完全版 ユキとナギの冒険

牧野楠葉

小説

27,088文字

ある種の青春の物語として。ある種の……。

「ごめん、待った?」

わたしは助手席に乗り込みながら言った。
「いや? 今きたよ。塗装のバイト長引いて」
「ってかナギちゃんこの軽トラどうしたの」

ゆっくりと、芳香剤の匂いが染みついた軽トラが東京のぬかるんだ情景の中を滑り出して行った。乾いた騒がしい両脇のネオンたちが後ろへ後ろへ、ぶきみに尾を引いて流れて行った。
「これ、コタが昼働いてる酒屋のやつなの。キーが玄関の小物入れにあるって知ってたからさぁ。別れたけどまだ合鍵返してなかったから、さっき家いないの見計らって、盗んできた」

ナビ上にとりつけられた小さなモニターの中ではちょうど映画『奇跡の海』の、事故で全身不随になった旦那――そのまなざしひとつで自分がおかしくなるほど愛してるひとから「他の男を見つけろ、セックスする相手を。その時の様子を聞けばまた俺たちがひとつになったと思えるから」と頼まれる、これから主人公が破滅していくきっかけになる一番胸糞悪い地獄みたいなシーンが流れていた。でも車内のBGMは韓国アイドルの非常にウキウキしたダンシングな曲で、パラパラブギウキ。そんで、コーラス、おまけでブギ。みたいな。
「すごい」
「でね、ユキちゃん。これ」

ナギちゃんは桃色の小さなビラをわたしに渡した。モニターに映った、包帯でぐるんぐるんのステラン・スカルスガルドの影でなんとかそれを読むと、
「『長野の麻薬村へようこそ』?」ヒラギノ丸ゴシック体W6でなんだかまるっと優しい感じを出そうとしているらしかった。『美しい日本のおもてなし』みたいなノリでそれは書かれてあった。
「コタの埃まみれのレコードの上に置いてあった」
「え? 何? もしかしてナギちゃんここに行こうとしてる?」
「うん」エミリー・ワトソンのぼろぼろとこぼれそうに頼りない白い喉とナギちゃんの喉が重なった。
「……そんな、ナギちゃんやめようよ、予定調和な。物語的な。行ったって。みんなが自由を求めてきてるらしい麻薬村でさえもかっちり階層があって、逃げ場所がなくなって結局帰るっていう映画、さんざん見てきたじゃん。結局どこでもない場所なんかないんだって。センスない。どうせ行くならもっとさ明らかにつまんなさそうな、地方のどうでもいいガストとかにしようよ」
「そんなところに行っても、あたしたちは報われないと思う」

ナギちゃんは張りつめた横顔で言った。雨の大粒がフロントガラスをぐしゃと打った。
「……劇的な場所に頼るしかないんだよ。そこに待ってる先がいかに陳腐で非日常でも、『いま』に戻るためには行くしかない」

 

柔らかなオレンジ色の明かりに照らされたナギちゃんの顔は、よく見ると一流の能楽師だけが内側から表情を与えることのできる、つるりと引き締まった能面を思わせた。だからそのぶん、外から心を読み取ることが極めて難しい、彼女が何か喋ってくれなきゃ。些細な動きでもいい。
「だからさああたしやっぱり、稼いでるヒッピーがいいわ」

昨日いつもの居酒屋で白ワインを飲みながら、ガンジャ中毒の貧困バンドマンと別れたらしいナギちゃんが呑気な調子でそう言った時、お手製の時限爆弾を仕込んでいた彼女の顔が木っ端微塵に吹き飛んでいく気がした。

だからわたしは「稼いでる」ことと「ヒッピー」というものの間にある根本的な断絶について指摘する気にもなれなかったのだ。
「男の話? ツイッターで検索したら『インディペンデント映画のミューズ』って出てくるかっこいい女優に、そんなよくわからない男なんかいらないよ」

ナギちゃんの目の黒がすうと薄くなった。
「ユキちゃんはさぁ、まだ二十四で若いしちょっと化粧すりゃ。素材いいし。で、作家は年齢制限無いから可能性あるよ。でもあたしはもう女優として売れないもん。だって今年三十八だよ。ちょっとやばくない? ねえ? 年重ねると演技に深みがなんて売れてる人が言っていいやつじゃん。もう全然仕事こないし普通に金持ってる男に養ってほしいんだけど」

ナギちゃんは疲れてた。疲れていた。それは切実なマジの叫びで、……でも子どもの時、ポケットの中で、いつの間にかひび割れていたガラス玉を緑がかった昼の太陽に照らしてみた時のように美しかった。彼女がその皮膚にくるんで隠し持っているのは奇妙とまでいえる無垢な幼さ、そして、過去の苛烈な運命によって幾度も刻み込まれた厳格さの完璧な調和だ。世間がいうところの三十八には決して見えない美貌。だからこそ、女優としてのナギちゃんの才能が抜群に発揮されるであろうはずの役、例えば主婦やキャリアウーマンといった凡庸な四十代の役は彼女には回ってこなかった。その過剰な美しさゆえに。

かつて己の実力で、主演女優としてベルリン国際映画祭のレッドカーペットを歩いたナギちゃん、あの韓国映画の巨匠ポン・ジュノに「おめぇ、怖ぇな!」と女優としては最高の褒め言葉を貰った、わたしの大好きなナギちゃん。そのナギちゃんの七色に煌めくアナーキーさを秘めた美しくもろい船が、資本と政治力の前で静かに沈没していった。そしてナギちゃんは真顔で、決定的な一言をわたしに告げた。
「あたし、自分の人生どうしたらいいか、本当にわかんない」

寝て酒を飲めば忘れるよ枕をニトリで新しくしなよ、違う、もっともっと切迫している、でも――この女は決して最期までわたしを裏切らない……わたしはおそらく『ナギ』なんて名前なんかなくてもこの女を信じていただろう。

夜、黄昏、公園、ブランコ、信号、道路、小さな部屋。夏の暑さ、うだるようで気怠い集落の日差し。酷くありふれた二人の虚ろな眼差し。そして今、どの時間でもない今から、わたしたちの冒険の全ては始まったのだ、この見慣れた東松原の居酒屋。一番出口に近い、脇のテーブル席で。
「わかった」
「ん?」
「一日だけ待って。ナギちゃん」

きょとんとするナギちゃんの視線を受け流しながら、わたしはバーボンを飲み干し、煙草に火をつけた。

 

 

朝八時半。渋谷区。宗田マイク写真研究所。

はい、日光とかは苦手なんですよねボクは、自分がペラっぺらってばれそうでなんか。という理由でブラインドがばさああと降されたままの薄暗い事務所の一番奥には、いつもの気色悪いほどに謙虚で起伏のない言葉づかいのヴェールで巧妙に覆われた宗田マイクの隠れた虚栄心とも言える、嫌味なほどびかびか磨かれた黒檀大理石のデスクが偉そうに置かれている。だいたい宗田マイクって仕事名つける時点で自分のしょうもなさを隠そうとしてるし、なあにをッ今更! とわたしは毎朝宗田マイクのデスクを見て軽蔑する。たかが『緊縛』写真家のくせに、縛ってひぃと言わせたがってるだけのくせに、『写真研究所』って。なあにを。今すぐバザン研究者の前にひきずりだしてやろうかお前の大好きな吊るしあげで? わたしの灰色のプラスチックの安いデスクにはこれからAVのパッケージやDMMのサイトに載る淫乱ドマゾ写真が散乱している。業務委託の月十三万、業務内容、その壱。AV女優のリスカやアムカや火傷やダメ男につけられた打撲痕、タバコ押しつけ痕のレタッチ業務。その弐。限定ポラロイドなどを詰め込んだAVにつける付録の一部、女優を主人公にした短編官能小説の作成業務。
「おはようございます」
「あ、」まだ三十二のくせにもう初老の朝みたいないらない雰囲気をまといながら宗田マイクが給湯室から顔を出した。

