休憩時間もたいがい切り上げねばなるまいと思い立ち、ふとダイニングキッチンの方に目をやったら、紙で出来た小さなカップが置いてあった。私は水を飲みたいついでにえんじ色のカップに近づき、ハムスターを捕まえるような手つきでそっとカップに触れた。拍子にぐにゃりとカップは不細工に歪んだのだから、びっくりした。
「お姉ちゃん、またアイス溶けてるよ! また、テーブルの上をベタベタにするつもり!?」
私は肩を怒らせて姉のもとに駆け寄り、意図して曇らせてあるガラス一枚越しに大声で叱りつけた。
「うん、わかったー。今行くー」
姉の間延びした声を聞いて、私は、あと三十分はかかると観念した。彼女が不用意に語尾を伸ばすとき、たいてい心はふわふわとシャボンのようにどこかへ飛んで行ってしまっている。簡単な返事ができる機能がついている少しお腹の中がずっしりしたぬいぐるみに話しかけるみたいなものだ。ぬいぐるみに温い牛乳のような悩みを囁かなくなった頃とほぼ時を同じくして、私は空返事の姉に、目くじらを立てたり、長嘆息を漏らしたりしなくなっていた。
私がモヤモヤしたものを消化している間にも、浴槽の方からはくぐもった鼻唄が聞こえてくる。ショパンのノクターン、それの一番有名な二番だ。姉はおそらくその曲名を知らないし、片時も離さないスマートフォンを使ってその名や背景を調べ出そうともしないが、いたくこの曲を気に入っている。
「またレストラン行ってきたの?」
「そー」
「今日は一人で帰って来たんだ?」
「まーね」
「つまらなかったの?」
ノクターンはボタンを押されたかのように一時停止した。せっかく、「そー」も「まーね」もノクターンの音符に乗せていたのに、惜しい。訝しい沈黙が一刻流れた後、カチリと鍵が開く音がした。
「そう見える?」
タオルを頭の上に巻き、家に居ながら、浴槽の縁に顎を乗せ、目尻も下がりすっかりエステ気分といった面持ちの姉はバタくさい漫画のように泡まみれになっていた。おかげで彼女の生々しい部分が目に沁みることはなかったが、両親も二泊三日の旅行に出かけている今、この後、面倒な後始末をしなければならないのはおそらく私である。
「お風呂ん中、泡だらけじゃん! どうしたの、これ!?」
罰が悪いと察したのか姉はぶくぶく泡の中に潜り込み、迷い込んだアザラシのようなあざとい目をして、返す言葉がないこと、これ以上叱り飛ばさないでほしいということを私に訴えかけた。
「……どこで買ってきたの? 一昨年の過去問、世界史だけで終わるから、それ終わったら、私も入る」
私の諦念のこもった告白を受けて、姉の下がった目元と心もとない表情はふにゃりと緩む。昨日泣いた烏が何とやらである。息継ぎが苦しくなったのか、泡の張ったお湯から鼻までを出して、ちょんちょんとシャンプーのボトルの隣に転がっている海ほたるとかで売っているような、紫水晶の原石にそっくりな何かの塊を指差した。彼女はいつもしまりのない表情をしながら、こと媚びることには一切のぬかりがない。原石にはラベルが貼ってあった。
「ワインの酒石酸で作った入浴剤なんだ……。誰に買ってもらったの?」
おまけに香りはラベンダーときた。道理で、だ。自分自身が学校の華道部に籍を置いているにもかかわらず、この舶来の花の大仰な甘ったるい匂いが、私は苦手だった。
「木下くん、蘭子も知ってるでしょ?」
一方、コーヒーもケーキも大仰なほど甘いものをこよなく愛する姉は私が二、三度だけ、会ったことのある人の名前を挙げた。その名自体よりも、つい先ほどまで浴槽の中で、あどけない小顔だけ覗かせていた姉が、百六十センチメートルないとは思えないほどしなやかに伸びきった四肢を露わにさせながら答えたことに、私は動揺した。私は筋骨隆々の身体よりなどよりも、よほど姉の身体は攻撃的だと思っているからだ。私が見覚えのあるはずの方程式にうんうんと苦悶している間にも、壁一枚隔てた向こう側で、この滑るような孤をところどころに描かせた身体を、弛ませたり、唸らせたりしていることも珍しくはない。姉の方には、悪意はないのだろうが、私が問題文に研磨されて、敏感に研ぎ澄まされているときに限って、彼女はつんと艶めいたにおいを隣室から攻撃的に漂わせるのだから、私の脳裏にそんなイメージが刷り込まれるのも無理はないのだ。
(そんなとき、このニクらしい顔はどう歪んでるんだろう……?)
私には想像も出来ないが、木下さんはその顔を妄想でなく記憶として、知っている。木下さん自体はけっして悪い人ではない。私がまさに志望する大学の先輩で、それも優等生であり、姉とは違い溶けていない柔らかさを持った優しい人だ。勉強もこの前、教えてもらった。しかし、その顔を知っているのは木下さんだけではない。私を苦悶させている疑問符のシルエットで覆われた姉の表情は、おそらく、片手ではギリギリ数えられないくらいの人数が、知っているそれなのだ。
そのことに私は驚きもしないし、倫理を振りかざして軽蔑したりもしない。元々、そういった気質があることは分かっていたのだ。何せ、体操服のズボンが勿体ないくらいの等身しかなかった小学生の頃から、借り物競争で、「好きな人」という悪戯が過ぎたカードに対して、即座に「6」の旗のもとですすり泣いている親友の美奈ちゃんと、入場門の前で念入りに屈伸運動をしているサッカー部の健ちゃんと、アイドル事務所にいたと根も葉もない噂を立てられて囃し立てられるほど人気だった保険医の平岡先生と、あと一人思い出せない誰かを纏めて連れ出すという回答を出し、キラキラ汗を光らせながら、一等賞でゴールテープを切ったことのある女だ。
だけれども、うんと飲み込み、納得をさせることにストッパーをかけるものが私の中には、確実にあった。
こんな気持ちではとても、縁もゆかりも感じられないアラビアの王様たちの名前なんか頭に入って来ないだろう。やはりあのとき、赤本をバタリと閉じ、気分転換と称して、レンタルショップから借りてきた小津映画なんかを見たのが間違いだったのか。
私があれこれ、もうどうにでもならないことどもに思いを巡らせているときも、姉は無邪気に、そして、傲慢に小首を傾げていた。顔中溶けたようなキョトンとした表情でも、下がった二重瞼の奥の瞳だけは、そこにある原石めいた入浴剤のように確固としてキラキラ光っているのだから、私にとっては余計に始末に負えなかった。
「……溶けてる。お姉ちゃんも、アイスも溶けてばっかじゃん」
できるだけ大きな音で私はドアを閉じた。柄にも無く、子どもじみたことをしてしまったと早速顔が火照っていく。私は家がマンションの一階にあることをいいことにずんずん足音を立てて、リビングに戻り、白黒映画の自主的ロードショーをテレビの主電源ごと打ち切った。そして、姉のノクターンが再び奏でられるのをちょっとだけ聞き澄ますと、もう淡いらくだ色をした内容液が漏れかけているカップを手に取り、ティッシュで拭った後、乱暴にそれを冷凍庫の中にぶち込んだのだった。
おこがましい、自意識過剰だと鼻で笑う人もいるだろうが、私が人目のつかないところで、乱暴に冷凍庫のドアを開け閉めすることもあると知っただけでも、私に触れたことがある多くの人たちは、口元を隠して驚き、目から安堵に満ちた軽蔑を滲ませるだろう。
