たのみそ女て支

春風亭どれみ

小説

18,269文字

百合の蕾に百合の花咲く、なにごとのふしぎなけれど。

思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを

 

西陽が毛羽立ったカーテンに溶け込む教室の片隅で、幾人かの若い男女がこの一つの恋の歌についてあれこれと語り合っている。ブレザーを折り目正しく着こなした優等生が、揚々とこの歌の魅力について語り出すと、有象無象のじゃがいものような少年たちは、彼女の口の動きを食い入るように見つめだした。

「私は、『夢と知りせば 覚めざらましを』っていう下の句に小野小町の女の子らしさと奥ゆかしさ、いじらしさが感じられて、とてもいい歌だと思います」

喋りきると彼女は、少しはにかんだように微笑んで、スカートのプリーツを指で整えてから、桃色のブランケットの敷いてある椅子にふわりと腰かけた。まばらな拍手が起こり、一人の生徒が眼鏡のつるをつまみながら、「その下の句に目を付けたのはいいよね。古今和歌集に収録された小野小町の他の歌と一線を画す点は、その結び方の技術にある」と、歌の技巧を語りだした。すると、それに呼応するかのように、別の生徒が頬に出来たニキビをひっかき潰しながら、「あの大ヒットアニメ映画もこの歌にインスパイアされて作られたらしいし、こういう思わせぶりな感じはいかにも日本人好みの歌ってことなのだろうね」と、得意のサブカルチャーの話題を交えながら、歌の持つ後世への影響力をつらつらと述べた。この高校の文芸部は、部員自らで、小説や詩歌などの創作活動を行うだけでなく、週に一度、水曜日の放課後に古典に親しむ時間を設けている。

二十一世紀に生まれた彼ら彼女らにしてみれば、夏目漱石も、宮沢賢治も、金子みすゞも、川端康成も遠い昔のもののあはれを奏でる古典であり、水曜日は大概、遡って明治大正の文豪たちの作品を取り上げる時間となっていたが、あはれにつられてその日は、そこから遥かにひとっとび。平安の王朝文学に手を出して見たものの、手持無沙汰といった感じでどうにも消化不良の時間が続いていた。

源氏物語は解説代わりの有名な漫画作品が無ければ、一行でも読み進めることは出来なかったし、百人一首は実力差に偏りがありすぎて、ゲームとして成立しなかった。

「やっぱり僕は、未経験者たちに坊主の札をハンディキャップのようにして予め分配してから、残った札で勝負すればよかったんだと思うね」

部長は蝉丸の札を見つめながら、後悔の念を述べていると、一人の女の子が手を挙げた。

「……小野小町。それなら、古今和歌集はどうですか。図書館にとても分かりやすい現代語訳と解説がついた古今和歌集の本がありましたよ」

まさしく鶴の一声だった。それで、今日のお題は古今和歌集の小野小町の歌に決まった。

(文芸部小町が、今日の部の活動を小野小町デーにした……)

もっさりと地味な出で立ちをした女子部員たちの考えることは一人として違わず、まるで独創性のかけらもなかった。今朝の体育の授業の時に作った擦り傷と絆創膏を隠す為に、いつもよりもスカート丈を伸ばしていることに誰にも気付いてもらえない庭野梢もその一人だった。

もとより、ともすれば下着が見えてしまいそうなほどに脚を露わにしたり、リボンを緩めて紙パックの紅茶を啜りながら、廊下を闊歩したりするような生徒は文芸部にいないので、梢のスカート丈もむしろ今まで以上に部内に溶け込んでいるのだった。

それは、男子部員も同じであり、ワイシャツのボタンを第二ボタン以上開襟して、ノートを扇ぎながら、大股を開く姿が似合うような体躯の男は一人として部に存在していなかった。皆一様にして、少し猫背気味で、いつも困ったように首を少し傾けていて、声色だけは何故か不似合いなほど野太い者ばかりだった。そのような手のかからないおとなしい文芸部部員たちの活動を、定年退職を間近に控える顧問の先生は、ただ穏やかに見守っているというのが、文芸部の日常そのものだった。

クラスに帰れば、気配の漂わない生徒に戻っていく部員たちの中で、四ノ宮みつはだけが、クラスのどの生徒からの頭の中にもその姿と名前が存在し、延いては一目置かれる、文芸部きってのアイドルであった。文芸部の部誌に彼女のスナップ写真を付ければ、部誌はもっと飛ぶように売れるはずだという冗談は、軽薄な男子生徒の間で定番にもなっているほどだった。

彼女もまた他の文芸部と同様に、先生からも覚えのいいおとなしい優等生であったが、肩の辺りで切りそろえた後ろ髪は、耳元にかかるところだけを後ろへ持って行って編み込んでいるなど、校則にひっかかることのない洒落っ気をしっかりと持ち合わせており、そもそものところ、つぶらで配置の整った目鼻立ちと、血色の良さと透明さを兼ね備えた肌は、余分な装飾を必要とすらしていないようだった。

ただひたすらに未編集である梢たちとは似て非なる存在なのは、火を見るよりも明らかだった。

(だいたい「みつは」って、ひらがなの名前が浮かないで、似合うあたり、持って生まれたものが違うよなあ……駄洒落みたいな私の名前とは雲泥の差だ)

頬杖をつきながら梢は、盛り上がる一団の隅で、小野小町の歌が続くページを流し読みしていた。そして、皆にちやほやされる歌の隣の歌の三十一文字が目に留まった。

 

うたゝねに 恋しき人を みてしより 夢てふ物は たのみそめてき

 

歌の解説文も前の歌よりと比べてまるまる一ページ分少なく、あまり注目されていない歌であることはすぐに分かった。大雑把に現代の言葉に解きほぐしたとしたならば、さしずめ、「うたた寝をして恋しい人を夢に見てから、夢というものを頼りにするようになった」とでも言うような、なんとも野暮ったく色気のない歌だと、梢でさえ感じたほどの歌だ。