自分の地味さをわかり尽くした普通のTシャツと眼鏡かけてんじゃねえ『宗田マイク』なら『宗田マイク』なりにイタリア製だかの赤いベレー帽かぶれよ。おもしろい服着ろよ。なあにを。
「すいません、中田さんちょっといいですか」囁きレベルの小声なのでわたしは諦めて給湯室へ歩いた。
「あ、おはようございます。ごめんなさい。忘れてました。すいません。あの、仕事入ってもらう前になんですが」
「はい」
「中田さんが書いてる女優さんいるじゃないですか。あの方が、いや、あの方がというよりあの方そのものがNGになっちゃったというか。これはほんと、すみません」
「発狂しましたか」宗田マイクはそれには答えずに、
「あと小説の内容なんですけどもっと激しめ……のほうが、いいと思いました」ボクは、とつけくわえた。
「……」
「あのつまり、パターン化ができてない……? いや、というよりも、もうちょっと巨乳×放尿×痴呆×首絞めみたいなパターンのほうが、いいと思いましたボクは」宗田マイクはわたしの顔を見たり見なかったり焦りながら言った。
「……その『パターン』だったら、」わたしは声をひりだした。
「あの女優さんをちゃんと表現できるんですか?」
「えっとちゃんと……とかではなく」丁寧の極み、あの宗田マイクがめちゃくちゃ大切にしている象印のコーヒーメーカーの蓋をいきなりスバシコン! と殴って閉めた。
「いやこれは説教とかじゃないんですけど、」ギュイーンと豆が挽かれはじめた。
「……いや、説教かもしれないですねあのちゃんと誰も見てないっていうか。そもそも。そもそもの話なんですけどまみぴょんは最初イケイケグラドルだったのにホス狂いで落ちぶれてAV。っていう売り方なわけじゃないですか。ご本人の物語がもうちゃんとあるので、大きな。とてつもなく大きな。これは中田さんが頑張って表現? 代弁ですか? しなくても皆さんよくわかってるので。小説でそのホスト狂いの哀しさとかどうのこうのっていうのはボクは普通にいらないと思いますエロければいいと思いますっていうかなんですけど、あの小説エロの要素一切なかったじゃないですかそれはさすがにダメでしょ本担から返ってこないLINEを待つ描写だけで十二ページぐらいありましたよね実験小説かって! 全開で書いた方がご本人のためになりますし中田さん最初は上手に書いてたのであんな感じでパターンで書いてもらえれば、なんか路線急に変わりましたよね? あとパターンっていう言葉に中田さんが今込めた意味? 意味……、間違ってると思いますよあまりにも安直というか。パターンにも奥行きがあるしボクはユーザーとしてそういう小説読みたいですねお金にもなりますし火星の一個先の滅ぶことが確定してる星で自暴自棄になったスカトロ宇宙人らに緊縛にあうけど誰ひとりとして助けてくれないしもう明日いよいよ滅ぶわってなって宇宙人も集団自殺しちゃって誰もいなくなって犯されまくってバカになったまみぴょん孤独な星で寂しすぎてでも結局のところ宇宙人たちはなんだかんだ緊縛なり相手してくれてたわけじゃないですかそれで誰か構ってよってなって緊縛の日々を思い出しながらおしっこしながらオナニーしちゃうとか。あと中田さんボクに対する目線とかがちょっと侮蔑的すぎてキツいです。えっと、ボクは緊縛大好きでやってるんで。あの、決して、すごい芸術的な写真家じゃないんで。わかっているので。昼休みわざとらしくバザンの『写真映像の存在論』の論文しかも英語で音読しないでください。ただの勉強熱心じゃなくてもしボクをあえて所詮サブカルのどボケカス! と暗に嘲るためにやってるならもっとうまくやってほしいというか変な煽りにしかなってないんでしかもボクが奥で撮影やってる時ボクのデスク蹴ってますよね? 見ちゃったんで。ほんと何してんすか? あとプリンタとか閉める時もっと丁寧に閉めてもらえますか」できれば、とつけくわえた。初めて聞く宗田マイクの早口だった。
「だいぶ話を戻すと……ご存知のとおりこれは商売なんで!」

急にテンションを変え、
「もっと中田さんも全開にドーン! ドドドーンって感じでエロを書いてもらえれば!」唇の脇にガッと小皺を寄せて笑い、声に愉快さを含ませようとしてたけど宗田マイクは全力で失敗していた。

そう。商売。宗田マイクの言っていることはもっともだった。
「東京でそれがやりたかったんですよね? 中田さんはこれからプロの純文作家さんになる方なので。ここはひとつ先生、お願いします」

なんと宗田マイクはご機嫌にウインクなんかしちゃって、わたしは軽く怯え、喜怒哀楽のぶれたひとだな。また給湯室に引っ込んでいった。コーヒーが溜まっていく音がかぽぽぽと響いてきてわたしはもはや立ちつくすこともできずに、デスクに向かった。

今日も宗田マイクの緊縛写真は美しかった。

 

 

レタッチを八十枚ぐらい終わらせたらもう二十二時過ぎで、わたしはナギちゃんが待ってるタイムズに早歩きしながらクラウドワークスを見た。でもメールボックスには一通もなし、二ヶ月前からやりとりしてるクライアントからはあれからなんの返事もないままだった。

緊縛の十三万――しかも交通費は自己負担、だけだと普通に食えないしもう銀行ローンは生活費のために全て借りてしまっていた。引っ越しの梱包とかもやったけど一日拘束で七千円、仲介業者にそっから抜かれて四千円でさすがにやめた。だからせめてもの足しにクラウドワークスで見つけた仕事、一記事千円とかからスタートの、化粧品やシャンプーのおすすめブログ記事、つまりアフィリエイトの記事をぽちぽち書いていたのだ、いくつか送られてくる商品のページを見て構成案を送り、採用されればサンプルが送られてくる。そしてそれを実際に使ってみてどうだったとか、そう言うのを書く。大した収入にはならない。行って三万弱、酒煙草代ぐらい。でも小説で売れてないぶんずっと何か書いてなきゃって強迫観念に襲われて原稿の合間合間に書いて書いて書きまくった、別に好きでもなんでもない商品の匂いとかテクスチャーがどうのだとかを。もちろん構成案だってボツにされることもあったけどとにかく納品までの速度が速いし構成案だって狂ったようなスピードで送っていたってのもあったと思うけど、つい一週間前そのクライアントから一記事四千円という今までにしたらウルトラ特単の仕事の提案がきたのだ。そしてそれが採用されれば今後の仕事保証&次から記事の報酬があがる。

それは成長期の子どもの栄養をサポート――カルシウム不足のせいで背が伸びない、だからタブレットやシェイクにチョコレート味で凝縮。そういうのだ。ただのカルシウムじゃん牛乳飲ませろよ、思ったけど同時にそれを見てなんでもあるなと。金持ちの大人たちは今、こういうのを子どもに買って飲ませてんだ! わたしは一生そんな機会には恵まれないけど。とも。

いつもお世話になっております。申し訳ございません。ありがたいお話なのですけれどもわたしには子どもがいないため体験談を書くことができません。想像で書いてもリアリティを欠いたものになってしまうため、御社の満足に至るまでのものにはならないと思います。類似の、大人でも使える栄養補給商品(タブレットでもシェイクでも、)がありましたらご提案いただけますでしょうか? 何卒ご検討よろしくお願い致します。中田ユキ 承知致しました! また別商材ありましたらお送りいたします。終わり。

わたしは祈りのように、いつでも開けるようとにかく高額の給料が表示されるガールズヘブンの求人サイトをスマホ画面に保存していた。今月は何百回開いたかわからない。いくつものデリヘルや回春マッサージを『検討中に追加』してた。寸前まで来てた。

 

 

「いったん停めるわ」
「うん」

灰色の空の下……旦那の言いつけを敬虔に守った結果、どんな暴力男とでも寝るような、自分の命さえ顧みない娼婦になってしまったエミリー・ワトソンが窪んだ目で――今度はめちゃくちゃな荒くれども『しか』いない大型船に乗り込もうとしてた。たったひとりで。ひとりぽっちで。でもわたしたちは二人だ。モニターが切れた。わたしたちは車を降りた。

深夜、高坂サービスエリアの屋外喫煙所で――ナギちゃんの目は真正面にある先だけ折れた大きなライトに照らされてどっか異国の教会みたいにきらきらと光ってた。直視したらどうにかなる目、だからスマホの中に目をそらした。
「『平成』、終わるかもなんだって」ツイッターにはその情報や議論しかなかった。
「へー……」ナギちゃんは一切SNSをやらない。興味もない。
「年号変わったらなんか変わるのかな」半笑いで言ったのにナギちゃんは、
「それさ本気で言ってる?」ブラックアウト。

決定的瞬間だった――ナギちゃんは飲み屋で出会ってはじめて、二年間のうちではじめて、グヴァっと自分の本当の空洞をむき出しにして、それは演技じゃなくて――わたしを見下した。

