20min.

牧野楠葉

小説

10,098文字

昔道玄坂を取材したときに書いた物を改稿しました。

 埃くさく狭苦しい雑居ビルの一室から、こんな場所にはとてもふさわしくない、瑞々しく若い女たちがぞろぞろと出てくる。
 どれも一瞬で今が旬だとわかる熟れ具合の女たち——花びらのようにちらりちらりと揺れるパステルイエローの短いスカートから、よく手入れされた、つやつやとして血色のよい生足を出しているもの。またあるものは、薄手の白いニットを着ており、ブラジャーに装飾された大きな黒い薔薇模様をまるで見せつけるかのように透けさせている。あきれるほど安い見かけ倒しの罠だ。しかしそれにまんまとはまり、さらに深くまなざすものは、次に、そのものの限りなく美しい胸の形に歓喜する。その光景はしばらく眼球に焼きついていることだろう。そして、もっと、もっと、と、そのものに手を伸ばそうとする。こんなふうに欲望が金に変わるのは一瞬だ。
 だが実のところ、そんな女たちのどれもが、テレビや雑誌に出てくる女たちのひどいレプリカ、または劣化コピーにすぎない。
 そのレプリカの一人であるマヒル――この店の彼女の源氏名だ――踵におおぶりの赤いハートが描かれた白いミュールを靴箱から取り出し、すでに目の前のエレベーターに乗り込んでいる女たちに後れをとるまいと急いで足を突き入れる。
 ひどいレプリカとはいえども、皆、洒落た靴を履いていた。狭い玄関には所狭しと女たちの靴が並べられているからいやでも目に入る。蛇革のもの。羊革の、青と豹柄の配色がモードなヒール。爪先に黒い大きな花の飾りがついたもの、高いヒールによって底上げされた踵に、ビジューがたっぷりデコレートされたバックリボンの印象的なサテン生地のヒール。真っ青な布地、甲を覆うスタッズがハードで個性的なもの。フェニミンなレースで編み上げた白いブーツ。足の甲を宝石がついたクロスベルトが覆う、華奢なシルバーのヒール。
 つむじから足の先までが商品なのだ。
「マヒルちゃん、部屋入ったらインコールよろしくね。皆、新人さんばっかりだから」
 エレベーターの女たちに向かって手をふりながら、店員の一人であるアフロがマヒルのかがんだ背中に声をかけた。着古されただるだるの白いTシャツには「You bitch」と書かれており、マヒルは真顔で蹴り飛ばしたい気持ちになったが、シャブのせいで瞳孔が開ききったアフロを見て、急に哀れを感じ、
「はい、コールします」と優しい声色でいった。
 アフロの腰に背の低い、小学生のような童顔の女がか細い腕を回し、ひっそりと笑みを浮かべる。
 床には、その女の下着を覗き込もうと寝そべっている別の女がいる。
 二人はじゃれあっている。
「マヒルちゃんのコート、ピンクだ。いつもと違う。可愛いね」
 童顔の女が気の抜けた高い声で、歌うようにいった。ぴちちち。とマヒルには聞こえた。痴呆の小鳥がさえずっているかのようだ。
 マヒルは、思いっきり唇を奥に引いて、華やかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、リリちゃん」腕にそんなズタズタな傷があるから指名とれないんだよ。
 そして、エレベーターへ歩いていく。
 この風俗店に入って、もう二ヶ月になる。
 ここはいわゆる、オナクラというやつらしかった。わたしたちは触らず、舐めず、脱がずに、一方的に自慰をする客を見つめる。こういうのを視姦、というらしいが、誰もそんな思いをもってやっていない。ただ、見つめているだけだ。具体的な作業が少ないのだから、給料だって、ほかの風俗なんかに比べるともちろん安い。下着姿やコスプレや乳首舐めといったオプションを自分から営業して稼いでやろうなんてガッツがあったら、こんな場所にはいないはずだ。知っていますか? これを読んでいる皆さん。こんなものだってもちろんれっきとした仕事なんです。だけど、単純作業だから、何も考えずに手を抜こうと思えばいくらでも上っ面で誤摩化せるんです。というか、誤摩化すしかないんですよ。
 入ってみてわかる。ここは、風俗店というより、小さな憩いの場なのだ。社会でどこにも行き場所がない女たちの、最後のセーフティネット。素股や本番をするソープ嬢になる勇気もない。ゴムなしのフェラチオなんてまっぴらごめんだからピンサロも嫌だ。そんな、わがままで何の力もない、中途半端な容姿だけがあるだけの女たち。飲食店で汗水たらすのだって面倒くさい。現実には破れたけれど、そこで立ち上がる元気がない。まだ、ふわふわさせてほしい、という、最後の甘えた女たち。
 たとえその日、一人も客をとれなかったとしてももらえる二千円のために、わたしたちはここへやってくるのだ。
 そんなふうに、自分の「軽さ」をみんながわかりきっている場所だからこそ、誰もが抱えているであろうさまざまな思いをひたすらに隠す。わたしたちはまるで、柔らかなフェルトを撫でるようにお互いを慰めあい、言葉を交わす。
 エレベーターはマヒルが入りこんだと同時にがちゃりと閉まった。そしてガウンガウンという不穏な音と共にゆっくりと降下していった。それからはもう女たちの、むせかえるほどの香水の匂いや、煙草の匂いしかわからなくなる。
 マヒルは冷えた指で自分の睫毛を撫でる。そして今日はつけ睫毛をつけ忘れたことに気づく。やる気などはじめからないのだ。