けれども、この歌は梢に何かを訴えかけている。そんな気がした。

「うたゝねに」の歌とにらめっこをし続けていると、不思議そうに梢の顔を誰かが覗き込んでいる視線を感じた。顔を起こすと、つぶらな鳶色の瞳と目があった。

「庭野さんは、そっちの歌の方が好きなの」

みつはは、梢にそう尋ねた。古典部の活動のこと自体を考えると、梢は対案としてこの歌を推して、ビブリオバトルよろしく討論を始めた方が盛り上がったのだろう。しかし、梢は、この歌が何を訴えかけているのか、今一つ、噛みしめられずにいた。それも理解できずに、この小さな共同体の世論を動かすことは、到底自分自身には出来ぬこと。そう感じていた。

「何となく、気になって見ていたのだけれども……この人のベストの歌といえば、違うよね」

梢は、頬を掻いて、力なく笑うしかなかった。これが小野小町以外の誰かの歌と、当の歌でどちらが優れているのかという討論になるのだったならば、小野小町の肩を持つために、もう少し、歌の美点を探し、奮戦しても良かったのだけれども、今回はどれもこれも小野小町なので、彼女の名誉のためにこの歌を立てる義理も特になかった。さしてうまく作れたとも思わない歌を、他の自信作があるにもかかわらず、推され続けていたとしたならば、小野小町だって有難迷惑と思うかもしれない。

「庭野君の言う通り、これはベストの歌ではないだろう。繊細さに欠けるというか、彼女の作風から考えると、少しね。それならば、僕はこの札にもある『花の色は』を推したい。眺めと長雨を掛けた洒落っ気に、美女が花の色を歌いあげる持ち味をふんだんに使った贅沢さ。音の響きも詠んでいてとても艶やかだ」

指の間に百人一首の札を挟んだ部長がすかさず、「思ひつつ」の歌と同じかそれ以上に有名な彼女の代表作をあげると、書記役の生徒が頷いて、黒板にぶつけるようにして、白い歌の文字を書きこんだ。熟練の先生と違って、チョークでの筆記に慣れていないうら若き一年坊の記す文字は角張って、漢字はまだ読めたものだったが、ひらがなはまるで異邦人が書いたように歪な造形を携えていた。

「どうせなら、『花』の字を桜色のチョークで書き換えてみようよ」

「桜色って、普通にピンクって言えばいいのに、文芸部らしさ、醸してみたなー」

「なー」

箸が転がってもおかしい年頃の生徒は、ケラケラと笑いあい、いつしか話は殆ど他愛ない雑談に逸れていった。クラスでは寡黙な人物と捉えられている彼女たちも気心知れた仲間と群れれば、年相応のかしましさを持っているのだ。その点に関しては、男子の部員も似たようなもので、小野小町は後世の創作になると、零落した乞食の老婆として登場することも多かったとか、グロテスクな絵巻物の題材になったとか、若者が好みそうなエロスとタナトスに満ち満ちた会話で口角泡を飛ばしあっていた。

黒板には、小野小町の歌は何首か記されたが、結局、どれが彼女のベストヒットなのかは、決議されなかった。そして、「うたゝねに」の歌は、リストアップされることすらなかったのだった。

おひらきになった部員たちが散り散りに別れていく中で、梢はいつも一緒に帰る仲良しグループの誘いを、「本を返す用があるから」と断って、一人、廊下でそれとなくはらはらとページを捲りながら歩いていた。そして、やはり、五五三番の歌、つまり、千年未来の若者たちから、失敗作と批判に曝され続けた憐れな「うたゝねに」の歌のところで手と足が止まった。

「どこだろう。私の眼は……引っかかっているのは、最後の『き』なのかな」

図書館の扉の前で、ぶつぶつと独りごちていると、とんとんと梢の肩を誰かがやさしく叩いた。

「庭野さん、その歌の『き』が気になっていたのね」

「そう、部長に言っても、『それは過去を表わす助動詞のき。必修レベルの頻出文法さ』なんて言って取り合ってはくれないのだろうけれども、そうでなくて、もっと……何だろうなあ」

「今の部長のものまね、似ているね」

誰かの質問にはっきりと完全に答え、レスポンスを聞いてから、梢はぎょっとして後ろを振り返った。その姿に肩を叩いた当事者も驚いたのか、「きゃっ」と小さな声をあげて驚いていた。

「四ノ宮さん、どうして」

「どうしてって、庭野さん一人に何巻分も持たせたら、悪いから。それに古今和歌集を提案したのは、そもそも私だよ。私が先に帰るのは不義理だと思って」

みつはは、そう言うと、梢の両手から、古今和歌集の何冊かを取り上げて、図書室の扉を開いた。みつはは、男子部員からちやほやされる分、女子部員からは、少し距離を置かれている存在であったが、梢は彼女のことを特に嫌いとも、苦手とも思っていなかった。彼女自身の性格に悪しき点は、特に何もないと感じていた。ただ周りの子と距離が遠い分、接し方を掴みあぐねているに過ぎない。それだけだった。

そのため、彼女の方から、声をかけてくれたのは、少しばかり心が躍るできごとだった。

「ありがとう」

「どういたしまして。それで、その『き』は、どこがクサいの」

じっくりとみつはと二人きりで話すのは、ひょっとしたらこれが初めてかもしれなかったが、思いのほか、彼女は好奇心を前にすると、ぐいぐいと突っ込む性質のようだった。

「なんだろう……うまくはいえないのだけれども、その『き』は靴ひもが解けているような居心地の悪さというか、訴えかけてきている気がしたの。ちょっと待ってくれって感じで」

