物語は時代の娼婦でしかないのか!?

春風亭どれみ

小説

27,007文字

以前書いたものの……ですがそのまま無縁仏にさせるのも惜しいので、手を加えてみて供養でなくゾンビ化させて頑張ってもらった作品

 

 

『物語は時代の娼婦でしかないのか!?』

 

 

 

十五年ぶりに訪れた街はすっかり新しく様変わりしていた。舗道は飴色に煌めく灯りと流行の冬服を競うように展示する無数の窓に囲まれて、もう何年前から、さもハイカラな目抜き通りであったかのような装いを見せている。即物的なネオン広告も、シールが無秩序に貼られた電話ボックスももうそこには存在していない。

 

尾藤浩文は居心地の悪さに溜め息を漏らさずにはいられなかった。尾藤の吐く息は灰色に濁って凍り、余計に己がこの煌びやかに再開発された街には場違いな存在である気がして、彼はなおさら嫌な気分になっていた。

いきなり尾藤の胸のあたりが小刻みに震えだす。電話がかかっている。ダウンジャケットの内ポケットをまさぐり、液晶の画面を覗くと、編集部の伊東からだった。

 

尾藤は携帯電話というものには未だに慣れない。相手がまだ面と向かって会ったことのない伊東のような人間からかかって来た場合、いっそうその苦手意識を強く覚える。電話に出る前から、バイブレーションなどという、まるでせわしない一生を送るハツカネズミの心臓のような振動が起こるのを息苦しく感じて、堪らないからである。

 

(俺みたいなオヤジでもせめて周りみたいな勤め人だったら、耐性もついているんだろうがなあ)

 

尾藤は舗道を行き交う人々の頭を一瞥した。尾藤と同じくらいの割合で頭に白いものが雑じっている通行人は、皆背中を丸め、コートの襟で鼻から下を覆い隠し、眼鏡の奥の瞳は乾ききっていた。尾藤と同世代の人間だけではない。尾藤より明らかに齢の若いと思われる人々も含めて、彼らは錆びていた。錆びた人々が艶やかな街の間を縫うように歩いているのだ。

 

考えてみれば、今日は週も真ん中の水曜日の午後六時。オフィス街からもほど近いこの通りで、鼻唄まじりで浮かれている者はそう簡単に見つけられるはずもない。大手広告代理店と新進気鋭のデザイナーが描き出した魅力ある都市の表情に見合う顔を出来ないのは、何も自分だけではないのだと、変に勇気づけられ、ある種の使命感まで勝手に心に帯びさせ始めていた尾藤は、ひとつ咳払いをして、伊東からの電話に応じた。

 

「先生、今、どちらにいらっしゃいますか。駅はもう出ていますかね。失礼。私が今から、先生の方へ向かいます。ハイハイ、この辺りは再開発が進んでいますから。バイパスの立体交差が出来てから、難しいんですよ。駅の北側に抜けるのが……」

 

伊東は尾藤が相槌をうつ間もなく、矢継ぎ早に言葉を畳みかけた。電波を介在して聞こえてくる声色は、想像以上に少年の声をしていた。もしかしたら、声の低い女性である可能性すらある。尤も、電話越しの声というものは、限られたサンプルボイスの中から最も近いものを選んだだけに過ぎないというから、深く考えることは馬鹿馬鹿しいのかもしれない。

 

尾藤はまだ伊東と直接対面したことがなかった。彼は長らく尾藤の担当編集者であった浜岡から紹介された人物で、彼が編集長を務める青年誌の担当編集員の一人であるという情報くらいしか知らされていない。

 

「真面目な奴ですよ」という浜岡からの人物評もあるが、この手の文句ほどまだ見ぬ人物を想像するときに参考にならないフレーズもない。まるで、寸評に「パンチ力のある打撃に期待の新助っ人」とだけ書かれ、写真すらまだ用意されていない名鑑の選手欄のようだ。

 

「いやいや、もう着くから平気だよ。幹線道路が拡張されていたりしても、方角までは変わらないからね。まあ、東口が大分、公園よりにずれていたのには驚いたが。うん、君も直接向かってくれ。わかった。じゃあ、また」

 

電話越しに、伊東の年齢や性別や、編集歴を軽く尋ねても良かったが、そういう楽しみは直接出逢うまでに取っておこうと、尾藤は思った。久しぶりに舞い込んだ新しい仕事である。錆びた心を動かす刺激は少しでも多い方がいい。

 

尾藤はメモ帳とBの六角鉛筆をおもむろに取り出し、「電話越し、声が高い、ラブコメ(ミステリ寄りかも)、男、女?」と、彼自身にしか読めないほどに崩した字で書き殴って、最後にそれらの字を楕円で括った。尾藤の職業病である。パラパラとメモ帳を捲ると、変身。出囃子。廓話。ジャズ。アマチュア。リリーフエース。女子高生。青春。相撲部。ゼロ金利。消費者庁。クレーマー。俺俺詐欺。落とし穴。隣人。空き部屋。夢うつつなどと、雑多に単語が並び、そのいくつかは線で結ばれ、またいくつかは×印や二重線でなかったことにされていた。このメモが創作の足しになることは稀である。

 

ここのメモ欄をヒントに始めた消費者センターのオペレーター物語の連載も三か月で打ち切りになっている。七年も前の話だ。現在、尾藤の作品の中で、それが最も新しい作品でもある。

 

(柄にもなく社会派ぶったのがいけなかったなあ……やはり俺は)

 

尾藤が手帳を閉じると、歩行者信号が青に変わった。交差点を渡り、すぐに交番脇の路地を曲がると、もう尾藤の見慣れた景色に変わる。駅前の目抜き通りとはうってかわって、この界隈は二十一世紀から取り残されたようだった。傾いた電信柱と、塗装の剥げたビールケースと、目ヤニだらけの汚い野良猫が尾藤を出迎えてくれた。

 

「そしてここも変わらないなあ。久しぶりに見るから、かえってそのことが刺激になるな。初心を思い出すというか」

尾藤は一つ咳払いをして、独りごちた。

 

 

 

 

「いやあ、まだこういう喫茶店って残っているんですねえ。うはあ、これなんか、僕の好きだったヤンキー漫画にも出ていましたよ」

 

伊東はルーレット型のおみくじ器をしげしげと眺め、時折下から覗きこんだりしながら熱っぽい口調で畳み掛けるように喋った。彼の純粋な声のトーンからは、屈折したノスタルジックめいたものは感じず、尾藤が子どもの頃、博覧会のパビリオンでロケットの一部を間近で目にした時に発した無邪気なそれと近い印象すら受けた。

 

「あっちの表通りにも昔はこんな雰囲気の喫茶店がわんさかあったんだけどね。外回りの営業マンがサボりにくるような。今のスタイリッシュな、世界中で有名な店とかだとさ、やっぱりサボるって気にはさせてくれないよな。客もノートパソコンとか広げちゃって」

 

まだ話し足りない言葉を一緒に腹の中に流し込むようにして、尾藤はブルーマウンテンを啜った。舌よりもカップの取っ手が熱かった。尾藤は「喫茶セプテンバー」とプリントされた毛羽立ったおしぼりで左手をこねくり回しながら、愚にもつかない愛想笑いでお茶を濁した。職業柄、尾藤は嫌なことは全て左手に任せておきながら、信頼も愛情も、右手ばかり贔屓して注いでいる。そして、お決まりのように、自分の身体すら平等に愛せない時点で、創作者というものは所詮善人には慣れないのだと、すっかり発想力の枯れた自意識を心の中で慰める。

 

彼がここ数年でしていることを端的に話せば、その一言で片づけられる。皮肉にも、尾藤のイメージが何の実も結んでいない今の方が彼と彼の家族は裕福な暮らしを享受できているので、己さえ納得すれば、そのことは彼の尻に火をつける原動力にすらなりえなかった。

 

「けど、先生はそんなサボりたくなるような安らぎの空間で、『ストロングマスク』を生み出したわけでしょ。だからですかね、血飛沫が飛び交っていても、どこか温かみがあって、ガキの頃から好きでしたよ。兄貴の影響でね、ストロングマスクよりもミカド少佐が大好きでして、ミカド少佐みたいな男の話を作りたいって思いで気が付いていたら、こういう者になっていましたよ」

