冀望の朝

たまごさんわたすすうわ(第2話)

多宇加世

小説

10,871文字

僕らはどちらかしか生まれない なんで
黄身がいっこだから 黄身
そう君のこと 君は
僕は居ない
じゃあ僕がしゃべってるのは誰 うん 案内しているのは誰 うん

「三話」と「数話」だと数話のほうに入るお話。

たぬかり康介は叔父の喜多郎の会社で働き始めて、初めて結果を出せた。それもこれも幼馴染みのカオリちゃんのおかげだ。今日もレトロな物理的打撃音のする目覚ましの鳴る時刻、ちょうど明け方五時半に、すでに起きていた康介は、カオリちゃんが窓から遠く川のある方へ飛んで行ったのを確認したので、ウッドベースのあの大きなハードケースを背負って、マンションのひんやり裸足に伝わるコンクリートの狸狩家のベランダから、隣に建つカオリちゃんの一軒家の二階の広いウッドテラスへ――高低差は三階分、つまり狸狩家はマンションの五階だ――飛び降りた。

 

康介の叔父の会社は葬儀社だ。それが最近、エコ埋葬というたぐいの変名をつけた樹木葬を取り扱うようになった。もともと、そんなのはなかった。〈たぬきメモリー葬儀〉は経営が傾いていた。その時に天から降った贈り物のように、この商品プランが開発された。康介の担当する、康介しかいない部署だった。つまりその商品は彼が作ったも同然のもので、この商品の特徴をパンフレットから抜粋するとこんなものだった。

『幼き子をいつまでも――見守り、また見守られる新たなこころのカタチ』

これは堕胎手術で亡くした赤子をもった親のための商品プランなのだった。悪く言えば、それはこの国の政策の皺寄せに寄生するやり口だった。

 

二階のウッドテラスから康介が部屋へ侵入して、カオリちゃんが小学生の頃から使っている学習机――今は漫画を描く時に主に使っている――にウッドベースケースを立て掛け、あれこれとしているうちに「おはようカオリちゃん。また来たよ」、カオリちゃんが川の方面から飛んで戻り、窓から入ってきて、だんだんとまた人間の姿に戻る。細長く黄色いくちばしが短くなっていきノーメイクの口唇へと戻り、頭髪も伸び、白目の乾いた丸い眼が(同じくノーメイクの)アーモンドアイになり、腕も指先から羽が消えて脚も人間のそれへと戻っていく。康介はその最中にガウンをきれいに羽織らせ、彼女が全裸になってしまうことだけは避ける。カオリちゃんはそのまま自分のベッドにもぐりこみ、変貌のあいだに「クッ、クッ」とくちばしの奥で喉を鳴らす以外に一言も発さず、そうしてもう一度眠りにつく。その最中に、あるいは眠ったあとで、康介はカオリちゃんに一人話しかける。そしてスニーカーを入れて運んできたベースケースへは「ある物」をしまっておいたので、退散する。ウッドベースケースの中には毛布が敷き詰められており、この部屋で靴とある物とを、つまりケースの内容物をこの部屋で入れ替えすることになる。帰りはマンションをよじ登るわけにはいかないので、通常の客のように玄関から去る。外に出るとポーチにたいていカオリの年老いた母がもう起きて指を土で真っ黒にして庭をいじっているので今度は自分とカオリの母を相手に少しのあいだだけ話す。カオリの母はよくこの季節、花のポットを手に持って腰を伸ばしてから喋る。もちろん、康介は何をしに来たかはいつも言わない。康介にとって気にならなかったのは、いや、康介だけでなくカオリの母も含めて気にならなかったのは、玄関から入ってきてもいない康介が堂々と玄関から出てくることだったし、その他のこと、ある一つの複雑な問題だった。カオリの老いた母は少しテンポが遅い。だから大丈夫なのだ。康介はあえて余裕と鈍感さを装っていたわけだが。おばあちゃん、ごめんね、と思いながら。

 