表情筋の微振動に乏しい人間は、もともと熱自体も殆ど持たないものだと信じている人はあまりにも多い。それは、さもそうであってほしいと思わんばかりの圧があり、粘っこい思い込みは誰にも直接のリスクが伴わないことも相俟って、交換日記のようにダラダラとした影響を私にまぶし続けた。寡黙であり、交友関係もおとなしく派手目を避けたグループで固まり、おまけに文化部の中でも華道部に所属しているというプロフィールがより一層のコーティングを施したのは言うまでもない。
そして、極めつけは対照化である。私と姉は同じ高校に通い、年はほぼ三つ離れていたが、私が四月一日生まれのせいもあって、学年は二つしか違わなかった。闊達な姉と寡黙な妹。それだけで私たちはすっかり記号化されてしまった。澱みなく流れるように生きてきた姉は、少なくとも私の目には、物ともせずに生きているように見えたし、金槌を放り投げるような無神経な言葉にも、いつもと同じように弾んだ声で返答したりしていた。姉の脂を塗ったような薄桃色なリップはいつでも変わらずに艶やかだった。それだけに、私は理解もないまま放言できることに胡坐を掻いて姉に接する、教師を含むたいていの男どものことが許せずにいた。ベランダで円座になり、恋愛シュミレーションゲームの批評に口角泡飛ばすニキビ面を侮蔑する清い汗で光る連中も私には、姉のことを、電源さえ立ち上げれば、同じようにのっぺりした笑顔で青空にかかる虹を仰ぎ見てくれるゲームのタイトル画面か何かだと思っているように思えた。少なくとも、鉄筋コンクリート三階建ての母校の校舎の中で、明滅するトーンに溢れた恋愛をするなど、私は考えただけで肩が重くなった。
そんな嫌悪を目に見えて纏っていたのか、事務的な会話から些末なことどもを話しかけてくる人はぼちぼちいても、私に対して、面と向かって、機関銃のような茶々を入れる輩は、三年生の緑色のリボンをするようになるまで、ついぞ現れてはいない。しかし、鋳型に押し込められて窒息しそうになり、記号化のダメージを全面的に被ったのは私の方だった。時折、前触れもなく漂う「嫌な感じ」としか形容できない影めいたものに心を沈められたりして、午後の授業がよく頭に入って来なくて苦労した。部活中、向日葵を活けているときに、とある友人から、
「蘭子って、よく男子から、『アンニュイ』とか『昭和の女』とか言われてるから、こういう花の方が得意って知ったら、驚くんだろうね」
と、声をかけられて、腹が立つ先に、「嫌な感じ」が「嫌な言語」に変化してむしろ、安堵したほどだった。
「そんなんじゃないって、髪もあんまりきっちりしてないおかっぱ風なだけだし、乗せる程度のメークはしてるんだけどね」
私は確かそのとき、力なく笑うくらいの対応は無事にできたはずだ。尤も、ぽかぽかと懐深い彼女が無意識のうちに、それらの言葉の背にこびり付いた不純物をきっぱり漉して、裏のない言葉で私に伝えてくれたこともあるのかもしれないが。
一番堪えたのは、恩師にも反面教師にも与しない、特に志ない教師の何気ない態度だった。そのような教職者は性別問わず存在するものだが、私に無自覚の敵意を醸し出すのは、中年とも青年とも呼べない異性の教師だった。彼は女子の体育を一年の一学期の間、受け持った体育教師で、表立ったセクハラの醜聞や、芳しくない評判を呼ぶような人間ではなかったが、体育会系の訓練を受けていない女子生徒に無自覚の敵意を抱いている風に見えた。担任を持たない彼は女子生徒を、教え子かつ異性として眺めており、器械体操や長距離走で及第点のパフォーマンスを演じられない肉体に、奥歯や踵といった陰になる部分で苛立ちを漏らしていたが、同時に、体育劣等生たちのなだらかな曲線や、突っ張った脂肪に対して、口角や目尻を反応させていた。体育教師から発せられる臭いは、同年代の男子には多かれ少なかれ漂う矛盾のガスだったが、その濃度のキツさに私は胸が詰まって、耐えられなかった。私は文化部に所属する女子の例に漏れず、手を横に振って走り、止まったボールの接面を撫でるように蹴る劣等生であったので、彼の臭気をいつも正面から受けたのだった。私の方も、嫌悪の色を隠しきれていなかったようで、彼も私のか細い了解と力ないイエスを反抗と受け取っていた。
その反抗に堪えがきかなくなったときなのだろうか、一度だけ、彼は私に声を荒げて、怒鳴った。彼は優々と弁を並べ立て、私の態度を数字で批判した。私の反抗の原因も、僅かながら、野性的な勘で察していたようだったが、不均衡な肉体と精神と立場を持つ己の罪深さに跪かないお前が悪いという開き直りさえ透けて見えた。訓練によって、七面倒な内省抜きでも従える力が身についていない者には、そうした手段も辞さないのだと短剣を振りかざしていた。私は平静を装い、帰宅の途まで顔色を変えずにいたが、布団の中で丸まって、夜が更けても、胸を抑え続けた。
翌週、再び彼と顔をあわせたとき、彼の顔はいたって朗らかだった。私の存在を頭の中で、すっかりカテゴライズし、記号化し、加工することに成功したようだった。思い出したくない浅くヒリヒリする記憶だ。
人と人との間に勝手に円を描き、ベン図を作り上げるのは、最も安易で無自覚な人権の蹂躙だと私は信じて疑わない。まして、一語で人を丸かじりしてしまうなんて。そのことから見えるようになった、ありもしない天使の環や悪魔の羽根を崇めるなんて、まったくもって馬鹿げている。おまけにそういった人ほど、幻の環を奪い取った気になっては、そのとき、身体を猛スピードで巡る体液の水飛沫に酔いしれるのだ。まんまと気持ちよくなるために、使われるダシになるのはあまり面白い体験とはいえないし、いつまでも慣れるものでもなかった。
しかし、自由のきかないローティーンの時代は仕方ないにしても、高校の選択で、居心地の悪い芳香をくゆらせた世界から、抜け出そうとする熱を十五歳の時点で持たなかったことに関しては、粗野な分別はある意味では当たっていると言えた。ある意味が意味しているのは、四捨五入や多数決のような大手を振ったイズムであり、そのことが余計に私の心をいがらっぽくさせた。
だいたいのところ、無理もなく通える学区内の公立高校は大目に見積もっても、私たちの住む団地からは三校しかない。三校はうち一校は、元士官学校あがりの風俗が戦後七十年経っても、ありとあらゆるところにこびり付いており、学生スポーツに対して、下手な私立校よりも手厚いという美点に惹かれる者以外には見向きもされない学校であった。診てもらうのも気後れするような違和のために、進んで心を串刺しにされに行くほど私は破滅的な嗜好は持っていなかった。後は、JRの支線を軸にして、ちょうど線対称の位置に構える二つの高校なのだが、そこは校舎が設立された元号、校則で認められた髪の毛の長さと波打ち具合、ブレザースカートのプリーツの本数とリボンのグラデーション、おまけに洋式便器の有無にいたるまで、全てがコントラストに満ちており、偏差値も五十二という数値から美しく等間隔に離れていた。私たち姉妹の前には、枝分かれしたか細い畦道はあっても、殆ど一本に伸びる人生しかなかったのだ。姉の通っている大学は、私の第一から第四までの志望校のどこにも被さっていないけれども、車線が二車線になるくらいの差しか現れてこないだろうという夢のない展望すら抱いている。結局は、乾いた目で見れば、大学の英文学科に通う性格の違う姉妹でしかないのだから。
などと、長々と述べたところで、そんなことなど、今は正直、どうだってよかった。
たった今、私の心を占めている感情は一つしかない。身もだえせずにはいられないくらいに恥ずかしい、だ。