 

伊東は名刺を取り出し、尾藤に手渡した。名刺を手にした瞬間、尾藤は思わずホッとため息が漏れた。彼の名前は偶然にも「伊東」の字で合っていた。いい加減に携帯電話の電話帳に名前を登録していたが、携帯電話の勘もそう馬鹿には出来ないなと、尾藤は変に感心さえしてしまった。

 

同時に、そんなくだらない感心が、「編集部 伊東翔太」と明朝体で書かれた記名の左でポーズを取る鳥人に対して抱く嫉妬心に勝ることに尾藤は自らの老いを感じて、少しばかりブルーにもなった。その鳥人は、伊東の出版社の押しも押されもせぬ看板漫画の人気キャラクターで、一時期、尾藤のアシスタントをしていた男の頭の中から生まれた存在でもあった。

 

「どうもどうも、俺も一応、名刺を渡さないとね。こういう者です」

 

尾藤は自身のプロダクションを抱えている訳でもないし、文化人タレント事務所に所属している訳でもないので、シンプルに「漫画家 尾藤ヒロフミ」とだけ書かれた名刺を伊東に渡した。

 

尾藤はデビュー前の雑誌投稿時代から一貫して、下の名前をカタカナ表記にしたペンネームを使用している。親から授かった本名に、少しだけの意思を混在させたペンネームだ。この名前で呼ばれたり、自ら署名をしたりする時、彼は己がまだ漫画家でいることを許されているのだと強く実感していた。尾藤の唯一の代表作である『ストロングマスク』のテレビゲーム版が現代のハードに移植されたり、国内を代表するパチンコスロットメーカーからタイアップを依頼されたりする度に、娯楽誌やネットマガジン上で「尾藤ヒロフミ」の名前が躍った。彼が二十歳になったばかりの頃、無我夢中で描きあげた世界は未だにかつての子どもたちの心に留まり、酒場の席では時折熱っぽく語られ、キャラクターのモノマネをすることが余興として成立する。そして何より、メディアミックスという形でそのストーリーが幾度もなぞられることは、『ストロングマスク』は経済に影響を及ぼしているということに対しての、何よりもの証拠であった。

 

「伊東……君は、お兄さんの影響とは言うけれど、ミカド少佐のどこが好きなの?」

 

尾藤が、伊東に対して聞きたいことはもっとたくさんあった。そもそも、伊東の脂っぽい肌や襟足から発せられるハードワックスのねっとりした香りから察するに、彼の年齢は尾藤の『ストロングマスク』で熱狂したかつての少年たちよりも少しばかり年少である。そこは兄の影響であるはぐらかされてしまうにしても、何故、主人公よりも作中、永遠のライバル的存在であったミカド少佐を愛しているのか。それだけは聞いておかねば、これから彼とともに作品をもう一度、紡ぎ始めるにあたり、齟齬が生じてしまう気がして、尾藤はならなかった。

 

「ミカド少佐は、ストロングマスクほど強くないからです」

 

伊東は胸ポケットから、もう一枚、自身の名刺を取り出して、鳥人の名刺のマスコットを指示した。

 

「劣性でも殆ど、表情を歪めないストロングマスクと違って、ミカド少佐は激昂するし、涙を流すし、傲慢な表情も、慢心した表情も全部、等身大で晒しているじゃないですか。作中の序盤ではストロングマスクよりも遥かに力量が上で、とても敵わなそうなオーラを放っていたのが、だんだん、戦いで傷を負うに従って、そういう弱みも曝け出していくでしょう。彼が、ストロングマスクの守りたがっている世の平和の中でいかに不遇な扱いを受けてきた弱者なのか。優柔不断で残酷な社会より、ミスター・チェイスのような圧倒的な力を持つものが統べる世の中に惹かれていったか。十六巻ではとてもよく描かれていますよ。アニメだとちょうど、時間帯が日曜の夕方五時から、土曜の七時半に移った頃です。多分、今だとストロングマスクよりも彼に共感する人の方が多いんじゃないでしょうか。ネットでも、彼のセリフが切り取られて、よく掲示板やSNSに流れます。彼のスペックをフォローしたキャラクターも多いですよ。この鳥人T‐マイクもその流れを汲む存在です」

 

伊東の説明は立て板に水を流したようで、尾藤も彼の高説に耳を傾けると、頷くしかなかった。連載当時、雑誌の企画で人気投票を行っても、常に主人公の後塵を拝し、万年三位から五位あたりウロウロするキャラクターであったミカド少佐がそれほどに『ストロングマスク』の世界を飛び越え、少年漫画のシーンに影響を与えているとは思ってもみなかった。今や、尾藤を遥かに超え、世界にも名前が轟く漫画家になった元アシスタントに一言、確かめてみたくなったほどだった。

「T‐マイクって、ミカド少佐からインスパイアされたの?」と。

 

伊東の主張と漫画論は、尾藤が会ってきたどの編集者とも異質のもので、尾藤はその新奇性に己の枯れきった好奇心がみるみる潤っていく気がした。伊東が、愛蔵版のコミックスを取り出し、人物紹介のページのキャラクターたちの間に新しくペンとマーカーで、新たに線を引いたり、色を塗り分けたりする度に、己の頭の中から生まれたキャラクターたちが、創造主にほんの一部分の顔しか見せていなかったことを見せつけられた。まるで、家庭での娘の振る舞いが、彼女の人格の全てであることを疑わない浅薄な父のようで、実際に家庭で愛娘を持つ尾藤は、少し背筋に冷たいものも走った。

 

「……これなら、描ける。ストロングマスクもまた息吹くよ」

 

尾藤が顔を上げると、喫茶店内にもう二人以外の客は一人もいなくなっていた。伊東は何枚かのネーム原稿ともまだ呼べない雑多なラフ画をブリーフケースの中に丁寧にしまいこんだ。伊東にのせられて、尾藤は既に『ストロングマスク』の世界を紙の上に浮かべだしていた。尾藤自身、『ストロングマスク』を連載していた時でさえもここまで筆が乗った経験はなかった。とても、己が数年のブランクがある漫画家であるとは思えないほどだった。

 

「先生の原稿は社にかえって、改めて拝見させていただきます。先生の都合がよろしければ、金曜に今度は社でより具体的な話をしたいのですが。我々の方で、先生のアシスタントになる若い漫画家の卵も紹介したいんです。先生にとっても刺激になる才能だと、私は思っています」

 

伊東は慇懃にお辞儀をすると、丸まった伝票を手に取って、会計に向かった。二、三、マスターと親しげに談笑をすると、領収書を手に取り、ドアの鈴を鳴らすと、ガラス越しにもう一度、尾藤に頭を下げて、夜闇の中へ消えて行った。

 

尾藤がぼんやりと外を見上げると、幾つものヘッドライトの光が上空の高速道路のコーナーを重ね塗りするように黄色く彩っていた。今夜は長距離ドライバーも、警視庁の交通情報にチャンネルを合わせることなく、お笑い芸人コンビの駄弁りに元気よく愚痴を溢していることだろう。

 

尾藤が携帯電話の液晶を見ると、一件、メッセージが残されていた。妻の早苗からだった。

 

「帰りにお醤油を買って帰ってきてください。密封ボトルのやつ」

 

右上の時刻を見ると、尾藤はテーブルに散らばった手帳やインクを乱雑に鞄の中に押し込め、「失礼」とマスターに一言、断って足早に店を出た。尾藤宅の最寄りのスーパーマーケットは夜十時には閉店してしまう。尾藤はスニーカーの踵から煙草の吸殻だらけの地面を強く踏みしめ、勢いよく蹴り上げて年甲斐もなく、疾走した。

 

 

 

 

「ヒロさん、久しぶりに会って話しませんか?」

 