 夜八時。ストッキングが突き破られるかのような厳しい冬の風が吹き荒れていた。夕方雨が降ったので足もとが余計に寒い。マヒルは女たちの先頭に立って、待機所のある雑居ビルを出ていった。女たちは、目の前の、猥雑な音を噴き出させている楽園、と表記されたパチンコ店をまっすぐ超えていく。すると、赤提灯がぶらさがったいくつもの居酒屋にまぎれて、少しずつ風俗案内所やヘルス店がちらほらと姿を表してくるのだ。そのどれもが、陳腐さをきわめたけばけばしい看板を掲げている。雨の雫で濡れたそれはさらに卑しく輝き、ほら、弱った馬鹿な蛾が何人もするすると呼び込まれていくのが見える。マヒルたちはその道の途中にある煙草屋の角を右に曲がり、坂をのぼっていく。
 道玄坂というのは、まことに不思議な引力を持った場所だ。ただの坂だというのに、ここで夜働こうと決意して歩き始めた瞬間、道玄坂は彼女たちにとって特別な場所になる。たとえ昼間、いかに有能な仕事をしていようと、あるいはOLとして有楽町で働いていようと、いまいが――彼女たちの人生のすべて、家賃が恐ろしく高いのに閉塞感しかない狭苦しい賃貸アパート、自宅から徒歩三分のコンビニエンスストア、行けば本名を呼んで承認してくれるある種の共同体めいた飲み屋、もっともっと、挙げればきりがない、それらが、てのひらからぼろぼろと零れ落ちていく。ようやく彼女たちが獲得しつつあった、豊かさに繋がるであろう人生の複雑性や機微は、道玄坂という一つの単純な価値にいともたやすく取って代わられる。なぜならば、極端に自己評価が低く、そして実際に「軽い」彼女たちの存在を、道玄坂はこれ以上なく雄弁に語ってくれるイデオロギーであり劇場であるからだ。
 やさしい惨劇じみた自分の人生を、本当の惨劇で隠してくれる場所。
 彼女たちはもう、自らの中に第三の目を持っている。あらゆる事象にたいして、誰がそんなことを教えたんだ、と言わんばかりの恐ろしい白けた眼差しを美しいレプリカのフォルムの中に隠して、自分や皆々の堕落にたいしてやさしい微笑を向ける。

