精子水族館

応募作品

牧野楠葉

小説

10,073文字

あなたは彼氏の精子を飲み干したこと、ありますか? その精子で水族館が胃の中にできたとしたら? その運営のために彼氏の精子を飲み干し続けなきゃですよね? 「失われた正しい狂気」を求めて、まみっちゃんとさとるっちの大冒険が今ここに。

かれの精子を一気に飲み干すと、胃の中に精子の大群が群れをなしぶわりと泳いでいるのが見えた。わたしはそのあまりの荘厳さに立ちすくみ、見たことないけれど深海ってこんな風なんだわと思い、美しいこの光景を絶やすまいと決意した。群れをなした精子たちは時々ぐるりと胃の中で大展開し、そのきらめく横肌を見せたりした。きっと、これらは命の弱いものから順にさらさらと死んでいくのだろう。

だけれども、わたしが世界で一番愛しているかれ——さとるっちは旺盛なひとだから、きっとこの水族館も滅多なことでは潰れたりしないだろう。わたしは食道に引っ掛けた椅子で、胃の一番下まで降りて行った。そして、その精子水族館の前に小さな木の椅子と入館料を入れる黒色の箱(元々は靴箱だったもの)、白いプラスチックテーブルだけの粗末な受付スペースをこしらえた。わたしは『これ』を世の中の人々に広めようと思ったのだった。

次の朝、わたしとさとるっちがベッドの中で寝ぼけながら一戦を交え新しい精子を飲み干してから、派遣会社に行く前に胃の下へ降りてゆくと、最初の来場者が来ていた。半袖のスーツを着た、おそらく四十過ぎの父親と、小学校低学年ぐらいのつるつるした男の子だった。後にこの精子水族館の年間パスポートを買うこととなる男の子は父親に『ぽっちゃん』と呼ばれていた。わたしは急いで彼らに駆け寄って頭を下げ、丁寧に挨拶をした。

「大変お待たせしました。わたしがこの『精子水族館』館長の山下まみと申します。いらっしゃいませ」

わたしは急いで入館料入れの箱を探してから、

「入場料は大人二百二十円、子どもは百円になります」

と言った。言ってから、クソッタレ安すぎるわたしらは貧乏なんだからもっと値段をつりあげてもよかったと自分にキレそうになったけれども、まずは集客だ。集客をしてからじゃないと話は始まらない。これは最初のキャンペーン価格だから我慢、と自分に言い聞かせた。父親と『ぽっちゃん』は財布から箱に小銭を入れてから、感想を漏らし始めた。

「凄いなあ。泳いでる」

父親はハンカチで額の汗を拭きながら、精子の大群を見て言った。それはグロテスクなものや不可解なものに遭遇したというより、宇宙の神秘をビシバシ肌で感じているような物言いで、わたしはとても気分が良くなった。

「ぽっちゃんはまだわからないかもしれないけど、このお姉さんがこれを作った意味が、いつかわかるようになるよ」

「魚みたいで、きれい。でも魚じゃないんだよね? お姉さん」

「うん、魚じゃないの」

「ぼく、これ、触りたいな。それは難しい?」

「うーん……触りたいよね。そりゃ触りたいよね。ちょっとお姉ちゃん考えてみる。今このメインの水族館しかまだ出来てないから」

「ありがとう!」

スマホを見ると、もうそろそろ出勤する時間だった。

「あの、お二人、今日は来て下さりありがとうございます。わたしそろそろ出勤でして、帰られる際はあそこの梯子を登っていけば外に出られますので、ご自由に見ていってください。と言っても、さっきぽっちゃんに言ったとおり、この水族館しかまだないんですけど。今後増えていく予定ですので、お楽しみに」

「わかりました。楽しかったよ。ありがとう」

わたしと父親は固く握手を交わし、ぽっちゃんの頭を撫でて、急いで梯子を登って行った。共に二十三才のわたしとさとるっちは環七沿いのワンルームに同棲という、ひとたび喧嘩でもすれば劣悪極まりない状況になる環境のもとで暮らしているおり、お互い社会に出たばかりで当たり前に金がないなわけで、いつもお弁当を作っているのだけど、その時間がなかった。今日はコンビニで済ませてもらおう。もうすぐ夏休みだし、親子連れや子どもたちを満足させる精子ショーやお触りコーナーを次々と作っていかないとすぐに飽きられてしまう。子どもたちには千円で買える年間パスポートも用意しなければ! そのパスポートは決して『ちゃち』なものであってはならない。男の子用は青の紙、女の子用はピンク色の紙を使って、きちんとラミネート加工をほどこして、毎日使いたくなるものでなければならない。

 

 

「うわー、まみっちゃん。今日お弁当じゃないじゃん。何? 朝からさとるっちとおさかんだったの?」

派遣仲間のチリコが言った。チリコは頭の上の半分だけが黒で、毛先だけが痛んだ金髪という汚い髪をしていて、わたしは正直、このヤンキー上がりのチリコがそこまで好きではない。

「うん……さとるっち、元気だからさあ」

「いいなあ。うちんとこなんて七年間レスなんだけど」

瞬間、わたしはドン引いた。七年間レスでよく一緒に暮らしてんな!