浜岡からの突然の電話があったのも、ちょうど地下鉄を運営する特殊会社のフリーペーパーに尾藤のインタビュー記事が掲載された次の日であった。尾藤は三十代半ば頃から、活躍の場を求め、新人賞受賞から、『ストロングマスク』でのデビュー以来、蜜月な関係を続けていた浜岡たちの雑誌と袂を分かち、以降、直接会う機会がなかったため、浜岡の容姿の変貌ぶりには、自身の老いを棚上げして、驚嘆せずにはいられなかった。

 

「浜さん、誰かと思ったよ! いやあ、あんなに細かった浜さんがこんなに恰幅がよくなって。偉くなっていいモノ食べ過ぎているんじゃないの?」

 

痩せこけた頬に耳たぶ辺りまで伸びた長髪で、いつもボロボロのジーンズの裾を引き摺りながら猫背気味に歩いているという特徴の交通渋滞ともいうべきキャラクターで度々尾藤も作中にキャラクターとして登場させていた浜岡の容姿は、田舎然とした野暮ったさは拭いきれないものの、ダブルジャケットのスーツで隠しきれないせり出した腹を包み、薄くなった頭髪をポマードで束ね、一端の責任者然としたものになっていた。これも編集長の椅子がかけた魔法であろう。

 

しかし、尾藤は浜岡の風貌が、出かける前にたまたまテレビで目にした少数野党の党首のそれと瓜二つであることに気付くと、煮詰めすぎて風味の消えた二種類のジャムを見てしまったかのようで、途端に寂しくなった。

 

少数野党の党首は、その昔、今を時めくヤリ手のビジネス経営者にして、トレンディ女優と浮名を流したこともある罪深い男として、世のサラリーマンたちの羨望と嫉妬を一身に受けた存在であった。そんな彼の座椅子に腰掛け、足をくむグラビアが表紙である週刊誌をぐしゃぐしゃに丸めた紙くずと消しゴムのカスだらけの床に放り投げて、駆け出しの漫画家と編集者であった尾藤と浜岡は口角泡を飛ばしながら、生まれたばかりの『ストロングマスク』の世界を広げていったものだった。

 

「そうなんですよ。医者からも、このままじゃ身体を壊すからジムに通って運動しろなんて脅されちゃいましてね。やんなっちゃいます、まったく。数字なんてデカければデカいほど嬉しいと思っていた俺が今では、血糖値に怯える日々で」

 

「でもなあ、貫禄がついたというか……新党たちあげたあの人みたいだよ、何ていうんだっけかな、ほら……」

 

尾藤がそういって握手を迫ると、浜岡は「あんな時代遅れのキザ男にかあ」と言いつつも目元はまんざらでもなさそうに緩んでいた。

 

「そういうヒロさんだって、大御所漫画家として、この前、インタビューされていたじゃないですか。見ましたよ。ストロングマスクの精神がドライで人情味のない現代社会に求められているって」

 

浜岡は昔以上に背中を猫のように丸めて、尾藤のことを見上げた。尾藤は企業人を自負する人間が慇懃な姿勢を取る時に醸し出される毒素のようなものに辟易している人間である。それを直接自分自身に向けられると、オカルト的であるが、目が本当に沁みたような感覚に陥るのだ。「みっともない姿を晒すのは家族の為である」というありふれた言い分は、妻子を持つ尾藤自身にも痛いくらい分かっている文句である。まして、尾藤は『ストロングマスク』以降、目立ったヒットに恵まれなかった。表現の最前線を行く、漫画という創作世界において尾藤は取るに足らない過去の遺物として、批評家の気まぐれで思い出されたかのようにこき下ろされるか、そうでなければ黙殺される存在である時間がとても長かった。

 

それでも、尾藤は愛想を尽かさずに支え続けてくれる妻や生まれたばかりの娘の為に、そして何より、駄作とこき下ろされても愛さずにはいられない自分自身の作品たちの為に、尾藤は漫画を描き続けた。

 

それだけに、「家族の為」という体の良い言い訳で己のプライドを保ち、「本音と建前」という割には、その毒素すら秘することの出来ない生半可な者たちを許せずにいるのだろうと、尾藤は自分自身で分析していた。

 

(浜さんはそれでも、俺の戦友だからかな。嫌な気分がしないし、毒で目がしぱしぱすることもない)

 

尾藤は無精に伸びた喉元の鬚を擦りながら、

 

「浜さん、褒めても俺からは何も出ないよ」

 

と、苦笑した。尾藤にとって、その言葉は話をはぐらかす常套句などではなく、紛れもない事実だった。今の尾藤はもう漫画の描けない漫画家となっていた。

 

元々、尾藤の代表作、『ストロングマスク』は文学性や政治性というものを極力排除し、純粋な欲望を剥き出しにした腕白な小学生たちを一番の読者に想定して紡ぎだされた世界であった。主人公ストロングマスク自体もそもそもが、当時尾藤が毎週欠かさず楽しみにしていた特撮番組で「君が考えたヒーローも私と一緒に戦ってくれないか?」と、視聴者にイラストを募る企画があり、それに幼き尾藤が触発されて生まれたキャラクターだったので、彼の為のストーリーはそういう世界であるべきだった。

 

だが、同時に『ストロングマスク』の世界観は、円熟期を迎え、老若男女の為に多様化を迫られるようになり、変化を始めていた漫画界において、潮流と逆行する存在でもあった。この漫画の存在をあまりよく思わない批評家や教育者もたくさんいた。

 

しかし、ストロングマスクを素晴らしいヒーローにしたいという青年尾藤の熱気と、クイズ番組で優勝できるほどに脳の容量の殆ど全てを冒険漫画や特撮映画、プロレスの為に捧げていた青年浜岡の膨大なデータにより、『ストロングマスク』は、汗と涙と友情と好奇心と強さへの憧れといった様々な熱を漫画の原動力にして、整合性はあまり取れていなくとも勢いに任せて、完結まで人気漫画の地位を保ち続けた。むしろ、話がクライマックスに向かうに連れて人気は右肩上がりになっていたくらいだった。当時の子どもたちが机に腰掛けながら、キャラクターたちが繰り出す新技の魅力を熱っぽい口調で語りあったり、カーテンに包まりながらアニメーション化されたストロングマスクの特徴的なだみ声を真似したりしている姿が全国で見受けられているうちは、論理を説いて『ストロングマスク』の俗っぽさを腐すことは野暮に見えるのは明白であった為、反対派連中は、『ストロングマスク』の連載中にはせいぜい話題を振られても、他愛のない愛想笑いでごまかすことくらいしかできなかった。

 

アンチ尾藤漫画派の逆襲は、『ストロングマスク』の連載が終了してから暫く。当時の子どもたちに喉仏や陰毛が生えてきたのを見計らってからだった。

 

彼らの感性がより複雑な道理と理不尽に漉されるようになると、純粋な熱狂は幼いころの記憶の片隅へと追いやられていき、彼らの脳内で『ストロングマスク』の世界はぼやけて曇っていった。何より、当の尾藤自身が、より伏線が絡み合う緻密なストーリーと腹にずっしりくるような人間模様を描きたがるようになっていた。無邪気で豪快なマッチョイズムは、『ストロングマスク』を描ききるにあたり、すっかり使い果たしてしまい、もう尾藤の心の中にはEのランプが灯っていると彼自身も感じていたこともあった。

 

しかし、目の肥えた批評家たちから見て、転換期を迎えようとしていた尾藤の漫画は、羽化を始めんとする蛹のように脆く攻撃しやすい格好の餌食であった。

 

高校生の頃から付き合っていた彼女で、現在の妻である早苗との共通の趣味であるグラムロックを題材にしたバンド漫画は、『ストロングマスク』ほどのヒットを見せることなく、三年後の連載打ちきりまでの殆どの話が掲載誌の真ん中より後ろのページを陣取ることになった。画とセリフによって、音楽を表現する試みは、サブカルチャーの情報誌や、ゴシップ誌のコラムなどで「挑戦したことは褒めたいが」という皮肉めいた前置きの後、数年来の鬱憤で塗り固められた批判を書かれることがしばしばあった。

 