 月に分厚い灰色の雲が被さっている。この天候では、あの煙草臭い部屋で何時間待機していたって、たいした収入も望めないだろう。しかも月曜日か。会社員的に考えても、こんな極寒の日にわざわざ自慰を見せにくる客の思考をマヒルは理解できない。いや、マゾヒストだからこそやってくるのかもしれないけれど。
 女たちの馬鹿笑いとヒールの音がそこらじゅうで響いている。ほんのちょっと歩いているうちに気づけばもう、大都会渋谷から追いやられたものしか視界に入ってこない。怪物じみた化粧を施す風俗嬢たちが、派手なファーを巻いて、コンビニの前で煙草を吸っている。もうこの通りを何度行き来しただろう。目指すは、道玄坂の中心。いくつものアダルトショップが立ち並ぶ一角にあるレンタルルームだ。
「マヒルさんって、六人コース入ったことあります?」
 声をかけてきたのは、あの雑居ビルの隣の部屋で経営されている系列店のソープ嬢だ。
 ソープ嬢とオナクラ嬢の違いは一瞬でわかる。なぜならオナクラ嬢はいつも清楚な人形じみた服装をしなければならないからだ。
 女の、その目尻まで引かれた黒々しいアイライナー。気の強さと弱い自我が同時に滲み出ている。そして睫毛はマスカラで黒々と塗り重ねられていた。化粧直しをしていないのか、目の下にそのマスカラの黒い粉が落ちて、女の印象をかなり病的にさせている。おまけに尻がパンパンで、白のミニスカートがはち切れそうになっている感じがいかにも見苦しい。顔と足は、飲み過ぎなのかむくれていて、女はいかにも、道玄坂の安い風俗嬢、という感じだった。
 こんな平日の月曜日で、女が六人もいないから、急遽隣の店からかり出されたのだろう。
 染め直していないので耳の部分まで、黒い地毛が覆っている。
 毛先の金髪には全く潤いがない。
「入ったことありますよ。六人コース、今キャンペーンだから。意外と」
 六人でってどんな感じなんですかね、と女は興奮ぎみに大きく目を見開きながら、
「今から入る客、あのソープにも来るんですよ。変なこと要求してくるから、超怖くて」と、その文言とは裏腹になぜか楽しげに話を続けた。まるでこんな合間の些細な会話にでさえも、女は飢えているように思えた。新鮮なウォーターサーバーの冷たい水を一気飲みした後かのように女の目に光が宿ったのがわかった。しかし怖くて、とは。こんなにがさつで、何であっても張り倒せそうな女が。
「変なことって」
「ゲームをするんですよ。時間内に」
「ゲーム。何のですか?」
「詳しくは、その人から説明あると思いますけど」女は心の底から疲れ果てている。
 正面から向かってきた車のライトが女の隈の灰色を映し出す。
「皆で罵倒しあって、お互いをベッドから蹴落とし合って、そいつの性器まで最終的に辿り着けた女が勝ちです」
 女は煙草のヤニで黄ばんだ歯を見せ、崩れるように笑った。なにそれって感じでしょう、ばからしいでしょう? それは悲劇を通り越した後の笑いだった。いじいじして、つまらないけど、実に爽やかだ。ある種の修羅場が滲み出たような。
「モカさん、元気ですか」
「あれ。マヒルさん、モカさんと関わりあったんですね。多分元気です。まだナンバーワンキープしてます、きれいだし、優しいからなあ」
「……そうですか」

 絶望とはこのことだ。幅の狭い、えらく急な階段を登って、二階の受付を目指す。階段の途中、右脇には、さまざまなオブジェが飾られた赤枠の棚があり、一番下のスペースには飴玉が盛られたガラスの陶器が置かれている。マヒルはそれを乱雑にひとつかみして、コートのポケットに詰め込む。いつも、しまいにはポケットの中がこのレンタルルーム「レッド」の飴玉のカスだらけになってしまう。
「おお、マヒルちゃん」
 二階には、名前は知らないが何百回と顔を会わせた初老の男性が木製の椅子に座って帳面を開いている。薄茶色の壁脇に、頼りない小さな電球がぶら下がっているだけだから辺りは当然仄暗い。
 眼鏡を少し下にずらして、突き詰めるような目で、この初老の男性はいつもマヒルたち風俗嬢を見る。決して責めているわけでもない。貶めているわけでもない。ただ、純粋な興味がある、といった眼差しで。
「二〇六号室ね」
 マヒルは軽く会釈して、二〇六号に歩いていった。この部屋は、マヒルの店が契約しているものだ。レッドに来るときはいつもこの部屋だから、もう見慣れたものだった。倦怠。二階の、一番奥の部屋。
 二〇五号から絶叫が響いてきた。女の声だ。喉を焦がすようなそのあまりの声量に、マヒルたちは、串刺しにされた女が歯を剥いて叫んでいるデッサン画が吊られた赤い壁の前で、しばらく呆然と立ち尽くした。その後、すすり上げるような女の泣き声が、廊下中に響き渡った。
 ポケットの中の携帯が震えた。
「……もしもし」
「レッド、着いた? 二〇六号、オカモトさまね。二十分、バナナコース。お願いしまーす」
 マヒルは二〇六号をノックした。
 わたしたちの日常。

