刺青と亀

たまごさんわたすすうわ(第5話)

多宇加世

小説

10,246文字

君じゃあないことは確かだって君はいないんでしょう
というか生まれない たくさんたくさんたくさん君があったら
黄身ね
そう黄身黄身がたくさんあったら
そしたら分からないけれど
たくさんたくさんたくさん卵があったら
そしたら分からないけれどでもそれは僕らじゃないかもしれない
僕らがこれまで見てきたように
そう全部違った ぜんぶ死んだよ
これからも死ぬ うん

最終回です。お付き合いいただきありがとうございました。

――犬?   違う。茶色いやつだ。足が短くて……

――やだ、柿田さん。犬は茶色とは限りませんよ。足が短いとも限りませんし……

軽はずみな否定。と、あとからむちゃ―んは思う。私はばかだった。

――違う、そんなことはない! 犬は茶色いんだ! 足が短いんだ!……

むちゃーんはいまだにあの時の透明さを忘れない。出会ったあの日、濁った目が流した涙の透明を。

 

むちゃーんがあの卵を産むようになったのはちょうど二か月前で、それまでは普通の女だった。普通だったはずだ。自身で言うのもあれだけど、普通の若い女だ。高校生と大学生の狭間、浪人中の。

彼女は地方都市でペット可のマンションに家族と住んでいて、そんなよくある、普通の、若い、普通の、恋人のいるようでいないような、いないようでいるような、普通の、処女の、普通の、女で、普通の、だった。卵を産むまでは本当にそうだった。

朝、目覚めるとベッドの股のあたりにピンポン玉くらいの白いものがいくつかあった。三個だったかもしれないし十二個だったかもしれない。なぜ三個かもしれなかったかというと、布団をめくり自分で意識して数えたのがそこまでであって、あとは手近なスーパーのレジ袋に九個ほどの――つまり合計十二個の――数を無造作に、凝視したくなくて隠したんだったかもしれなかったからだ。白い塊は、テレビで観たウミガメの卵とそっくりだった。色は、昔、叔父の車に乗せてもらった時覗き込んだ灰皿の底に敷いてあった匂いのする細かい玉の半透明さを想起させた。自分の卵は無臭だった。彼女は十階の部屋を出てエレベーターホールに足を向けた。生暖かい汗が、背中から尻のみぞまでのムダ毛処理をしていないところを垂れ続ける不快さも我慢して、廊下を曲がるたび誰かと出くわすのも恐れつつ、ただひたすらに吹雪の中にいるかのように震える両手で(奥歯もガチガチした)レジ袋の口を何回も何回も縛って、エレベーターで降りた。途中、むちゃーんは昔読んだゴリラの四コマ漫画を思い出していた。……

ゴリラが蓄えた無数のバナナを盗まれた。けれどゴリラは数を多くは数えられず「一、二、三、たくさん盗まれた!」と頭を抱える。長老に報告に行くと何本残っていたのかを聞かれ「一、二、三、たくさんしか残ってないんです!」と答える。そして「落ち着け。たくさん残っているのならばそれでいいではないか?」と言い、ゴリラたちは腑に落ちぬまま納得し、話はオチを迎える。私もそうだ。とむちゃーんは思う。焦ったが卵をいっぱい持ってきた! 多分全部回収してきた、ならば残っている卵もいっぱいは無いはずじゃないか、と。部屋へ戻ってみると、案の定、白い卵は四個ばかり、布団の隅の窪みに残っていた。いっぱい残っているじゃないか! いっぱい捨てたのにいっぱい残っているじゃん! ゴリラのバナナ! むちゃ―んはその時、少しだけ笑い続けた。頭のネジの緩んだフランケンの怪物のこそばゆい笑み、あるいはLSDのディズニーアニメの多幸感、もしくは自我が崩壊するとされている曰くつきのゲームの世界観(弟がやってた)。それらあらゆるほつれやゆるみ、普段の日常への怪奇の侵入だった。つまり軽く頭が限界だった。