次に尾藤が手がけた敬虔な神父が連続殺人に手を染めていく犯罪心理漫画は、漫画家にとって、レビューでこき下ろされるより遥かに耐えがたい憂き目にあった。単行本がまるで売れなかったのだ。その頃には、取り巻く環境がマンネリという袋小路に入ったことを尾藤も浜岡たちの出版社も実感せざるを得ない状況になっていたので、出版社は専属契約を打ち切り、尾藤は青年誌を中心に幾社もの出版社の間を渡り歩いた。

 

だが、どの出版社でも求められているものは、尾藤のオリジナル作品というよりも、かつて尾藤が叩きだした数字でしかないことに気付かされるのにはそう時間はかからなかった。移籍をして来た中途採用者の境遇はどこの世界でもそういうものである。

 

それでも、尾藤はその境遇を反骨精神に変え、様々なジャンルの漫画に意欲的にチャレンジしていった。かつて少年の心を掴んだ尾藤が、今度は少女の心を掴もうと挑んだ少女漫画などは、殆ど、多感な娘に父の作った創作世界で心をときめかしてほしい、出来ることなら幼稚園で「この漫画はパパが作ってるの」と自慢してほしいという欲だけがエネルギーになっていた。

 

しかし、どの漫画も話の中盤になると、『ストロングマスク』ほどの題材への畏敬も理解も自分自身に足りていないことを自覚してしまい、風呂敷を広げるのはいいが、畳めない。何だか尻切れトンボな漫画ばかりを濫造する漫画家というレッテルを気が付けば尾藤は貼られるようになっていた。

 

結局、尾藤は青春期の情熱に、どのエネルギーで対抗しようとも打ち勝つことができなかったのである。家族への愛も、己が積み上げてきた経験も、尾藤にとって、青春の情熱と比べても劣らないどころか、遥かに大切な宝物であったが、それらを燃料にした漫画がことごとく、パッとしない数字に変換されると、客観的に優劣を付けられてしまったようで惨めな気持ちになった。ちょうど、尾藤の娘、鞠里が「私立の中学に行きたい」と言ってきた頃であった。

 

(何も新しい漫画を描くことだけが、家族を支えることじゃないよな。俺には幸い資本を得る力のあるライツを持っている)

 

娘の進学は、尾藤が創作を捨て、過去の漫画、とりわけ『ストロングマスク』の世界を切り売りすることにより生計を立てることを決断するには十分すぎる理由であった。

 

そして、尾藤は漫画が描けなくなった。

 

「ヒロさんにはあるでしょう。描くべきものが……」

 

数刻の沈黙を破り、浜岡が呟いた。ぼやきのような力の抜けたトーンであったが、浜岡の眼光は据えるように尾藤、一点に向けられていた。先ほどまで軽薄な笑みを浮かべながら、自身の血糖値を語っていた男の姿はどこにもなかった。

 

尾藤は、この男の奥には今でも変わらず、ナイフで削がれたような頬の青年が息づいていることを知った。己が感傷で瞳を濁らせたが為に、今の今まで気が付かなかっただけだったのだ。

 

「今、『ストロングマスク』は求められているよ。もう一度、あのヒーローたちに会いたがっている。誰が会いたがっているのか。ヒロさんも分かるでしょう?」

 

浜岡はブリーフケースの中から、自身の出版社が版元のビジネス雑誌を取り出し、机の上にページを広げた。見開いたページには、『ストロングマスク』についての記事が書かれていた。その横に、左上に「社外秘」と書かれたプレゼン資料を添えた。尾藤は資料を手に取り、フラッシュカードを捲るように流し読んだ。M2層のパイだけ赤く塗られた円グラフやリメイクされた家庭用ゲームソフトの売り上げチャートが尾藤の瞳の裏で明滅した。

 

最後のページを捲り終わり、紙の裏に何も書かれていないことを確認すると、尾藤は資料を机の上に戻し、ふうとため息をついた。

 

「けど、ストロングマスクの戦いは終わったんだよ。父であるミスター・チェイスを倒し、彼が戦う理由はもうないんだ。浜さんもそれはよく分かっているはずだ」

 

ミスター・チェイスは、『ストロングマスク』の世界の中で、人類やアンドロイド、改造人間たち全てを統治する支配者になろうとしている人物で、作中の悪役にあたるキャラクターである。主人公のストロングマスクは、ミスター・チェイスの嫡子でありながら、父の、最も力のある者が、その他すべての人格を支配するという手法に反発し、父の組織から単身、どこにでもありふれたような市井の住宅地へと命からがら脱出し、行き場を無くし、倒れていたところを一人の少女ヒカリに見つけ出され、かくまわれるところからストーリーは始まる。そして、ストロングマスクは、敵味方問わず、様々な人々の生きざまを幾多もの戦いの中で触れながら、ついには父であるミスター・チェイスを倒すというのが、『ストロングマスク』の大まかなあらすじである。

 

ストロングマスクとミスター・チェイスの最終決戦は、漫画の人気が絶頂の中、繰り広げられた。ちょうど、アニメの人気の方も軌道に乗り、時間帯視聴率の中でトップを叩きだすようになり、映画版の製作も決まった頃であった。食品メーカーや、模型の制作会社、当時、雨後の竹の子のように増え始めていたゲームソフトメーカーなどが、しきりに尾藤と浜岡のもと、争うように名刺を渡しに来ていた時期だった。

 

周囲が『ストロングマスク』の次の展開を聞きたがり、タイアップの手法を考えていた中、ある時、尾藤は行きつけの「喫茶セプテンバー」でふと、浜岡に呟いたことがあった。

 

「ストロングマスクはこの先、戦うのかな?」

 

「チェイスを倒したら、ストロングマスクはもう戦わないでしょう。彼はそういうヒーローですよ」

 

チェイス戦の次週への引きと柱の煽り文を考えては、手帳を汚していた浜岡は、尾藤の呟きに、手を止め、目を丸くしながら返した。『ストロングマスク』の最終回が掲載される三週間前の話である。自分の城で、出版社から用意されたアシスタントたちを従え、漫画のクライマックスを描くことだけに集中していた尾藤は、後で人づてに聞かざるを得ない話であったが、その頃の浜岡は、編集長からは「正気の沙汰ではない」と、罵られ、あらゆる企業からは、「アイツがミスター・チェイスのモデルなんじゃないか」と、皮肉を相当に浴びせられたのだと聞く。

 

尾藤が、『ストロングマスク』の全てが片付いた後、浜岡に先の騒動を陳謝しに、出版社に向かった際、浜岡は平然としながら、

 

「ヒーローは何と戦うかがはっきりしているからヒーローなんです。俺が愛したヒーローたちは皆それがありました」

 

と、豪語し、初めて会ったときと同じように、尾藤に特撮番組やヒーロー漫画の薀蓄を、声を荒げながら、高説した。

 

(その浜さんが、今、『ストロングマスク』を描くべきと言っている……)

 

浜岡も、中間管理職を経験し、尾藤がかつてそうしたように、創作熱よりも優先すべきものを見つけ、眼光はそのままでも眼差しを向けるベクトルはすっかり変わってしまった可能性もある。

 

「その見たがっている人たちは、老いたストロングマスクを見たいのかな?」

 

未だ、半信半疑の念を拭いきれていない尾藤は、浜岡に意地悪な質問をした。もし、『ストロングマスク』の続編を描くとしても、読者が求めているであろうミスター・チェイスを倒した時の、完全無欠のヒーローになったストロングマスクの状態では始めない。彼ももう、尾藤やかつての読者と同じように、心に錆を携えていると、明言したのだ。

 

「愚問ですよ、ヒロさん。そうじゃなきゃ嘘だ。ストロングマスクだけじゃない。ミカド大佐もヒカリも、みんなです。ちょうど、『ストロングマスク』が連載していた頃、派手な言動で実力は有望視されていても、周囲から疎まれていた若手レスラーがいたでしょう」

 

「ああ、確か、『ストロングマスク』に扮してリングに上がる話もあった彼だね。イメージとか権利の問題で話は流れたけど」

 

「彼は今年いっぱいで現役を退くんです。レスラーから格闘家に転身して、いくつもの名勝負を繰り広げ、一時はチャンピオンにまで上り詰めた彼ですが、その後は度重なる怪我で、一線からは離れている時期も長く続きましね。もうローキックのキレとか、見る影もなくなっちゃっているんですよ。でもね、彼の全盛期は今、今なんです。一つの物語が終わったとしても、彼らの世界ごと閉ざさないでください」