ある朝、羽音がする、だった。

ばっさばさばっさばさと。康介がマンションの窓から下を見ると、カオリちゃんの部屋の窓から、石膏彫刻色の鳥が飛び出したところだった。丁度カオリちゃんと同じくらいの大きさの。川の方へ飛んでいく。康介は特別な何かが起こっていると直感し、カオリちゃんの部屋へ、あのやり方で侵入した。窓はやはり開いていて、ベッドにはパジャマが丸められていて、その中央には、ラグビーボール大の真っ白い卵が鎮座していた。

咄嗟に、これを隠さねばならないと康介は何故だか思った。慎重に運ばねばならない。割れてしまうかもしれない。卵なのだから。カオリちゃんのクローゼットから、小学生の頃の康介が眺めても懐かしい彼女が使っていたナップザックを発掘したので、それに入れて小さなサイズを無理矢理、背負った。このナップザックなら旧いもので現在は使われているのを見たことがないし――サイズが今のカオリちゃんにとっても小さかったからだ――しばらくなくなっても気付かれまいという心理の働いた選択だった。今度来るときは(なぜかこれは「また」起こると康介は思った)何か入れ物をもって来よう。そしてそれ以降、康介はウッドベースのケースを持って来るようになったわけだが。と、ばっさばっさばっさ、と羽ばたく音が近づいてくる。窓から空を見るとあの鳥が戻ってくる。怪鳥は窓ガラスの閉じている部分に一度ぶつかり窓には若干のひびが入ったが、だがなんということなく部屋へ入ってきて、その姿は裸の、一糸まとわぬカオリちゃんになった。その姿、その経緯、その結果に康介は息をのんだし、膨らんだ乳房や陰毛に、時折妄想するのを目前にして性的反応を起こしてしまったが、どうこの状況をおさめるかに頭を働かせた。眠る彼女に布団をかけて、人の姿に戻る前に体から落ちた何枚かの羽を卵と同様、回収した。それらもナップザックの口に刺した。この日はガウンを着せる余裕はなかった。しかし冷静さはピークを迎え、窓ガラスに今度、正規の方法で訪問した時に流行りのマスキングテープででも目印をつけようと思った。飾りだのなんだの言って、装飾してしまえばいい。ひびを誤魔化すためでもあるし。なんてったってそういうことに流されやすいのが、カオリちゃんだ。意図としては、開いているガラス板と閉じている側が一目で分かるように。何のための誰の一目かと言えば、もちろん「また」鳥になった時のカオリちゃんのためのだ。

 

こんな卵カプセル、どこから仕入れてくるのや?

あるいは、大人用のとは言わないがもう少し大きいサイズの物も作れねあんが?

貧乏な叔父は頻繁に言った。

しかし康介はいつも誤魔化していた。

これがカオリちゃんの卵だなんて言えないからだ。それは、現実的な話ではない。

「たぬきは卵産まねろ。哺乳類だ。最初話聞いたときは何かと思ったけえ。うちは〈たぬきメモリー葬儀〉だがらの、こんな奇妙な話もねろ? わはははは」

「何でそんなに笑うんですか?」

「決まってら。コウが笑わせるんだず」

小金の貯まってきたが未だ吊るしの喪服を着ていた叔父は、事実よく笑った。

 

初めて持ち帰った時、もう康介は好奇心に勝てず、台所まで運んだ。二人暮らしのはずが、いつも通り父はまた昨晩から女性の家へ外泊しているので、公然と、焦らず、その卵殻を半分に割って――割るのは一苦労だった。殻が分厚い――白身と黄身をそれぞれ別けて中華鍋で焼いてから、食べた。家にあった一番大きな中華鍋でも中身は溢れてしまうので、白身と黄身を別けたのだった。三食に分けて食べた。白身の味はあまりしなかった。半熟の黄身は、ちょっと腐ったチーズみたいだった。そしてそれはこれ以降の恒例の「下拵え」の儀式となった。

 

