庭の穴

早朝学植物誌(第2話)

多宇加世

小説

2,173文字

暗い夜道。白線。馬の顔の壁。いつからかずっと走り続けている。読み切り掌編作品。

今頃、白蟻屋さんは帰っただろうか。

私の走る沿道は右も左も無数の馬の顔でできた壁だった。ここは厩舎かと思わせるがここは道路で、私は前の人のしっぽを踏まないように、二本の脚を使って走っていた。ずっとそうしていた気がする。腕も交互に前に出しながらずっと――。走行ペースは一定でなく、唯一決まっているのは街灯に照らされてぼうっと浮かび上がった白線を辿っていくことであった。白線は、直線が続くとのびて細くなるのがはらはらしたが、カーブをする時は逆にぎゅっと太くなり、そのおかげで曲がる際の遠心力でぶれても線上から飛び出さずに済んだので焦ったりしなかった。沿道には馬がひしめき合っていた。馬はみな黒く、目と目のあいだ、鼻から額にかけてまっすぐの白い線があって、それは私の走る道の白線と似ていたが、違うのはそれがペンキでなく毛で描かれていたことだった。なかにはあたかも白毛が生えているようにペンキで白く塗られている顔もあって、それに惑わされて道路の白線から馬の顔のほうへ逸れて行って、そのまま帰って来ない者もいるということだった。

前を走る人のしっぽは束になってベルトに挟んで腰に固定してあった。黒く染めた玉蜀黍の毛だというのは、早い段階で自分のお尻に手をやってみて、自分にもくっついているそれを触った感じで分かった。玉蜀黍の毛の中でも選りすぐりの長い毛であろう、腰から地面まである。恐らくであるが、私の後ろを走る人も、私と同様、しっぽを目安にしているのではないだろうか。私は前の人のその尾を踏まないように走っていたが、それはかえって白線から外れない注意喚起ともなっていた。目の前の白線の上を揺れるしっぽについていけばよかったからだ。何度も言うが速度が一定でないため、ペースを乱して踏んでしまわないことだけを考えればよかった。と、沿道の馬の顔が途切れ、人間の顔が見えたが、それは私の母だった。母は病気で外には出られない身であるはずなのに、たった一人でこちらに手を振っていた。

母が沿道から叫んだ、

「あなた、一時間、時間を間違えてない?」

私は駆け寄って足を止めて、

「そんなことないよ、お母さん。白蟻屋さんは帰ったの?」

と尋ねた。母は、

「ほらね。やっぱりあんた、時間を一時間、勘違いしている。白蟻屋さんは来たけど、いま来たの。そして家をそのあいだ出ていてくださいって言われたの、母さん。いま」

と答えた。なるほど、だから母さんはここにいるのか。私は、

「じゃあお風呂場の壁に穴を開けているのね」

と言ったら、

「いいえ、穴はもう塞いだのよ」

と母は答えた。

「あなたが走ってるあいだに穴は塞がったの。白蟻は列を作って逃げて行ったよ」

「じゃあなんで白蟻屋さんは家を空けろと言ったの、いま。白蟻が逃げたなら、いま。穴が塞がってるなら、いま。どうして」

立ち話をしているうちに馬がここまでもやって来た。母の体は馬の顔に埋もれていってしまった。

「あなたが庭に穴を掘ったままだからでしょ。母さん、庭の穴が塞がってきたら、なんだか元気が出てきちゃってね……」

母の声はそれきり聞こえなくなった。また馬の顔の壁になった。闇夜が訪れた。

庭の穴とは私が魚の骨を捨てるために掘ったものだった。あれが塞がれるのか。魚の骨を穴に捨てると、庭の雑草が塩分で枯れてちょうどいいのに。

私はまた走り出した。

私が白い線を辿って前の人の尾に追いつくまで、たいして時間はかからなかった。だが目測を誤ってしまい、しっぽを踏んでしまったどころか前の人に乗っかってしまった。

「ひひー」

前の人は叫んだが、その声は馬だった。

私はいつのまにか黒く染めた玉蜀黍の毛でなく、本物の馬の尾を追って走っていたのだった。私がいま辿ってきた唯一の決まりである白線は、馬の顔のそれではなかったが、そのかわりに私の家から逃げ出した白蟻の列だった。私は白蟻の進行方向とは逆に、私の家のほうへ向かっていたのだ。そしてそのまま私は小柄な馬の背にまたがってしまったが、その高さならあと少し進まなくても、家のそばまで来ていたのもあって、庭を見ることができた。垣根の向こうで白蟻屋さん二人が庭の穴を埋めているところだった。ああ、穴なんて掘って、本当に悪いことしたな。まさか白蟻屋さんが埋めることになるとは思わなかった。私は心底そう思った。てっきり庭屋さんがするのだと思っていたからだ。庭屋さんには昔、掘った石を投げられたことがあった。だから私が掘った庭の穴を彼らが埋めることになっても、ざまあみろだと思っていた。

私は作業風景を眺めていた。すると私の乗った馬が「ひひー」と嘶いた。

「聞いたか。ひひー、だってよ」

「聞こえたさ。まさか馬がいるんじゃないだろうな」

私は馬上で身を低くして垣根の隙間からその会話を聞いていた。穴はまだ埋まる気配はないが時間の問題だろう。今度から食べたあとの魚の骨をどこへやろうか。私がそう思うが早いか私の乗った馬は私の家とは別なほうにずっとずっと遠くへ走り出したので、私は新しく穴を掘っていいところを探しに出ることにした。探しに出たあいだに恋人ができて、それはいいとしてそのあいだに一度だけ私はまた母と会えたのが嬉しかった。だが母はやはり病身で、この夜に沿道で庭の穴について話をした時のような元気よさはなかったが。穴は、どうなったのだろう。

2019年10月10日公開

作品集『早朝学植物誌』最新話 (全2話)

© 2019 多宇加世

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