私がつい今しがた起こした不細工な排熱は、未熟な社会生活の中で、まるで排泄のように破廉恥な行為と化していった。この切り出された空間には私以外の何者も呼吸をしていないのにもかかわらず、私は心もとなく窓の外を覗きこんだり、ベッドで布団もかけずに蹲ったりした。そして、今は主語のない歌物語に対峙する気力など湧かず、憎らしいほどに肌触りの良い全統マーク模試の個人成績表のシートの上で、指を無軌道になぞり続けている。
(A、C、C、C……全科じゃBか)
得意教科の英語の配点が大きい分、偏差値は切り上げで六十の大台に乗っていた。
「第一志望にあと一歩」の文字がシートに踊ることは私にとっては立派な快挙であるのだが、結果に対する喜びより、戸惑いの方が遥かに大きかった。先のテストには手ごたえというものがまるで存在していなかったし、事実、誤答の数はそれまでよりも多く、歪な得点者の分布が試験自体のイレギュラーさを端的に表していた。私は芳しくないパフォーマンスで表彰を受けてしまったスポーツ選手の気持ちを、今なら分かるかもしれない気がした。私は○でなく✓を被せられたであろう誤答たちを冊子の中から、おもむろに探し始めた。
私はどうやら未だグラフに対して応用がきかず、問題文の歴史記述の嘘を見抜けないでいるようだった。問題冊子の枠外で暗号のように走り書きされたベン図は見当違いの線引きをしていたようで、小文字の「n」は自信に満ち溢れて、偽りの自己紹介を述べていた。見返せば滑稽だけれども、頭を抱え悲壮な覚悟で「n」にそう命令したのは、紛れもなく二週間前の私なのである。私は個人成績表の右端にカタカナ書きで記された自分の名前をぼんやりと眺めた。
わざわざ母音と子音の欄を黒鉛がはみ出さないようそれぞれ丁寧に一つずつ塗りつぶしてインプットさせたカタカナ表記の自分の名前は苗字に幅をきかせた濁点がある分、スペースの後ろに控える「ランコ」が幾分縮こまって見えて、私は苦笑してしまった。
松崎 蘭子。
漢字に変換すれば、お習字でもバランスがとりやすくて、流暢に小筆を運べるのだけれども。
「これが『マツザキ ミドリ』だともうちょっと違うんだろうなあ……」
私はシートから目を離し、いつの間に居ついたのか思い出せない部屋の装飾たちに視線を移した。藺草の上でずっと正座を続けられる人間は必ずしも、集中力自体に長けているわけではないことだけは、私は明記しておきたい。
どこがというわけではないけれど、全体的に孔雀色をしたディズニー土産の掛け時計は、コンパスを上手に使えない青っ洟が描いた図面のように、針がちょっとだけずれた直角になっていた。私は湯船から上がる気配をいっこうに見せない松崎翠が不平を漏らす前に、リビングに赴いて、人気アイドルが主演のドラマの録画がキチンとなされているかを確認せねばと思い立ち上がった。そして、右腕を床から垂直に伸ばして、猫のように小さく唸る。既に二度も録画に失敗しているにもかかわらず、姉はこの一話完結でもないドラマの視聴を続けている。
「ちょっと蘭子、酷いじゃないー!」
突然、ノックもなしに部屋に闖入者が現れた。姉にしては大声を出し、頭と身体にタオルを巻きつけただけの姿をしていたが、そんなに驚くほどのものではなかった。なにしろ、闖入者は姉以外、ありえないのだ。むしろ、姉以外の両親が入って来たら、急な予定の変更に怖気付き、悪い報せに身構えるだろうし、見知らぬ人ならば、なおさらである。私はたちまち金切り声をあげて、枕をやみくもに投げつけ、上下スウェットの寝間着姿のまま、外に飛び出すだろう。
「何? 録画のことなら、私、前にも言ったよね。自分でやらないお姉ちゃんが……」
「録画はしてます」
私が言い切る前に、姉はきっぱりと答えた。そして、私の眼前に紙のカップを突きだした。不自然に右手を背後に隠しているとは思ったが、アイスを持ってきていたとは思わなかった。そして、いくら私が軽い近視を患っているからといっても、カップと私の距離は近すぎる。人工的な冷気が肌にチクチクするし、カップ越しでもバニラの香りがすんすんと入り込んできた。
「近いって。で、それ、くれるの?」
「蘭子の意地悪。入浴剤、使わせてあげないから」
姉はカップと一緒に持って来たらしいプラスチックのスプーンをビニールの封からピリピリと破いて取り出し、蓋の中のベージュのゲレンデをコツコツと厭味ったらしく叩いた。
「固い……ちょっと溶けてるくらいがいいって、CMでも言ってるでしょ?」
姉は温もった口内で、乳色をした雫がつらら石のように糸を引く瞬間を至高の楽しみとしていることを、私は妹として、知ってはいた。
「録画なんかより、ずっとくだらない」
しかし、私は呆れてため息をつき、馬鹿な野良犬でも追い出すかのように、姉のことを手で払った。姉はあまり固いアイスはお好みではないのかもしれないが、もし、私が気を利かせて、アイスを冷凍庫にしまわなかったら、彼女はみすみす百七十八円をドブに捨てたも同然だったのだ。口の中で広がる甘味を味わえるだけ、感謝してほしいくらいである。
「意地悪、意地悪!」
私に背中を押された語彙力の乏しい姉は駄々っ子のように同じ言葉を繰り返しぼやいていたが、私は何も言わず姉を開きっぱなしのドアの向こうまで、追いやった。
「……そうだ」
姉が突然思い出したかのように、私の方を振り返った。
「今日、夜は人が来るから、さっきみたいにビクンってしちゃダメよ」
「ビクンとなんかしてないって」
「さっきしてたもん。ドア開けたとき、ヒャアって感じで……」
姉はすかさずおどけて、浅ましい新聞広告のように目を見開き、手をパーにして、頬の横に添えた。
「うるさい。なら、しばらく散歩に出てるから。その人、泊まるわけじゃないんでしょ?」
「そうね、二時間……そんなにかからないと思うから、迷惑しちゃってごめんね」
姉は薄ら笑いを浮かべて、私に平謝りした。その態度は謝っているにしては軽薄すぎて普通ならば人の神経を一層逆撫でにさせるようなものだったが、処世と嬌態に長けているはずの姉がふとして見せてくれたものと私の心は都合よく捉え、すっかりやりこめられてしまった。
「でも、その格好のまま行くの?」
部屋に掛けられた姿見の向こう側には、子どものお遊戯会みたいに上下ねずみ色一色に染まった冴えない女の姿があった。右肩も少し下がって見える。椅子に座り続けて背骨が歪んでしまったのだろうか。あまり身体がねじれるのも花を活ける身としては、好ましいものではないけれど、それ以上に今の私は、なんだか直視したくない品の無さがあった。
「……上だけ、着替えていく」
私はラックから、なるべく明るい色をしたTシャツを取り出し、「着替えるから」と再度、姉を追い払った。
スウェットの袖から腕を抜いたら、反対腕の手の甲が脇の下にぶつかった。チクチクした脇はじんわり温もっていた。私は上半身毛羽立ったブラジャーだけの姿でもう一度、鏡に自分の姿を映した。生意気でへちゃむくれな奴が立っていた。安い下着ほど義務にかられたようにリボンやらフリルやら付けていて、それがまた腹が立つほど私に似合わない。もっとリボンは中身のあるものを結わいていないといけないのだ。細く黒いサテンのリボンは指の先でねじったら、いっそうテラテラと空回りした光沢を放った。そして、食品添加物をたくさん溜めこんだ不細工な顔がほのかに火照っていることが、私は一番恥ずかしかった。熱の存在は比喩ですらなく、そこかしこに私の表面に存在していた。