何時間もかけてせっせと作った、海辺に建てた湿り気のある砂の城があっけなく流されていくように、または膨れに膨れあがった風船に細い針が刺されたように。勝手に心の奥底に溜め込んできた大事なものが、上から重い銅盤でばすんと潰されすぐにナギちゃんがそれに気づいたのか、また元に戻って、いやでもそれは戻った感じを出しただけだと思う。
「……変わんないでしょ。全然変わんない。だってあたしたちが内部から崩れていってることは変わらないじゃん。生きてても痛いだけじゃん。むしろどんどんわかんなくなるよ。フラットが行き過ぎてもう意味がわからないしあたし何と闘って何を克服したらいい? 整形しても禁欲しても誰も元のあたしに興味無いし、てかもはや、そんなのファッションだし、当たり前だし、で? って感じ、手ごたえなさすぎてあたし、本当に生きてんのかな? って思うよ」

警備員が緑のペンライトを大きく振り、雨でびっしょり濡れた駐車場に深夜バスがずずず、と入り込んだ。ペアコーデをしたカップルや紫と白のラクビーウェアを着た大学生の集団がうわっとドアから降りてきて騒いでいた。わたしは彼らを、まるで別の世界で生きている幻や夢のように見た。
「もうずっと離人感、消えないの。何年も。でも現実のちろちろした不幸ってずっとついてまわるよね。アコムに返済を待ってもらうために金ありませんってことを論理的に証明してその場では解決してもずっと、ずっと続くよね。だけど生きるってこれの積み重ねでしかないよね。わかってるのになんでこんな虚しいのかな?」

真夏の蒸された空気の中でライターの火がぼっと燃え消えた。ナギちゃんはこの十五分程度で早くも四本目の煙草を吸っていた。

いつもきちんと整っているナギちゃんの髪が乱れていたので、手を伸ばすのは怖かったけど、
「本当『年号なんか』だけど」わたしはそれをやさしく撫でつけながら言った。
「わたし、ホストクラブのサイト見るのが趣味でさ」
「なにそれ」
「もう、今『鬼龍院天也』とかじゃないわけ」
「どういうこと?」
「だからつまり、もう『ぽっぷん』とかなわけ」
「うっそ、マジ!?」ナギちゃんは悲鳴をあげた。わたしは嬉しくなって、
「そう。『さわくん。』とかなんだって。で、そいつらがインタビュー記事で、『まあ、いかに女をソープに落とすかがホストの腕の見せ所ですね』とか言ってるわけ」
「どうせソープに落とされるんだったら『ぽっぷん』より『鬼龍院天也』に落とされたいよね……」
「『ぽっぷん』に落とされたら、ねえ、」

 

 

それから寝たり起きたりを繰り返して、次にナギちゃんがわたしの肩を大きく揺さぶった時にはもう朝方になっていた。雨はすっかりあがって空が蒼く白みはじめ、さして大きくもない薄緑の山の麓には瓦のずりさがった民家と申し訳なさ程度の田んぼがぽつぽつと並んでいた。
「ナギちゃん大丈夫? ここ。マジで」わたしは思わず窓を開けて、外の風景を見渡した。いくら物語を拒絶したって、圧倒的に何もないことに対してひとは不安になるのだ。だからわたしは同時に、「ここより面白くなさそう……」度合いの強い、『地方のどうでもいいガスト』を希望した自分を猛烈に恥じた。
「さっきのビラに『二十四時間、公民館やってるよ♪』って書いてあるし、誰かいるんでしょ」

舗装されていない畦道のど真ん中にナギちゃんは車を止めた。
「いやいや……」
「住んでるの絶対ヤバい奴らだから。面白いことこのうえないって」

地図のとおり進んでいくと、崩れかけたプレハブ小屋のなかで「朝のラジオ体操」というおなじみのフレーズが聞こえてくるのがわかった。『何か』を発見した喜びで、わたしとナギちゃんは顔を見合わせて悪い笑みを浮かべた。
「あのう」ナギちゃんは、しとり。と声を投げた。ここは女優の仕事だ。
「体操中のところ失礼いたします。少しお尋ねしたいのですが、ここは公民館でしょうか」
「なになにぃ?」作業着を着た、太った白髪のオヤジがとてもハイな感じで言った。
「本性隠さなくていいよ。ガンジャ目的だろ!」

ガンジャは吸いたいがそこまでの欲求かと問われると、ぬ。わたしたちは口をつぐんだ。オヤジはプレハブ小屋の中で火を起こして、本当にハトを焼いていた。むさっとした匂いがした。
「美人の姉ちゃんたち何やってるひと? 芸術? テロリズム?」
「一応……映画の女優と」
「作家です」わたしはためらったが言った。
「脇田が喜びやがるぜ!」白髪のオヤジはうれしそうに、その場で6㎝ぐらい飛び跳ねた。
「二ヶ月前ぐらいかな、脇田っつう長い髪の毛のやつが来て『公民館でしょうか』ってあんたらみたいに聞いたんだよ。で、俺はだな、息子のように可愛がってきてよ。でもなんだか俺が疎ましくなったのかな。なんでだろう。若者を引き連れて隣に引っ越しちまった」

隣かい、とわたしは心の中で突っ込んだが、白髪のオヤジが黄色のビラをほれ、ほれと強引に渡してきたのでそれを見た。

 

【二年間で年商百三十二億を達成した広告王!!】
脇田折男・最新トークショー・オリジナルムービー (スタジオSEXにて)
『人類よ狡猾な商人になれ!』&『脇田折男、成功の軌跡』七分

 

「『成功の軌跡』、七分なんだ……」ナギちゃんが言った。
「短か……」その時にはもうすでに二人とも半笑いだった。
「こういうのって大体、一時間弱ぐらいあるもんだよね」

 

 

わたしたちが一日長野の山菜を堪能し源泉かけ流し温泉でさっぱりとエンジョイしていたらもう夜になっていたのでスタジオSEXに入っていくともうすでにトークショーは始まっているらしくおそらく脇田折男であろうやつがステージ上で何かを喋り散らかしていた。スタジオSEXはちょっとしたライブハウスみたいになっていて、入り口で氷水に冷やされた瓶ビールが売っていたからとりあえず二本だけ買った。そんでガンジャも。
「普通のダイエットサプリなんて買わないですよ。庶民はふてぶてしいですからそんな愚かなものを買わないんですよ。今のネット広告やってるやつはバカ。バカとしか言いようがない。だって偏差値四十のバカを釣って打つしか能がないんですよ結局のところ。それじゃ芸がない。もっと獲得ユーザーの幅っつうのかな。うん。そういうのを広げていかないとプロのマーケッターじゃないですね僕の中では。うん。買う方もバカでやるほうもバカ。まあ根本の話、広告で出回ってるダイエットサプリとか美容、健康食品とかはほっとんど全部そうですけど、意図的に創り出されたデマの積み重ねとうまく法をかいくぐる努力と映えそうな成分探しだけで出来上がってるんで。1ミリも痩せないんで」軽い笑いが観客席が起きた。わたしはなぜ今笑いが起きたのかも、脇田折男の言ってる言葉の意味も、全くわからなかった。

なんか嫌だなあ……と思ったけどそのままUターンしてもすることないし、ステージの前に八席かける二の椅子が前列と後列に用意されていたので、わたしたちは後列の左端に座った。今思えば。今思えば、Uターンしておけばよかった。と心の底から思うけど、肥料小屋に積み重なった干し草のようなガンジャの匂いがむあ、と自分の右手から、スタジオ全体から、そこらじゅうから立ち込めて心に隙間ができたのもある。

三十代後半と思われる脇田は腰までのロン毛に臙脂色のTシャツといったいでたち、なにより胸板がしっかりと厚い。主張がすごい。ほどよく焼けた小麦の肌をしておりある種の『カリスマ』感を醸し出していた。わたしたちの前列には売れない劇団員ふうの男や、青と赤でお揃いの高級スポーツ・ウェアを着た上品なカップルだかがわらっといた。
「うん。だから売る時にはただのダイエットサプリに少し物語をつけてやるとグッと良くなるんだ。でも初期のネット広告にはくだらないもの多かったですよホント。うん。絶対痩せないサプリなのに、それ飲んだら百キロ超えてるデブが痩せすぎて病院送りになるとかね。担架で運ばれちゃってんの! すごいでしょ。ホント僕、見た瞬間腹抱えて爆笑しましたけどね。しかもそのサプリの主成分『白いんげん』ですからね。さすがに無理があるだろと。そんなギャグみたいなね。ちょっと過激なやつも流行ったんですけど」さっきより明らかに、わたしはとても『これ』に嫌な空気を感じたので席を立ち有り金全部出してそこにある分だけビールを買い席に戻った。あとガンジャも追加で。
「もう国は老後を保証してくれないでしょ。今まで払ってきた膨大な税金ホント返してくれって感じ。だからなんとか国に搾取され続けないようにするしかない。となるともうそれ以上に稼ぐしかないんですね。だから皆で一緒にお金を稼ごうよ。バンバン稼ごうよ。と今日はそういう話なんですね。うん。具体的な申し込みとかの話はあとでしますけれども。イベントも広告も最初の打撃が一番肝心で」脇田はキナくさい笑顔をのっぺり張りつかせて、
「ビールと幸福の草を楽しみながらどうぞ、動画をお楽しみください」