「康介くん、そんな趣味あったんだ」

「今これ流行りなんだよ。色んな柄のテープがあるんだよ。これはトライバル柄、これは格子、これはなんだ、熊かな? 連続熊? 熊チェーン? 知らない?」

「知らない。私、漫画家なのにそんなことも知らなくってだめだめだね。制作では無色無地の物だけ。使うとしても」

「カオリちゃんのは少女漫画と言ってもハードSFだから、こんなこと知らなくっていいんだよ」

「コウちゃんそれ勘違いしてるし馬鹿にしてる。SFはディテールの積み重ねが大事なの」

「へえ、そんなもんかねえ」

「うん。ねえ仕事順調?」

「うん、まあ」

「あのいつまでもふらふらしてたコウちゃんがね」

「カオリちゃんは高校生でデビューしてるから余計にそう感じるんだよ」

「そう……。樹木葬だっけ?」

「そう、エコ埋葬ともいう」

「ふふ」

「何で笑うの」

「だってコウちゃん、テープ貼るの真剣だから。あははは、窓に、貼るだけなのに。自分の部屋に貼ればいいのに。あはははは」

「笑いすぎだよ」

「康介くんが笑わせるの」

カオリちゃんも事実よくそのように笑った。

 

カオリちゃんは高校の途中から通うのをやめていた。いじめに遭っていたからだが、カオリちゃんはその頃から漫画を描き始めた。

カオリちゃんの産む卵の殻は約九三%が炭酸カルシウムでできている。多孔質で、気孔の数は八千万ほどだ。この気孔で内部の胚の呼吸に必要な酸素を取り入れて、内部で発生した炭酸ガスを排泄する。つまりガス交換を行っている。この構造は、堕胎した赤子の体と松の根を入れて地中に埋めた時にも都合がいい。松の苗の先は卵殻の尖ったほうに開けた穴から出ていて、卵ごと埋めた時、地上に飛び出している。その松の苗が仏さまである赤子を養分として吸収し、成長するのに、卵殻の構造はうってつけなのだった。卵殻は非常に分解されにくく、土に還るのは十数年かかるので、それまでの入れ物として、ちょうどいい。これこそ康介が、卵を眺めていた時思いつき、研究開発したエコ埋葬の仕組みだった。ついでに言えば苗たちは長い年月をかけて、松林となる。松の生命力は非常に強く、また、海のほうから吹く風によって砂が街に流入するのを抑制する防砂林にもうってつけなので、亡き子はそういった役目を与えられるということで、こう言ってよければ葬儀を購入する遺族からの評判もいい。カプセルは砂浜から少し手前の樹木葬園に植えられている。その土地は、元々、狸狩家が持っていたものだったので、〈たぬきメモリー葬儀〉にとって都合がよかった。

一度、まだ康介がマンションで卵殻カプセルの研究開発をしていた途中で父が女性のうちの一人と帰ってきたことがあったが、彼らは興味がないのかすぐに出て行った。その女性はクミコさんだった。その頃には自宅のリビングにまでも卵は溢れていて――カオリちゃんが毎日産むからだ――もちろん中身は抜いてあったので腐乱の心配はなかったが、独特のカルシウムのクリームっぽい匂いが、お手伝いと名の付く(名をヨシミと言った)代々の素性の知れた家政婦の手によって奇麗に掃除して寄せてあった。政府の要人の家にある無数の巨大な卵の存在はお手伝いの彼女にとっては重要でない。匂いがリビングに充満していた。それは少し精子の匂いにも似ていたので、余計に康介は動揺したのかもしれなかった。康介は父とクミコさんの登場に焦った。匂いを感知する鼻と、震える顎はあれど、肝心な、そのあいだの舌がなくなっている錯覚を覚えた。弁解の言葉が出なかった。が前述のとおり、クミコさんを連れて父はすぐに出て行ったのでまた研究に戻ることができた。しばらくは、クミコさんの腰にやる父の手が頭から離れなかった。

