「総理!」
「静かに。総理と呼ばないで。周りに悟られるじゃありませんか」
「失礼いたしました。しかし時間がありません」
帝国宰相・宍戸久蔵は世界的流行の兆しがある発展型カローラウィルスの対応に追われ、今はこの新橋会館地下のロシアンレストランに逃げ込んで、ボルシチに舌鼓を打っていたのだが、随伴した保健省大臣ピカ・リコーンに、今後の対策について対応を迫られて対峙していた。デマの横行によるマスク・ナプキン・トイレットペーパー・割り箸・ランチョンマットの買い占めと品切れと店員のガチギレに端を発する大阪西成地区での便乗暴動とそれを理由にした全国での音楽イベントの中止の続出で、日本帝国経済は大打撃を被ろうとしていた。そもそもあの外国船が居座ったせいで世界的な非難を浴びせられることとなり、毎日取材から逃げてレストラン巡りばかりしてたせいで体重は増えるわ血圧は上がるわで踏んだり蹴ったりであります、と頭を抱えていた。愛する妻からは感染の恐れがあると思うので帰ってこないでと釘を挿されており、シークレット別荘で右手を恋人に眠れぬ夜を過ごしていた。もう限界だ。何かうまいことやって世論を誤魔化さなければ、わたくしは失脚するのであります。いけません。断じて、皇帝陛下に代わって森羅万象を牛耳るこの帝国宰相の地位は絶対手放したくないの。きのみフレンズ学園事件やら、角A学園問題などどうにかのらりくらり交わして交わし続けて、架空幼児疑惑もどうにかこうにかすり抜けてここまでやってきたのに、いまさらそんなチンケな肺炎菌なんかのためにせっかくの帝国宰相の地位を棒に振るなんていやであります。宍戸宰相は、絶対にやめないと心に決めていた。宰相として未だ誰もやったことのない憲法改正を成し遂げるまでは絶対にやめない。わたくしの代でできなければ、意味がないのであります。
「あ、ちょっとよろしいですか」
冷めかけたボルシチを眺めながら、今後の身の振り方を考えていた宍戸の背後から、重厚な落ち着きのある声がかけられた。宍戸は振り返ったが、見覚えのない顔だ。
「君は?」
「名前はちょっと。都内の勤務医です」
「お医者さんですか。どうぞお掛けください」
「恐縮です。少々お耳に入れたいことがありまして、お時間よろしいでしょうか」
「できれば手短に」
宍戸は大臣、秘書とウェイターを下がらせ、人払いをした。
「今回のカローラウィルスなんですが、感染力、死亡率ともに、2009年の新型インフルエンザ以下で、それほど脅威ではないのです」
「そうなのですか? 中国ではあんな騒ぎなのに?」
「ええ、サーズに比べるとわかりますが、規模は1000分の1にも満たないぐらいです」
「そうなんですか。なんだって今こんな騒ぎに?」
「それは門外漢なのではっきりとは言えませんが、病気の質の悪さに比べて、SNSなどでの伝播力が高いようなんです。デマの横行です」
「それで、何をおっしゃりたい?」
「そんなに気をつけなくても心配ないと国民に呼びかけてはいただけませんか?」
「なるほど。しかし、わたくしがそのように呼びかけて、もし大変な感染爆発が起こったら?」
「そんなことにはなりませんよ。保証します」
「保証と言われましてもねえ」
「とにかく、このままでは社会は混乱して何が起こるかわかりません。落ち着かせるのが第一だと思います」
「あいわかりました。ご意見ありがたく。このことはご内密に」
宰相が手で追い払うと、名もなき医師は、レストランを去り、大臣と秘書が席に戻った。
「会見の手配をいたしますか?」
「そうですね。お願いします。2時間後で」
「かしこまりました」
秘書は懐から専用電話を出すと、官房長官に緊急記者会見の支度とマスコミへの通達を命じた。
「それで、先程の人物はなんと?」ピカ・リコーン大臣は総理に聞いた。
総理は冷めてしまったボルシチを残飯を見るような眼差しで見下ろしながら、ため息交じりに答えた。
「おそらく伝染病研究所の人間だと思うのですが、今回の発展型カローラウィルスは、そんなに心配が必要な病気ではないそうです」
「そうなんですね。安心ですね」
「ええ。安心して全校休校を要請できます」
「は?」
「パンデミックの心配がないのであれば、思い切った政策を打ち出すべきであります」
「まさか」
「わたくしの決断によって、全国民が救われるのです。しかも必ず成功します。やるべきだと考えました」
「わかりました。スピーチライターを呼びます」
「お願いします」
宍戸は胸のナプキンを引き抜き、冷めたボルシチの上に放ると立ち上がってレストランを後にした。
「わたくしが日本国民を発展型カローラウィルスから救ったのであります」
do not hall lie
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