するするとスクリーンが降ろされ、真っ暗になった。

 

 

ガラスのコップにビールが注がれ、焼き鳥が差し込まれる。次に白い粉が投入され、串をかき混ぜるとビールが透明な水になり焼き鳥が消え串だけが残る。マッチ・カット。鉄板に乗せられた白く大きな牛脂の塊に緑色のレーザーが照射されると、牛脂がドロドロと溶け出しやがてなくなる。マッチ・カット。左上に『わずか一粒で脂肪細胞を破壊する衝撃の●●●とは……!?』というテロップとともにサヤエンドウのように包まれた白い球にビームが発射される。その次に3Dの裸体が映し出され二の腕、背中、もも周り、ふくらはぎ、お腹がフォーカスされ、それぞれの肉が凹んでいく。暗転。右横から画面の中へ赤いベレー帽を被った脇田折男が大股で歩いてくる。脇田は観衆に向かって大きく手を広げる。

 

脇田折男 (さぞ自慢げに)これ、全部僕が開発しました! こんなのいきなり出てきたら、痩せると思うでしょう? サプリ一粒で脂肪、燃えそうでしょう? (笑顔で)思わず買っちゃうでしょう?

脇田の背景に小さな雑居ビルが浮かび、その次にパソコンが並べられた狭い部屋が映し出される。

脇田折男 二〇一六年四月、僕は西新宿のアパートを借りて会社を設立しました。資本金は三百万円。テレビマン時代に貯めたお金で。

 

ひとつのデスクトップパソコンに拒食症の女性が映し出される。

 

拒食症の女性 最初は五十九キロでした。でもこれを一粒飲むとどんどん痩せ始めたんです。(彼女はそう言いながら、浮き出た肋骨を見せる)

脇田折男 (拒食症の女性が映ったデスクトップパソコンを指差しながら)ネット広告が流行りだした時は序盤で見せた動画やこういう過激なもので死ぬほど稼ぐことができました。でも規制が激しくなり、こういったものがまた遷移先の公式ホームページに表示されるあからさまなダイエットサプリは消えていきました。そのかわりその金で設けたEC業者はどんどん公式ホームページのデザインに凝るようになりました。

 

拒食症の女性が映った隣のパソコンの電源がつき『3兆個の乳酸菌で憧れのスリム美人に』というページが表示される。ファーストビューにはたくさんの苺が散りばめられておりそのページは全体的に可愛いらしいピンクの色合いで統一されている。ページがスクロールされていくと『一日16円であまおうダイエットを始める!』と書かれた緑のボタンがぷるん、と動く。クロスディゾルブ。スマートフォンのアプリが開かれGunosyのロゴが表示される。

 

脇田折男 こういった商品に目をつけたキュレーションサイトが僕たちの主戦場になりました。ここではいろんな広告業者がデブを激ヤセさせたり貧乳を爆乳にしたりするのですが、そこで重要になってくるのが『訴求』です。ユーザー、つまりあなたはなぜこれを飲まなければならないのか? その理由づけのことを『訴求』と呼びます。

 

Gunosyの画面が開かれたパソコンを脇田がコンコンと叩くと黒い背景に白い文字で、

・あなたの腸内には宿便が5kg溜まっている!?
・あなたの体内酵素は減少している!?
・あなたの基礎代謝は老人レベル!?

という文字が2.2秒間隔で連続表示される。

 

脇田折男 このように誰でも思い当たるふしがある『訴求』に合わせた商品が山ほど生まれ、腸内フローラ改善、体内酵素、そういった訴求のダイエットサプリが市場に出回るようになりました。その中でもこういった王道ダイエットサプリとはりあうほど人気になってきたのは子ども向け商材です。

 

脇田、パソコンの画面を再び叩く。バットを握る子どもの写真が映し出される。

 

脇田折男 『万年補欠だった僕の息子がホームランを打つ』DVDなども大流行りしました。そして『子どもの頭がよくなるタブレット』も。(また画面を叩く)

 

『偏差値が42→75に!? 飲めば飲むほどテストの点が良くなる衝撃の●●●』という記事のタイトルが表示され、ファーストビューにはつるの剛士が満面の笑みを浮かべている。

 

脇田折男 子どもをターゲットにしたものは顧客がリピートして買ってくれるし、旬を過ぎた芸能人のブランディングにもなるため秒速で金を稼いでいく企業に買収された芸能人が多くキャスティングされていきました。そして生まれたのが『妊活訴求』です。

 

クロスディゾルブの後、Googleの検索画面。一列目に『一粒で陽性反応!? ママになれる日』という広告文テキストが表示される。

 

脇田折男 実際、不妊に悩む女性をターゲットにした葉酸サプリは市場に多く出回っていました。僕たちが日常的に使うLINEの広告にも。しかし悪どい業者が例えば合計金額四万円という高価格で設定しているため大ヒット商品にはならず。そこで、ちまたに溢れかえっているただのダイエットサプリを女性のライフスタイルに紐づけた妊活訴求の記事に作り変えるという手法が生まれました。(画面を叩く)

 

クロスディゾルブ。スマホ画面に『〈速報〉助産師が発見! 妊活サプリなんて嘘。根拠に基づいた体に優しい妊活とは』という記事タイトル。ファーストビューは子どもを抱く女性の写真。『はじめまして。助産師歴22年の前田朋子です。私は助産師として患者様の悩みを聞いてきましたがやはり最終的に辿りついたのは適正体重を保つことでした。そこで重要なのが腸内フローラの改善です。』という文言が表示される。

 

脇田折男 ここで面白いのが、全く同じダイエット案件でABテストをした時のことです。この案件を売って発生する報酬は9720円。こちらをご覧ください。(パソコン画面を叩く)

 

●旧記事(激痩せ)消化コスト 60124円 クリック数 1267
実CV 7 (購入CVR8.97%、購入CPA 8602円)利益 1118円

●新記事(妊活)消化コスト 59691円 クリック数 1256
実CV 15 (購入CVR17.24%、購入CPA 3979円)利益 5741円

 

脇田折男 数値が全てを物語っていますね。妊活訴求は通常の激痩せ記事より倍以上の購入数がつくし五倍以上の利益が出るわけです。この案件の報酬が一万弱ですから、購入にかかるコスト、約四千円を引いて5741円。ひとつ売れるたびに5741円が積み重なっていく。このテストにはそれぞれ一日五万ずつしか使ってませんが、激痩せ記事を打倒した妊活記事で一日百万使えば? というふうに利益を増やしていく。でもここでひとつ疑問が残りました。ダイエットサプリは競合も多いため効果は0とはいえある程度作りこまねばならない。毎日毎日新しいダイエットサプリが生まれる。しかし葉酸サプリ、つまり妊活サプリははるかにブルーオーシャンである。ではなぜもっと奇形児リスクを煽りに煽った妊活サプリやそれを叩き売る記事がないのか? その妊活サプリを飲めば産まれる子どもも絶対に健康体で長生きすると言えば? 逆にそれを飲まなければ奇形児や障害児が産まれると言えば? 初回金額もよくあるダイエットサプリのように五百円まで引き下げて。

 

脇田が画面から袖に戻っていく。スクリーン、暗転。

 

『次章 生まれた子どもが長生きする妊活サプリ』

「さてさて、いかがでしたでしょうか?」

 

ナギちゃん

これ、ぜんぶ『うそ』のはなしなんだよね?

ぜったいやせないものを ぜったいやせるっていってるってことだよね?

しかもその『うそ』のてすとをしてたって、そういうことだよね?

 

再びステージ上に現れた脇田の目は禍々しく見開かれている。
「これが現代の広告王脇田折男の次章、一兆円プロジェクトの概要です」

 

ナギちゃん、こんどはそれだけじゃぜったいにうまれないものを

だれでもぜったいうめるって いおうとしてるってことだよね?

ぎゃくにこれをのまないときけいじがうまれるっていおうとしてるんだよね?