毎日のように捨てる場所は変えた。つまり卵は毎日産んだということだ。マンションの一階に一日おきに捨てることもあれば、町には海があったので、砂浜から、あるいは防波堤から流す(還す?)こともあった。隣町まで捨てに行くこともあった。隣町といってもいくつかあったが、とあるマンモス団地に行った、そんな時だった、「密会」の柿田と出会ったのは。

向こうからやってくるまっくろく日焼けして、ウォーキングにしては早足過ぎるその男を目にした時、「嫌だな」と思った。下着のシャツ姿だ。向こうは団地の「チ」棟と「リ」棟のあいだを「ト」棟のほうから歩いてきて、むちゃーんとはちょうどゴミ捨て場で鉢合わせる距離だった。向こうもごみの袋を持っていた。むちゃーんはぐっと歩幅を広くとって、先にゴミ捨て場に着くように努力し、卵入りの袋を捨てた。

振り返って帰り出した時「アレレテエ!」という声が背後で上がった。振り返ると、男は彼女の捨てた袋の口を震えた手で持っていた。むちゃーんは色めきだった、「ちょ、ちょっとてめえ!」

だが男はそのあとでこう言った、

「うちの妻と一緒だ! うちの妻と一緒で卵を産んで捨てているなんて!」

 

出会った日から二人は「密会」を始めた。

その男・柿田さんと、予備校の昼休みにむちゃーんは〈密会〉した。どこかのベランダから泣きじゃくる子供の声の反響する、団地の棟番号のイロハでいうと「チ」と「リ」の狭間の小さなあずまやで。〈密会〉という単語はむちゃーんの好きな小説のタイトルと、偶然にも彼女がハマっていたインディーズバンドのバンド名からとって使っている。パンクバンドで、むちゃーんは音楽が大好きだ。柿田はそこのベースギターに似てなくもない、こんなにも日焼けしていなければ、と思う。歳もだいぶ違うけれど。ここの団地はあまりにも棟と棟が近すぎて、巨大なカステラにわずかな縦横の切れ込みを入れているようだ。空が狭い。似た光景ばかりだったので、そのあずまやには、チ、リ、チ、リ、と口ずさみながらじゃないと辿り着けなかったし、帰りも……、いや、帰りはつぶやかなくていいのに、リ、チ、リ、チ、とむちゃーんはつぶやきながら団地から抜け出た。抜け出て昼休み明けの予備校にまた戻った。柿田さんも「ト」の棟の自宅へ毎回帰った。ト、ト、ト、ト、と? いや、柿田さんは団地に住んでいるんだから、わざわざ道に迷う心配はしなくっていいはずだ。「密会」とはいえ、それは示し合わせたものではなかった。携帯電話を柿田が持っていたかは関係なくて、連絡先を交換する気は毛頭、むちゃーんにはなかった。「密会」は「密会」なのだ。そしてそれは何故私が卵を産むかを知るための大切な行いなのだと彼女は思っていた。

柿田さんは水族館で育って、そしてこの団地に住んでいた。

そして冒頭の会話……、私は本当にばかだ。

水族館育ちの柿田さんが犬のことをほとんど知らないのはよく考えればわかったことなのに。いや、そういう問題なのか? いや、だから……。それに……。水族館に住んでいた? ……

「むちゃーん! それ絶対奥さんだっていないと思うよ! いたとして、老いた母親。それと二人暮らしだって、きっと!」

「んなことわかってるっつーのー」

混みあう居酒屋で、親友の女の田所たどころ現在げんざいと飲んでいる時、そんな話になった。もちろん卵のことは田所現在には内緒で。「奥さん」と「二人で住む」ある「男」との出会いについてを話した。