 

一つの世界とは勿論、ストロングマスクがミスター・チェイスとの激闘を制し、世界の平和を取り戻す、単行本にして全二十三巻分の紙の厚みの中に閉じ込められた世界のことである。浜岡は一つの物語は終わった上で、なお、『ストロングマスク』の続編を描いてほしいと尾藤に要求していた。念を押すように、『ストロングマスク』は一つの完結を描ききった作品だと尊重してくれることは、その後は打ち切り作品続きの漫画家であった尾藤の自尊心を大変にくすぐるものでもあった。浜岡越しの西日はもう橙色に膨れ上がっていた。

 

「でもね、人気映画の続編や懐かしいヒットソングが差し出すような時代に抗いながらも、衰えを受容していく紋切型の老いたチャンピオン像を描くのは嫌なんだ。何か違うんだよ。ストロングマスクとはちょっと引っかからなくて……。じゃあ、どういう風に彼が躍動するのかというのを提示できない俺が言っても仕方がないんだけど」

 

尾藤の作り出す『ストロングマスク』の世界を支えていたのは、メカニズムや定理ではなく、もっと指先や掌から蠢きだす情熱のラッシュだった。ストロングマスクたちのアクションやエモーションなどというものは、キャラクター当人から伝え聞くかのごとく滞りなく浮かんできた。珈琲のカフェインと屑煙草のニコチンで胃と肺が汚れている時でも、浜岡が録画してきたタイトルマッチの中継を見つつ、二、三、言葉を交わせば、ストロングマスクたちはすぐ話をしに、彼のもとへ降りてきてくれた。

 

「俺もね、そう思うんです……」

 

そう一言、呟くと、浜岡はデスクに置いてあったペットボトルの中の飲みかけの緑茶を流し込んだ。深緑のラベルの隅で特定保健用食品のマークが躍っていた。

 

「編集長という地位について、俺も一生懸命、新しいものを取り入れようとして、いろいろ試しているんです。SNSのページなんかも同世代の編集に先駆けて始めたりしてね。でも、勉強なんですよ。ちょうど、ヒロさんが消費者センターのオペレーターの奮闘記を意欲的に描いていらっしゃった時期くらいに。……あれも勉強させていただきました」

 

浜岡は喉の奥で小さく呻くと、ブリッジに縞模様が入った眼鏡を外し、親指を左目に、次に右目に、強く押し当てた。尾藤は眼鏡を外した浜岡の瞳孔を覗きこみたかったが、間もなく、浜岡はつい最近、新調したと思われるレンズに曇り一つない眼鏡をまた鼻っ柱に押し当てて、囁いた。

 

「今、俺の雑誌の編集に『ストロングマスク』の大ファンだったっていう若い社員がいるんですよ。俺が昔の担当編集だったことも当然知っていて、いつも休憩室とかで、熱っぽく漫画のことを聞きだすんですよ。ヒロさんにまた『ストロングマスク』を描いてほしいなと俺が思ったのも、そいつのおかげも少しありまして。この前なんか、怪人ツダヌマと人間風見鶏・赤いちゃんちゃんこマンが戦いに敗れた後、どんな人生を送ったのかを聞きだしたんですよ。俺もその時、思い出しましたよ。昔、そんな噛ませ犬のキャラを作ったなあなんて」

 

その二人のキャラクターは、今の今まで尾藤もすっかり忘れきっていた。そんな使い捨て程度にしか尾藤も思っていなかったキャラクターを考察しようとする人間が、それも、一流出版社の編集者の中にいることに、こみあげるにやけを隠しきれなかった。

 

「ヒロさんさえよければ、そいつと今度会ってくれませんか。ニクい奴ですよ。わざわざここで会いたいみたいです」

 

浜岡の話によれば、その編集者は、本日は終日、若い漫画家の原稿を取りに行って、そのまま印刷所へ直行するので、この場に帰ってくることはないそうだった。壁にかかったホワイトボードには直帰というマグネットが貼られていたが、家に帰って、仮眠をとる時間などなさそうだ。

 

「仕事熱心なんだね」

 

「ええ、アイツの抱え持った連載作品は今、どれも雑誌の巻頭カラーを争っているんですよ」

 

尾藤は、「こういう時に、スーツを着ていれば、ネクタイを締め直せるのにな」と思った。

 

 

 

 

尾藤が往年の盟友である浜岡と再会し、若い才能である伊東を紹介されてから、電車内の中吊りや駅のコンコースにストロングマスクのバストアップのイラストが並ぶようになるまではそう時間はかからなかった。

 

日頃、青空やパンケーキにいたるまで、携帯電話のカメラ機能で撮影しては、インターネットの海に無造作に投棄する若者たちに眉を顰めていた中年の勤め人たちがこぞって巨大な看板広告の前に立ち、ピロリロと携帯電話を鳴らし続けた。そして、キヨスクの店員の訝しげな眼差しに気付くと、照れ臭そうに会釈をして、スポーツ新聞と一緒に、ストロングマスクが表紙を飾る青年雑誌を手に取った。

 

かつての少年たちからの、新しい『ストロングマスク』の評判は上々なものであった。とりわけ、ストロングマスクがかつての強さを新シリーズでも、衰えることなく誇示していることに彼らは安堵し、顔を綻ばせていた。

 

「やっぱり、衰えたストロングマスクにしなくて、正解だったかね」

 

「ハイ。四十代以上の読者層は特にですが、ストロングマスクはスーパーカーみたいなものなんですよ」

 

「彼はそんなもんじゃないさ」

 

尾藤と伊東は、出版社のネーム室を貸しきって談笑をしていた。尾藤のブランクと年齢、アシスタントの人数、そして、ネタの鮮度を考えて、『ストロングマスク』は、週刊誌の中で特別に隔週ペースでの連載体制を敷いている。それもまた功を奏した。中間管理職と呼ばれる人々には、一週間くらいは殆ど間断なく仕事に向き合わないといけない瞬間があるのはザラであり、また十四日間という期間は、成人の感覚では程よい「おあずけ」の時間であったようだった。

 

昨夜もテレビ番組の人気漫才コンビが、

 

「まさか、ストロングマスクの挑戦者が怪人ツダヌマになるとは思わんかった。アイツ、レインボーマシンに勝ったんやで」

 

「ホンマか!? って、言うなや、俺、まだ読んでないんやぞ」

 

などと、時事ネタとして、『ストロングマスク』を取り上げ、当時の隆盛を知らない若い中高生の間にも、『ストロングマスク』のキャラクターたちの名前が浸透し始めていた。

 

「先生、今度の同人即売会では、『ストロングマスク』の島がいきなり二つも出来たんですよ。今、ストロングマスク×ミカド少佐が熱いんです」

 

六十一番のスクリーントーンを丁寧にコマの縁に合わせて貼りながら、四条が言った。彼女は昨年、高校三年生の若さで浜岡たちの出版社が主催する漫画の新人賞に佳作で入選し、今は専門学生の傍ら、連載を目指して、読み切り作品を描いたり、様々なジャンルの漫画家のアシスタントに就いたりして、目下修行中の身といった少女である。

 

「同人のことは、俺が学生の頃のことしか知らないから、異世界の言葉に聞こえるなあ」

 

尾藤は頬を掻きながら、苦笑した。尾藤は高校生の頃、漫画研究同好会に所属していたので、二次創作の同人漫画を描くプロ志望者やそれを生業とする同人漫画家の存在は知ってはいたが、彼の情報は四十年近くも前の時点でアップデートが止まっており、今となっては、軽い趣味として漫画の世界に触れる程度の購買者の方がよっぽど情勢に詳しいという有様であった。

 

「しかし、同人内での流行りというものは軽視できないんですよ。その組み合わせの二次創作に多くの消費者たちがお金を出しているというのは、それだけその二人の関係に需要があるということです。ストロングマスクとミカド少佐は、戦いの後、和解したのにまだタッグを組んで戦ったことがないでしょう?」