『うそ』だよね? これほんきのさぎをしようってそういうはなしだよね?

 

ビールとガンジャで軽くふらつきながら出口を探して扉を見るといつの間に湧いてきたのかスタジオはありえない人数で埋め尽くされ、右隣のナギちゃんの横にも、今のやつを観て何をそんなにと聞きたくなるほど必死にメモをとっているひょろっとした学生みたいなやつが、そして浮浪者同然のガリガリの男や体にバシッと張りついた白いドレスを着た五十過ぎの女性――どこかで観た、多分テレビだったと思う、さらに黄色いショルダーバックを斜めにかけた、車椅子のハンドグリップを握りしめるおそらく母親、娘は鼻に太いチューブを通して宙をむいている。それからスーツを着た会社員らしきひとなどは立ち見で、これは幻や夢なんかじゃなくて、――わたしはあのクライアントから仕事が来なくなった理由が『今更』やっとわかって、ああそうなんだ本当の体験談なんかじゃなくて皆商品に関する『うそ』の効果を書いて欲しいんだって、あのカルシウムの商材だったら子どもがいようがいまいが『私の子どもの身長が伸びて感動しました』って、背の低さのせいで殴る蹴るの青あざだらけのものすごいいじめを受けていたけど一気に22.3cmもグンと伸びて一変クラスの人気者に、息子は最近はじめて女の子から告白されたみたい、性格も明るくなって、この商品のおかげで、いやこの商品に出会っていなかったら、と、ここまで残酷な――逆にそこまで書かねえライターなんかいらないんだ、そして脇田はより一層ひどいことに辿りついて実行に移そうとしてる、――

 

ナギちゃん? なんでいますぐここからでようとしないの?

『わたしたち』にはいっさいかんけいないはなしじゃん、ナギちゃん!!

 

「これを情報商材か怪しいセミナーと思った方は今すぐ退場してください。うん。これは広告の、ちゃんとした『仕事』の話です。人のコンプレックスは金になります。奇形児や障害児リスクのあらゆる具体的な恐怖、脳みそ飛び出てる子どもとか、脊髄折れ曲がって年中ベッド生活とか、そういうキャッチーな素材をたくさん記事の中に散りばめてもらって。これ飲まないとこうなるぞって煽ってバーッと広告を打つアフィリエイターの頭数が欲しい。今日はその募集です。子どもを産むってのは女のひとに根づいた根本的な欲求でしょう。こんな地獄みたいな世の中でもやはり産む子どもには健康体でいて欲しい。できれば長生きして欲しい。奇形児を産みたい女性なんていない。それを望む男もいない。だから子どもに関わる全ての人間がターゲットである。特別支援学級に入れたい親なんていませんから、そこを打つわけです。小さなサプリを一粒飲むだけで健康な長生きの子どもが産まれるなんてとてもいい世界ですね。でもそれを信じさせるのにはもう一手間いるんです。例えば、」

脇田はステージを降り、がしがしとわたしたちのところへ歩いてきた。
「あなたのような」脇田はナギちゃんをしっかり見ていた、
「二十後半か三十少し過ぎた、普通よりちょっときれいな女優の卵みたいな女性が公式ホームページやその前のクッション記事LPに登場する。そして『酒もタバコもそのほか悪いことも全部やったけど、これを飲んで本当に良かった』とお腹をさするんだ。普段あなたが何をやっているかは知らないけどそこの中での肩書きは会社員だ。ごく一般の女性が憧れるような容姿のあなたがそれを言うだけで、あなたと同じ会社員やその他の女性がそれを信じるんだ。キャスティングの相場は一日一万円ですがあなたレベルの素人ならもっと上げてもいい。あなた、一日いくらですか?」

わたしは左手に持っていたビール瓶を床に叩きつけた。憤怒。血みどろ。ハトの糞。観客の視線が一気にわたしに集中した。
「……ユキちゃん、酔ってる」

一緒に旅行に行った時――神奈川の藤野という自然に囲まれた土地で昼からおしゃれな切子でビールを飲んで、映画の話をして、わたしたちが大好きなジーナ・ローランズの話もした、大げさかもしれないけどわたしはナギちゃんのことジーナ・ローランズだと思ってる、今ナギちゃんが紹介してくれた監督と打ち合わせをしていて、わたしの小説がもしかしたら映画になるかもしれないから絶対に出て欲しい、なぜならヒロインのひとりは完全にナギちゃんにあてがきしたものだから、ナギちゃんは酔ってたのかちょっと泣いて、ありがとう、ありがとうユキちゃん、とそう言ったのだ。ユキちゃんに書いてもらうのがね一番嬉しい。確かにそう言ったのだ、淡いブルーのリボンがついたお揃いの麦わら帽子をかぶって、だだっ広い車道の真ん中を二人で歩いた――地元のひとたちがやってる野菜売り場などを見ながら相模湖まで散歩して、もう今はやってないボート屋をガードレールから覗きこんだ、そんで湖のすぐ側まで降りて行って、ナギちゃんはクソヤローと叫んで彼氏のガンジャとコカインが入ったポーチを湖に投げた、わたしはそれをスマホのビデオで撮りながら記録、記録ちゃんと撮ったよと言った、本当はあとで何回も見直すためだったけど、夕暮れの湖はダイアモンドがぐらんぐらん目が回るほど揺れるみたいに光って、あまりにも幸せだったからもう死んでもいいと思ったぐらい、わたしの人生で本当に意味を持ったのは、ナギちゃん、ナギちゃんだけだった。わたしが自分の小説の中で永遠に生かしておきたいと心底願ったのはナギという本物の『女優』だけだった。

ナギちゃんは誰よりもまっすぐで、真摯で、正直で、美しかった。

わたしは脇田の胸ぐらを掴んだ。
「ユキちゃん! もう五本も飲んでるから、やめなさい」ナギちゃんの静かな声が耳に入った。
「おい、」そして気づいた。わたしは泣いてた。
「何を勘違いしてんのか知らないけどナギちゃんは」
「質問かな? 違う? ええっと……?」と脇田はためらいがちに言った。そのふるまいがさらに許せなかった。
「お前! お前!!」殺してやるぞぐらいの気迫だった。実際、わたしは今、脇田を残虐なやり方で殺してもいいとすら思っていた。
「ユキちゃん、もう行こう、馬鹿なやついたなでいいじゃん、ね、」

 

おそいよ。ナギちゃん

 

「ナギちゃんはお前の卑しい商売のホームページになんかもちろん登場しないしお茶の間のテレビにも軽々しく登場しない。ナギちゃんの居場所はスクリーン、スクリーンの中だけだ」
「ユキちゃん!」

 

いまナギちゃんをまもらなかったら

わたしがだめになる

 

「それにこのアフィリエイター募集ってただの詐欺師募集じゃんわたしはこれをアフィリエイトと呼ばない。ただの詐欺としか思わない。暴力だよ。あんた今言ったこと、そのまま自分の実名のツイッターかなんかで言えんの?」

脇田はわたしの腕を腕力で払い落とし、あのキナくさい笑顔のまま帰れ、という目をした。

観客たちがどよめきはじめ、彼彼女らのわたしへのヘイトが蚯蚓のようにドぅるりと耳の中へ潜りこんできた。そして物理的にわたしの頬を刺したのは一冊の障害者手帳だった。

わたしは人生で初めて障害者手帳を見た。投げたのは車椅子を押したあの母親だった。母親は、わたしに心の奥の奥から怒ってた――罵声も出ないぐらいに。
「今お前に向かって投げられたのが全てだよ。おれはこれを言えるね。大体新宿では普通のことだ。皆平然と、もっと淡々にやってるんだ。社会がすでに害悪なんだからそれ以上に害悪になるしか生き延びることができない。お前だってこんなとこに来てるぐらいだから落伍者だ。落伍者だよ。東京で食えないんだろ。金ないんだろ。後ろを見ろよ、食えないひとたちがこんなにいっぱいいるんだ。これが現実だ。あの車椅子のひとたちは暮らしていけないんだ。だから持ってるやつらから金を貰って何が悪い? お前が面倒見てやんのか?」