「ふうん、それは何だか興味深いね」

みつはは、そう言うと、自分の足もとに視線を落とした。彼女のバッシュの靴ひもはちょっとやそっとでは解けなさそうな結ばれ方をされていた。小柄な女子生徒だとくるぶしはおろか、靴のベロが足首全体をつつんでしまう可愛げのないバッシュタイプの上履きは、思いのほか、彼女の足もとに溶け込んでいた。

梢などは、入学を間近に控えていた中学三年生の春休み。家で新品の上履きの履き心地を確かめていたら、

「文科系に骨の髄まで浸かっている梢には、ちょっと似合わないわね」

などと、母にからかわれるほどに、上履きが浮いていたというのに、清楚を絵に描いたようなみつはが、この上履きを履きこなしているのは少し意外に感じられた。

「そうジロジロ見られちゃうと、足、太いのがバレそうだから、恥ずかしいな」

梢がしばらく彼女の足もとに気を取られていたら、困り笑いを浮かべたみつはに軽く咎められた。

「違うよ、あのね、四ノ宮さんは上履きも綺麗に履きこなすんだなあと思って。私、ずっと、バレエシューズみたいなあの白いやつしか、履いてこなかったから、まだ慣れなくて」

「褒めても何も出ないよ、もう」

みつはは、厚い装丁の古今和歌集の本を二冊も抱えながら、器用に、そして、わざとらしくはしたなく、左足を使って、図書室の戸を滑らせて開けてみせた。

図書室は恐ろしく静かだった。夕暮れ時になっても、先客がいないせいか、蛍光灯はひとつも灯ってはおらず、遠く校庭からボールを打ち付ける軽金属のこだまと、部員の掛け声がかすかに届くばかりだった。

「図書委員、只今、席を外していますだって」

返却棚の上にカウンタープレートがあるのを見つけると、みつはは、抱えていた本を棚の上に置いて、ふうと一息ついた。

「庭野さんもそこに置きなよ。委員の子が戻って来るまで待っていようよ」

みつはは、梢の掌の上にあった本を取り上げては、せかせかと棚の上へと移動させていった。返却棚の上に、らせん状に積まれた本が増えていく。本を全て積み上げると彼女は、興味の向くままに本の背に記された題名を眺めたり、指でなぞったりしていた。梢は、本の山が綺麗な直方体になるように、手で整えながら、そんな彼女の姿を見ていた。

「選手を育てる魔法の言葉……でもこの監督さんのチーム、今年は最下位だよね。人生、山あり谷ありだなあ」

「そうなんだ。私、全然、スポーツとか分からなくて」

フリルのついた可愛らしいエプロン姿が似合いそうなみつはの持つ関心の幅は思いのほか、広い範囲まで行き渡っているようだった。みつはは、意外とスポーツのことも好きらしい。ソフトボールもドッヂボールもバスケットボールも梢にとっては、理由もなく襲い掛かってくる敵意でしかなく、普段は温厚な子までが、なんだか血の気が多くなる体育の時間は、憂鬱以外の何物でもなかった。

そんな熱にあてられた時、梢は静かな図書館の窓辺から『星の王子さま』に会いに行った。彼女の親しい読書仲間も、多かれ少なかれ、同じような感情を持っていたので、文芸部に入るほど、本の世界に興味がありながら、並行してからだを動かすことにも、喜びを見いだせるみつはのような子は、あまり梢の周りにはいないタイプの女の子だった。もしかしたら、梢たちが知らない中学時代の四ノ宮みつはは、健康な汗が似合うボーイッシュよりな女の子だった可能性さえあるのだ。編み込んでいた髪をばっさりと、今よりも小麦色に焼けた首筋を覗かせるほどに短く切りそろえたみつはの後姿のイメージを、今の彼女に重ね合わせてみたくなった。

(四ノ宮さんも、本当は私が思っている以上にしているのかな、もやもや……)

梢はもう一度、彼女のしっかりと結ばれた上履きの靴ひもを見た。普通の蝶々結びのようにみえて、結び目のところが少し違うようにも思える。ふしぎに思われるのを承知で、梢はみつはにその結び方を尋ねてみることにした。

「あ、あのさ、四ノ宮さん」

「なあに」

みつはは、絵に描いたような「ふしぎ」って顔を浮かべて、振り返った。頭に「?」のマークが浮かんでいそうな漫画みたいな顔だった。顔立ちの端正な子も、間の抜けた表情をしたら、それなりに間抜けになるものなのだなと、梢はひとり、どうでも良い発見に対して、合点したのだった。

「せっかくだから、四ノ宮さんの靴ひもの結び方、聞こうかなと思って。それ、普通の蝶々結びと違うよね」

梢は、丈の長いスカートを膝の裏に手で押し当てながら、つま先立ちのまま屈んで、上履きの靴ひもを解いてみせた。みつはの顔に「?」マークがまたひとつ増えたのが見えた。

「庭野さん、何かの比喩じゃなくて、本当にずっと靴ひもが気になっていたの」

「いや、靴ひも自体は本当に比喩のつもりだったんだけどね。四ノ宮さんの喋ることと、見せる顔の国籍がかわる感じがしたのが気になって……」

自分自身でも、不明瞭で気味の悪いことを言ってしまったと、梢は思った。けれども、梢がそう言った途端、みつはの頭の上に浮かんで見えた「?」マークたちは、幽霊が成仏するかのようにすうっと消えて行った。

「国籍ねえ。……そういえば、小野小町は靴ひもを結んだことがないんだよね。昔の人だから、手先は器用そうだけど」

みつはは、耳に乱れた髪をかける仕草をすると、椅子に腰かけて、靴ひもをほどき、その結び方を説いてみせた。ご教授を願う梢も、隣の席に腰掛ける。自分の頬が、気恥ずかしさで少し熱くなっているのを感じた。