意地を張るようだけれども、私は姉が闖入したとき、さほど驚きもしなかったし、ビクンともしなかった。私の理解は確かにそのとき納得を伴ったものであったし、私の運動神経は物音に対して、そんなに優秀ではない。テレビのお笑いタレントのように、分かりやすく恥を表現できる人間とは違い、未熟な排熱こそが私の恥じらいそのものなのだ。
(頭、冷やしてこないとな……)
私は来客が来る前に、素早く身支度を済ませた。
最初に静寂を「シーン」と表現した人はいったい誰なのだろうか。そういえば、「夜のしじま」という言葉も私は好きだったなと思い出す。「ナイト」でもなく、「ニュイ」でも、「ノッテ」でもなく、今、この空間を支配しているのは「夜」だ。はんなりとしていてながらも腹黒そうな響き。きっと、西の方に住む夜の女神の管轄からはちょっと外れているのだろう。夜はいつも手をかざせば、空気がしっとり根を張っていて、その中でそっと帆を立てれば、空気が擦れる音がする。雨が降る日でも、風の強い日でも、どういうわけか夜はそうである。鼻は塞ぎたいけど、耳は澄ましたい。孤独な軽自動車のウィンカーだけが、カチカチとメトロノームのように一定のビートを刻んでいた。
何気なく、塀の上に目をやると、恥知らずな野良猫が尻尾だけツンとあげて、ぶんむくれてへたり込んでいた。私はスマートフォンを取り出して、すかさずカメラモードに切り替える。液晶の画面越しに焦点をあわせ、えいとばかりにタップする。液晶の画面にはぼんやりと照らされた街路樹と印象画のように縁が溶けた猫の塊が映し出されていた。改めて自分の目をもって見つめると、鈍い色をした丸い道路標識は、濡れたように青く光っていて、それが一番、デジタルの虚構なんてものを端的に示しているような気がした。液晶に映った画面は、実にいいにおいのしそうな画なのである。今も鼻をつつきまわしている、一キロメートル先の牧場から運び込まれる糞と土の暴力的なシンフォニーなど存在していないかのようなふるまいを液晶の画面は見せていた。
(これじゃ、瓶の中に詰めて、ネットの海に放り出すにはあまりに忍びないなあ……)
にわかに熱くなりだしたスマートフォンが赤を灯しながら蓄電の不足を嘆いていたので、私は一度すべてのアプリケーションを畳んでから、それをスウェットのポケットに突っ込んだ。
大きめのロードサイドに屯して、進んで豹の柄や、ピンクの迷彩で主張したりする神経は理解できない。けれども、清涼感溢れる夏服のカーディガンとピシリかしこまった紅の衣と海老茶の帯に日中ずっと身を包み、さらには不文にして玉より堅いロールプレイを要求させられて、家の鍵をまわす頃には、私もすっかりベコベコに凹んでしまっている。回復をするためにも、こういった性別も分別もない服でふらつきたくなる気持ちは私にもよく理解できた。その上、高校生にもなれば、地元でバッタリ知人に会う回数も減るし、会ったとしてもそこにコミュニティはもう存在していないので、安心して井戸端会議に花を咲かせられた。ほんの少しだけ廉恥の情が酸っぱく突くくらいだが、それも一時的だ。繰り返し言うが、選択と洗濯に耐えた関係以外のコミュニティは綺麗さっぱり瓦解しているのだ。恥辱が尾を引くことはない、おそらく――。
「あれ、蘭子ちゃんじゃんか、どうしたの?」
誰もいず、何者も私を振り返らない世界は、前兆などなく唐突なく終焉したようだった。街路樹を抜けて、スーパーマーケットの駐車場に差し掛かると、ふいに私を呼びとめる聞き慣れない声がした。まだこの声帯に認識システムを認証させていない私は、呼ばれた方へ振り返った。
「木下……さん、ですよね?」
暗がりの中で、識別にどうしても自信が持てなかったので、私はいささか失礼な返答を闇の中の誰かに対して、した。
「いかにも、俺は木下薫です。どしたの、息抜き?」
「……息抜きの息抜きって感じです」
「そうか、それは大事だ」
木下さんはカラカラと笑った。木下さんは黒縁の眼鏡をかけていながら、チャラくもなく、オタクっぽくもない雰囲気を醸し出している人で、レディースモノっぽいガウチョパンツを好んで履いていること以外は、私にとってマイナスポイントが特にない人であった。おまけに学部は違えども、第一志望の大学の先輩にあたり、オリエンテーション、サークル、全学共通科目について、二次試験のクセや、センター試験の勉強方法などを教えてくれて、打算的な自分自身に時折辟易はしながらも、私は彼に悪くない印象を持っていた。姉が関係の整理を思い立つような気まぐれを起こしたら、この人を残しておいてほしいと思う程度には、認めてもいた。だが、それだけに私は、彼が現状に満足しているのかどうにも疑わしく感じていて、お腹の中を浮遊するモヤモヤを拭いきれないでいた。
「木下さんって、そういえば理系ですよね?」
「俺の学部、理系って、言っていいのかなあ? そんなガチガチじゃないんだけどね……」
どんな話題でも付いていって、それでいてマニアックでなさそうで、衒ったりもしない木下さんは学部まで、木下さんらしいのだなと、私は思った。持っている熱が、私と違って、恥ずかしくなく、春風駘蕩とでも言おうか、「どこか温かい」というずるい言葉で片付けることのできる、ある意味では一番、無自覚にしたたかな人種である。
「今の研究内容は、女子高生に話すとセクハラになっちゃうからなあ」
木下さんは、それとなく話を「それはそれとして」に繋げたいそぶりに見える。
「もったいぶらないでくださいよ。心理学とジェンダー規範との認識論とかだろうが、性的倒錯の神経学だろうが、私に対して直接欲情をぶつけられなければ、別にセクハラだとは思いませんから」
「蘭子ちゃんはいつもすらすら具体的に話すから、話してて飽きないよ」
そう言って、木下さんは口元をポリポリと掻いた。癖と言うよりも、意思表示が籠っているように私は何となく思えた。
「お姉ちゃんは、いっつもぽんやりしてますからね」
「ぽんやりかあ……、翠は形容詞が多いからね。でも俺、それ、羨ましいと思うんだよ」
形容詞。考えたこともなかった。どうして姉ばかりがこんなに柔らかそうなのかとは、思っていた。部屋干しされた布類を見ても、私と姉は身体つきもそう大差ない。身体でなければ、性格かと考えたこともあったが、そうか、言葉か。確かに姉は、あまり言葉を漢字に変換せず、ひらがなのままで済む言葉を好んで繰っていた。
「私とは正反対って、言いたいんですか?」
暗闇でしっかりは顔が見えないのをいいことに私は、余所行きの顔を解いて、恨みがましく唇をきゅっと上にあげた。
「意地悪だなー」
木下さんの語尾は、姉とは違って、伸びたら不自然だった。本人もそれを思ってか、照れ臭そうに、車のキーをクルクルと指にかけてまわしていた。姉との写真で見たことがあるが、確か車種は日産のキューブだったはず。あの特徴的な形はさして車に詳しくない私でも知っている。姉はブランニューな女子大生よろしくスペックで人を選ぶ人ではないから、キザなオープンカーで団地に横付けしたりするような悪趣味なのとは付き合わない。充足をモットーに置く。悪い言い方をすれば、関係に展望なんか持っていないのだ、あの人は。だいたい、将来性とか玉の輿とかを考える人はもっとコソコソしている。こんなに明け透けであるはずがない。それは妹である私が最もよく知っているつもりだった。
(しかし、木下さんは私ほど理解しているのだろうか……?)