床に転がったガンジャまみれの障害者手帳を見てわたしは無性に悲しくなって、
「……ここに来るのが落伍者だとしてさ、じゃあなんでお前もこんな閉鎖空間にいんの? 新宿で勝手にやってりゃいいじゃん、どうせこんなことばっかやってたからはじきだされたんじゃねーの? お前も落伍者だっツーの! で、また次の弱者をぶったたくこと考えてる。笑えるな! 繰り返しでしかないじゃん! ナギちゃん、いたじゃん。ここに。『稼いでるヒッピー』。いやこんなのヒッピーに失礼だな、ひでえ。これが本当にお前が正しいことだと思って金を稼ごうってんなら、開放された場所で今の演説まるまま新宿駅前で偉そうに演説してみろ『奇形児リスクは金になるから皆でやろう』ってさ、でそのまま動画をツイッターに流せお前にはその勇気がなかったんだろうが」脇田の顔がぐぎっと一層きつくなったのがわかった。わたしの意識はガンジャとビールで混濁しつつあった。
「……よし。オーケー、わかった」
「自分のメシ代を自分で稼ぐのがオトナだろ? な? その手段を選べるいい世の中でもないだろ? ガキが」脇田が唾をはいた。
「世の中がよくならないと思いこんでんのはお前のなかの勝手な問題だ、お前も人間なら痙攣しろ最後まで痙攣してみせろ、最後まで痙攣しろよあがけよ」わたしは喚いた。

ナギちゃんが叩き割れたビール瓶の残り半分で脇田の頭を殴打した。脇田はあっけなく床にくずれ、ナギちゃんは手際よくジーパンのポケットから軽トラのキーをわたしに投げる。
「車。回してきて」
「えっ……」
「その妊活サプリ? 実際にすすめさせたらいいじゃん。『これ飲まないと奇形児産まれんぞ』ってさ。本気で子ども欲しくて悩んでる子とか、もう一人欲しい子とかにさ。で、『奇形児リスクを煽れば儲かるので作ります』って堂々と言わすんだよ。効果0だって知った子にこいつが殴られるとこ見ようよ。ああもっとたくさんのひとに見てもらうか。ツイッター? に流して『この詐欺師が』って盛大に罵ってもらおう。そうだどうせなら子どもの前でも同じこと演説させよう自分が食い物にしようとしてる純粋な子どもの前でさ。鼻の形がグチャグチャな子とか上半身しかない子とか目ん玉飛び出た子の写真見せながら『僕はこれでお金を稼ぐんだよ』って言わす、女も子どもも脇田も全員ナイフでおどしてこの演説をしっかり聞かせるんだよ。観客の皆さんすいませんね、この男お借りします」

けたたましく舌を巻くナギちゃんの目はがらんどうだった。

そして同時に気づいた――わたしの言ったナギちゃんに関することが全部、ナギちゃんを傷つけるものだったって。スクリーンの中だけにいてほしいなんてわたしがナギちゃんに押しつけた理想で、それだけを喋り続けていて、『この世の理屈』では、ナギちゃんが結局ただの売れない女優にすぎないってことを――脇田なんかに軽々しくスカウトされるしかない『敗者』だってことを、証明してしまったんだって。

 

 

ナギちゃんはこのまま止まったら死ぬみたいな勢いで軽トラを運転しこれまで彼氏にガンジャ代を吸い取られて泣きに泣いたはずなのにガンジャをばかすか吸いまくって例の韓国アイドルの曲を爆音でかけながらしかもリピートで、ずっとずっとリピートで。高速をぶっ飛ばしていた。もうモニターには終わったのか『奇跡の海』は流れてなかった。でもどうせ流してもエミリー・ワトソンはあのあとすぐ血まみれになって死んでしまう。わたしは後部座席で脇田のちんこにナイフをあてながら生命力を奪うために五分に一回、昼に長野の土産店で買った『夜明け前』ってシャレた名前の純米大吟醸飲ませてた。でも自分のために買ったのにこんなやつだけに飲ませるのはもったいないからわたしもガンガン飲んだ。完全にキマってた。なんでナギちゃんがナイフを持っていたのか――それは……ナギちゃんを見てたら、聞かなくてもわかった。下北沢に帰ってきたのはなぜか次の日の夕方だった。記憶もグッチャグチャで、こんなにも時間をかけて帰ってきたんだと、引っかからなかった検問についてぼやと考えていたとき、ようやくそれに気づいた。

 

 

ナギちゃんがLINEを送るともうそれは魔法みたいに。大人数が下北沢の赤提灯『だるま』に集まった。脇田の演説を聞かせるやつをとにかく引っ張るって目的だったんだけど――OLやバンドマンや役者や元レディースのおばちゃんとか不倫を極めた東大出のおっさんとか病んだとか変なデザインのTシャツ作ってる根暗とか下北沢の愛すべきゴロつきたちが一斉にやってきた、そして彼彼女らの真ん中はいつもナギちゃんだった。わたしはそういう輪の中心でバカみたいにはしゃぐナギちゃんを見るのが一番好きだった。まだナギちゃんは迷ってたのかもしれなかった。監禁して演説聞かせるなら最初から子どもいるひとに声かければ話が早かったのに。だからこのまま、酔いのまどろみとともに――何もかもなかったことにできたらと思った。脇田は意識を失って座敷で崩れていた。わたしはこのまま脇田を居酒屋裏に捨てて帰る未来を信じた。そしたら、わたしとナギちゃんはこれまでどおりでいられるよね?

つまみや酒でごっちゃになったテーブルをぶっ叩きながらナギちゃんがよく通る声で、「まだこれから飲むひとー!」と叫んだ。すると端の端から茶髪パーマをひゅんと揺らせた、タイトな白タンクトップのチャーミングなへべれけ女が「ハーイ」と答え、女は、「あのう。よかったらあ。アタシでよかったらあ。うちで酒盛りしましょよぉ。今日は、旦那が子ども見てくれてて。酒解禁デーなんでしゅよねえ」。
「……子どもいるの?」ナギちゃんが言った。
「はい。ひとり。これがまたか~わい~んすよもうひとりぐらい欲しいぐらいか~わい~んす」

わたしとナギちゃんはばちっと目を合わせた。誰もいなかったらここでこの冒険は終わっていたのに――脇田に『奇形児リスクを煽れば儲かります』って演説させたところでわたしたちがこのまま売れない資本主義の『敗者』として終わるかどうかってことと何も関係ないのに、でもわたしたちは脇田が本気でイカレてて、今の自分たちが『合ってる』って、『そのままでいい』って、100%自分で信じきれなかった。そのぐらい脇田の百三十二億って数字はわたしたちを怯えさせた。無言で正当性を主張してくるような額だった。だってわたしたちの、身を削って作り出した才能は一切お金になっていないから。だから脇田が一番妊活サプリを売りたいであろうこういう女性や脇田が一番概要を聞かせたくないであろう子どもに対する演説をSNSで流して、脇田が彼女やごく普通の一般人にボロカスに非難されなければならなかった。脇田はちゃんと間違ってるって。こいつは汚いことをしてるんだと、わたしたち以外の証人が必要だった。わたしたちがこれからも金にならない小説や役者を続けるために、その証明がどうしても必要だった。女は最近飲み屋でナギちゃんと知り合った、ハルミという二十八才だった。

 

 

「いい家じゃないですか!」わたしは脇田を引きずりながら家の前で叫んだ。二十代後半で東京で、世田谷で、マイホームか、と。わたしは自分のこんな未来を想像すらできなかった。
「旦那んちが金もってんすよお」ハルミは我々の舎弟のごとき口調で言った。酔っ払って金銭感覚が崩壊してるのか、金に困ってないからか、さっきファミマで酒を買い占めて七千円ぐらいしたのにあっさりとハルミはそれを払った。
「だからなんか今日旦那仕事やめてきたっぽいんす。ちょっとリタイアだって。気楽でいいなあ」
「そんなに金あるってことはハルミちゃん、専業主婦?」ナギちゃんが聞いた。
「アタシ? アタシはそうっすよお。子ども見るの大変で」ハルミは鍵をがちゃがちゃやっては結局開けられずに、落としたり拾ったりという酔っ払い特有の行動をとっていて親しみが持てた。わたしはなんでこんな可愛らしいハルミにこの役が当たってしまったんだろうって――。
「会社辞めたんなら家のことやんのほんと大変だし、次産むならもう全部旦那にやってもらうかなーっとかいいつつ、やっちゃうんでしょうけどねえ……」磨き上げられた廊下はとても長いように思えた。
「さてさて、もう子どもと旦那は寝てるんでそーっと行きましょ」