 

伊東の言う通り、ストロングマスクとミカド少佐が戦いの末、固い握手を交わす見開きページが載った号は、『ストロングマスク』で最も語り継がれるエピソードでもあった。

 

伊東の話によれば、その当時から、ストーリー性からストロングマスクとミカド少佐の二人を取り扱った二次創作は、少なからず存在していたという。そして、親世代からの伝聞からか、何でもリアルタイムに疑似体験できるインターネットの発達からか、今度の新シリーズに際して、雨後の竹の子のように、『ストロングマスク』のとりわけ「ストミカ」と呼ばれるジャンルが同人シーンの中で勃興したのだという。地中で既に芽は生えていたのだ。尾藤も極まれにそういったファンレターを受け取ったことを記憶の片隅から引っ張り出して、思い出した。

 

「けど、私たちのいうタッグというのはそういうものじゃないので……」

 

四条は罰の悪さと気恥ずかしさからか、語尾をごにょごにょと不明瞭にぼかして喋った。近頃の漫画の流行り廃りに疎い尾藤でも、若い女性たちの間で、男性キャラ同士の恋愛描写に価値が見出されていることはなんとなく知っていた。

 

「流石に直接、そんなシーンは描けないけれど、二人の友情にそれだけ尊さを見出してくれているというのは嬉しいけどね」

 

尾藤は四条が描きあげた原稿に再度手入れをしながら、微笑した。

 

「ところで、四条ちゃんは『ストロングマスク』に限らず、少年漫画をたくさん読んできたのに、志望は少女漫画なんだね。それも昔から、純愛モノに一番特化した雑誌の」

 

尾藤は、浜岡がその雑誌の編集長に年度初めに異動になったことをふと思い出した。あの口を開けば、特撮とプロレスの話ばかりで洒落っ気などまるでなかった浜岡が少女漫画誌の編集長とは組織は時折、理解に苦しむ決断を下すものだと尾藤は感じながらも、その縁もあり、こうして有能にして、将来も有望な四条と仕事が出来たのだと思い、コーヒーを啜った。何より、四条の持ちかける流行の漫画の話は、伊東と違ったベクトルで刺激になった。尾藤としては、四条から教えられた情報により、鞠里との会話が増えたことが大きな収穫でもあった。

 

「それはそれ、これはこれです。私がBLで描きたいストーリーを叶えられるのは、ここなんです」

 

尾藤の何気ない質問に四条は強い語気で即答した。尾藤は普段はおっとりとしている四条の勢いに気圧され、彼女の漫画への割きりの良さに、「世代かな」と月並みにして、お粗末な結論で逃げることしかできなかった。

 

「……とにかく、ミカド少佐とのタッグは多くの読者が求めているストーリーです。先生、検討をお願いしたいのですが」

 

伊東は一つ咳払いをすると、キッと尾藤を見据えて、頭を下げた。しかし、本来ならば、頭を下げるほど、恩恵をあずかっているのは尾藤の方であった。『ストロングマスク』の復活は彼の尽力なくしては有り得なかったし、彼のおかげで尾藤は、自身も見逃していたストロングマスクたちの横顔を知ることができたのだと強く感じていた。

 

「か、考えてみるよ。そもそも、悪い手じゃない。でも、ちょっと安直じゃないかなと思ったんだ」

 

尾藤が慌てて、両手を振ると、伊東は下げていた頭をすっと上げ、間髪入れず、よくできた芝居のように囁いた。

 

「ストロングマスクとミカド少佐が手を取り合って戦う。私はずっとそんな光景が見たくて、仕方ない読者でした」

 

「じゃあ、また、『喫茶セプテンバー』で……」

 

 

 

 

ストロングマスクとミカド少佐が初めてタッグを組んだマッチが掲載された号は、雑誌が発刊されて以来、類を見ないグラフの曲線を描きながら売れに売れた。三か月遅れで発行されたB6版の単行本はさらに売れた。本屋が知育玩具のように単行本を積み上げると、消費者たちはハイエナのように『ストロングマスク』の単行本に群がり、印刷会社ではどこか揚々とした怒号が飛び交った。

 

マスメディアはこの現象を無理やりに世事と絡めながら、尾藤が思いもしなかったような見当違いのテーマとメッセージを載せて世に公開した。かつて、尾藤の漫画をこき下した漫画評論家までが「感動の嵐」などと厚かましく褒め称えたのには、尾藤も鼻白むしかなかった。

 

インターネット上では、パートナーになることを持ちかけた時のミカド少佐のセリフが独り歩きし、ありとあらゆるものに対して、いかにミカド少佐風に答えるか、そして、ストロングマスクに繋げるかというなんだか大喜利みたいなものも流行り出していた。

 

「貴様の条件じゃ求人広告を出したって、誰も集まらないだろう。一人を除いてな」

 

早苗がぼんやりと新聞の折り込みチラシを眺めている時、突然、ミカド少佐のセリフを模した言葉を呟き、尾藤の顔を見上げて、照れ臭そうに笑った時は、尾藤は嬉しいというより、『ストロングマスク』が尾藤の頭の内を離れだした薄気味悪さを感じた。

 

「……そうか、今の展開に一番好意を示しているのは、むしろ中年以上の古い読者なんだね」

 

尾藤は、伊東が持ち出してきた購買層のアンケートを集積したデータを斜めに流し読んで呟いた。季節は既に一番暑い時期を過ぎ、九月の終わりになっていたが、尾藤たちはめっきり「喫茶セプテンバー」には赴かなくなっていた。今の『ストロングマスク』はもう軌道に乗り、公転を始めた人工衛星だった。

 

「とにかく熱くなれる展開。そういう分かりやすさを彼らは求めています。とにかく熱くなりたい少年の好奇心を刺激していた『ストロングマスク』にはむしろ得意分野と言えませんか?」

 

「けど、こうなってしまっては、なんだか栄養ドリンクみたいだね」

 

尾藤は宿題となっていたミニバンのテレビCMの為の描き下ろしイラストを机上に置いた。ストロングマスクはヒカリやミカド少佐やミスター・チェイスを乗せられるミニバンがお好みらしい。尾藤はそんなことも知らなかった。

 

「うちの浜岡も再開された『ストロングマスク』の人気を喜んでいますよ」

 

「浜さんも喜んでいるんだ」

 

思えば、浜岡も、そして何より尾藤自身も立派に壮年と呼ばれる年齢だった。

 

「自分自身でも、『ストロングマスク』が当時に負けない、いや、昔以上の人気を誇っているのは嬉しいんだよ。なんというかね、実の子より一足先に子離れをしなきゃいけない時期が来たのかなと思うと、俺もブルーになっているのかもしれない。もっとプロなら作品に対してドライな目も必要なんだろうけどね」

 

尾藤の視線の先には、ガラス窓越しで風に舞うビニール袋だけが映っていた。

 

「いいえ、先生にはそんなドライな目なんて必要ないですよ。先生は愛情と情熱を持って、『ストロングマスク』と向き合っていけば。そういうことは編集者である私たちに任せてください」

 

その後、暫く、尾藤は伊東の漫画業界の愚痴とも世間話ともとれる取りとめもない雑談に耳を傾けては、時折、相槌をうった。尾藤にとって、印象的だったのは、若いデス・ゲーム漫画を描く漫画家は、始めから最後の生き残りは、読者の一番人気のキャラクターにすると予め明言しており、雑誌の人気投票の企画が開かれる度に、人気のなかったキャラクターから殺されていく為、ファンは挙って雑誌についているハガキを買い集め、贔屓のキャラクターの名前を書いては出版社に送る構図が出来ているという話だった。尾藤は、自分自身には到底真似できないなと悟るしかなかった。

 

一通り、雑談を終えると、伊東は十枚ほどの原稿を尾藤に渡した。尾藤にとってあまり馴染みのないジャンルの漫画であったが、コマ一つ一つのきめ細やかなスクリーントーンへの配慮が感じられるこの作品が誰の手によって描きあげられたものであるかすぐに分かった。

 

