妙な願望に囚われるけれど、わたしにはこの国での仕事がもうひとつ残されている。わが生まれ故郷の町で開かれる音楽祭……といっても、ものごころつく以前に離れたのだから、あの町の記憶などまるでない。しかしながら、生命を感じさせるものといえば吹き抜ける朔風のみ、なにもかもが捨て置かれ、忘れ去られ、朽ちるにまかせた亡霊じみた小さな町のイメージは、なぜか瞭然たる原風景としてわたしの心に深沈している。

それにしてもじつにおかしなことだ。ほとんどの住民が逃げ去り、まるで地上から掻き消されたような町が音楽祭を開催するなんて……だが訝しんでいる時間はない、もうじき迎えがやってくるはずだ。それまで渡されてあった音楽祭のプログラムでも眺めていよう。

X嬢よ。

うすっぺらな冊子の表紙に敷かれた風景写真にわたしは目を奪われる。ひなびた風変わりな花で覆い尽くされ、ふしぎな光芒を放つ小高い丘、その頂きにそびえる途方もなく巨大な老樹、丘の後方は黒々と深い森のシルエット。

わがX嬢よ。

たしかにわたしはここを知っている。

吹き渡る風の匂いも、きらめきも、大樹の葉むらのしわぶきすらも、堅牢な記憶としてわが魂に刻み込まれている。

いつの日か、そこに立つわたし。あいまいでありながら、揺るぎないひとりの少女の気配。かすかな息づかいは妖しく甘美だ。あたたかく、痛く、胸の吃るような……いや、それとも、あやうい……そう、あらわれては消え、けれど、そこに在りつづけ、そして、ゆらめいて……

 

音楽誌の記者は、野獣じみた体臭を放つカメラマンとともにあらわれ、アレグロ・ジョコーソでまくし立てた。

「お約束どおりお迎えに参上いたしました、マエストロ。まずは昨夜のリサイタルにおいて完膚なきまでに打ちのめされたことを告白させてください。とりわけアンコールでそそくさと演奏された破綻調のカノンがわたくしの魂をねじ伏せ、叩き潰し、いまなお圧倒しつづけているのです」

彼女はつんのめりながら駐車場へ先導すると陰鬱に蹲る時代ものの大型車を指さした。「マエストロの生命より高価な楽器はうしろのシートへ……あら、ご安心くださいマエストロ、こんな見てくれですけど呆れるほど頑丈なんですのよ、この車。どんな悪路をぶっ飛ばそうとまったく揺れないのです」

「しかもおれの運転技能はフォトグラファーとしてのそれより数段上等というもっぱらの評判でしてね」髭づらのカメラマンは黄ばんだ声で笑いながら助手席の撮影機材をぽんと叩くと、いきおいよく古めかしい車を発進させた。「いざ出発、天上の音色が轟きわたる夢の町めざして」

運転席のうしろにわたしと記者、わたしの楽器はさらにうしろの座席にひっそり横たわっている。

「さっそくですが車中同行取材の主旨を再確認させていただきますわ、マエストロ」

記者はノートパソコンを膝の上に開くと、モニターにあらわれた文字列を過剰なクレッシェンドで朗唱した……思いがけぬ大成功をおさめた凱旋リサイタルの翌朝、音楽祭客演のため生まれ故郷の町へむかうわれらがマエストロ、なつかしく甘き夢の風土を往くドライヴに高揚し、大いに語る音楽家としてのうしろ冥い狂気と孤絶、永遠に疚しき不在証明、そして対位法的風景との破滅的デュエット……

「……あの町はいま、どんなふうかね」

「どんなふうって、ありゃじつにつまらないところさ、去年とうとう地図から抹消されちまったよ」片手ハンドルで胸ポケットからパイプをとりだしたカメラマン兼運転手は馴れなれしく口を挟んだ。

「きみ、それはなんだか……」ふいに襲いかかる獣臭にわたしは思わず声を荒げた。猛々しい臭いの発生源は粗悪なパイプ煙草だったらしい。

「そうそう、廃墟街道を通るよ、道中」カメラマンはわたしの抗議など無視し盛大に毒煙を吐き出し笑った。

「あら、その道筋だったかしら」と記者。「もうひとつのルートのほうがずっと近道だし景色だっていいじゃないの、きっと喜ぶわよ、このひと」

「……わたしはどちらでもかまわないが」

「おっ、ほらね、やっぱりおれの予想どおりの御仁だった、あんまり選り好みなんかすると永遠にどこにもたどりつけないことをちゃんと承知してるんだよ、こいつ」朽葉のごとき無精髭が嘲笑いそよいだ。