わたしたちを客観的に見ても、これから監禁なんかする人間だと誰も思わないだろう。居酒屋からの道中も、ハルミとナギちゃんの後ろでわたしにさんざんナイフでどやされたり意識を戻すために水をぶっかけられたりした脇田は陰惨な顔つきで玄関にしゃがみこみ、ドクターマーチンのブーツを脱いでいた。ナギちゃんはわたしの耳元でナイフ、と言った。一本しかないから、あの子叫びそうだしこれはあの子と子どもに使う。酒準備する時に台所のナイフ取って演説始まったらそれで脇田をよろしく。すぐ子どもも連れてきて。で、今ユキちゃんがナイフ持ってないってこと絶対脇田にバレないようにね。あいつ逃げるタイミングずっと探してるから。きわめて冷静に、ナギちゃんは言った。

 

 

「えっ、麻薬村で? しかも女優に作家に広告王ぉ? 憧れます」

リビングは広く快適であった。素人が見たってソファも高価なものだってわかるぐらい。そしてハルミ家は、自分たちの生活のすみずみを愛し穏やかに暮らしていた。例えば台所の濡れ雑巾ひとつとっても、それは普通のタオル生地ではなく選び抜かれた紺のガーゼだった。わたしは嫉妬にかられながらコンビニの袋をまさぐって、台所の包丁を取って背中に隠し、急いでコップを準備してソファに戻った。

ハルミは、「やっぱサッポロ黒ラベルっすよねえ」としみじみ言いながら缶を開けた。またそこがよかった。『クラフトビール』とか言わないところが。ハルミの左に座ったナギちゃんは白ワイン、その向かいのわたしと脇田はウイスキーを飲んだ。
「でも女優ってったってさぁ。塗装のバイトやりながらだよ。全然すごくないよ」いつものナギちゃんが戻ってきた。わたしは嬉しくなる。だから、
「わたしも聞こえいいだけですよ、短編のほかにもリスカのレタッチとかもやりますし。というかレタッチの方が八割ですよ」と言った。
「リスカのレタッチ……? ヤバ。やっぱ屋台のイカ焼きみたいになってんすか?」
「完全イカ焼きですね」
「ひー。やっぱそーなんだ。ひゃー。毎日イカ焼きはキツいなあ……あ、それでそれでさっき寝てらっしゃったからはじめましての脇田さんは、どういう広告を作ってるんですか? もっとハッピーなやつですか? テレビのCMとか?」ハルミは無邪気に言った。

冷酷なまでの静けさ。

続いた。

ナギちゃんは立ち上がった。早い、と思ったけどタイミングは確かに今しかなかった。そして、
「友達だったし、ずっとそうでいたかった」とナギちゃんはハルミに向かって言った。
「ナギさん、どうし……」ナギちゃん、今ならまだやめられる……。

ナギちゃんはハルミの口を塞いで、背中にまっすぐ差し込んで隠しておいたナイフを首筋に突き立てた。ナギちゃんは本気だし、これは嘘偽りのない本当に起きていることだった。
ハルミはこめかみに脂汗を浮かべばたばたと暴れた。
「ユキちゃん、子ども。多分奥の寝室でしょ」
「うん」

わたしのスマホから着信音が鳴っていた。
「何ぼさっとしてんの!! 子ども! ユキ!」
「うん」

わたしのスマホから着信音が鳴っていた。
「早く、ユキちゃん!! 何してんの早く子ども持ってきてよ脇田おかしいよね? こんなん間違ってるよね? それ、ちゃんと皆に向かって証明しなきゃでしょ? あたしたちは合ってるって。じゃなきゃもう……ねえ!!」ナギちゃんはこれまで見たことない形相で、もう焦燥しきって、小さい額の上に太いヒルが這ったような筋が何かの刻印みたいに浮き上がってた――

わたしのスマホから着信音が鳴っていた。
「ユキィィ!!」それは、悲鳴だった。
「……もしもし」ナギちゃんはわたしを詰まった目で見た。
「ふざけんじゃねえなんで仕事こねんだよ死ねファック! ジャック!」ブチッ。

また着信音が鳴った。ナギちゃんはふるふると首を振ってた。でも――絶対に出なければいけないと思った。
「あのやっぱこの前のがまずかったですかねパワハラ……いやでもあれは……? クソ死ねファック!」

ぶちっ

ひといき――そして……ナギちゃんはふへへ、と笑った。
「……職場の丁寧な人、全然丁寧じゃなくない? ねえ、ユキちゃん」

それからナギちゃんは包丁を床に放って、ハルミを解放した。そして頭を抱えて涙をだらだら流した。

脇田はトイレに立った。ハルミとナギちゃんとわたしは無言で飲み始めた。ハルミは出て行けと言わなかった。それはわたしたちを触発するとだめだって思ったからだろう。ハルミはスマホに向かって何かを連打してた。それをぼんやり見ながら、わたしはもうだめだ捕まるなって思った。でも同時に、別にそれでもいいやと思った。ナギちゃんと一緒にいられるなら。朝焼けがやってきた。飲み続けた。三、四才の餅のような子どもが寝室からたどたどしい足取りでやってきた。
「……抱っこしてもいいですか?」わたしは聞いた。
「いいですよ」とハルミが言った。
「庭、出てもいい?」ナギちゃんが聞いた。
「いいですよ」とハルミが言った。

 

 

燃えたぎるような橙の朝焼けが屋根の隙間から上がってきた。

ナギちゃんは、
「名前なんていうの?」と子どもに聞いた。
「っちぇえっ」
「くしゃみかな?」ナギちゃんが言った。
「わかんない。でもほんと名前なんてどうでもいいけどさあ、」とわたしは続ける。わたしはナギちゃんがあんな形で否定されない世の中になってくれって本気で願った――どうか、どうかナギちゃんが希望を持てる世の中になってくれ、だから絶対にわたしの脚本でもう一度ベルリンに行ってもらう。きれいなドレスでレッドカーペッドを歩いてもらうんだ。
「新しい年号になったらまたなんか変わると思わない?」そう言うと、

ナギちゃんは泣きたくなるような満開の笑顔で、今これが大きなスクリーンに映し出されたら、過去最高に無垢な顔で、少し紫がかった唇から見える、がたついてるからいつもは隠してる歯を今は剥いて笑い、硬い能面みたいな顔で真剣な話してるナギちゃんじゃなくて、あれなんでナギちゃんはわたしと、子どもを抱いて他人んちの庭にいるんだろう?

寝ぼけながら起きてきた旦那が庭のわたしたちを見た。それで、
「え?」と言った。

それを見た瞬間ナギちゃんが子どもを持ったわたしの背中からナイフを抜きそしてそれをわたしのこめかみに押しつけた。
「ナギちゃ……」
「このまま行って。子ども、渡して、早く」
「は? 何言ってんの!? 嫌だよ、ナギちゃん、なんで……」
「いいから、ユキ!!」

ナギちゃんは片手でわたしの腕の中の子どもを取ろうとしたけどどうしても嫌でガチガチに腕の力を強めてたら舌打ちしたナギちゃんに背中をドンと押されて、子どもを落としそうになったところを混乱しきったハルミが青ざめた顔で走ってきて奪い返した。するとナギちゃんは「ああもう!!」と叫んですぐさまハルミと子どもを後ろから抱えて今度はハルミのこめかみにナイフを突き立て――ナギちゃんの目は血走り――わたしの横腹を思いきり蹴り飛ばした。
「ユキ!! 早く行けってば!!」

転げ落ちるように……

わたしは泣きながら走っていた。

わたしは、無意識のまま、ナギちゃんたったひとり残して……走っていた。途中で自分の頭を何度も何度も、殴りながら、走っていた。走ることしか……

 

 

それが、ナギちゃんと会った最後だった。

 

 

そして令和になった。

わたしとナギちゃんはあの夜、ハルミの家にただ監禁しにいっただけなのか? 脇田が間違ってるんだって、その証人を、ハルミとその子どもという「弱者」を立ててまで証明するはずじゃなかったのか? それをネット中継して脇田を社会的に潰そうと、そこまで思っていたはずじゃないのか? 面会に行きたくても行けなかった。行けるわけなかった。なんであの時逃げてきたのか、ナギちゃんをひとりぽっちにしたのか――頑なに嫌だって叫び続けることだってできたのに? その負い目がわたしを切り裂いて、でも……かろうじてナギちゃんとわたしを繋ぐ最後の糸が映画だった。だからわたしは逃げてきたその足で始発に乗って宗田マイク写真研究所に行って、――繁忙期だから写真研究所は開いてた――もう発狂寸前で、土下座して本当に仕事休んですみません、なんとかギリギリの生活でいいからとにかく脚本を書ける環境にしなきゃいけないんですと力説して戻してもらえるよう懇願した。官能小説もせめて宗田マイクに褒めてもらいたいと思った。わたしがいきなり抜けて、膨大な業務量で疲れきった様子の宗田マイクは一切わたしを咎めずにまたお願いします、とだけ言って淡々と仕事をふってくれた。宗田マイクのデスク下のゴミ箱には大量のエナジードリンクと酒の空き缶が捨てられていた。