康介の父は女性たちが好きだった、おそらくは。

女性たちも康介の父が好きだった、これは確実に、だ。

なかでも父とクミコさんはとても仲が良く、その仲の良さは他の女性たちを差し置いて、クミコさんのお腹に康介の弟を宿すほどだった。そう、クミコさんは妊娠していた。

康介はその膨らみつつあるお腹――その、裸の腰や腹に自らの腰を打ち付ける心地よさを康介は思い返した――に触れたことをその時も思い出した。

高校生や大学生の頃、自宅に女友達を連れてくるのが嫌だった。何故なら漏れることなく彼女らは皆、康介の父の女性たちとなるからだった。

そんな中でもカオリちゃんだけは別だった。まさか父も、自分の娘には手を出すわけはなかった。しかしもちろんカオリはそのことについて何も知らなかった。カオリは康介の家には元々来ることができなかったのだ。マンション入り口のゲートと彼女に埋め込まれたICチップのためだった。康介は小さい頃、彼女を自分の白いマンションへ連れて入ろうとするたび彼女の頭の具合のおかしくなることを不思議に思い、誠実な――幼少の康介には誠実過ぎたほど誠実な――叔父から真相を訊いた。

 

康介は時々、自分の両の手が鋭い爪をもち、その切っ先で女性の喉首を刺したり心臓をえぐったりする夢をみる。朝、目覚めると不思議な高揚感があり、そのあとで深い罪悪感に溺れる。だがもしかしたら罪悪感を覚えるところまでが、夢の一部なのかもしれなかった。何故ならその罪の意識も十分夢見心地であったから。そしてじきに夜が明けて、カオリちゃんの部屋に侵入する朝が訪れる。それと同時進行するようにクミコさんのお腹も膨れていった。

「今日はどこまで進んだの。漫画」

「クッ、クッ」

「笑ってるの? また僕が笑わせたの?」

「クッ、クッ」

「君の漫画はいくら描いてもどこにも載らないんだよ。君、そんな才能はないし、描かなくてもいいんだよ、お金は別に貰えるんだから――って言うと、僕だって叔父さんのところで働く必要なんてないのが自分で分かっちゃうみたいでさ。カオリちゃんには絶対言わないよ。これは、……僕の為でもある。狡いよね、僕」

「クッ、クッ」

「それも、僕の所為?」

「クッ、ク」

「おやすみ。カオリちゃん」

 

クミコさんは何度か、狸狩の叔父の葬儀社に訪ねてきた。一人でだ。それは叔父に用があるのか康介に用があるのか分からなかったが、棺桶として完成するための卵カプセルの最終工程をよく見に来た、とも言えた。つまり、樹木葬をする際に最後に植える「松の苗」」を育てている管理工場にだ。単純に、可愛らしい苗を見るのが目的だったのかもしれない。だがその服装も含めて、派手なクミコさんは工業的なその場に不釣り合いだった。管理工場は棚と人工的な苗床と、同じく人工的な白と青と赤のLED照明からなる。あるいは、肥料と水分を散布するスプリンクラーと。大人の背丈ほどの三段の、横に長い長い棚に、前述の設備が一段ごと備わっていた。それらを、本屋かブティックで新入荷を確認するように、棚のあいだを歩き、満遍なく眺めるのがクミコさんは好きなようだった。そして、「翌日使用予定」の下拵えされた松の尖った葉にチョイと触れて帰っていく。それまでは叔父と康介は気が気でなく、息苦しい思いをする。単純に、息を呑んでいるからだった。あの、葉へのチョイは見る人を卑猥な気分にさせた。

 

そんなふうに月日は過ぎていった。

 

カオリが康介をじっと見つめる。

康介はその表情を恐れ、目を逸らそうとするもできない、

「康介くん、三階分を、なんのことなしに飛び降りてくるよね、それって異常だってことに気付いてる? そんな楽器のケースまで背負って裸足で、そんなことを普通にしてる違和感を、自分で感じたことはない?」