「ね、簡単でしょ」

みつはが教えてくれた結び方は、一回練習すれば、いとも容易くマスターできる本当に簡単なものだった。小指に引っかけて作った二つの輪を交差させて、お互いの輪の中に通す。それだけだった。みつは曰く、これで、蝶々結びよりもほどけにくいというのだから、「今まで自分は何てせまい世間の中に生きて来たのだろう」と、梢は、ずいぶんと大げさに感激したのだった。

「それでさ、庭野さんの『き』の靴ひもで思ったんだけど、あの短歌は、みやびな十二単にスニーカーを履いているみたいな……そんな妙ちくりんな感じがしたんじゃないかなって、思ったの」

みつはは、おもむろに立ち上がって、一冊の本を棚から取り出した。その足取りからして、棚から棚へ、うろうろしていた時から、もうすでに、目星をつけていた本のようだった。

彼女の手にしていた本は、ざっくばらんに言ってしまえば、日本の有名な俳句を英訳した三行詩を再び、日本語訳して紹介するといった旨の本だった。小泉八雲や、サリンジャーといった著名な作家たちも幾つかの俳句で、セッションに参加しているようだった。

みつはは、図書室の長机に本を置き、梢とふたりで本の扉を開いた。そして、はらはらとページをめくると、かの松尾芭蕉の有名な、「古池や」の句のコーナーに出くわした。何人もの欧米の詩人たちがこの句を訳し、アルファベットに息吹を吹き込んでいた。そのいくつかの詩には、「!」マークが躍っていた。

「なんだか、ふしぎな感じ」

「そうだね」

梢はもちろん、みつはだって、「!」マークや、「?」マークを日常で使うことは少なからず、存在する。むしろ、ワンセンテンスのやりとりに重きが置かれる電波を介したやりとりではなおのこと。下手な漢字やひらがなよりも使用される機会は多かった。けれども、俳句のような五七五の音の響きの中に、「!」のリズムが響き渡ると、ロックを奏でる三味線の音色に出会った時のような奇妙な感情と近いものが心に芽生えた。

「私、前にね、何かの漫画で読んだことがあるんだけれども、確か、あるニューヨークの人に好きな日本の文字は何かと尋ねたら、ひらがなの『ふ』を挙げた人がいたって話で。漢字じゃなくて、『ふ』だよ。理由を聞いてみたら、『ふ』は鳥が翼を広げて大空に羽ばたいている姿のようで好きだからだって。当たり前のようにひらがなを使っていると、考えもしないようなことだよね」

「その人には、『ふ』がとてもふしぎな姿に見えたんだね」

梢はみつはと、ふ。古池。ふしぎ。ふたりだけで、声を殺して、ふふと、笑い合った。

みつはが図書室で悪戯っぽく囁くとりとめもない話は、梢の考えるものごととは、違ったアプローチをしていて、心が楽しいと思っていることに気付き始めていた。部活動中、男子の部員に囲まれて、困り笑いを浮かべながら、何だか尽くされている時の四ノ宮みつはとは、同一人物ではないのではないだろうかとさえ、思った。

「話にいきなりニューヨークが出てくるなんて、四ノ宮さんはアレだよね、空港の近くの方から、電車に乗りついでここまで来ているんだよね。そういうのも、関係あるのかな?」

「空港は関係ないよ、全然」

そういいながらも、みつはは、満更でもないといった表情を浮かべて、冗談っぽく、「国際人ですから」と、気取ったセリフを吐いてみせる。すると、棚の向こうから、咳払いをする音が聞こえてきた。所用で席を外していたという図書委員が、どうやら帰って来たらしかった。

図書室の窓の外を眺めると、オレンジ色の景色は、薄紫の世界に色を塗り替えていた。

六限目まである授業の日課に、部活動の時間、さらには図書館でこうして籠っていた時間を考えれば、それも当たり前のことだった。

「ねえ、庭野さん、この後、時間あるかな」

「あるけど、どうしたの?」

恋人が遅れて来ない待ち人のように、棚を見てはうろうろ、見返しては首を軽く捻っていたみつはは、梢にある提案を持ちかけた。

「この後、本屋さんに寄って行かない」

「どうしたの、まだ本を読み足りないの。それとも、お目当ての本が無かったとか?」

あくまでも、なりゆきで一緒になって、思いがけなく話が弾んだだけのことだと、心を置いていた梢には、その提案は、急展開で、とても積極的なものであった。

「どちらかといえば、後者かなあ。話していたら、庭野さんが言っていた、靴ひもが解けているみたいでしっくりきていない『き』に気になったことができたの」

「……何それ、最後の駄洒落?」

梢は、今のみつはの言葉がもし、普段からつるんでいるグループの友だちの言葉であったならば、どんな言葉で返すのか、一寸、考えてから、そう、返答した。つまりは、彼女の誘いに親指を立てたのだ。尤も、ニューヨークの人間ではなく、千葉の郊外の高校に通う梢は、そんな派手なジェスチャーは用いないが、そういうことなのだった。

 

 

梢たちの学校は、近郊に三つの学校施設がありながら、最寄りの駅までに本屋が一軒たりとて存在しない。厳密にいえば、存在しないとは、語弊がある。なくなったのだ。ある本屋は、二十年近く前に古着屋にかわり、そしてまた、他のとある本屋はちょうど十年前に、梢たちにも馴染みのあるコンビニエンスストアにかわった。十年前というのは、十代の青少年たちにとって、ケーキ屋のおばあさんの口からはじめて伝わるレベルの、遠い昔の伝承にすぎなかった。