だけど……夜中血眼で書いたナギちゃんの映画脚本は、結果的に、これは傑作だと激推ししてくれた監督がそこそこ邦画界では有名だったにも関わらず全く制作費が集まらずぽしゃった。傷口に塩を塗るようなことを加えると、と打ち合わせに参加したスポンサー会社のひとは言った。一番の理由は……そもそもこの女優さん今捕まってますよね? しかもベルリンで賞を獲ったのも十三年前ですし、時代遅れもいいところというか。まあ今は捕まってるぐらいの方が話題になるかもしれませんけど、だとしてもこのひと最近は端役でしか映画に出てませんよね? あなたも全くの無名ですから。せめてあなたが文芸でもエンタメでも、何某かの新人賞を獲っていたらまた話は変わっていたのかもしれませんけど。

 

 

本人の――隠れていかついの撮ってるほうがラスボスっぽくて格好良くないですか? という希望とは裏腹に、宗田マイクはなんとサブカル誌で取り上げられはじめ阿佐ヶ谷ロフトAでイベントをやろうもんなら宗田マイクに撮ってほしい女優やファンやらがぞろぞろやってきてまさかの立ち見状態でさすがに写真集の依頼が来た時にはさすがに本人も笑いを隠せないみたいで次は下北沢B&Bなのか!? 状態だったけど、わたしはなんで宗田マイクが売れてくのかわかっていた。でも、今年の六月に父親が倒れて、宗田マイクはあっさり実家に帰って電気屋を継ぐことにした。

ばさあああああと降りたブラインドが上がった。ついに。
「片付けしてる時にあれですけど、」
「はい」宗田マイクは淡々と撮影器具をダンボールに詰めていた。三秒に一回眩しいのか目をしょぼしょぼやっていた。マジで老人みたいだった。
「……なんで辞めちゃうんですか? 今、波が来てるじゃないですか。宗田マイクの波」
「波、」宗田マイクはふ、とやわく笑った。
「……ボクにはそれこそ中田さんみたいな何がなんでもみたいな情熱がなかったってことなんですかね。それこそ中田さんが前言ってた企画の話ですけど、自分が魂込めた大事な大事な企画にそんなこと言われたらボクふつーに相手をはっ倒しちゃうと思うんで。自主制作でやるわ! って言わなかっただけ、その場でブチギレなかっただけ、中田さんはボクより全然大人だったと思います。それにボクはずっと緊縛の第一線で、みたいなことにも興味がなかったし、流行りなんか変わっていくじゃないですか。多分ボクの撮り方も一年後には忘れさられてるでしょうし、今のボクのポジションには新しい『新進気鋭』の緊縛のひと? が入ってるでしょうし。じゃあボクは流行りに乗せて撮り方を変えられるのかって言われたらそんな器用でもないでしょうし、ただ好きでやってただけなんで」

ブチぎれなかった、じゃなくて、ブチぎれることができなかった。何も言い返せなかっただけだった。相手の言い分を聞いて、ただ会議室の硬い壁をじっと見て黙ってるしか。そうだよな誰がこんな無名のガキ使うんだ、これが現実なんだってうなだれてるしか……
「また撮りたいなあと思ったら別にどこでも撮れるじゃないですか。今はSNSとかもあるし、高いカメラじゃなくても、スマホのカメラでも」

わたしは目の前の、まみぴょんが吊るされてる写真をじっくり見た。いろんな写真家がまみぴょんを撮ったのを見たけど、宗田マイクが一番、まみぴょんのことをわかってた。
「一枚もらっていいですか?」

宗田マイクは表情を変えずに驚きながら、いいですよ、と言った。
「僕にはもう必要ないものなんで」

そしてまた宗田マイクは詰め作業に戻った。

それから二分と持たなかった。黙って作業するのに発狂しそうになったわたしはここぞとばかりに宗田マイクにどうでもいい質問をたくさんした。好きなアイスクリームの味とか、実は大学の時とかにバザンを読んでいたのかとか。ちなみに一ページ目で挫折したとのことだった。
「実家、どこなんですか?」
「長野です」
「えっ」へんな声が出た。
「長野のどこですか」
「なんで中田さんそんな長野に食いつくんですか」宗田マイクは今度はいよいよ驚き、いや絶対わかんないから言いたくないです……ド田舎なんで、とつけたした。
「手切れ金の代わりにどうかお願いします」
いやいや……と書類をシュレッダーにかけ、それに合わさるようにうまく隠したいのか、そこまで言いたくないのか、
「伊那市……」と言った。
「伊那ぁぁ」
それはあの時の夜中、ナビに表示されていた。
「えっなんで」
「伊那のどこですか?」
「宮田村……」
「みやだ……!」

それはあの時道路標識に出ていた。とても近所だった。とっても近所すぎた。

宗田マイクは本当に面白いひとだった。

 

 

宗田マイクはこちら都合で閉めるのでわずかですが、と言ってちゃんとお金をくれたけどわたしはまず職を探さなくちゃならなかった。とりあえずガールズヘブンで『検討中に追加』してた渋谷のオナクラの面接に行って、受かった。でも、オプションの生フェラも乳首舐めも出来なくて、そんなやつにもちろん指名なぞつくわけもなくて、『ぽっぷん』や『さわくん。』のためにオナクラなんかしょっぱい枠を超えて――オナクラは休憩みたいなもん。と言ってたまりあちゃんにわたしはハナから根性で負けてた――そんな、日本全国出稼ぎで飛び回って三日後に死ぬ気で百万作ってくる嬢に勝てるわけもなく、一日一本も仕事がなく一日出たら絶対貰える二千円が七日連続続いたわたしは自分を、もう、ほとほと自分を見限って、死のうかなみたいな感じになってきた時、転職サイトに載ってた求人に目がいった。ネット広告だった。

そしてわたしは脇田よりつまんないやつがやってる会社の『ライター』として働き始めた。初任給二十五万で、三ヶ月目で三十五万になった。

実際、わたしは広告業界にいるどの詐欺師たちよりも上手にデブを痩せさせたし、肌のシミを消す記事を書いた。毎日毎日。エフェドリンをぶちこみながら。バカみたいな数字が出て、売り上げ表に信じられない金額が毎日積み上がっていった。そんで、その売り上げの数字を見てやっぱなんだかんだ言って『痩せてなきゃいけない』んだって、自分の広告に自分が洗脳されて、拒食症が再発した。

ナギちゃん、ナギちゃんがもし刑期を終えて今どっかで元気にしてたとしても……会いたくても、わたしはナギちゃんにちゃんと会えない。ナギちゃんの目を見てしっかりナギちゃんに自分の仕事を言えない。わたしは脇田と同じになった。社会の害悪でしかなかった。

脇田の言ってたように新宿では落ち着いた人たちが淡々と真面目に詐欺をしてる。『偏差値四十のバカを釣って打つ』ってやつを。それで月末の会議で、来月はマストで利益一億目指しましょうとか明るく社長が言うんだ。理性0でさ。多分脇田は浮きすぎたんだと思う、社会にやられすぎたんだと思う、だからあそこにいたんだと思う。実際、子どもができるって暗示するような葉酸サプリの記事や商品はあった。でも脇田がやろうとしてたような、奇形児や障害児リスクを煽りに煽ったものは、なかった。今思うと、それはわかりやすいホラーだったなって思う。仮にそれを書いても、あんまり売れなかったと思う。だって、売れてるならそういう記事をよく見るだろうし、わたしもやってただろうから。現実は、もっと地味なホラーだった。

とにかくわたしはどんな商品でも手を変え品を変えばかすか売りまくった。あまりにも記事がうまいというんで他社から記事を貸してくれと何回も頼まれた。フェイク広告の記事を。それで昇進して絶対に痩せないダイエットサプリの企画段階から関わるようになって、記事だけじゃなく遷移先の公式ホームページを書くようになった。そんであの時脇田がナギちゃんに聞いたように――「そのひと、一日いくらですか?」って聞いたんだ――業者から紹介されるキャスティングの候補は大抵売れない役者ばかりだった、喫煙所で宗田マイクの写真を見ながら、歯食いしばって――今だけ、今だけ、這い上がる、絶対にと思いながら。最初は、やっぱりこんなのって泣いたよ。間違ってる。間違ってるこんなことは。でも今は――もう、涙すら出ない。

2019年12月23日公開

© 2019 牧野楠葉

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