尤も、そのスクリーントーン自体は普段、尾藤が使用する迫力のあるものとは正反対の慎ましやかでほんわかとしたものばかりであり、また、尾藤の画に寄せず、自らの画風を思いのままに描くと彼女は、こんな人物を描くのかと新鮮な気持ちになった。

漫画は、長身で引っ込み思案で、でも運動神経は抜群の夢見る少女がクラスで一番背の低い俺様気質だけど人情味のある男子に恋をするラブストーリーで、ビビッドな記号をこれでもかというほどに羅列した漫画であったが、それが丁寧に結びつき、キチンとした一つの世界を紡ぎ出していた。一時期、手帳に単語を並べては、その大半を二重線で書き消していた尾藤には出来ない芸当だった。

 

「浜さんが持ってきてくれたんでしょ?」

 

尾藤が尋ねると、伊東は無言のまま、コクリと頷いた。

 

「いい漫画だね」

 

「悪くないでしょう」

 

尾藤は以前にも、一度、アシスタントをしていた者が描いた漫画を見て、こんな気持ちになったことがあったのを思い出した。

 

(彼女は結構、大物になるかもしれないな……)

 

尾藤はふうと大きく長嘆息すると、『ストロングマスク』の打ち合わせに再度話を戻した。無意識に抓った頬は襞を作って弛んだ。尾藤は話を戻しながらもストロングマスクの肌年齢が気になって仕方がなかった。

 

 

 

 

「それはダメだ。作品の世界観が壊れる。それだけは俺も譲れない!」

 

尾藤は海外からの留学生のように身振り手振りを交えながら、声を荒げて、眼前の伊東に抵抗の意を示した。

 

尾藤から発せられる珍しい怒鳴り声に、脇でアタリにペンを入れていた四条は目を丸くさせて、驚いた。

 

「先生、そんな剣幕でどうなされたんですか?」

 

「どうもこうもないよ! ヒカリは使い捨てのキャラとは違うんだよ。あのね、伊東君。漫画はシュミレーションゲームとは違うんだ。編集者の視点では同じキャラクタービジネスの道具にしか見えないかもしれないけどね」

 

尾藤は、四条に向かって、いかに伊東の意見が漫画に敬虔な尾藤のような人間の神経を逆撫でする内容なのかを同意してもらうことを前提で熱弁した。

 

掻い摘んで言えば、伊東は『ストロングマスク』で長年ヒロインとして大切に扱われていたヒカリを青年誌のお色気要員として使ってみたいという旨の発言をし、それに対して尾藤が、「娘を傷物にされた」と激昂する過保護な父親のような尖り具合で即座に反論したといった具合である。漫画家であり、女性である四条は当然、尾藤の側につき、一緒に伊東を批難してくれるものだと信じ込んでいる純粋な瞳のまま、彼は怒り続けていた。

 

「ヒカリはね、ただのヒロインとは違うんだ。『ストロングマスク』は、ストロングマスクしかり、ミスター・チェイスしかり、伊東君が好きなミカド少佐にしたって、戦う動力は理想の為であったり、野望の為であったり、守るべきものであったり、自発的なものではないんだ。けどね、あるじゃないか。因縁とか宿命とかそういう味付けがなされてなくても、ただ拳が筋肉を打つ音に心が躍り、熱狂することが。そういう想いは誰に託そうかと昔、俺と浜さんで話し合ってね。それで生まれたのが、ヒカリなんだよ。前のシリーズでは、ストロングマスクのように強くなりたいと言って、空手を始めるだろう?」

 

尾藤の言う通り、ヒカリは少年漫画の一般的なヒロイン像とはややかけ離れていた特徴を数多く持っていた。名前も与えられないような戦闘員程度ならば、誰の力も頼らず撃退することができるし、強さへの真摯な姿勢から、セコンドのような役割でストロングマスクをサポートするシーンも数多く与えられた。少々、袖があまるくらいに不恰好な道着に鉢巻き姿の彼女は、扇情的なイメージからはかけ離れていて、いわゆる少年の原始的な性衝動を擽るような場面は殆ど作中で描かれたことはなかった。

 

しかし、一方で頑ななほどに、そう言った類のイメージから遠ざける度、一部のかつての少年たちはかえって性衝動を堰き止められた格好となり、成人してから、それが表現欲となり、彼女への過激な二次創作作品が一つのアイコンと化しているのもまた事実であった。尾藤の耳にもそのことは以前から耳に入っていたが、尾藤自身もそうした欲求に理解がないわけではなかったし、そのインモラルさもまた、漫画が包含している要素であると理解していたので、ファンアート的なものには、尾藤は目を瞑っていた。とはいえ、公式の世界でそのイメージを持ちこむとなれば、話が違った。

 

「だから、本格的に今回、ヒカリに見せ場を与えたんですよ。ヒカリはストロングマスクを後ろからでなく横で見たがっていると私はずっと解釈してきました。立派な戦士の一人として、見せ場を与えられるべきだとも思っています。前作でははっきりとしたヒカリ単独のバトルがなかったじゃないですか。私は描くべきだと思います」

 

激昂する尾藤とは対照的に伊東は顔色一つ変えずに、子どもを諭すような口調で尾藤に対して自分自身の意見を伝えた。そのよく密封されたガラス窓のような毅然とした態度は、さらに尾藤の憤懣の熱の排気を妨げる形となった。

 

「もうその口車には乗せられないぞ! コンセプトは良いと思ったよ、正直。でも、シチュエーションだよ。わざわざシャワーシーンから始まって、バスタオル一枚で戦う必要はあるかい? 露出の多い姿で苦悶しながら戦って、ポルノじゃないんだぞ!」

 

「先生、ヒカリは今回の作品ではもう妙齢の女性なんですよ」

 

伊東が親指で眼鏡を押し当てながら、ふうとため息をついた。彼の嘆息はそれ相応の歳にして、折り合いというものを頑なに拒み過ぎているというのも逆に不健全であるという無言の主張のように尾藤は思えてならなかった。話は平行線のままだが、伊東の戦術は尾藤にだけ気後れを感じさせる卑怯な戦術ではないかと、尾藤の心は拗ねる方向に傾きだしていた。

 

「……あのー、先生って、パンチラとか描いたことないんですか?」

 

今まで二人の口論を黙視し続けていた四条が口を開いた。彼女の口から発せられたのは、とても素っ頓狂な質問だった。

 

「いきなり、また、どうして?」

 

尾藤が尋ねると、彼女は、

 

「私もたまに描くんですけど、可愛い女の子のパンチラ。このシチュエーションだったら、可愛いなって時には。女の子じゃなくても、精神的にはパンチラシーンと同じものだったら、大好物なくらいでして。変なことをいっちゃいましたが、その……今回のシーンなら、別にいいんじゃないでしょうか。描き方によっては外国映画みたいでお洒落じゃないですか」

 

と、答えた。思えば彼女は、強面で剛健な男が家庭的な料理がうまいことを褒められて赤面したり、普段、好きな女子にちょっかいを出している男子学生が、いざその相手にちょっかいをそのまま仕返しされると、途端に狼狽したりする姿を好んでイラストにして、SNSの自分のページにアップロードしていた。

 

「ことに意識付けのない安直なスカート捲りや、もっというなら、歪んだ衝動を無差別に吐き出したいが為に、精神的なスカート捲りを繰り返す男や漫画には吐き気を催しますけどね」

 

四条が意地悪く微笑んだ視線の先には、舌禍により謝罪会見を開く羽目になった新党党首のつむじがあった。尾藤は党首のほうれい線と、いつもとは違うシンプルなダークスーツを見て、

 

(キザ男も結局は拗ねるに拗ねられなかったんだろうなあ……)

 

と、初めてテレビの男に同情した。

 

「どうなっても、知らないからね」

 

言っておきながら、すぐさま恥ずかしくなるほどに惨めな発言を、あえて尾藤は口にした。それは自らに腹を括ることを促すかのような唱え方だった。

 

「安心してください。絶対、先生を後悔させません」

 

伊東は先ほどまでの憎らしいほどに沈着な面持ちとはうってかわって、まさに破顔一笑というべきの笑みを湛えて、断言した。

 

(こういう人間が組織の中では出世していくんだろうなあ……)

 