「なんだ、騙されてるの、わかってんのか。あたしはてっきりまたむちゃーんの夢見る夢子が出たと思ったよ。ラッパー君といい、バンドの追っかけといい」

「でもさ、現在、私、これ運命だと思っている。や、でも夢見るって何よ。奥さんと一人の男を取り合うロマンチック的な?」

「うそ! そうなの? どろぬま?」

「そんなわけないだろー。でも運命」

「志賀むちゃーん。それどんな運命?」

むちゃーんは卵のことを考えた。そして満面の笑みでビールを頼んだ、

「秘密!」

その日の朝も、防波堤から卵を捨てたばかりだった。

 

水族館は隣町の海沿いにあった。

「今日も休みだね、水族館」

水族館は閉館してだいぶ経つ。

「まあ、そらそうだ、でもさ、いつも言うけど、来たいって言うのお前だからね、志賀武智むち

ダメージ加工Gジャン姿で短いドレッドヘアのリキはそう言って煙草に火を点け、立ち入り禁止の柵に腰かけた。

「リキッドじゃないんだ?」

人目もはばからずリキッドばっかり吸ってるからリキ。むちゃーんは彼の本名を知らない。ラッパーっていうのは売れても売れてなくても大麻リキッドは吸うもん、らしい。

基本、銘柄は? と聞かれたらそういうもんを答えるんだと。でも上級者になるとだんだん、その銘柄がミネラルウォーターの物に代わっていくと聞いてむちゃーんは爆笑した覚えがある。セレブと一緒で行きつくと健康志向になり、好きな銘柄はと聞くと葉のブレンドの種類でなく例えば硬水でお馴染みのCourmayeurクールマイヨールとかいうのだ、と。

「柿田さんはさー、あ、柿田さんって『密会』のね。あ、『密会』って、バンドのほうじゃなくてね。その柿田さんが言うんだ、自分はここに住んでたって。産まれてからずっと。魚しか食べたことなかったって」

「ふーん。そいつ大丈夫なの?」

「一応心配してくれんだ?」

「ラッパー崩れから不審者にお乗り換えですか、お客様。通信の速いこちらは?」

「それ自虐? 嫉妬? むふー、リキも首元にそんな大きなの入れてなければ、キャリアショップで働けたね。今の台詞、似合ってたよ」

「まあ。でも偶然なのかね、武智が閉まり続けてる水族館を見に来るのが趣味なのと」

「ある朝出会った不審者が水族館に昔いたってことと? でも私、運命だと思ってるんだ。なんかね、ここへ来るとエネルギーを充電できる気がするの。どうしてそう思うのかな、ねえうちらってさあ、もう終わりなんでしょ」

「そう、リキッドもやめた、その意味をよくわかったね。タトゥーが入ってても、コールセンターならいけるよ。それこそ、携帯会社のコールセンターだって勿論いける」

「リキッドのリキじゃなくなっちゃうし、私のリキじゃなくなっちゃうってことだ」

「うん。もう帰ろう。今日も締まってた。それでおしまい。それでおわりだよ」

むちゃーんは伸びをした。

「うん。今日も締まってた。それでおしまい。その次のおしまいはいつ来るのでしょうかってねー。はー、抱きしめてもくれないの? 最後まで、手もふれぬまま?」

 

実家住まいは気楽でいいが、浪人生の身には少し堪えるものがある。そして一人になった今ではさらに。母も父もその素振りは見せないが。チサト、あんただけが味方だよ。ゴールデンレトリバーのチサトを抱きしめる。長く立派な後ろ脚、金色の毛。チサトは嫌がってすぐ逃げていくけれど。誰かを思いきり抱き締めて、反対に誰かにも抱きしめられたい、そんな夢物語を犬きっかけで思い返す私。