「……知ってたんだ? 僕が来てたこと」

そして顔だけでなく、学習机に向けていた体全部、椅子の上で向き直り、長い深呼吸、

「うん、そう。最初から気付いてた。コウちゃん、私の卵、どこへやってるの? ……ううん、コウちゃんが今そう感じてるように、私も混乱してる。ちゃんと話す。あのね、コウちゃんがね、なんでそんな身体能力を得たか知ってる? 知らないよね。教えてあげようか」

「ううん、僕、知りたくない……」

「コウちゃんはね、私が鳥になってるのと同じようにね、身体能力はね、その名残なの。だからね、つまり」

「知りたくない!」

カオリちゃんは康介の心を射るために、覚悟を決めさせるために、さっと、今まで自分がペン入れしていた原稿を半分に破り捨てて見せる、

「私の描いた漫画が、どこにも載っていないでこの世から消えていっていることは知ってる。編集者さんも、コウちゃんちの家政婦さん。だから、それと同じように卵のことなんかはどうでもいいの。毎月振り込まれるお金も描いた漫画も卵も、私の夢の中の出来事かもしれない。でも、それよりも私、コウちゃんが心配なの」

一人っ子政策により弟妹たちが安楽死させられるこの国で、良心の呵責、水子供養から、苗を育てる樹木葬は確かに流行しつつあった。康介の他にも、同じことを考え付く者がいなくはなかった。もちろん樹木葬には、いつまでも亡き子を忘れられなくなるという批判のような意見を頂戴することもある。まあ、それはいいとしても、双子の場合はどちらかを殺さなければならないため、それを議題にあげるのは本当に本当にタブー視されている。大抵は兄か姉を残し、残りを出産時の事故死とする。あるいは――康介の父のように政府の仕事をしていれば――片方を養子に出す。カオリもそんな子供の一人だった。カオリは康介の祖母、もちろんカオリの祖母でもあったが、そこへ養子に出された。それを知っているのはカオリの母の役目を背負った、二人にとっての祖母と、父と、誠実過ぎる叔父と、康介だけだった。祖母はそんなことを最近では覚えているのか定かではなかったが、それは本人に訊いてみないと分からなかった。だが、だれも問題を蒸し返そうとはしなかったから、朝、康介がカオリの家の庭で会う時も、そんなことは話題にならなかった。今では毎朝、玄関から出てくる康介が誰なのかも、祖母は分からないかもしれなかった。要人である兄の手によって一人っ子施策が推進され、今、その弟の〈たぬきメモリー葬儀〉によって胎児の供養を行われることを、一般の人は結びつけて考えたことはないだろう。この街の人たちだって、そんなことは気付いておらず、それは現実的じゃないし、皮肉すぎる。カオリはたぶん、康介の身体能力の秘密は知っているも、自分の出生の秘密を知ることはないようだった。康介はそれでいいと思っていた。二人の関係が壊れなければ。今のままでいられるならば。

「僕らはこのままだ。何があっても。僕が夜な夜な何かに変身していて、カオリちゃんも朝に鳥になっていたとしても。分かる?」

それが三分前に初めて話されたということに気付かなかった。三分もあれば伝説はできあがるということに康介は気付けていなかった。

「ううん、分かんない。このままじゃやだよ。それってコウちゃんがもしかしたら、良くないことをしてるってことかもしれないじゃない」

康介はすべてを白状して楽になれればどれだけいいかと思った。本心とは裏腹に。卵のことだって、後ろめたくないわけがない。カオリがいくら卵のことはいいと言っても、康介は、それを自己の利益のために、働く必要のないこの身分を誤魔化して生きるために、プライドのために――もちろん貧乏な叔父の為にも――利用していること、また、それを食べ続けていることが、罪悪感としてあった。ないわけがなかった。

自分が夜に何になっているか、また、どんな罪を犯しているか、カオリは知っている。だがそれは自分は知りたくなかった。時々、洗面台やベッドの枕元に、血糊が付いているのを、これからも無理に無視し続けようと決めていて、それが苦痛にさえなっていて、神経が磨り減っていても。あの、夢の中で父の女性たち、父の女性未満たちを殺す快楽を、心の底で感じていて、その夢を毎夜待ち焦がれていたと気付いていたとしても。康介はカオリちゃんの首に指を掛けた。暗闇が訪れた。わずかなあいだの暗闇で、首を絞め続けた。そして涙の一筋の光が零れた。