 玄関の大理石の上には、先の尖った大きな黒い革靴がきちんと並べられている。
 人が異様な空気を感じ取ったとき、肌がざわめきたつものだが、その身体的な反応すらも追いつかなかった。マヒルたち六人の女は、赤い防音のクッション生地に囲まれた部屋の中のベッドにいる男を見て、何故だか無反応に、固まってしまったのだった。いつもならば、安くて軽い愛想を振りまくはずが。
 女たちの視線の先には、下半身にタオルを巻いた男が、ベッドに座り真っ白い歯を見せて笑っていた。
 透き通った鼻筋や華奢な顔立ちから、ほのかな知性が香っていた。マヒルには、その頬の表面が固く引きつっているように見えたが。露になった上半身にはよく店来る客たちのようにでっぷりとした贅肉はなく、むしろ適正にコントロールされた食生活と運動によって引き締まっているように思えた。その理性や知性のみかけが、マヒルを一瞬怯えさせたが、男のその右手は女たちに向かって過剰なほど左右に振られており、どうやら、多くの客が見せるような照れも、恥ずかしさも、女を金で買ってるんだからというわかりやすい粗雑さも、この男にはないようだった。
「ほらあ、ほらあ。早く、靴脱いで、さっ。こっちおいでよお」
 声変わりをしなかったのだろうか、と思うほどの高い声だ。
「時間がもったいないからさあ。早く遊ぼうよお」
 マヒルの肩の後ろから、女たちのクスクスと困ったような愛想笑いが聞こえてきた。ひよわなナルシスたちの戯れ。状況に媚びる分裂症的器用さを示す、ある意味で寒気を催す振る舞い。
 しかしどうやら、表向きは純粋に歓迎されているらしかった。先ほど感じた違和感は一体何だったんだろうか? マヒルは後ろを振り向いて、女たちにドアを閉めて靴を脱ぐように合図をした。
「おじゃまします、待ちました?」
「ゼーンゼン。ちょっとシャワーあびるのに良い時間だった。うん」
 女たちは下手な笑みを浮かべながらぞろぞろとベッドのまわりへと移動し、しゃがみこんだ。
「あ、カナちゃーん。久しぶりぃ!」
 男は、先ほどマヒルに話しかけてきたソープ嬢に向かって叫んだ。
「えーぼく嬉しい! わかってるひとがいるのいないのとでは違うからさあ」
「……そうですよね」
 女は確かに、男から少し距離を取っているように見えた。その気配が明らかに感じ取れたので、早く始めてしまおうとマヒルは店から支給されているノーブランドの茶色い革鞄をまさぐった。そこには性の四次元ポケットといわんばかりのさまざまなアイテムが入っている——まず、後から名前を書くタイプの名刺、ボールペン……そして、アナル攻めに使うビニール状の簡易指サック、さらに、いざというときのコンドーム。人差し指の先ほどしかない小さな電子マッサージ機、百円均一にある、油などの調味料を入れる五百ミリボトルの中に並々次がれたローション、そしてタイマー。
「それではお時間セットさせていただきます。お着替えがあるので二十分の五分前、十五分でスタート押しますね」
 しかしベッドの枕元にタイマーを置こうと手を伸ばしたマヒルは、男に腕をつかまれた。
「ぼくは終わった後シャワーを浴びるから、いつも先に女の子に帰ってもらうようにしてる。一緒に着替えてここを出るわけじゃないから、着替え分の五分、引かなくていい。二十分で設定して」
 男の声は先ほどと打って変わって低い。
 冷たい鈍器に殴られたようになってしばらくマヒルの脳味噌の回転が止まった。綿をぎちぎちに敷き詰められた肺は当然のごとく詰まっている。だから熱が含まれた息で、短い間隔で、呼吸をするほかなかったのだ。
 マヒルは、内線電話が置かれ、照明の調節ボタンなどが埋め込まれた大理石の上に自分でさえも名を知っている高級時計が煌めいているのを見た。危険を感じた。