「でね、柿田さんて楽しい人で。でも、どこか影があっていいの。勉強も教えてくれるし。IT会社で働いてなければ、予備校の講師とかぴったりだったと思う」

「なんだ、勉強しないでのろけてるって話かと思ったら、ちゃんと勉学のことなんだね。母さんちょっと安心。ねえ、父さん?」

「結婚してなくて色白で、老いた母親さんと二人暮らし、か。それも全部バリアフリーの二階建てってか? 室内エレベーターまであって?」

「あら、お父さん男として嫉妬? お母さんの介護とかあるのかしら。じゃあ優しくしてあげなくっちゃね」

「そうだね。――リ、チ、リ、チ、リ、チ、トトトー……」

「ん、リーチ? 麻雀やってんのかお前」

「ううん、私、浪人生よ、お父さん、そんな御身分ではねえでやんすよ」

「なんだ、俺の知り合いらに混ぜてやろうと思ったのに」

「いいっての」

「じゃあそのリーチ、トトトトってなんだ?」

「なんでもないよ、バナナが一、二、三でたくさんしかない! ってことよ! ごちそさま! 一緒に勉強する人いるか―? おいカズアキいー、一緒に宿題しようぜえー」

そう、うちには弟もいる。カズアキ。中二。イヤフォンを引っ張られ、

「なんだよ、うっせえな!」とフードをかぶるかわいいやつ。

リ、チ、チ、リ、チ、リ、チと廊下を歩き部屋へ戻ると私は鍵を掛けた。

このノートのページを破って捩って火種にして水族館を燃やすのも悪くないなと思った。火薬だ。「このノート」は。爆破するにはこのノートに書かれていることで十分なのではないかと思った。

ト、ト、ト、ト、ト、トと鞄から取り出したのはその、「柿田ノート」だ。

適当な途中のページを開いてみる。

 

出会ってから五六回目の正午のチャイムの七分後、志賀さん来る。

――志賀さんはどこに住んでる?……

――えっと、えっとね、そう!  そんなことより水族館では何を食べていたの?……

――水族館?……

――そう、水族館で一番好きだった献立……

――なんで、水族館? 何で知ってる?……

――やだ、前に言ってたじゃないですか?……

――そうか水族館……、イルカかな……

※イルカと書いた場所をぐしゃぐしゃに殴り消した跡有り。

――イルカなんて食べてたの? クジラじゃなくって?……

――あ……、クジラ。うん、そう……

※クジラに二重丸の跡有り。

 

これは柿田さんからある日突然渡されたノートだ。「自分の記録」だといって。そこにはこのように私と出会ってからのことも描きこまれていた。これまでの人生の六五〇冊目から私は登場する。

その六五〇冊目の初め、あとから考えれば最初のページには最初に相応しいことが書かれていた。つまりこの物語が円環を成す始まりと終わりが(一言で言ってしまえば、犬について、だが)。

ノートには筆跡の違う字でも文章が書いてある。柿田が言うには柿田・妻の字だという。そこには克明に、大胆に、産卵することについて書かれてあった。……

 

〈妻の手記?の部分〉

もう三日も徹夜だと言ったら、「君の目を見せて」と夫は言った。心配してくれているのだろうかと嬉しかったけれど、それぐらい当たり前だと思う。三日三晩も電池交換の仕事をさせられたのだから。私の目は疲れると青みを帯びる。

「普段は鳶色なんだけど」と私が言ったら、

「あれれてえ、今もだよ」と彼は言った。私は狼狽して、

「病院に行ったほうがいいかしら? こんなに働いたのに普段どおりなんて変じゃない。三日も徹夜したら普通何かあるわ」

彼は「大丈夫だろうさ」と言った。なので私も私で、一度取り込んだ洗濯物をもう部屋中に干してしまったりしてすっかりそのことは忘れた。「今頃晴れちゃって、憎ったらしいったらないわよ」