「……わたしはどんなルートを通ろうがいっこうにかまわないよ……それでいて一刻もはやく目的地に到着したい気分でもあるけれど……たしかにあの町は生まれ故郷であるものの、ほとんど記憶に残っていない、まして音楽祭会場のあたりなど足を踏み入れたことすらないはずだ、それなのに、なぜか胸が痛むほどなつかしい場所という想いに囚われていてね、われながらじつに奇妙だが……」

「まあ、すばらしい発言だわ、マエストロ!」記者は華々しいシンバルのごとく膝を叩くと、めくるめく金管の音色で謳いあげた。「永遠の不在者ならではの故郷へのオマージュね、つまるところ煉獄に捨て置かれた同胞に対するお門違いな優越感とその裏に潜む哀れな劣等感と罪悪感の発露なのね、取材記事のイントロとしてお誂えむきだわ」

「その哀れな劣等感と罪悪感は、マエストロの音楽でどんなふうに昇華されますかね、そうそう、ついでに言っとくとあのプログラムの表紙写真はおれの作品でしてね」すでに運転席は毒々しい煙幕につつまれ朦朧としてさだかでない。「それはそうと、ちょっと見てごらんよここらの景色、みごとだなあ、この茫漠たる荒廃と諦観の象徴みたいな風景、すぐれた写真家のイマジネーションを刺激して止まぬものがありますよ、これは」

「あら、あなた、ひょっとしてこんなところで道草して撮影したいってこと? なんだか殺風景で退屈そうなところじゃない……でもそうね、なんだかそれがいいわ、なかなかいいアイデアって気がしてきたわ、じゃそうしましょう、車を停めて、さあマエストロ、ぐずぐずしないでさっさと降りなさい」

乱暴に背を押され転げ落ちるように車を降りたわたしは肺腑のなかを入れ換えるため忙しく喘いだ。新鮮な外気を吸っていくらか気分が楽になりようやく周囲を見渡す余裕ができたものの、そこは冬ざれた原野がひろがるばかり、遠い空に低く重く雪雲がたれ込め、いかにも辺境じみたがらんとした寂風が頬に痛い。

「ここはいったい……」

「さあ行きましょうマエストロ、唯一無二の撮影ポイントをもとめて、うそみたいな男前に撮ってさしあげますよ」カメラマンはよっこらせと機材を担ぎ片手でわたしの腕をつかみ歩きだす。

寒い。

往けどもいけども風の吹きすさぶ荒涼とした原野。ふり払おうとするのだが、カメラマンはもの凄い力でわたしの腕をつかんだまま離さない。

「ここはいったい、どこなんだ……」

「故郷そのものにきまってるじゃないか、うしろ冥い永遠の不在者にとっては……強いられた忘却と沈黙が塵みたいに降る原風景……そこはもはや気ままなノスタルジアなど寄せつけぬ冷徹な異域と化してふしぎはないだろう……おっ、このあたり、なかなかいい雰囲気じゃない、ここで我らがマエストロの演奏スチールを撮ろうじゃないの」パイプを齧りつつ醒めぎわの夢みたいにカメラマンは記者に頷きかける。

「あら、それじゃ楽器をとってくるわね」朗々たるアリアで応じた記者は車へ戻る。

「ま、待ってくれ、こんなところにわたしの楽器を持ってくるなんて、と、とんでもな、い、いててててててててててててて……」万力のようなもの凄い力で腕が締めあげられる。

「ほらごらんマエストロ、強いられた忘却の欺瞞が見えてきたよ」

だしぬけに眼前にあらわれたのは朽ち果てた駅舎。白骨じみた駅名表示板らしき残骸が痛々しい。そこに記された駅名はすでに判読不明だ。

いきなりカメラマンが大笑いする。

「なんだこれは、かんじんの駅名がまるっきりわからないじゃないか、わは、わはははははははははははははははははははははは」

はるか昔日の駅舎はその輪郭すでにあやしく、慟哭のごとき寒風に曝され、もはや実在すら覚束なげだ。彼方へ繋がっていたであろう鉄路も廃線以来の無関心と沈黙の腐葉土に分解され、干上がった河跡のようにさだかでない。

妄霧にかすむプラットフォームには、そこだけ淋しげな陽炎の匂いと色褪せた薄陽がまといつき、ゆらめく少女が病みあがりの子のように風に吹かれている。

 

……ここでずっと待っていたのよ、あなたはいままでどこにいたの?