「ヤニでも行ってくるかあ」

チリコが喫煙所に行ってからすぐ、わたしは通勤途中のダイソーで買った水色のビニールプールと、ポンプと、ガムテープを持って胃の中にこっそり降りて行った。誰もいなかった。まだ始めてすぐだとはいえ、さとるっちの精子水族館に誰もいないという事実はわたしを戦慄させた。わたしにはこれを広めなければならないという使命があるのにもかかわらずだ。

ツイッターで広告を出してみようか? タイムラインに出てくるプロモーションってやつ。これから色々勉強しなきゃなあ……と思いながら、ビニールプールをくわえて膨らませて、水族館を見ると、朝飲み込んだばかりなのにもう何匹かの精子がはらりと底に沈んで、死んでいた。わたしが考えていたよりはるかに精子の寿命は短くて、わたしは焦った。これは水族館で儲けて、さとるっちに高タンパクのものを食べさせないと存続の危機だ。どんどん出してもらわないといけないんだから。

わたしは毎日のくだらない事務仕事にやられて胃に穴があきそうになっているから、ちょうどそこにポンプを突っ込んで、何匹かの精子をビニールプールに入れた。ビニールプールの中で精子たちは元気にぐるぐる泳ぎまくっていて、わたしは思わず、おお……!

と歓声をあげた。わたしはビニールプールの中に手を突っ込んでさとるっちの精子を撫でた。それは少しぬめっとしていたけれど、確実に生きていて、わたしはくすくす笑った。これは子どもたちが喜ぶんじゃないか? そしてその精子たちを元の水族館に戻してから、すぐさまガムテープでポンプを突っ込んでいた小さな穴を塞いだ。

 

 

「まみっちゃん! まみっちゃんてば!」

「どしたの、チリコ」

「もう昼休み終わるよ! さっきめっちゃボケーっとしてたけど、どしたの? なんかあった?」

わたしが時計を見ると、十二時五十七分で、昼ごはんを食べそこなったことに気がついた。

「……最近、もう仕事どころじゃないんだよね。全然身に入らないってか。チリコに言うのはちょっと迷うんだけど」

わたしは小声でチリコの耳に囁いた。

「わたし、胃の中に水族館作ってるの」

チリコは、は? という顔でわたしを見つめた。

「今度、彼氏と一緒に来て。それを見たら、ちょっとエロい気持ちになって、もしかしたらレスがなくなるかもしれない。メインの水族館だけじゃなくて、ショーとか、お触りコーナーとかも、準備中なの」

「……どういうこと? 魚がいる……ってこと?」

わたしは首をゆるゆるとふった。

「ううん、魚じゃない。精子。さとるっちの精子飲んだやつを、子どもとか、その親に展示してんの。入場料、今だけ大人二百二十円で、安いんだけど、今後人気になってきたらつりあげていくつもり。で、わたしはこの精子水族館で儲けて、派遣奴隷から抜け出す。入場料安いうちに来て」

「……まみっちゃんってさあ、時々こういうのブッこんでくるから変人って言われるんだって。もし仮に、仮にだよ? ひとの精子見たところでレスはなおんないって! ってかさぁ、さとるっちを大事にしなよぉ……。他の男だったらまみっちゃん、無理だよ。まみっちゃんについていけないよ」

わたしはチリコに精子水族館のことを打ち明けたことを心底後悔した。マジでチリコはしょうもない女だなと思った。だから七年間もレスなんだって! とわたしは絶叫しそうになった。もう何があっても、向こうから来たいと言われても、チリコとそのくだらない彼氏には精子水族館に入れてやるまい。

 

 

死んだ目でなんの書類だかよくわからない書類をシュレッダーにかけていると、定時の五時になったから、わたしは急いで荷物をまとめて、会社を飛び出した。今日の夜は精子の調教という一大任務があるのだ。精子の輪くぐりとか、いいんじゃないかなあ? わたしはさとるっちの精子がぴゅんぴゅん輪を飛び越えていく様子を妄想して、異常なほどの幸福感に包まれた。それでまた帰り道ダイソーに寄って、縁日で使われる子ども用の輪投げを買った。そしてスーパーで、高タンパク低カロリーのささみのほぐし(これはサラダの上に乗せる)と、豚肉のロース(これは焼いてメインディッシュにする)を買って帰った。月末でお金がなかったけど、精子水族館で元を取れるよう頑張っていこう! と鼻の穴を膨らませた。

 

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2020年10月3日公開

© 2020 牧野楠葉

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