そして私はその次の朝、三日三晩の仕事のあと、卵を産んだ。

私は本当に子供が欲しかった。しかし私が産むのは卵ばかりになった。卵からはヒヨコが孵った。一日一羽。夫が川へ流しに行った。次はトカゲ。一日一匹。その次はウズラ。その次はまたヒヨコだった。毎日産んだわけではない。時々、忘れかけていた頃に産卵した。殻を破るのが人間の赤ん坊なのを期待したが、それは人ではなかった。その都度、夫が川や海に流しに行った。私に、あれらを育てたい意思があっただろうか。

※卵云々の文章は明らかに新しい筆跡で、紙を上から貼って書いてある。

私は水族館で、アシカショーを見て笑い転げたことがある。あまりにもおかしかったからだ。だけれど、今はそれを思い返しても笑えない。水族館が開いているうちに行けばよかった。もっと行けばよかった。夫が禁止しても、私一人でバスに揺られ行けばよかった。水族館でもっとイルカを食べればよかった。卵を産むようになってから、夫との性交渉は絶たれた。昔が懐かしかった。でもある日、また捨てに行った夫が川から走って戻ってきた。「この子を育てよう!」と夫は言った。ダンボール箱の中を見ると玉のような赤ん坊がそこには眠っていた。この子、どうしたの? と聞くと「僕と同じようにね、川にダンボールを流そうとした女の人がいたんだ、女の子って年齢の。僕は直感がして、箱の中を無理矢理に見た。そこにこの子が眠ってた。女の人は。いや、女の子かな。女の子は逃げて行った」私は涙をこぼした。夫も泣いた。一緒にイルカを食べに行こうね。私の赤ちゃん。名前は武智とする。

※ここの部分も筆跡が怪しい。

 

もし柿田に妻がいたとして、彼女が卵を産んで、自分同様、水族館の思い出を大切に抱いていたとして、それもまた、運命なのだとむちゃーんは思った。あの時居酒屋で親友・田所現在に言ったとおりに。水族館は武智にとって破滅のあかしだ。よすがだ。廃墟が好きな人種がいるがそれとは違う。むちゃーんのはただの破滅志向に過ぎない。むちゃーんは文章を読み、水族館が閉まることになった時の、何とも言えない昔の記憶が懐かしくってたまらなくなった。むちゃーんは処女だったが、一度経験して、そのあとまた処女に返った気がした。懐かしさは海の引き波のように伝わってきた。自分の足首の周りの砂を、海水ごと連れ去っていく。妻の書き込みを見たその次の日、むちゃーんの産む卵の量は増えた。まるで妻の分を代わりに産んであげているみたいな気持ちになった。文章の中で、妻は苦しんでいた、子供が欲しいのに、産まれるのは卵だけ。そして、水族館へ行くことへの渇望。だが最後には赤子を預かる。名は私と同じ武智。そんな出鱈目、それでいいと思った。それで誰かが――彼しかしない――救われるなら。

途中、勿論、柿田さんの筆跡でも文章は綴られた。それはつまるところ、妻との交換日記のようなものだった。時に柿田は妻にそっけなく、あるいは前後を無視していた。あるいは気恥ずかしくなるくらい求愛した。狂った恋心だとむちゃーんは思った。一人芝居。

そして卵の描写の、最近貼られたであろう新たな上書き。ここに古い映画がスクリーンに浮かび上がる。モーテルを経営している青年が、死んだ母親と自分との二人を演じて殺人を行っている、という。つまり筆跡は意図的に変えられている。つまり二人は〈一人〉だ。卵を産んだ人間などむちゃーん以外いないのだ。

むちゃーんはそれに絶望したか? 訳の分からぬ男が、自分の体験と同じことを、妻が体験をしていると言い張る気色悪さ。しかも、架空の赤子に自分と同じ名をつける。ただしそれは気色悪さ一辺倒ではなかった。優しさ――のようなものを感じなくはなかった。孤独な男が孤独な悩みを抱えた女を救おうとする優しさ。

そしてイルカを食べるというあの描写。むちゃーんは本当に確信した。柿田に妻などいない。このノートはすべて一人が書いている。ページを閉じた。そしてまた開いた。むちゃーんが登場する六五〇冊目を。

私は私との最初のページには終わりが書かれていたといった。始まりにして終わり。犬について。そこにはこう書かれていた。

 

――志賀さん、犬ってわかる?