「何を理解しているのか」に関しては、私自身も断言できないくらいコードはぐちゃぐちゃに絡まっていた。解けば、一本の線になるとも思えなかった。私の身体に、直接、心臓に水をかけられたような気持ち悪さがこみ上げた。
「あ、長々話しちゃってすみません。姉を待たせてるんですよね……」
私は思い出したかのようにおしとやかな高校生の声で、木下さんに言ってみた。普段、校舎で演じている声色よりも幾分、媚びた要素を含むトーンで。完成された姉の嬌声とは比べ物にもならない粗雑な出来ではあるけれど、もうすぐ姉と交わすだろう糖度の高いピロートークへの揶揄には、十分なほどであった。
しかし、木下さんの返答は私の予想するものとは裏腹なものだった。
「翠のことは別に待たせてはいないよ。俺が勝手に来ただけで。こんなことを妹の君に言うのも情けない話だけど、今日は喧嘩別れしちゃって、プレゼントを渡しそびれちゃったんだ」
木下さんはサックスブルーのキューブのトランクを親指で指し示した。トランクの中に入れるとなると、それなりに大仰なプレゼントなのだろう。そんなプレゼントを喧嘩別れ後もわざわざ用意して、家まで持ってきた男を無下にして、姉は別の男とベッドで戯れるつもりでいることが、彼の発言によって同時に判明した。
(別の彼氏からのプレゼントで身を清めてから、男を出迎えるのか……。これで罪悪感もないんだもんなあ)
どれが姉自身の購入品で、どれが贈与品なのかなど私はいちいち把握していないので、何とも言えないが、姉は化粧品から日用品の多くを芸能人やアスリートかのごとく、贈与品でまかなっている。ただし、彼女の趣味嗜好ははっきりしているので、お気に召さないものはたとえ高級品でも使わない。未開封のまま放置されているグロスや香水なんかは無条件で贈り物なのだなと分かる。ついでに言えば、私はその一部を姉に断ってから拝借しているので、余計に余計なイメージが匂いと共に付随するのではないかと踏んでいる。
「お姉ちゃん、今日も木下さんからのプレゼント使ってましたよ。泡の出る入浴剤。嬉しそうにしてましたけど、うち、ああいうのやると掃除が大変なので、そこのところ……」
私が疲労感のこもったごにょごにょとした口調で、自分自身でもはっきり頭の中で、固まっていない発言を垂れ流していると、木下さんは遮るように、
「ありがとう。気遣ってくれてるんでしょ?」
と、私に対して微笑みかけてくれた。交差点を右折してきたハザードランプに照らされて、彼の顔は点滅しながらも、はっきりと私の目に映った。
「俺、減点されちゃったかあ……。いや、それも自惚れかな? 翠のことだから、そういう気分なんだろう」
木下さんは車の鍵のボタンを押して、トランクに向かった。私は後ろを向く、木下さんの肩幅の狭さに、何だか腹が立ってきて、言葉にならない声をあげたくなったが、ぐっと堪えた。
「でもあの入浴剤、そんな心境でも構わず使ってくれるんなら、選択は間違ってなかったんだな」
「そうですかねえ、私なら姉の名前に合わせて、エメラルドっぽい色にして、『君にピッタリだと思って』とかそういう言葉のひとつでも並べて渡しますけど。木下さん、そういうのが下手なんですよ」
「緑色のは、シトラスの香りだったからさ」
シトラスの香りの湯船に、おそらく姉は浸からないだろう。渡したとしても、洗面所の棚の中の、父のシェービングクリームの隣あたりでいつまでも眠るだけだ。私もそれは分かっていた。分かっていたが、木下さんの回答には、どうしても及第点をあげる気にはなれなかった。
「でも、私はああいう甘ったるい自己主張が強いのは嫌いなんです」
甘くて艶めかしい味や香りはいつだって攻撃的だ。その毒を相手に微塵も感じさせないところが凶暴だ。そして、その強靭さに両手をあげて全面降伏をするのは、もっと残酷で攻撃的な行為だと、私は思っている。
プレゼントには、相手の喜ぶものを。当然その通りだし、何も間違っているとは、私は思わない。誰の手元に行くか分からないクリスマス会やお誕生会のプレゼントなら、それは全面的に正しい。けれど、木下さんはこと姉に関しては、もっと間合いを詰めないでいるのは嘘で、軽薄で、卑怯だと私は思った。私ならば、もっと私自身の意思をプレゼントに溶かし込む。
「華道部員の言葉って考えると、厳しいね。蘭子ちゃんはどういう匂いがいいと思うの?」
「美しいと思うのは、松茸とかヒノキです」
私が即答すると、「軽薄」な木下さんは、
「あんまり、華道関係ないね。なんというか、花より団子」
案の定、私が笑いを取りにいったと思い、安心しきって笑っていた。木下さんと初めて会ったとき、私は自分の家で、姉が恥ずかしそうにしている横で、美味しい炊き込みご飯をたくさん食べていた。私が背丈のわりに大食なのは、学校でも、どこでも隠してすらいないが、こと私のおしとやかイメージの前には、四捨五入とばかりに、あっさり切り捨てられるのであった。しかし、会って日の浅い木下さんには、その残像はしっかりと残っている。触れていいのかも分からない、「女の大食い」という悪口かどうかも判定しがたい肩書きにあぐねていたのに、私の方から、まるで黄色い戦隊のような間の抜けた発言が出たものだから、彼は免罪符を手渡された信徒のように険の取れた顔になった。
「においは恨みがましいんです。なんか演歌の女みたいに。儚さを分かっていながらも、燦然と輝いてほしい活け花には、そういう未練がましいのは余計なんです。少なくとも私には」
元々、ラベンダーのようなコテコテの洋物の花は好みではないが、そういった理由もあって私は、とりわけ向日葵や木蓮のような花材に対して一礼する。ついでに言うと、演歌のことなど、私は全く分からなかったが、言葉の勢いで口を突いて、そう出てきた。
「だから、美味しく食べられるよって、誘ってくれる香りの方が、私は好きです」
「蘭子ちゃんはやっぱりいつも一を聞いたら、十も二十もいっぱい掘り下げてくれるから、話してて楽しいよ。ちょっとふざけた質問かもしれないけど、怒らないでね。蘭子ちゃんは、蘭の花はどうなの? においとか、あと、活け花のネタに使うのかとか……」
蘭子だから、蘭。華道部の間でも聞き飽きるほど、投げかけられる質問なので、私は怒る気もしなかった。回答をするならば、例の花については、愛と憎を繰り返し、繰り返し、抱いた上に今はちょっとだけ悪友のように愛せている。気分が乗れば、花材に使うこともある。