「高校の前のコンビニ、とうとう変わっちゃうんだってね。ニュースで吸収合併されるっていいながら、しばらく持っていたけれど」

「残念だね、あそこのスナック美味しかったのに」

ふたりは、お互いの定期券の範囲の中にあるターミナル駅から徒歩五分のところにあるショッピングモール、その三階にテナントとして入っている大型の書店の入り口にいた。入り口からもよく目を惹く位置には流行りの漫画や大人のための絵本が、ショーウィンドウに映る季節もののお洋服のように、小洒落た装いで、おしゃべりをしていた。

みつはは、目的がきちんとあるらしかった。梢のように無意味に書店の中をうろうろして、店員の人に「何かお探しですか」と心配そうに声をかけられたりしたことなどなさそうだった。

みつはに付いていってたどり着いたのは、書店によく足を運ぶ梢がまだ踏み入れたことのない専門書の領域だった。専門書と学生向けの参考書の違いも梢はよくわかっていない。怪訝な顔をする梢に、みつはは、「ここで合っているかは、わからない」といつもの困り笑いを浮かべた。

あまり聞いたことのない出版社の名前が並んでいる。そして、どの本にも一様に帯紙のようなものはついていなかった。帯紙に書かれた言葉は、梢たちが普段、話す言葉そのものだった。それがこの棚一帯には、ひとつとして見当たらないのだ。まだ日本にも、ファンタジーの中に出てくるような魔術の本みたいな厳めしい顔をした本が現役で書店に並んでいるものなのかと、梢は変に感慨深くなった。

みつはが手に取ったのは、その棚の中で、比較的に薄い本、古書における変体かなというものについて語っている本だった。

「変態?」

「その変態ではないよ」

みつはは、今度はおかしそうに笑った。そして、はらはらと本のページをめくり、辞書をひくのと同じ手つきで「ふ」の項を開いた。

「ふ」は「不」の草体。そのページには、そう書かれていた。

「ニューヨークの人には悪いけれど、そう素敵な字ではないね」

「タトゥーを入れてなければ、いいけれどね」

ふたりは、そう言って笑いあった。しっかり、授業で学んだことなのかは覚えていないけれども、もともとひらがなは、漢字が崩されて生まれたものだということは、梢もいつのころからか、察していた。しかし、意識などしたことはなかった。見慣れた「ふ」の字の隣には、みたことのないいきもののような字が、紙の中で保存されていた。ちょうど「み」と「ゆ」が組み合わさったようなへんてこな字だった。

 

」は「布」の草体

 

「なんだか、ヤンキースのロゴみたいだね」

みつはは、こうした不思議な字を何かに例える術を知っていたようだった。梢には、その言葉が何を指しているものなのかはわからなかった。けれども、それが梢の疎いスポーツに関する単語であることは、察しがついた。

「ごめん、スポーツあんまり興味ないんだったよね。あの……ラップの人がよく被っている帽子にある……そうだ、そんなこと言わなくてもいいんだ。ルイヴィトンのマークみたいって思ったの。モノグラムって言うんだっけ」

「それなら、なんとなくわかる。子どもだし、お洒落じゃないから、身近なものではないけれど、私も女子のはしくれだから」

梢がふふっと笑うと、みつはも安心したように、微笑み返した。

見慣れた字の横に、みたことのない字が並ぶ。この本が「変体かな」というものについて述べている本であるというのは、こういった意味なのだと、梢はやっと納得した。

「ひらがなって選ばれた存在だったんだね」

「ひらがなだけが、ずうっとレギュラーメンバーで、この字たちのことなんか、私たち知る由もないものね」

日ごろ、選ばれ続けている人が、見覚えのない変体のかな文字に注ぐ視線は、ほんのりとぬくもっていた。それとも、みつはが選ばれていると梢たちが勝手に思うのは、大きな勘違いで、みつはは、もっと心の中に、閉じた本のように抑えているものがあるのではないだろうか。そう思考の迷路の中に彷徨いこんでしまいかけたことに気付いた梢は、

「四ノ宮さんの名前も、全部ひらがなだよね。これで本当はどんな意味が隠されているのか見てみようかな」

みつはに向かって、意地悪に提案した。

「……緊張するなあ」

みつはは、そう言っていたが、やはり彼女は文芸部小町だった。

 

「み」は「美」の草体。

 

「つ」は「川」の草体。

 

「は」は「波」の草体。

 

本には、そう記されていた。美しい川の波。何だか、東ヨーロッパあたりで生まれたクラシックみたいなずるい響きに満ち満ちていた。

「四ノ宮さん、実は知っていたから、止めなかったんでしょう」

「知らなかったよ、本当だよ!!」

みつはの口から、初めて「!」を聞いた気がした。それもひとつではなかった。

「ごめんね、意地悪言って。冗談だよ、むしろ、同情した。大変だなあって」

「庭野さんって、結構、意地悪なんだね。そんな意地悪な人にはやっぱり見せるのはやめようかなあ」

そう言いながらも、みつはが梢にかざしてくれたページには、「き」の文字と、同じく「き」と発音しながらも、異なる姿をした文字たちが、ずらりと並んでいた。その中で、みつははは、ひとつの字をすらりと細長い指でなぞった。

 

」は「支」の草体。

 

「この本、便利だよ。この変体かなが、どの文書で主に使われたのかまで、最後の索引でひけるようになっているみたい。それで、ねえ見て、庭野さん」

この「」という字の出典元として、書かれていたのは古今和歌集のそれも恋歌。その歌の番号を目にして、梢はぎょっとした。

この靴ひものような文字が使われていたのは、歌番号五五三。その歌の三十一文字目、結びの文字の「き」そのものだった。

梢はこの結びに使われたその文字から、みやびでもなく、あはれでもなく、ただひたすらに切実な「支」として夢にすがり、たよりにする小野小町という一人の女性のひたむきな想いがにわかに匂ってきたような気がした。隣で覗き込むようにしていたみつはも匂いを察し、うっとりと本のページに細い鼻先を近づけていた。引き延ばした粘土のようなにおいしか放っていなかった四六判の本の中から、白檀の扇がはらりと広がった。それは香り、漂い、ふたりの第六感に触れた。