 

虚ろな双眸が儚く痛くわたしの魂を穿つ。

「どうして……どうしてあんなところに少女がいるんだ」

「え、どれどれ……なんだ、だれもいないじゃないか」プラットフォームを指さすわたしにカメラマンが舌打ちする。

「ここにいるのはわれわれ三人だけだよ」

「そうよ、少女なんてどこにもいないじゃないの」重そうに楽器をひきずりながら戻ってきた記者が苛立たしげに喚く。

「でも、たしかに……ほら、あそこに侘びしそうに佇んでいるじゃないか」

「うそはいけないな、うそは」と苦々しい表情のカメラマン。「うそをつくのは、こんな場合、どうかと思うよ」

「そうよ、こんな身のほど知らずなモノ見せびらかしちゃってさ、うそつきにはもったいないくらい高いんでしょ、これ」記者は尖ったヒールのさきでこつんと楽器を蹴ると、カメラマンと目くばせし学校演劇ふうな意地悪笑いをもらした……荒漠たる風に嬲られるがまま、わたしはがっくりうなだれた。

「ほうら、やっぱりうそだったのね、少女なんてどこにも存在しないのに」

「もういいよ、はやいとこ撮影を済ませて出発しようぜ、そうしないといつまでたっても天上の音色が轟く音楽祭にたどりつけないよ、な、マエストロ」

車にもどるとふたたび猛々しい毒煙に包囲されてしまった。激烈な頭痛に見舞われ、次第にわたしの意識は遠のいた……どれくらい経っただろう、ふいに目醒めると、鼻歌まじりのカメラマンは相変わらずパイプを齧ったままハンドルを操り、となりの記者は、なにを思ったかバッグからとりだした香水を胸もとにふりかけ、やおら身をすり寄せてきた。「どうこれ、いい香りでしょ」黝いプワゾンの奔流が無慈悲なファンファーレとともにわたしを奈落へ突き落とした。

「すまないが窓をあけていいだろうか」

「だあめ、いけません」

「おっと、つぎの橋を渡って右手へ折れると、いよいよ地図から抹消された町の搦手門が見えてくるよ、マエストロ」

「か、勝手に入っていいのかい、そんなところ」

カメラマンと記者は同時にげらげら笑いだした。

「勝手に入れないからこそ地図から抹消されたんだろうが、このうすらばか、去年地図から抹消されると同時にそんな町は歴史上一度たりとも存在しないことになったんだよ」

「そうよ、そんな町はこの世界のどこにも存在しません」

「だが、かつてそこにはおれの家族……祖父母と両親、弟や妹たちがにぎやかに暮らしていたんだ、もちろん地図から抹消される以前の話だがね」カメラマンは一転しんみりした口調になった。「きっといまも暮らしているのだろうが、もう二度と彼らには会えない、だってそんな町など存在しないのだから……それとも、ひょっとするとおれの家族などそもそも実在しないのかもしれないな……いや、まてよ、あれははるか遠い夏のことだが、たしか片目のじいさんとふたり酒を酌み交わした記憶があるぞ、このおれには……あれはいったいいつのことだったのかな……

 

……剛毅果断な男を輩出することで名を馳せたるわが一族。とりわけ熱風のごとき昂揚を漲らせた隻眼の若者がこの地に足を踏みいれたとき、妄魔は永き眠りから目醒めたといってよいだろう。はるかな年月を隔てて帰郷したおれと酒を酌みかわし、なつかしき夢の宵が紙魚のように更けるにつれ、初夏の漁火めいた酔いが灯り浮揚感に溺れた祖父がずれたガラスの眼玉をきらめかせ問わず語りに述懐したところによると、崩壊した原郷を逐われ幽明境を彷徨ったあげく、ようやく辛気くさい雲下に横たわる新天地にたどりついた当初は、鬱然たる原生林をまのあたりにし、文字どおり暗澹たる前途に立ちすくむばかりだったという。なにやら明るい方角を見いだし希望の最後の烽火と願い密林を拓き藪を払いわけ入ってみたものの、そこは途方もない巨樹を頂き酷薄に照りかがやく不毛の丘にすぎなかった。あともどりしようにも、けものみちの成れの果てみたいに見捨てられた囚人道路のむこうには帰るべき郷土などもちろんない。無慈悲な丘から吹き降る止めどないメランコリイの朔風に冒され、迷妄と夢魔に惑った根なし草たちは、ずぶずぶと生温かい旧世界から隔絶されたこの掴みどころのない地で、永劫に互いの悪夢を往き交うなりゆきと悟った。