「そしたらルールを説明するね。よく聞いて。今から、簡単なゲームをしようと思います」
 甲高い声に戻った男は言う。
「ほら、みんなベッドの上に乗って乗って」
 女たちはそれぞれ顔を見合わせ、やや口角をあげながらベッドの上に這い上がっていく。
「あ、その前に。下着姿はオプション料金かかっちゃうから、下だけ脱いで。パンツだけ見せて。上は着てていいから」
 マヒルは反対の声をあげようとした。しかし、ここには掟も何もない。さらにマヒルにだって、ここにいる女たちを強制する力などありはしない。わかっていてこの男は言っているのだ。ご覧、女たちは無表情で、無抵抗でスカートを脱いでいく。
「みんなのパンツ可愛い」と男は少年のような素朴な感想を述べたあと、
「これからぼくのおちんちんを奪い合ってもらいます」とサイコパスのようなことを言った。クスクス。クスクス。……
「あのね、本気で演技してもらわなきゃいけないんだけど。いいですか、みんなはライバルです。全員、ぼくのおちんちんが欲しくて欲しくてたまらない。だからこそ憎みあっている。その恨みをぶつけて、ひとりでもライバルを減らすためには手段を厭わない。例をカナちゃんに少しやってもらうね」
 男は指一本で自分の右隣にへたりこんでいたカナを立ち上がらせた。
 数秒間、カナは無表情で突っ立った後、
「おめぇ、どけよ! 汚ねぇまんこしやがって。邪魔なんだよ。イカれ売女、タローさんのちんこはわたしのものだ」
 カナは隣に座っていた華奢なミルクの肩をどついた。ミルクはそのまま、あっけなくベッドから落ちた。
 カナの野太い声と目の前で行われている事態に一体誰がついていくことができただろう? カナはぜいぜいと荒い息をしてから、急いでミルクに向かってすいません、すいません、と謝りはするものの、唖然としていた女たちの目には不審がみなぎっていた。当たり前だ。男はミルクやカナを気遣いもせず、
「すごい、上手ぅ!」と呑気にパチパチ拍手をした。
「ぞくぞくしちゃう。ほら見て、ちんこ勃ってきたし……」膝のあたりまでボクサーパンツが下げられ、先走り液の滲んだタローの巨根がぼろんと露わになった。
 違和感。個室に籠る異様な熱気。マヒルはタイマーを見た。後、残り十七分二六秒。不審な空気をぱんぱんに入れたこの風船は、誰かが針を刺し、そして弾け飛ぶだろう。

 

*

 

「モカちゃん、マヒルちゃん、出動。ホテルララ、四〇四号、田中さまで三十分、バナナコースね」
「はーい。四〇四号ってロフトあるところですよね? ラッキー」
 モカは可愛い。少し鼻の詰まったような愛嬌ある声を響かせ、マヒルを手招きした。栗色の長く透き通った髪からは石鹸の香りがする。
「二人でちゃっちゃと終わらせて、なんか食べにいっちゃお」
 モカは知らない。この優しさが、失職し社会からはじき出されたばかりのマヒルをどれだけ勇気づけたかを。
 秋の終わりだった。蒸した残暑がこびりついた夜の道玄坂を、ソープ嬢兼オナクラ嬢と見習いオナクラ嬢が歩いていく。慣れた足取りでホテルララを目指してずんずん歩きながら、モカは自分が昼間、美容室の受付をやっていることや、DV癖のある年上の彼氏のことを明るく話した。マヒルも以前働いていた証券会社について少し話した。
「三十分なんかちょちょいだから。しかも手コキだけでしょ? 楽チンだよ。ささっと抜いて何食べよう」
「道玄坂だったら、ラーメンとか」
「わたし今ダイエット中なんだけど、いっか。今日ぐらい! 行こうか」

 マヒルがいつも派遣される、息の詰まるような狭さのレンタルルームレッドとは打って変わって、ホテルララは南国テイストの装飾がなされた暖かな空間だった。ロビーには小さなテーブル席が一席あり、ウェルカムドリンクでシークァーサージュースを出してくれるほどだ。オナクラ嬢が夜な夜な視姦や手コキを繰り返す空間にはとても見えない。
「失礼しまあす」
 四〇四号の扉の向こうで、冷たい印象を与える銀縁眼鏡を光らせた男が二人を待ち受けていた。
「……可愛いね」
 実際モカは、風俗嬢という仕事を成り立たせている社会規範的な「女性性」というものを体現していた。
「え? オプションって今ここで言ってもできる?」
 男は二人を、特にモカを品定めして、そう言った。
「はい。大丈夫ですよ。コスチュームとかは持ってきてないので、それ以外なら」
「それじゃあ……黒レースのきみ……と、まあ二人とも全裸姿で。いくら?」
「一人三千円です」
「一人三千円か。じゃあやっぱり、きみだけ全裸で、そっちのきみは下着姿で。これでいくら?」
「二人合わせて四千円です」
 マヒルはモカと男のやりとりをうつむきながら聞いていた。自分の「女性性」に対する金のつかなさと、このはじき出された場所でさえも自分が役に立たないことをひしひしと感じた。
「マヒルちゃん、タイマーセットしてもらっていい?」
「はい」
 モカはワンピースを脱いだ。白いブラジャーに包まれた形のよい胸が露わになる。マヒルの下着セットは辛うじてピンクで統一されているからまだよかったものの、種類の違う、ちぐはぐなものだ。
 男もいそいそとズボンを下ろし、大きなベッドに横たわった。トランクスは少し濡れており、勃起していた。
「たぶん、すぐイッちゃうだろうなあ」
 モカの陰毛はきちんと鋏で整えられており、マヒルは自分に全裸オプションがつかなくて本当によかったと思った。
「おいで」
 モカは天使のように微笑み、その痩せすぎず太りすぎてもいない小柄な体を男へ明け渡した。