蘭子以上に、姉の名の翠という名はレトロな響きを纏っている。彼女が自らの名にどれほどの愛憎を持っているのか、そして、持っていてほしいのかを知りたくて、私は秤の上にモヤモヤしたものを乗せながら、いつも、いつまでも待っていたのかもしれない。
「姉に蘭の花を渡すつもりですか? あてつけや拗ねのつもりならみみっちいと思いますよ」
「いや、蘭の仲間だけど、蘭の花ではないんだ。さっき、ネットで調べて知ったもんで、ラン科らしくて」
木下さんがトランクを開けると、いかにも観葉植物然とした佇まいで、ギターのアンプほどの背丈はあるのではないかという大きさの植木が置かれていた。花はまだすべて蕾だったが、その一つ一つが芳しい香りを醸し出していた。
「これって……」
「全部、バニラの花の蕾だよ。蘭子ちゃんが、『においは恨みがましい』なんて、言ったときはドキリとしちゃったよ。やっぱり、俺って、潔さとかに欠けるのかなあ」
バニラの蕾は、においだけでも泡が立つのではないかと、思うくらいに、甘い香りを放ち続けていた。いかにも姉が好みそうな、食い下がり、媚びたにおいだ。さまざまな洋菓子がふわふわと頭に浮かび、食欲もそそる分、薔薇やラベンダーの香りよりかは、私も幾許か、気を許したくなる。
木下さんがしたためていた本命のプレゼントは、姉に花を持たせながらも、爪を立てて、首筋に傷を残そうとしている努力が見受けられた。彼は、表面こそ冷静でありながらも、確実に発酵していた。姉が快への享楽ばかり強く、奉の魂に対し、鈍感であることに、彼はむしろ感謝しているのではないかと、私は感じた。そう思っているうちにも、夜気はしんしんと冷えていく。バニラの香りは中に熱い甘さを持ったまま、先端を研磨し、尖らせていた。
木下さんは、私のおせっかいなどあざ笑うかのように、K点を軽く越えてみせたのだ。彼の答案は及第点に達していた。しかし、その答案に目を通した私は、いよいよ筋肉の隙間や指の先の神経を間断なく暴れまわる熱気を取り押さえられなくなっていた。
「翠がお取込み中なら、俺が行くのは間が悪いよなあ……二階の玄関口までは勿論、俺が持っていくから、これだけ翠に渡してもらえないかな」
木下さんは植木の裏から、縁にバニラの花のイラストをあしらったカードと、ボールペンのように細い万年筆を取り出した。花屋にしてみれば、大きな買い物の部類だ。サービスの一環なのだろう。万年筆は中にインクを内蔵しているようで、木下さんは運転席に座ると、ダッシュボードの上で、カードにスラスラとメッセージを書き綴り始めた。英語には筆記体があるが、日本語の字面でも、万年筆にふさわしい書体はあるのだなと、私は助手席に乗り込みながら感心して、隣の席のペン運びを見ていた。
車は、後部座席に芳香剤が焚かれていて、青リンゴに似せたポリゴンの荒いにおいと、バニラのとろけるような甘いにおいが混じり合って、不快な刺激臭となっていた。
「すぐだから、ごめんね」
木下さんは、そう平謝りすると、後部座席に身を乗り出し、クッションを退けて、畳まれていたひざ掛けを私に寄越してから、エンジンをかけた。車のフロントガラス越しからも、松崎家の部屋の明かりは煌々と照っていて、私の目にも確認できた。蛍光灯の中の、ハロゲンランプは一際、橙色に目立ち、私は少し気恥ずかしかった。その部屋の中で、姉と上背のある誰かが、重なり合って、言葉を交わしているのだろうか。ムードが情事にどう起因するかなど、私は知る由もなかったが、姉は抱き寄せる愛人の顔を目にしかといれたいタイプの人間のようなのだ。私がすぐに帰ってくることを知っている以上、あんまりまったりもったりしていることはないだろう。車がスムーズに動いている間、木下さんは一言も発さなかった。私はたった今、シートベルトに通した腕を、そのままビデオの巻き戻しのようにして、シートベルトから外していく。ふと脇の方を向くと、木下さんの首筋がじんわり汗ばんでいた。顔はいつものように涼しく好感度の高い笑みを湛えていたが、首筋は意外なほど黒子が多かった。
(ひざ掛け、用意してもらったけど、いらなかったな……)
片肘をついて、窓を見ていると、サイドブレーキを引く音が聞こえた。
郵便受けから、振袖レンタルのダイレクトメール一通を受け取ったら、足早に玄関まで着いた私と違い、木下さんは、たかだか、二十数段の階段を昇りきるまで、五分、費やした。ゴリラのように腕をだらりと垂らして、えっちらおっちら昇って来た。サイズも考えずに、大仰なプレゼントを用意したのは、彼自身である。わざわざ手を貸してやる義理はない。
目標の階に到達する頃には、木下さんは肩で息をし、彼の水色のネルシャツは、背中と脇の部分がすっかりネイビーに変色していた。
「おつかれさまです」
「……いやあ、きついね。エレベーターほしいよね」
息が荒いまま、話すと、少しハスキーボイスのようになるのが、私は少しおかしくて、ふふっと声を漏らして笑ってしまった。木下さんは、家庭教師と予備校のチューターのアルバイトをかけ持っているらしいが、なるほど、これでは引越し屋のような肉体労働はできまいと、私は納得した。
「じゃあ、よろしく。今度、埋め合わせはするからさ」
そう言って、彼の視点ならば大変気まずいであろう現場から、足早に去ろうとする木下さんを私は、
「そうだ、ちょっと待ってください!」
と、呼びとめた。それはぽっと口をついて出てきた言葉であり、底意地の悪い私の心が囃し立てたのかもしれなかった。
「木下さんのセクハラじみた研究内容って、結局、何なんですか?」
「ええ、それ今聞くゥ?」
木下さんは疲労感溢れる薄ら笑いを浮かべながら、両手をすくめて、アメリカ人みたいなわざとらしいジェスチャーを取る。
「射精能力を失った老人の性欲……というより、性衝動がどう発露していくかみたいなことをプレゼミでやろうと思っててね。こんなのは中間的な学部じゃないとできないよ。純粋な理系の人が目くじらを立てる」
「たとえば?」
「今はあたりを付けてるだけだから、まだ学術的根拠も何もないけど、サンプルをかき集めてるのは、老人が好きな桟敷席からの屋号の掛け声とか、放り投げる座布団とか……って、高校生じゃ、ピンと来ないかな?」