おなじころ、入植者同様立ちすくんでいたのは凶々しい白日夢に翻弄される先住者たちとその神々だったが、不吉な予兆に居ても立ってもいられなくなった神々はこぞってあたりを右往左往、入植地にほど近いコタン全域にせわしげな嘆声を轟かせた。われもわれもと登場したためコタンだけではおさまりきらず、ついには移住者の集落にまで物思わしげな神々がどっと押し寄せるありさまだった。それらのなかには何を血迷ったものかパウチカムイ(淫魔神)までがまぎれこんでいて、なにやら仕事に励んだかと思えば途中でなげだして子づくりに精をだしたり雪崩のような痴話喧嘩なんぞおっぱじめる始末、なにしろそれはあたたかい魂魄が苛烈な行く末に嘆息する早暁、妄魔が思うまま人間の運命を左右する御時世のことだったでの、しかもそれだけじゃねえ、カムイたちだけじゃねえぞ、わしら移住民が内地からつれてきた仏さんや氏神さんまでがいつのまにやら切株だらけの開墾地をのそのそ歩きまわり、やれここの水はわしには合わなんだだの、やれはやくクニさ帰してくんろだのと泣きごとをいいだす始末、そのうえどさくさまぎれに間引きされた水子たちやらいつの時代のだれの血筋とも知れぬ嬰孩連中まであらわれ憑かれたように泣き喚く姦しさ、さらには騒ぎに乗じてコロポックル衆がどんちゃらずんちゃら唄い踊りつつ登場するありさま、余談じゃが、わしら最初の草小屋を拵えたときにゃ気のいいコロポックルども総出で手伝ってくれたもんよ濁酒ひと樽でな、おまけにはるばる太洋を越えてきた伝道隊一行が長旅の途上で置き去りにしていった梅毒の宣教師のゴーストだの、それに惑わされたか二世紀ばかり前に斬首された百とんで六人の殉教者やら蜂起軍の指導者たちやら夜っぴいて怨みごとを唱えるその喧しさといったらなかった、余談じゃが、これらについては後年わしのもとへ取材に来た妙な男が『偽史和人傳』やら『綺郷譚』だのという草稿で触れておる、さらには賑々しさに誘われたものか、フーリという名のコシンプ(魔物)までがひょっこりあらわれ度外れた悪さをはじめたには震えあがったぞ、異文化間を無造作に越境し襲来したフーリは片翼だけで三里ほどもある鋼鉄のような翼を持ち、全身どす黒く目の縁と口のまわりだけが朱塗りのように赤いという、なんとも毒々しくおぞましい風体の怪鳥、しかもこのコシンプときたら凄惨な腐臭を四囲に撒き散らし、やつが風上にあらわれると悪気のため身体じゅう腫れ上がってしまう凄絶さ、突如頭上に凶々しい翼音が轟きわたるとみな慌てて鍬や鋤を放り投げ散りぢりに逃げ惑うも、フーリのやつめ、目をつけた可愛い娘を翼の一撃でもって昏倒せしめ、なんともいやらしい巨大な鉤爪で獲物を摘みあげ悠然と天空の彼方へ連れ去ってしまう、ねぐらへ戻ってゆっくりゆっくり弄びながら蕾のように愛らしい娘を喰らい尽くすためにな、いやはやこれには心底まいったぞ、内地じゃ想像だにできなかった新天地の物怪の怖気を震う脅威、わしらただ怯えるしかなかったんじゃが、そのころこのあたり一帯でもっとも敬われていた名なしのフチ(媼)が「おまえたちが連れてきた神仏はまるっきりあてにならぬようじゃ、ここは天地を司るカムイの威力を後ろ盾にフーリに闘いを挑むよりほか手だてはあるまい」と、まるで天上の福寿草みたいに清冽な声で諭してくれての、名なしのフチというお方は、ときにあいまいな輪郭を揺らめかせ蒼じろく透きとおったりもする、六世代を通して生き抜いた老媼、なぜ名なしのフチと呼ばれるのかについては壮大な伝承が残されているものの、それについてはいずれ語る機会もあるはず、ともかく凛とした威厳はあたりをなぎ払うばかり、なんとも堂々たる風格に満ち溢れた女傑じゃった、先住の衆はもちろんのことわしら移住者からもたいそう畏れ敬われておっての、そもそもわしらみじめったらしい喰詰め棄民の群れなんぞ、新天地に到着したてのころは、名なしのフチをはじめ先住の衆のおかげでようやく露命をつないだもんじゃった、『綺郷譚』でも記述されているとおり、どの山道を通ればキムンカムイ(羆)やホロケウカムイ(狼)の逆鱗に触れずにすむのか、あるいは、どの野草がアエキナ(食草)で、どの野草がスルク(毒)なのか、はたまた想像を絶する厳寒を凌ぎ無事にパイカラ(春)を迎えるための智慧、それらすべて先住の衆に教えを乞い導いてもらったんじゃよ、わしら。