尾藤は伊東の役者ぶりを見て、ふと、世間の荒波に揉まれていたのであろう浜岡の猫背に思いを馳せ、心の中で合掌した。

 

 

 

 

尾藤の心配をよそに、ヒカリのエピソードが掲載された後、『ストロングマスク』の人気はさらに強固なものとなっていた。エピソード自体の評判も上々であり、全てが伊東の思い描いた通りとなった。該当する話が掲載された単行本の通販レビュー欄には、「ヒカリの想いが実った瞬間」、「ファン待望のエピソード」、「人情話の『ストロングマスク』の真骨頂」と五つ星の評価が並んだ。尾藤の漫画の些細な綻びもハイエナのように見逃さなかった批評家たちも、「流石のストーリーテリング」と手放しに称賛し、掌を返す素振りも見せなかった。押しも押されもせぬ少年漫画誌の看板作家までもが、「師匠はすごい」とブログに脱帽のコメントを寄せた。

 

今回の話は、「お色気」、「バトル」、「成長」と散りばめられたキーワードに引っ張られる形で、逆算で尾藤が作成した話に過ぎなかった。ネームをあげるまで一日とかからなかった。にもかかわらず、自身でも褒められることのなかったストーリーテリングの部門で、今回、喝采を浴びているという皮肉に、もはや彼は笑うしかなかった。だんだん、可笑しくて仕方がなくなってきたのだ。

 

「今回の話で興奮されるならまだしも、感動されるとはねえ。伊東君、今回のエピソードの影響で同人業界のヒカリの位置づけも変わったって本当なの?」

 

「ええ、今度の話でヒカリの同性ファンもうんと増えましたからね。R指定の話から、ifストーリーへブームのメインは移ってきています」

 

伊東は先日開かれた、同人即売会の中で目ぼしい作家の同人誌を何冊か購入し、それを尾藤の前に並べた。二次創作の作品を本家の作家の前で見せる行為は限りなくグレーに近い行為であったが、尾藤はそのあたたかい灰色を好意的に解釈し、素直に『ストロングマスク』の影響力を喜んだ。

 

「四条ちゃんも、『ストロングマスク』の同人誌を描いていたんだね。いつ寝ているんだろうね、あの子は」

 

「四条さんのストロングマスクとミカド少佐の同人誌はR指定ど真ん中の話ですけどね」

 

厚揚げを箸で突く、伊東は苦笑を浮かべながらも、その目は安堵感に満ちていた。

 

「娘がね、とうとう『ストロングマスク』に興味を持ったよ……」

 

尾藤は生ビールのジョッキを傾けて、感慨深そうに呟いた。アルコールがもう足の先までまわっているらしく、空いた皿を座敷の脇に積み上げようと立ち上がると、腰が砕けてしまうほどに尾藤は泥酔していた。枝豆の深緑がやけに艶やかに映った。

 

「そろそろ、お会計しないとね。妻が待っているから」

 

千鳥足だけど、機嫌はすこぶるまっすぐな尾藤は、伊東に向かって大仰に頭を下げ、赤提灯の暖簾をくぐった。

「先生、今度はまた、赤いちゃんちゃんこマン出してみませんか?」

 

「いいねえ、ダークホースだ!」

 

尾藤は、商業ビルに臨む地下通路に地下鉄のロゴマークを見つけると、伊東に別れを告げ、よろめきながら階段を降りていった。

 

都心の地下鉄は午後十時を過ぎても、数分おきに電車が到着し、便利なことに特急や快速もまだ運行していた。どんなに酔っていても、帰巣本能だけは鈍らないようで、乗り換えも難なくこなし、私鉄路線と相互乗り入れする地下鉄の電車内で手摺に捕まりながら、尾藤は小さな画面に映る明日の天気を眺めていた。今日は一日、快晴だったというのに、明日はどうやら土砂降りになるらしかった。

 

欠伸を噛み殺しながら、電車に揺られる人々の姿を見ると、老いも若いも皆、一様にトロンとした目つきで携帯電話や雑誌を見ていた。尾藤はその中の一人が『ストロングマスク』が掲載されている雑誌を手にしていることに気付くと、髪に一割ほど冷や麦のような白髪が雑じったスーツ姿にリュックサックを足で挟んだこの男の視線の先が気になって仕方がなくなった。彼の隣には部活帰りなのか疲れて彼に頭を預けながらうたた寝をしているジャージ姿の学生がいたが、彼は意にも介さずページを捲り続ける。尾藤は電車の路線図を見る素振りをしながら、男のもとに近づき、上からめくられる雑誌を覗きこんだ。

 

ページはちょうど『ストロングマスク』のところであった。

 

ストロングマスクとヒカリがさらなる強敵に打ち勝つために特訓をしているシーンだ。ストロングマスクが柄にもなくおどける。ふとした時に見せるストロングマスクの丸くなった仕草にヒカリは腹を抱えて笑う。不自然な形でヒカリのスカートが捲れて下着が見えている。スーツの男は一連の流れをおそらく彼の免許証と寸分違わない顔のパーツ、筋肉の硬直を携えて、俯瞰し続けている。その表情からは、嘲笑も充足も義憤も読み取ることはできない。彼からは、何も読み取れなかった。

酔いの心地良い熱が引いていくと同時に、眼前の光景に居た堪れなくなった尾藤は、思わず声を荒げて叫び、男の手から雑誌を取り上げた。

 

「アンタ、電車内でそんなスケベな漫画を読んでいるんじゃないよ!」

 

熱は引いても、血中にはまだ分解されないアルコールがまわり続けていた。自分自身が車内の衆目を集めているのに、尾藤が気付いた時にはもう遅かった。

 

酔っ払いを冷ややかな目で見つめる優先席の老婦人。小さく舌打ちする禿頭の役員風情の男。何やら携帯電話で情報を検索しているか発信しているサラリーマン。さまざまな視線の集中線が尾藤のもとに降り注がれていた。男の隣で船を漕いでいた学生もハッと目を覚まして、左右をキョロキョロと見回していた。ベリーショートの髪で瞼を閉じていた時には判別がつかなかったが、長い睫と口に手をやる仕草から察するに学生は鞠里と年も近いであろう女子生徒であった。彼女の携帯からは鳥人のストラップがぶら下がっていた。

 

雑誌を取り上げられた男は事態が呑み込めないのか、ただ目をパチクリとさせているだけであった。尾藤は「すみません」と、男に平謝りをして、彼に雑誌を返すと、居た堪れなくなって、次の駅で降りた。

 

嵐のように電車が去っていくのを見届けた後、尾藤はプラットホームのベンチにどっかりと腰を下ろした。早苗には今夜は遅れる旨を連絡しなければならない。

 

ベンチから駅名標を見上げると、ちょうど「喫茶セプテンバー」の真下辺りであることに尾藤は気が付いた。瞳に優しいはずのLEDの灯りは酔っているせいか、やたらと眩しく攻撃的に思えた。

 

急に誰かと話がしたくなった尾藤は、己の恥も迷惑も蹂躙して、伊東に電話をかけた。

 

「もしもし、俺だよ、俺」

 

性質の悪いゲスな笑い声を携えて、尾藤が笑えない冗談を言うと、

 

「その声、先生ですか。どうされたんです?」

 

伊東の声の後ろから、賑やかな声と、流行りのヒット曲が聞こえてきた。彼はどうやら、尾藤と別れた後、はしご酒へと洒落こんだようだった。

 

「漫画って……物語ってさあ。結局、時代のポルノでしかないのかなあ!?」

 

「なんです、急に。それは分かりませんが……。『物語は時代の娼婦でしかないのか!?』って、セリフにしたら、使えそうじゃありません。誰に似合いますかねえ」

 

「ミスター・チェイスなんかいいんじゃない? うん、ありがとう。それだけ、悪いね。じゃあね!」

 

尾藤は重い頭を8の字にまわしながら、電話を切って、嗚呼と声に出して溜め息をついた。そして、息を吸い込んでベンチの隙間に向かって叫んだ。

 

「物語は時代の娼婦でしかないのか!?」

2018年1月31日公開

© 2018 春風亭どれみ

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