「馬鹿にしないでください。私、学校ではわりに古風な奴だと思われてるんですから。座布団はまあ、分かりますよ。亡くなった祖母が貴ノ浪のファンだったので、小さい頃、付き添って、見てましたもん。手足の長いお相撲さんの流れる動作が一番優美だなんて言ってました」
私はおどけて手刀を切る真似っこをしてみせたが、心中は、けっして穏やかではなかった。
いつどちらがどちらにとっても間男である存在に、鉢合わせするのか分からない。そんな環境から、彼は軽口を言うことによって逃げ、けっして間合いを詰めようとはしなかった。彼からしてみれば、想いを込めた花を贈りつけた時点で、一仕事終えたつもりなのかもしれない。潔さと臆病さが共依存し合う関係をキッチュであると認め、自分自身をコミカルに演出する魂胆が見えた。理解はできても合点いかない。私の芯は、黒い煙を立ててぶすぶすと燻され続けているようだった。
「でもやっぱり、セクハラです。最低」
私は低いけれど、よく通る声で吐き捨てた。
去り際の木下さんにもそれはしっかりと聞こえていたようで、
「理不尽だなあ。俺も……貴ノ浪みたいに力持ちなら、これくらい訳ないのにな」
と、私の方を振り返って、言葉を漏らした。そして、再び私に背中を向けると、今度こそ彼は階段をそろそろ降りて、去っていった。木下さんの車にハイビームが点くのを確認すると私は、への字口のままでインターホンを押した。家の鍵は持っているので、無言のまま家の中に闖入することもできないわけではなかったが、武士の情けだ。
「ハーイ、あ、蘭子、おかえりー」
スピーカーから聞こえる、ただでさえとろんとした声をさらに一オクターブあげた姉の余所行きの声は、もはや人声を通り越して、木琴にも似ていた。幼児が触れる楽器はトライアングルにしても、カスタネットにしても、タンバリンにしても、やはり、ギターやサックスなどより、嬌態に満ちている。スモック姿の小人に囲まれながら、木琴を軽やかに奏でる姉の姿は夢の中でなくとも、容易に想像できた。
パタパタとスリッパが床を鳴らす音が聞こえたと思ったら、ドアノブが九十度回り、艶やかな姉の顔が満面の笑みで私を迎え入れてくれた。身内ののろけだ、色眼鏡だと笑われるかもしれないが、このときの姉はいつにも増して美しく、客観的にもモデルの事務所だとかが名刺を渡しにくるのではと思うほどに、豊かさに溢れていた。
しかし、気を許し、口元の緊張を解こうとした私の神経にブロックをかけたのは、やはり嗅覚だった。
姉の後ろを決まりが悪そうに、二メートル近い長身を猫のように丸めながら、見知らぬ男が現れたので、私は会釈をすると、男は、
「……ッウス」
と、呟き、クロックスのサンダルの踵を潰しながら足を馴らし、猫背のまま扉の向こう側へ消えていった。男が私とすれ違うとき、ツーブロックにした後頭部、特に耳のまわりから、ぷんと変な臭いがした。雨上がりの草いきれや掘り返した花壇の土のような、そんな臭い。浅黒い男は、顔もぴちっと張っていて、まさか加齢臭ではあるまい。不快ではあるが、生理的嫌悪とも少し違う。姉は門戸を開放的にしてこそはいるが、不文律の公証をきちんと整備している。規制と規定があるために、姉が部屋に倫理的に嫌悪感を抱くような顎が幾重にも畳み込まれた中年男や、言葉を一言返すだけで口角泡飛ばして、応戦してくるカマキリのように神経質な男を連れてくるようなことは、ずっとなかった。
明らかな人格落第者を除外した後に、姉のフィーリングによって選抜された男たちは、個性の違いはあれども、一般的にはできた人が多く、今すれ違った彼もきっと朴訥なだけの好青年なのだろう。問題は私の方にあるのも、分かっていた。
(ダメだこのにおい、気持ち悪い……)
私はふらふらと玄関に逆戻りし、一度脱ぎ掛けたパンプスにもう一度足を通す。あざといと内心罵っていたのに、今はあのとろとろに甘いバニラの香りに抱擁されたくなっていた。
私が玄関を開けると、生々しいにおいは打ち消され、部屋は風にそよがれた甘い香りに包まれた。祝福されたものに対し、五感が特に優れた姉は、即座に、
「あ、いい香り」
と、うっとりしていた。そして、扉の向こうの大仰な観葉植物を不思議そうにしげしげと眺めた。
「それ、なあに? 蘭子が、部活用に買ってきたの?」
姉は丁寧に疑問符を二つ並べて、私に問いかける。大きな鉢を抱え込んだ私は、首だけで頷いた。いくら一瞬だけとはいえ、木下さんのプレゼントで掌を痛めるのは何だか癪だった。
「……それでもいい気がしてきたんだけどね、ハイ、郵便」
一息ついて、汗をぬぐった私は姉に、木下さんが即興で記したカードを手渡す。姉は一通り、彼の書く流麗な文字列に目を通すと、
「まだ蕾なのね……この花、きっとかわいくなる」
と、呟いた。
「お姉ちゃん、その花、何の花だか分かるの?」
私が、姉の悦に入ったコメントを茶化しても、姉は眉ひとつひくつかせることはない。
「脱衣所が甘い香りに包まれるのは、素敵じゃない?」
「ええっ!? 部屋に置きなよ。お父さんとお母さんの意見も聞かずに……」
姉は質問にリアクションを取るどころか、逆に、私に対して、提案を持ちかけた。突然のことに、私は呆れて三枚目の役者のように目を丸くさせ、素っ頓狂な声をあげてしまった。リアクションを取らされたのは、私の方だった。
「二人とも気に入ってくれるはず。それに、部屋はもうローズの香りにするって決めてるから……」
「また、そんなこと言って……」
そうは毒づきながらも私は糸で操られたかのように、同意してしまった。姉は満足げな足取りでリビングへ向かっていた。ソファの上に、美顔ローラーが転がっている。母の不在をいいことに、無断で借用したのだろう。私は、蕾の力を借りずとも、姉はすでにバニラのフレーバーなんてものに包まれている気がした。
(名詞って、結局は形容詞に呑みこまれるんだな……)
木下さんは、もっと気持ちのいい虚脱感と無力感を噛みしめることもあるのだろうか。それをわざわざ言葉にして伝えてきた彼に、私は今一度、拳を握らずにはいられなかった。
「言っとくけど、お姉ちゃん、その花、月下美人みたいに、一日しか咲かないからね。部屋に置いた方がいいんじゃない?」
私がバニラの花に対して、知っている数少ない知識を述べたとき、姉は眉を下げて初めて困った顔をした。結局、バニラは、脱衣所の洗濯機の隣に置かれることになった。そして、私は運送の駄賃として、一回、入浴剤を使ってもよい権利を得たのだった。