「ベロチューっていくら」マヒルには入る隙間がない。
「三千円です」
「あとで払う」
 涎の垂れ落ちる濃厚なキスを目の前にマヒルは男の太ももをさすることしかできなかった。いつもならばタイマーをセットする前に、五分前で設定するというアナウンスをしなければならない。しかし、マヒルはこの空気が壊れるかもしれないと思い、静かにスタートボタンを押した。三十分。

 男は立ち上がり、足の間にモカとマヒルを座らせた。どうやらそびえ立つ男根の下に群がる女を見下ろすのが好きらしい。ただしマヒルは、自分の役に立たなさゆえに自分の胸が乱暴に揉みしだかれていることに安堵すら感じていた。
「……生で、フェラってしてもらえるの」
 マヒルはローションを必要以上に手のひらに出して男の金玉にこすりつけながら、敗北にも近い気持ちを抱いていた。今男はちらりとマヒルを見てくれているのに、その行為を、マヒルは行うことができない。
「……すみません、わたしはちょっと……できません」
 男はもう何も答えず、すぐにモカを見た。どうせできないと思っていたに違いない……
「きみは」
「んー?」男は一歩も引くまい、とモカを刺すような目つきで見つめている。
「できる、生フェラ」
「……三千円だよ」
「払う」
 マヒルは見逃さなかった。モカの顔に翳りが起きたことを。この人には彼氏がいるのだ。すぐに手を出す男が。
 モカは大きく口を開いて、艶かしく桃色のグロスが引かれた唇で男根をくわえた。男は呻いた。マヒルは金玉をこすりつづけた。自分の腹を刺したい気持ちだった。

 帰りのエレベーターの中でマヒルは下着姿のオプションで発生した千円札をモカから手渡された。ガウンガウンと唸り、奈落の底に落ちていくようなエレベーターの中は張り詰めたような緊張感が漂っていた。モカの気丈さは消え失せていた。それは、マヒルが、無能だったからだった。風俗嬢になりさがっておきながら、魂を売ることすらできなかったからだ。マヒルはもう、何もない自分に何が売れるのかをわからなくなっていた。自分の態度は風俗嬢に対して失礼だとさえ思った。
「すみません。フェラできなくて」
 モカは疲れた顔で笑った。
「えー、大丈夫だよ」美しいソプラノだった。
「誰かがやんないといつまでも終わんないからさ」
 扉が開いた。ロビーに吹き込んできた残暑の生ぬるい風がモカのピンクのトレンチコートをはためかせた。二人は当然のようにどこにも寄らず待機所へ戻った。それは当然のことだった。有名なラーメン屋がいくつもある道玄坂のごったがえした商店街を歩きながら、マヒルは……。

 

*

 

「どけ! 死ね!」
 ピ、ピ、ピ、ピ、ピ……全てを切り裂くタイマーの音。ピ、ピ、ピ、ピ、ピ……。
 ベッドの上にはマヒルしかいなかった。女たちはベッドの下で崩れていた。
 タローの男根の先から忌々しい白い粘液がぴゅっと吹き出た。それはマヒルの太ももに飛び散った。マヒルは喉がちぎれるほど叫びたかった。頭を高価な腕時計が並べられた大理石に打ち付け、頭蓋骨を粉砕し、脳みそを溢れさせたかった。狂人になりたかった。ピ、ピ、ピ、ピ、ピ……
「わたしの居場所はどこにあるの?」
 虚構のなかの女たちもまた、あなたたちを見つめている。

2019年8月4日公開

© 2019 牧野楠葉

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