みつはは、そっと本を閉じると、梢に「ありがとう」と言って、微笑みかけた。梢が小野小町の他愛なきみてくれの歌の小さな引っかかりを感じたことで、小町がふたりに時空を超えて耳打ちをしてくれた。秘密を明かしてくれたのだ。ふたりは何だかこそばゆい気持ちになった。

「私たちだけが知っている秘密だね」

「秘密って、何だか、くすぐったいね」

みつはが悪戯っぽく、歯を見せると、梢は途端に気恥ずかしくなって、スカートの裾をぎゅっとつまんだ。つまみながら、どこからがふたりだけの秘密にあたるのかを説明する明晰さは自分自身にはないと、思った。そして、くすぐったさを表すには、「!」よりももう少し、なよっとした線の記号が欲しいと感じたのだった。

「英語の俳句の人も、くすぐったい気持ち、あったのかなあ……」

ふと思いだしたように、みつはは、疑問符のない疑問文を呟いた。独り言のようでもあり、梢に尋ねているようでもある。ひょっとしたら、本のノドの奥に向かって、放り投げた言葉にも思えたが、彼女は自分のスマートフォンの液晶に向かって、指を使って何かを尋ね出した。液晶の画面に映し出されたのは、ひとつの途方もない詩だった。

 

Useless! Useless!

__heavy rain driving

into the sea

 

「本場の!マークは、何だかやっぱり持っている雰囲気が違うよね」

横に和訳した文が記されていたが、どうにもしっくりは来なかった。けれども、哀しいほど自由で無力な感覚だけは、ひしひしと言葉の冷たい雨とともに伝わってくる。ひらがなの「ふ」を大空に向かって翼を広げる鳥のように思える人たちの使う言葉がそうさせるのだろうか。

「ジャック・ケルアックさんって人が、書いたんだ」

マナー違反だとは感じつつも、梢は本を覗き込むのと同じ仕草で、ひびも手垢もない液晶画面を見つめたのだった。

「lessって、意味はわかるし、テレビが無理やり流行らせようとしているけど、やっぱり何か違うよね。訳せないや」

みつはは、わざとらしくため息をついた。そして、そのような自分にふと気づいて、慌てて、欧米風のジェスチャーを取ってみせたのだった。梢は、みつはをそんな見て、「油断したな」と心の中でにやついた。このような気持ちも”speechless”なのかもしれないし、違うかもしれなかった。

「文芸部らしい会話をしているよね、今、私たち」

「なー」

「なー」

抑揚のない返事をおうむ返しするみつはは、ちょっぴり恨みがましそうにしながら、頬にえくぼをつくった。そのえくぼを見ると、梢は何だか罰が悪かった。まさか、彼女が有象無象のじゃがいもたちから言葉の花束攻めにあっている時、文芸部小町が心にそんなジェラシーを抱いているとは、つゆほどにも思わなかった。

「四ノ宮さん、今日はありがとう、ね」

小野小町の「うたゝねに」の歌は意外なことを数多、教えてくれた。そして、一つの文字を梢たちに授けてくれたのだ。実際の生活の中で、使う機会もなければ、そもそもコンピュータに打ち込むことすらできない幽霊のような文字だが、その「」が、みつはとの接点を見出してくれたようなものだった。幽霊呼ばわりは、些か、失礼だ。精霊みたいな文字なのだと、梢は思った。

「ねえ、庭野さん」

みつはがそろそろ本屋を出て、帰りの電車に間に合わせようとする梢の足取りを呼んで、止めた。梢が振り向くと、みつはは、先ほどまで手にしていた崩し字の本を購入していた。茶封筒のようなわさわさとした質感の紙袋から、表紙の何文字かが、見え隠れしている。漢字交じりのそれらの字は、当然のごとく選ばれた字であり、画一的な明朝体で身なりを整えていた。

「四ノ宮さん、それ、買ったんだ。躊躇がないところが本物の読書家っぽい。私、小説とかじゃないと、読み応えとかを気にして、値段の数字とお財布を見比べちゃうもん」

「私も正直、びっくりしているの。たぶん、後で後悔する」

みつはは、苦笑しながらも本屋の外の空間、キャンペーンのポスターと、最新のヒットソングのBGMと、喧伝する販売員の声で混じりあう世界の中に、千年間、沈黙を続けていた、奥ゆかしさが過ぎる崩し字たちを解き放った。

たとえば、「」、「」、「」、そして、日の目を見ることが、何かの奇跡が起き、この先あったら、「ふ」よりも、ニューヨークの人々の心を躍らせるであろう「」が目に飛び込んで来た。しかし、その中でも、梢の目に焼き付いて離れなかったのは、幼少の頃から、共に歩んできながらも、最近、何だか他人行儀に振る舞うしかなかった三つの文字だった。

「庭野さんの下の名前、こずえでしょう。私、仕返しで、庭野さんならどうなるのか、確かめたの。己と寸と衣だって。己の寸ほどの衣。意味深だなあって。周りに流されないで、あの歌に引っかかった庭野さんらしいなあって」

「そうか、私は子どもの頃は、そういう意味を知らずに、私自身の名前として、書き続けてきたんだね」

梢は左の掌の上に右の人差し指で三文字のひらがなを書いた。肉の厚みの足りない縁のあたりに濁点をちょんちょんとすると、くすぐったくて背筋が軽く震えた。みつはは、それを目ざとく気付いて、