※犬に三重丸。

――もちろん。うちでも飼ってるよ。うちのはゴールデンレトリバー。足が長くて大きくて。金色の毛がじまんだよ。

※それに重なるいくつもの「ウソつき!」の赤い字。

――(僕は本当に悲しかった。僕の妻と同じように卵を産む志賀さんがそんな嘘を吐くなんて。犬は……、茶色い。そして脚が短い……。それは当たり前なのに)

――やだ、柿田さん。犬は茶色とは限りませんよ。足が短いとも限りませんし……

※そのあとで何か書いた跡があり、消して。

――(僕は取り乱して志賀さんに強い言葉を吐いてしまった。ずっと謝りたい)

 

ずっと――。そうだ、最初の日、私は犬を飼っていることをばらした。思わず言ってしまった。言ってから、やべ、と思った。その日以降ぎこちなさはなかったが、私がそのことを忘れていなかったように、柿田さんもまた――。

その時突然、玄関から母の叫び声がした。

(タイミングが良すぎる)とも思ったが、予想は的中したのだった。

「誰ですか! あなた! なんなんですか? 誰かあ! 武智、カズ!」

玄関先まで出ると、そう、恐るべきことは起きていた。あのいつも見た下着のシャツとジャージ姿の男が立っていたのだ。自宅の玄関の照明の下に立つその姿はあのマンモス団地の狭いあずまやで見る時よりもはるかにはるかに異質に見えた。柿田だった。

「柿田さん、どうして、ここにいるんですか……」

柿田さんはごもごもとなんだかをつぶやいていた。

「えっ、この人が、柿田さん?」

「あとを、つけてきた」

むちゃーんの心臓が跳ね上がって、その代わり背筋は冷たくなった。

「柿田さん、それって、ストーカーっていうんですよ……」

「でも、あれを、犬を、足が短くない犬がずっと見たくて」

「だから! これ犯罪です! 私が嫌な思いしてるの、分からないの!」

部屋のほうからチサトが吠え出した。

「犬を、茶色くないやつを、ほら……、そら、鳴いてる! そら! それでしょう!」

「帰って! そんなの、そんなのペットショップででもいくらでも見ればいいでしょ! そんなことも分からないの!」

「おいアンタ」

振り向くとむちゃーんの後ろにカズアキが立っていた。手には小学生の修学旅行で買ってきた木刀をもっていた。

「これ以上近づいたら、アンタの首はトブぜ」

そう言ってパーカーのフードをかぶり、謎のポーズをとるも、剣先はふらふらだし、声も震えている。だが柿田が怯んだその一瞬をついて、むちゃーんはマンションの玄関に急いで鍵をかけた。私はばかだ。そう思った。犬を飼っているというのを、自分のことを――相手の意見だけを聞かずに――、自分のことを教えてしまったからこういう結果を産んだ。危惧していたとおりのことが起きた。家も知られた。「密会」以外で会うつもりなんてないんよなー。

だがある種のとげが、むちゃーんの中から初めて取り除かれていた気がした。そのとげはずっと、彼女の中にあったのだった。

 

次の日、雨が降っていた。むちゃーんはまさかと思ったし、前日のことがあったから躊躇ったが、しかし予備校からそこへ向かった。パンクバンド〈密会〉のライブが昼からあったが行かないことにした。チ、リ、チ、リ。あれからリキは一度だけ、スーツ姿の自撮りを送ってきたが、首のタトゥーの所為でヤクザかホスト崩れにしか見えなかった。ドレッドヘアは短く刈り込んであったので、そこだけは新卒の社員に見えた。あの時の話どおり、コールセンターで働くという。破滅志向の強い、私と違い。リキと付き合ったのもそういうことだったのに。前の晩、散々、家族たちから、今までむちゃーんの口から語られてきた柿田像が覆ったことから心配された。もう行くんじゃないぞ、とも言われた。だが、それらの忠告を受けること――あるいは事実を第三者にすべて明らかにすること――もまた、むちゃーんの心のとげを抜いた。永遠の破滅。