 

「ここがその搦手門だよ」

鬱蒼たる原初林のあいまを清冽な川がひっそりと走っている。わたしたち一行に気づいた野鳥が羽音高く飛びたち、さらにその音に驚いたらしい小動物が慌てて川のなかへ逃げこんだ。巨木を利用した橋を渡れば道は双手にわかれている。上手へむかう小径の手前にはなにかの儀礼のように野生の小枝が刺してある。

「われわれを悪夢あるいは亡者とみなしてるんだろうよ、イヌエンジュの枝は悪夢から身を祓い浄めるために用いられてきたそうだ、またあるときは墓標としても、ね」

下手の道を往くと、やがて猥雑なビルが林立する騒がしい通りに出た。埃っぽい一郭に佇むハクモクレンのもとに、少女はいた。あまりに場違いで、とても儚げに見えた。痛々しかった。

パイプを取り落としたカメラマンがうっそりと笑う。

「ふたたび強いられた忘却に出逢っちまった。きっと彼女はわれわれと同行するつもりなんだろうが、もちろんどこにもたどりつけはしない。なぜなら見放され切り捨てられたトポスに囚われたものは、永遠に迷妄から逃れられないのだからね」

だれも顧みない一日が暮れ、シワくちゃのハンカチみたいなわたしたちは古めかしいホテルにチェックインする。濃密に少女の気配を感じながら食事を済ませ、ひっそり各自の部屋へ引きこもる。

夜半、かすかなノックの音にドアをうすく開けると記者が無遠慮に入ってきた。

「ぐずぐずしないで、夢のなかでみる夢の訴えに耳を凝らしてみたらどう」

漆黒の闇のむこうで森が不吉にざわめいている。永すぎた不在を咎めるかのようにフーリが啼き喚く夜の森。

X嬢よ。

わたしは永遠にどこにもたどりつけないだろう。

混乱し疲弊しきった旋律、幾度も繰り返される転調、凶兆と同義のノスタルジア。

 

古来、とても豊かな土地だからこそ、途切れることなく人びとが降りてきて集落を形成したのだ……けだるい谷間の午後、村はずれの丘の頂きにそびえる大樹めざしてわたしは歩いた。あれはいったい樹齢何万年になるのだろうか。樹冠のひろがりの壮麗さは息を呑むばかり。呆れるほど太い幹は百人がかりで輪になっても手が届かないだろう。老樹の下にたどりつき、強い陽射しを避けて、のたくる大蛇のごとく節くれた根方に腰をおろしてみる。まるで誂えた安楽椅子のような心地よさ。ここならば忌わしき災厄などまるで異次元の話だ。まばゆすぎる陽光は樹冠にさえぎられ、あまいそよ風がかろやかに頬を嬲ってゆく。やさしい葉ずれのささやき、かすかに鼻腔をくすぐる可憐な花の香り……

 

あどけない禍機の気配に目醒めると、終末的風景を背にうつくしい少女が微笑み、病みあがりの子のように風に吹かれている。

ふいにゆらめき立ちのぼる記憶。わたしたちは夜行列車を待ちわびていた。儚い恋の懊悩めいて、ただひたすら妄霧の彼方の汽笛を想い焦がれていたはずだ。

ひめやかな萌芽の兆しに酔う暇もなく、ゆらゆらゆらゆら、伸びきった磁気テープの声で彼女は言い放つ。

わたし、きょうで百になったわ。

そうか、そうだった、むろんわしとて、とうに世紀を閲したのだ。うす笑いを浮かべる彼女の横顔を見つめながら狭隘な胎道をゆっくりと遡る。

 

……ここでずっと待っていたのよ、あなたはいままでどこにいたの?

 

どこ。

わがX嬢よ。

こうしてシワくちゃのハンカチみたいなわしにはなにもかも不穏当であり、まして安穏な覚醒など願うべくもない、ならば老いぼれらしく、腰折れのひとつもひねるしかないではないか。

 

妄魔郷ゆめさとはきみがふるさと降り立てばわが手とりにしおさなき日顕つ

© 2023 飽田 彬 ( 2023年11月20日公開

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