そこで、目が覚めた。寝汗がひどく、両の手が重かった。恐る恐る見やるも、長く鋭い爪はそこに生えていなかった。その代わり、手を握りしめていた。握り締めすぎて、血が滲んでいた。それは本当に自分の血だったのか。今日も、卵を取りに行かねばならぬのに、どうしてもその気になれずに昼までを部屋で過ごした。夢のほとんどが真実だった。

 

その日、康介の父が死んだ。

 

予想に反して、あの享楽的だった父は、更新し続けた痕跡のある(代理人が持っていた)しっかりと内省をした遺書を残していて、そこにはさらに予想に反した、自分のからだを弟の葬儀社で樹木葬にするという意向が書かれていた。

自動車の単独事故だった。ただし、フロントガラスには運転席からの視界を覆うように多量の鳥の糞尿がへばりついていた。

その頃、大人用の樹木葬の開発がおこなわれていて、あとは依頼を待つのみというところまで来ていた。その矢先の出来事だった。

遺書には、養子に出した、娘・カオリへの遺産相続のことが書かれており、そこには康介の名も、弟(叔父)の名も、あの、クミコさんをはじめとする女性たちの名前もなかった。マンションはこれまで通り康介が住むことができ、家政婦も使えた。だが一貫して、遺書の内容はカオリへの懺悔、これまでの処遇に対しての謝罪であった。そこには脳に埋め込んだチップのことまでもが書かれていた。

父の体を病院で引き取り、カプセルへ入れるまで時間はない。死後硬直が始まる前に、膝を曲げて抱かせる格好にしなければならない。それくらいカプセルは小さかった。夕方遺体を回収し、夜のうちには一時的な肥料と用土と共に仏さんは収められた。外傷はなく、あったとしても隠せるのが今回の大人用の樹木葬カプセルの特徴だとも言えた。康介はカオリが今朝産んだであろう新しい卵のことは忘れていた。いや、すっかり思い出さぬようにしていた。葬儀は忙しいからこそ悲嘆に暮れることなく事務的に流れていくのだし。

 

夜中、康介は一人苗の工場へ来た。防犯アラームが作動したからだ。何者かが侵入した。それを裏付けるように、鍵が壊されていた。長い長いあの苗床の棚を通過し、折れ曲がった先に人影があった。そこは明日の葬儀で使う予定の苗が用土になじむように植え替えされる「翌日使用予定」の棚だった。その前に立ち、こちらに背中を向けているのは、紛うことなきカオリの小さな体だった。康介は角から覗いていた。カオリは手にした袋から何かを苗床へ撒いた。カオリは近い出口から出て行った。康介が苗床へ近づくと、白い粒が撒かれていたのを目にした。見たことがある。それは肥料ではなかった。それは除草剤だった。それも植物全般によく効く。よく見てみると、棚のどれもに除草剤が撒かれていた。カオリの真意は読み取れないが、装飾された便箋の真ん中に書きしたためられた一行のような、亡き父へのはっきりとした「悪意」なのだと康介は気付いた。だが康介は新しい苗を用意することなく、警報を正常に戻し、その場を後にした。……

