新代田のマシオ 第四話

新代田のマシオ(第4話)

牧野楠葉

小説

2,105文字

『新代田のマシオ』第四話。38才のマシオと、22才のハルコのパンチドランク・ラブ。

めくるめく地獄の幻覚を耐え抜いて、ガッチャン部屋(いわゆる、隔離病棟)から解放されたマシオさんはなんだか悟りを開ききった仙人のような荘厳な雰囲気をまとって登場するのかと思いきやなんも以前と変わらず、その深い彫りの顔をゆるく崩しヘラヘラしながら車椅子に乗ってやってきた。
「おぉ、ハルコぉ。わざわざ来てくれて。」

そうやって細い腕をあげて、低い声で呼びかけるマシオさんはさすがに以前より痩せていた。
「病院の服、似合う。」
「そう? ありがと。」
「うん。襟の、薄い緑の線がなんかいいね。」

看護師さんに、車椅子を押す役を変わってもらって、わたしたちは病室まで向かった。
「で、どうなの。なんか面白い幻覚は。あったなら聞かせてよ。」
「いや、幻覚はわりと、それがなんと普通だったんだよ。驚くべきことにさ。まあ体に虫が這うとか、よく聞くじゃん。だからまあそれは覚悟してたし、意外と平気だったな。でも幻覚じゃない、リアルな虫が、床に居たんだよ。でけーゴキブリが。」
「それも幻覚じゃないの。」とわたしは半ば呆れながら、病室の窓に目をやると、一面の紅葉がぶわりと広がっていて……
「まあね、オレはずっと思っていたんだけど、こういう元々あった土地に病院を作りましょうっていうのはニンゲンサマの勝手な都合でしょ。ゴキブリは元々そこに住んでんだから。だからゴキブリを殺すっていうのはどうかと思うわけ。だから床にいたゴキブリとその部屋をオレはシェアすることにしたのね。要するに、オレが寝てる間は、ゴキブリタイム。オレが活動してる時は、さよならゴキブリタイム。でも、やっぱり食い違いっていうのはあって、ゴキブリタイムの時に丁度オレが起きてた時があったのね。ゴソゴソしてんの。だからオレは言ったんだよ。もしもし、オレは起きてますよ、トントントン、って床を軽く叩いたらちゃんと隅に逃げてったから、だから共存できるよ。ゴキブリとオレ。」

紅葉の赤や黄や茶色の立派さが少し感傷的にさせたっていうのはあるけど、こんな話を饒舌に語るほど、マシオさんは本当に一切前と何も変わってなくて、わたしは泣きながら、
「でも、わたしは、うちにゴキブリが出たら容赦なく殺すから。」と言った。

 

*

 

少ししたら友達のカジさんとナッちゃんっていうカップルがお見舞いに来てくれた。二人は松本人志のすべらない話にいきなり放り込まれても全く違和感ないぐらいの恐るべし笑い話術の持ち主で、わたしたちは毎週のように下北沢へ飲みにいっていた。
「まあ、マシオさん。今回は、やらかしたね。」カジさんが汗でテカった顔をハンカチでふきながら笑みを見せた。
「ええ。はい。まあ。」マシオさんはニヤニヤしながら、
「すいません、なんか。」と言った。
「えー、でも病院にいるマシオさん、超似合うよ。元から住んでたみたい。なんかこういう映画のシーンありそうだよね。」とナッちゃんが言って、皆笑って、その場がふんわりと和んだ。そして、
「このタイミングでなんだけど、ご結婚おめでとうございます。」とカジさんがケーキを取り出した。

白いショートケーキの上には「マシオさんとハルコちゃんの末長い幸せを願って」と書かれたチョコレートのプレートと、ウェディングドレスとタキシード姿のウサギがキスしている砂糖菓子が乗っていて、それは本当にザな感じで、あ、ヤバい、とわたしは思って、案の定、
「……え?」とマシオさんはベッドからわたしを見上げた。
「どういうこと。ハルコ。」

カジさんとナッちゃんも顔を見合わせて、アレ? アレ? となっていて、
「あの、二人、結婚したんじゃなかったっけ。」とカジさんが焦った。
「……まあ、マシオさんがぶっ倒れた時に、ちょっと皆でお金の話でモメて。でも、そんなんじゃなくて、わたしは、あの、あなたと結婚したかったから、丁度いいかなって、こんな風に事後報告になっちゃったけど、」
「ここの病院代、じゃあ、ハルコが払ってんの。」
「そうだよ。だからゆっくり休んで。」
「払うために結婚したの。」
「それもあるけど、違うんだよ、本当にわたしは、」
「そんなことならオレ、腎臓でも売ったのに。」

お昼の放送が流れて、大部屋のテレビはニュースを映し出し、看護師さんがラックに乗った食事を運ぶ車輪の音がキャリキャリし始めて、色々な入院患者が往来する足音や話し声が聞こえてきて、
「こういうのは二人の問題だから。ナッちゃん、ぼくらは行こうか。」カジさんはわたしに目配せして、ナッちゃんを連れて病室を出て行った。すれ違う時のナッちゃんの首筋から香ってくる柑橘系の香水があまりにもいい匂いで、その瞬間わたしが化粧もせずに、シャンパンピンクのマニュキアはべろりと剥がれ、パジャマ同然のスウェットに近い服装で、こんな荒れ果てた姿で、病院にやってきたことに気づいた。ベッドについたテーブルの上のケーキだけがありえない強度の幸せを放っていて、もうどうしようもなくなって、わたしはそれを抱えて、病室の外のソファで貪り食べた。それからサイエントロジー東京に行くために病院を出た。そしてその晩、マシオさんが病院を脱走したことを電話で知らされた。

2019年7月31日公開

作品集『新代田のマシオ』第4話 (全6話)

© 2019 牧野楠葉

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