これで対等の立場になれたと思った。

対等。

残りの罪の意識がむちゃーんの中に最期の一刺しをした。

そして武智はまたここへ来た。そして柿田もそこにはいた、

「妻から。これ」

柿田はまだ、妻、という。

お詫びのつもりか、焼き立てのホットサンドを持ってきていた。具は、卵だった。代わりにむちゃーんはノートを返した。「妻から聞いたんですが、ストーカーっていうのはよくないらしい」と真面目な顔で柿田は言った。

武智は頷いて答えた、

「うん」

「もうしない。しません。家にも近づきません」

もう一度、武智は真剣に頷いた、

「はい。はい!」

二人は笑った。柿田は言った、

「亀の電池交換が簡単なように、僕もその約束をしっかり守って見せます」

「電池交換? 亀の?」

「昔、習いました。時給にするととんでもなく安いけど」

今日も締まってた。それでおしまい。

うん。今日も締まってた。それでおしまい。

「柿田さん、これから一緒に行ってほしいところがあるの」

今日も締まってた。それでおしまい。その次のおしまいはいつ来るのでしょうかってねー。

むちゃーんの目から、自然と涙がぽろぽろと零れてくる。透明な涙。ここでも物語は循環する。透明な柿田の涙で始まろうとし、透明な武智の涙で終わろうとする。

亀は電池で動きますか。多分、私は電気で動きます。思い出という名の。その発露が毎朝産む卵です。

「どこですか?」むちゃーんが泣いていることには頓着せず、いつもの、いつもの柿田だった。

「水族館です」

「アレレテエ!」

途端に慌てふためく。交互に両手の甲を額に当てる、

「駄目です、駄目です。僕はあそこへは近づけないようにされてます。ストーカー行為と一緒です。近づいてはいけないのです。頭にチップが、それに! 閉館してるはずです!」

「いいの!」

今日も締まってた。それでおしまい。それがやりたいの。

柿田は首を横に振る。むちゃーんは一人、傘を置いて走り出す。バス停まで。電池交換必要です。このとおり、今日産んだ卵も丸々持ってきました。水族館の水槽に入れましょう。そこで何かが孵ります。

むちゃーんは、リ、チ、リ、チ、と駆ける。そして、リ、チ、ウ、ム、デ、ン、チ……、と口にし歩いて団地から出て、バスに乗り込んだ。リチウム電池に交換しましょう。私の体。記憶。

バスが出発する直前、傘を二本持ったずぶ濡れの――むちゃーんと一緒のずぶ濡れの――男が走ってきた。柿田だった。

乗り込んだ柿田は頭を掻いて言った、

「その、……妻が行ってやれって」

傘二つを持つために、ノートとパンはあずまやに置いてきたらしい。

「ノートまで……、置いてきて?」

柿田は言った、

「パンは持ってくれば一緒に食べながら行けたなあ」

むちゃーんは破顔した。ぽろぽろ泣いてころころ笑った。

まるで目が卵を産んでいる気分だった。

柿田のシャツが濡れて透けて、背中に刺青が見えた。彫りが中途で未完だった。

むちゃーんはそれに指でふれた。汗のにおいがした。

「水族館で彫られましたけど、途中で逃げましたから」意味のないことのように柿田は言い放った。

その時、むちゃーんは初めて柿田の両手の小指の先から半分無いのに気づいた。

今日も締まってる、それで、おしまいをしに行こう。

 

2020年12月28日公開

作品集『たまごさんわたすすうわ』最終話 (全5話)

© 2020 多宇加世

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