女性たちもたくさん来た。年齢はばらばらだった。康介の元同級生の女性も混じっていた。元・康介の恋人たちだ。康介から見て、彼女らはお互いに何らかの目配せをし、ただあとは俯くばかりだった。結局のところこれは共闘でなく、お互いを居ないものとして扱うようにしていると、康介は思った。翌日の葬儀はそうして〈たぬきメモリー葬儀〉の一番大きいホールにセッティングされ、始まった。四角い棺桶の代わりに、卵を模した大きな半透明なカプセルが、遺影の下に花に囲まれるように鎮座していた。その頂からは弱々し気な松の苗が飛び出していた。薄ぼんやり父が膝を抱えたシルエットが底に敷かれた用土の上に見えた。女性たちはたくさん来てくれた。だがクミコさんの姿がなかった。康介と叔父が親類側に席を用意しておいたのにもかかわらず、である。カオリの卵のことに思い至ったのは、自覚をもってそうしたのは、康介はこの時が初めてだった。あの卵はどうしただろう。何日か、回収しに行っていない。脇を見やると、同じく親類側に座るカオリは俯いている。祖母はぼんやりとした顔でいる。

父の仕事柄、多くの役人が焼香をあげた。お辞儀をした。手を合わせた。感情は薄く、ただ、カプセルを物珍しく眺めていたようで、叔父が鼻の穴を膨らませたのを康介は見ていた。宣伝になるとでも、今後の展望でも、考えていたのだろうか。「決まってら。コウが笑わせるんだず」と言った叔父の顔を康介は思い出していた。今や叔父は吊るしの喪服など着ていなかった。

と、その時、ゆっくりと誰かが遅れて焼香しにか歩いてきた。「すみません、すみません!」と係が止めるのも無視して、カプセルに近づく者があった。よくない何かを持ち込んできたのは明白で、それはクミコさんだった。

クミコさんは焼香台まで来ると、振り返り、叔父を指差した。そして康介をも指差した。

それらの事実はクミコさんと叔父と康介のみが知ることだったが、もしかしたら、亡き父も知っていたかもしれない。つまり、これからすることには口を挟むな、そうでなければあなたがたとの関係のことはばらす、と言う意味だった。そして、最後にカオリを指差した。その時だけ、指先が震えた。

「なんで、なんであなただけ。あなただけそうなるの。私ってなんなの。あなたはどうしてそうなの」

しかしクミコは何か思惑を持った余裕ぶった態度だった。

「そのお腹……」

カオリは彼女の膨れていたお腹を見て、呟き、しだいに息を荒くし始めた。

過呼吸かと思われたが、笑っていたのだった。カオリはこの時、初めてクミコさんのお腹に自分の弟か妹がいることを知った。腹の弟か妹と、自分の境遇を重ねわせたのだろうか。それは分からなかった。だがその顔はそれでも勝ち誇っていて、クミコさんが片手にしていていた大きな枝切ハサミを(これで係の者を脅して中に入ってきた)おもむろに、カプセルの上に伸ばして松の苗をチョキンと切って、切ったばかりの苗を、あれよあれよとはだけさせた洋服の、めくりあげた洋服から見えるパンツのふちに挟んだのを目にしても、他の弔い客がざわつく中、カオリは驚かなかった。クミコさんは言った、

「これで私の腹の子の養分で、私の愛するあの人は育っていくの。これからずっとなの。この苗はあの人」

クミコさんの膨れ腹は、彼女が背を向けている、後ろに鎮座するカプセルの先程までの姿と同じだった。膨れた丸いボディ、そこに刺さる松の苗。だがカオリだけは笑っていた。なぜならもちろん、その松の苗が枯れる運命にあるのを知っていたからだ。康介もまた知っていたが、カオリほど冷静には見ていれず、クミコを哀れんでしまった。それからハッとして周りを見渡したが、誰もその哀れみに気付いた者はいなかった。それから父の車のフロントガラスの鳥の糞尿について笑みを浮かべるカオリを見つめながら考えた。

あれは君だったんだね。卵を産むことも、自分が鳥になることも、僕の父が君の父でもあることをみんな知っていたんだ。

「みんな私の孫だず。誰も殺させんがらの」

年老いた祖母の言葉は誰も聴いてはいなかった。

康介は自分の体が自分でなくなっていくのを徐々に感じた。経過を誰も気付いていなかった。まさか朝に。康介は思った。だが、変身は完了しつつあった。

 

2020年12月21日公開

作品集『たまごさんわたすすうわ』第2話 (全5話)

© 2020 多宇加世

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