「庭野さん、結構、敏感だね。ひょっとして、背中に文字とか書かれるやつ、笑っちゃって苦手でしょう」

と、言いながら、くすくすと笑った。彼女の読みは鋭く、梢にとってその指摘は図星以外の何物でもなかった。

「ご名答です」

「でしょう、でしょう」

苦笑する梢と、上機嫌のみつはは、ショッピングモールの一番端っこまで来ていた。駅まで直結する連絡通路に繋がるこのスペースは、モールの外れでありながら、施設一番の一等地であり、企業間、業界間の勢力図が臭気になって、まだ学生の身分である梢たちにも届いてくる。現代っ子は、常に過剰なまでに固有名詞に囲まれていたし、田んぼの蛙や蝗などよりもよほど親しみのある存在だった。そして、その地の軒先では、仮装した従業員ではなく、物静かなロボットが一体、客を出迎え続けていた。梢が看板を見上げると、そこは通信キャリア直営の携帯電話を販売するショップだった。

「私、ドコモだからなあ」

「ようこそ、こんにちは」

梢が呆れ顔で呟くと、ロボットは流暢な日本語で、二人に挨拶した。昔ながらの据え置きゲーム機のようなくすんだホワイトとつややかな素材でできた彼のカラダは、いかにも人々のイメージするロボット然としていて、道行く人々の警戒心を解いていた。

「何か、おさがしでしょうか」

そう尋ねるロボットが、胸から子どものおつかいのようにタブレットを下げているのを見つけたみつはは、おもむろに指でタブレットに字をなぞり出した。

「み……、つ……、は……」

ロボットは律儀に、書かれたひらがなを読みあげている。そして、彼のタブレットから、みつはの細長い指が離れると、ロボットは不思議そうな顔をして、みつはのことを見上げた。

「私の名前。みつは。こう書くの」

みつはは、子どもに諭すように、ゆったりとした口調で、身振り手振りを交えて、彼に自己紹介をした。

「四ノ宮さん、ロボットの方に、言葉遣い、つられていない?」

「でも、つられちゃうよね」

二人でまたくすくすと笑い合っていると、ロボットは、

「みつはさん、ですね。どうそ、よろしくお願いしまーす」

と、何とも軽々しいトーンで返事をするものなので、文化部であろうとも、箸が転がっても、可笑しい年頃には変わりない二人は、また面白くなって、笑い合った。続けて、梢が彼に名前を教える。ロボットは、同じように、「こずえさんですね」と、梢の名前を認識した。梢には、ロボットが、このもったりとしたやりとりをもどかしく思えているようにも思えた。

「なら、もっと高度なコミュニケーションといこう。君はわかるかな」

すると、みつはは、また指をタブレットの上に下す。そして、

 

 

と、書いてみせた。ロボットはあらゆる言語の文字を知っていると、自惚れているので、いくつかの候補を推測してみせたが、いずれも正しくはなかった。

「すみません、よくわかりません」

「ごめんね、君にはまだはやかったか。でも、これは私と庭野さんだけの秘密だから、どうしても知りたかったら、自分で調べてね」

みつはは、そう言いながら、ロボットに向かって手を振ると、ロボットも首を傾げたまま、手を振った。梢は、ワンテンポ遅れて、彼に手を振ったのだった。

「あの子、日本語上手だったね。私、外国語だったら、あんなにすぐに言葉を返せる自信ないなあ」

「あのロボット、そもそもどこ製何だろうね。日本生まれだとしても、最初に教えられる文字は……どうなるのかな、やっぱり英語?」

梢はコンピュータのことなど毛ほども理解していなかったが、たとえ日本生まれの開発者が彼を手がけたのだとしても、彼に最初に注ぎ込む文字が、かな交じりの漢字である風には、どうにも思えなかった。

「アルファベットの方が先なんだろうね。けど、私もよくわからないけれど、プログラマーの人とかが、弄っているのって、=とか#とかおまけに$0とか、そういうのが、多いよね。……こんな感じの。あれを英語っていっていいのかな」

みつはは、自分の持っているスマートフォンに様々な記号を打ち出した。

「文字式みたいなやつ?」

「うん、よく考えたら、数学で使う文字って、アルファベットだけじゃないよね。πとか。あと、『!』ね。あれって、何語だろうね、そもそも」

「え、『!』って、数学で使った?」

「使うよ、この前、授業で習ったばっかりだよ」

みつはが、鞄から数学の教科書を取り出して、ぱらぱらとページを捲り始めると、梢は恥ずかしくなって、みつはの手をがばりと抑えた。梢のように物静かな生徒をクラスで演じている者であっても、必ずしも不得意な科目を、集中して受けているというわけでもないのだ。それを普段、絵に描いたような優等生として学校内で通っているみつはに知られるのは、背中がむず痒くなって仕方なかった。

「究極、あの子たちって、0と1で物を考えているって、テレビか何かで言っていたような。だとしたら、日本語とか、英語とか、中国語とかそういう次元ではないよね。慣れ親しんだ、あの数字たちって、アラビア数字っていうんだっけ。だとしたら、ますます数式って、ある意味、字のオールスターだね。らしいといえば、らしい」

みつはは、独りでに疑問を解決して、納得し、頷いていた。梢はそんなみつはの姿をただぼうっと見つめているだけだった。

「だから、『』も何かの拍子で、あのロボットくんにも覚えてもらう機会があるかもしれないね。そういうのに採用されたら……」

「ええっ、四ノ宮さんって、そんな数学者みたいなことをいえるほど、数学出来るの!?」

梢は自分の発想の外を行くみつはの言葉に、思わず声を大にして驚いた。

「……実は一番、苦手です。嫌だよねえ」

みつはは、その後、「文芸部ですから」と付け加えて、今度は照れ臭そうに、声を殺して笑うのだった。

「何それ、もう四ノ宮さんったら」

拍子抜けした梢が呆れたとばかりに呟いた。

「そういえば、部長は数学が一番、好きだって言っていたよね。文芸部も人それぞれか」

みつはは、鞄を肩にかけ直しながら、理屈屋の部長の存在を話題に挙げた。梢は部長の得意教科など、知りもしなかった。彼女は普段から、男子部員たちに囲まれている分、彼らについての人となりも梢たちより、多く知っているものなのだなと、気付かされたのだった。

