躰を動かす気になったのは、正午を過ぎてからだった。あるいは、動くようになったのは、と言い換えても好いかもしれない。
エアコンをつけ、教室と自習室に掃除機をかけて受付に戻ると俺は、ノートパソコンの隣に置かれたリポビタンDを一気に飲み干して、キーボードに向かった。そうして、Gメールを同期させた。受信リストの一番上に「Re,悩んでいます」という件名があった。それを見て、哄笑が沸いた。はたして俺は悩んでいるのだろうか。弱っているだけではないか。そんなことを思いながら、そのメールを開いた。
山崎塾長
お疲れ様です。先日いただきましたメールについて返信差し上げます。
まず脇田勇樹くんについてですが、山崎オーナーと山崎塾長がご判断なさったように退塾していただくのがよろしいかと思います。
次に石田佳穂さんについてですが、私の判断といたしましては、もう少し様子を見ていただくのがよろしいかと思います。山崎塾長と担当講師の方には多大な心労をおかけすることになるかと思いますが、どうかよろしくお願い申し上げます。(山崎塾長のおっしゃる通り、石田家にはなめられていると思います。滞納分は分割払いで少しずつ回収していくしかないかと・・・。担当講師の方には、ご理解いただけるようお願いするしかありませんが・・・)
次に刀根修一くんですが、彼につきましてもすぐに退塾させるのは賢明ではないと思います。彼の場合、きちんと校舎に通うというところからのスタートでしたし、最近は欠席も減り、自習にも来るようになったとのことで親御さんもお喜びになっていると山崎オーナーから聞きました。問題児であることに違いはありませんが、たしかに成長が見てとれます。もちろん、彼の落ち着きのない態度ですとか、女性講師の髪をさわっているというような非常識な行為に関して苦情が来ているについては私も把握しております。そのことによって周りの生徒に支障が出ていることは間違いないと思います。ですので、たとえば彼のコマをすべてAコマにするというのはどうでしょうか?(夏期講習に入ってしまっているので、あまり意味はないかもしれませんが・・・)
以上が私の見解です。ご参考になればと思います。それでは、よろしくお願い申し上げます。
飯田正幸拝
予想通りの文面だった。要するに「辛抱しろ」ということである。俺は、既読したことを伝えるEメールを作成し、飯田さんに送信した。件名は、「Re,Re,悩んでいます」である。三十歳にもなると、そんな泣言なんぞ誰もまともに取り合ってはくれない。当然のことだ。
そうして俺は、勇樹くんを退塾させる決心がついたことを文書化し、亮介おじさんに送信した。動けるうちに動きたかった。俺は塾の固定電話を使い、勇樹くんの家に電話をかけた。コール八回でお母さんが出た。俺は、勇樹くんの退塾を願う旨をやんわりと伝えた。お母さんは、「そうですか。」と力なく言って、「一度お話しさせて頂けないでしょうか。」とつづけた。そして「今すぐにでも塾に向かえます。」ともつけ加えてきた。俺はその申し出を受けた。
しばらくして、勇樹くんのお母さんがやってきた。隣には勇樹くんの姿があった。彼の顔は青く、頬には巨大な膿をたたえたニキビがいくつも見られた。魚の鱗のイメージが脳裏に浮かんだ。
俺は、
「おう、久しぶり。」
と言って勇樹くんの肩を叩いた。強いアルコールの臭いがした。これは駄目だ。瞬時にそう思った。顔に出てしまったかもしれない。
俺は勇樹くんと視線を合わないために顔を伏せ、その流れで塾の自動ドアに鍵をかけた。俺の行動にお母さんは驚いた風であったが、塾が開くのは十四時からだということと、プライバシー保護のためだということを伝えると、納得してくれた。しかし、俺自身は不愉快に感じた。本当は、疚しいことをしているのだという意識がその行動に移させたのを自覚していたからだ。
二人を談話室に通した。思いがけず、空気が澱んでいた。電気を点けると、カーテンの近くで埃が舞うのが見えた。それは俺に、海底の墓地を連想させた。そんなところに、三人が押し込まれたのであった。
「突然のことで申し訳ございません。」
席について、まず俺はそう言った。お母さんは、コクリコクリと何度も頭を下げた。勇樹くんは無言のまま俺に視線を飛ばした。俺はお母さんの様子を伺うふりをして、その視線から目をそらした。軽い眩暈がした。
「それでですね、えー……、今日は勇樹くんも来てくれたということで……、あの、ありがとね。」
と俺は言った。
「何がありがたいんですか。」
と勇樹くんが低い声で言った。お母さんは、「ちょっと、やめなさい。」と言って勇樹くんの膝に手を当てた。いいんです、と俺は言って、勇樹くんの方を向いた。彼は、俺を試しているらしかった。
「ごめんな、勇樹くん。塾に来づらい雰囲気にしてしまって。これはぼくの責任です。本当にすまない。」
と俺は言った。勇樹くんは黙っている。俺は勇樹くんの頭髪のことを思った。赤が脳裏にはじけた。
実際、申し訳ないという気持は相当に強かった。お母さんは、「とんでもございません、こちらこそ本当に申し訳ございません。わたしの監督不行き届きです。」と頭を下げた。勇樹くんは、
「先生はぼくに謝ったんだから、お母さんは黙っといてよ。」
と言った。お母さんは、「アンタ、ほんと……。」と言って、絶句した。勇樹くんはさらに、
「あのさ、ぼくが塾にいると迷惑だからやめさせたいんですよね。判ってるよ。ぼくも文句ないですから。」
とつづけた。「ぼくも一人で勉強する方が良いし。だから今日は、先生と一緒にお母さんを説得しようと思って、お母さんについて来ました。」
よどみなくそう言った。俺は苦笑した。お母さんは苦渋の色を目に浮かべて、何も言わなかった。
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