二人はもう駅のホームに立っていた。信号も、改札機も、おしゃべりに夢中で無意識のうちに通過していた。みつはの口から跳ねて出てくる言葉の数々は、視覚に入り込む情報よりも梢にとって強かった。そういうことだった。

「梢さん、また明日学校でね」

「うん」

先ほどロボットに対してしたのと同じように、手を振りながら、階段に吸い込まれ、みつはの姿は、見えなくなっていく。梢はその姿を、手を振りながら、見送るしかできなかった。二人はクラスも違えば、同じ部内でありながらも、その中で、違う空間にいるいうことを、肌が知っていたからだ。

「ロボットの方が会話も弾むし、芸もあったなあ……」

脳裏に囁きかけた独り言は、「白線の内側に――」のアナウンスの声にかき消されていく。そして、弾丸のような銀の電車が、梢の目の前を駆け抜けていった。

梢は、点字ブロックより一歩分、後ろに下がり、じっと自分の掌を眺めた。

(天気が冷たい雨の夜だったらいいのに……)

そう梢が思っても、夜空は雲一つなく、中秋の名月がただじっと下界を見下ろしているだけだった。

 

 

「昨日は遥か、千年もの時を超えて、僕らに変わらぬ恋心の襞や、自然の幽玄さを、数々の名歌が伝えてくれたわけだ。そこで僕らも、今日は、短歌を嗜んでみようではないか」

部長は高らかに、本日の文芸部の活動内容を部員に伝えると、同意と不満の声がまだらに教室内にまじりあった。とりわけ、部誌に載せる自らの創作に熱心な女性部員のグループは、はやく己の創りだしたファンタジーの世界に身を置きたがっていたので、慣れない短歌を詠むなどという行為に対し、乗り気にはならないようだった。

「私も面白いと思います。まだ部誌の〆切までは、二週間以上、時間もありますし、こういう活動によって、また新たな視点を見つけることも出来るとも思うんです」

みつはは、微笑みを湛えながら、立て板に水でも流すように、自らの気持ちを皆に伝えた。その姿は単純に麗らかだった。着席の後、膝の上に両手を添えるようにして、重ねるまでを見送ると、じゃがいもたちからは、もう何も言葉は出なくなり、逆に群れた女子の部員の中からは、みつはの意見とは違うところを揶揄した言葉がぼそぼそと漏れた。

「今日も絶好調だね、文芸部小町」

「ねー」

「ねー」

輪の中にいた梢は、ただ乾いた笑いを浮かべるだけだった。いきなり反論など、するわけがなかった。

「まあ、決まったからね。五七五七七って、言われると、結構、難しいよね」

そんな風に会話の矢をはぐらかすくらいが、梢の精いっぱいだった。顧問の先生がよぼよぼとした手つきで、プリントの裏紙を裁断して作った紙切れを部員に配り始めた。そこに自分たちの学生生活を自由に詠む。記す。そして、その中で優秀作品を正の字の数によって決めようというルールがいつの間にか、決まり始めていた。

「僕は公正を期す為に、あえて詠み人知らずで回収するのがいいと思うんだ。それに、先ほど女子グループの中から、ちらっと、五七五七七は難しいという意見が聞こえて来たけれど、優れた短歌の中には、字余りや字足らずの歌もある。無理してこだわらないでもいいのではないかな」

今度の部長の提案には、特に反対する者はいなかったが、その言葉を聞いた部員は、

「部長、今の言葉聞いていたんだね……」

「庭野さんの発言だよね」

などと、会話を盗み聞いていた彼の癖の強い人となりに対しての愚痴を、彼に聞こえないほどの声量で交わしあったのだった。部長はそのような回りくどいいけずぶりを解しない男だったが、何人かの男子部員はこのムードに耐えきれなくなったようだった。

「確かに『七月六日は』のあの短歌は、字余りだよね」

「それにJ‐POPの裏拍や譜割りに親しんだ僕らには、必ずしも、七五調だけが心地いいわけではないみたいだよね」

己の知識を披瀝しあって、その言葉で嫌な感じそのものを流し出そうとしていた。

「それに現代に限らずとも、昨日、話しあった小野小町にも『花の色は』の歌がありますよね」

ふわふわと当てもなく漂い会話をみつはは、きゅっと綺麗に結んだ。皆、ぐうの音も出ないといった風だった。ある者はうっとりして、ある者は悔しそうにして、一目を彼女に置いて見ていた。そして、彼女はきっと、スカートのプリーツを整えてから、柔らかく椅子に腰を下ろすのだろうと、梢は思った。ちらり、伏した目を半分ほどあげて、梢はみつはのことを見た。

梢の視界に映るみつはは、おおよそ校内の彼女のイメージとはかけ離れた「してやったり」というような悪戯っぽい笑顔で宙に指で字をなぞっていた。

 

 

「三十一字に、字余り付けてもいいんですよね」

そして、独り言っぽく呟いてみせたが、梢だけにはその意図が読めた。秘密はそもそもそういう為に存在するのだ。

しかし、これからが難題だった。最後に「」の一字を入れても不自然ではない短歌を庭野こずえは、これから詠まなくてはならないのだから。

2018年3月1日公開

© 2018 春風亭どれみ

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