散歩から帰り、約束通り姉から入浴剤を借りて、泡に塗れたら、もう月曜日になっていた。別に日曜日をまるまる寝過ごしたわけではなかったが、新しい発見も無く、時間だけを浪費する勉強と、掃除に洗濯などの家事を終わらせたら、すっかり日曜の午後は余白と化していたのだ。その時間は、私ではなく、私の細胞が過ごした時間だった。一番、手間がかかると思われた泡風呂後の湯船の掃除は、どういう風の吹き回しか、姉が済ませていた。私がTシャツの先を結び、ハーフパンツ姿で浴室に立ち入ったときにはもう、浴室はすっかりピカピカに掃除されて、三十九度のぬるま湯が張られていた。
「どう、驚いたでしょー?」
ならば、もうお風呂は済ませてしまおうと、私が着替えを部屋から取って戻って来ると、姉は自分へのご褒美だと称して、今日も溶けかけたアイスをスプーンでちびちびと食していた。
「風呂掃除でご褒美って……んまあ、ありがとねっ」
姉は頬張ったアイスが口の中に広がると小さく叫び、アイスを食べながらも、時折、行儀悪く脱衣所を覗きに行っては、また同じように小さい叫び声を立てた。姉は姿を変えたバニラの香りに同じところをくすぐられながらも、彼らの正体には気付いていなかった。
「お風呂入るから、ちょっと出ていってくれない?」
「蘭子が入ってるときに咲いたら、呼んでよね」
姉じゃあるまいし、入浴中にドアを開けて、バニラの蕾を眺めるなどという、家の結露を促進させる真似を私がするはずもない。私は、「わかった」と、空返事だけをして、姉を脱衣所から追い出した。着ていた服をを洗濯かごの中に放り込み、鏡を見ると、昨日と何一つ変化のない、不満そうな身体が映っていた。私の下着の色よりも、バニラの蕾はくすんだ白を持っていた。蕾を指で小突くと、バニラははち切れんばかりに抱えたにおいを溢し、指にぷんと甘ったるいにおいを移した。私は腕をあげて、バニラビーンズのようにブツブツした脇の下の窪みに指を這わせて、強く甘いにおいを擦りつけてみるのだった。
(いっそ、全身ずぶずぶに甘ったるくしてやる)
私は下着を脱ぎ捨てると、契約違反の二度目の入浴剤を波一つない湯船のお湯の中に落とす。キラキラと綺麗な入浴剤はぽちゃりと音を立て、波紋をお湯の表面に広げると、すぐにぶくぶくと泡を吐き始めた。私は体育座りになって湯船に浸かると、一つ深呼吸をしてから、頭の先まで泡が付着するように、息を止めて、泡の中に潜水した。
泡は私の頭の中までよく洗浄したようで、新しい発見のない余白のような無駄な時間と、言ってみたものの、その日の夜の勉強はいつもより捗った。志望校よりランクの高い学校の赤本を過去三年分、解いてみても、手ごたえはあったし、小難しい倫理の演繹的な思考もすんなり理解できた。しかし、その効果が長く続いたわけでもなかった。英語の問題集を開きなおし、並べ替えの英作文で、”a little”をどこに置くべきなのか、そもそも”a”は”little”にかかるのかをうんうん悩んで唸っていたところで私の脳細胞の記憶は止まっている。記憶が戻った後から計算してみたら、その日の夜、八時間超は寝ていたので、日曜は寝て過ごしたわけではないという言葉も撤回しなければならないかもしれない。私が来年の冬には、受験を控える身であることを考えたら、これは充分、寝過ごしたという範疇に入る。
(そう言えば、お姉ちゃんが受験勉強をしている姿って見たことないな……)
フレンチトーストを食べるのと、同じくらい優雅にお味噌汁を吸う姉を尻目に、月曜の朝、私はドタバタと朝支度をしていた。これのどこが古めかしい昭和の女の姿なのやら。いや、昭和の女だって、見えないところで、きっとドタバタしていたのだろうが。
「ねえ、蘭子」
お麩をパクリと口に運ぶと、姉ははんなりとした口調で、私に話しかけてきた。
「今、急いでるんだけど」
「これ、持って行ったら? 飲みきれなくてたくさん残ってるの」
テーブルを見ると、漆塗りのお椀と益子焼の長角皿が並ぶ食卓にはいささか不似合いな魔法瓶が置いてあった。手に取ると驚くほど軽く、学校指定の通学鞄にすっぽりと入った。
「ありがとう」
私は、今度は素直になって答えてみた。やってみれば、こんなにも簡単なのに、私はもう一度はできないなと妙に納得していた。天気予報よりが報じる気温よりもずっと外は涼しく感じられた。
「蘭子、朝ご飯抜いてきたの? ダイエットなら、必要ないって、いっぱい食べる君が好き」
教室に入るなり、友人のさくらがブレザーのカーディガンの上から、私の鍛えていない薄いわき腹を摘まんだ。彼女はいきなり人の腹を摘まんでおいて、「少し贅肉が足りない」などとケチをつけた。
クラスの座席でも、茶華道室の畳の上でも、私はさくらの隣で過ごすことが多い。教室内のグループの中でも、特に接点の多い友人だ。休み時間はいつも他愛ない話に花を咲かせる仲だし、休日、二人で街へ遊びに出ることもある。しかしお互い、部屋の中は見たことがない。分からないことも結構多い相手でもあった。
「いや、単に遅刻しそうになっただけで……」
「遅刻って、まだ二十分前じゃん。いつもの電車に乗れなくても、三分前には着くんでしょ? 蘭子は時折、裏蘭子も見せてくれるけど、半分……六割くらいは男子どものイメージ通りな部分、あるよ。うちは進学校じゃない分、頑張ってる蘭子は目立つしね」
さくらはコンビニで買ってきたシーチキンのおにぎりを美味しそうに頬張ると、「うちにはできません」と、呟いた。しかし、いくら上を目指さなければ大学は全入時代だと言っても、この前の定期考査で、数学と物理、ダブルで赤点を取った彼女に勉強が必要なのは間違いなかった。
「……いる?」
さくらは、エコロジーをやたらに謳っているビニール袋から、アメリカンドックを取り出し、ディスペンパックの容器を親指と薬指で摘まんで割った。彼女はピアノを習っていたせいか、薬指が人より器用だった。
「私はこれを持って来たので、お断りします。どうせ、ノートでしょ。見せてあげるけど、それは別にいらないから」
私は机の脇にかけた鞄から、魔法瓶を取り出し、キャップを捻ると、注ぎ口からドロドロと、常盤色でところどころ萌葱色がかかった液体が出てきた。思っていた通りのものが出てきたため、私はとりたてて驚くことはなかった。姉がスムージーやらグァバジュースやらにハマっていることは知っていたし、液状のもので朝食になりえるものはスムージーのほかには、スポーツ選手が好むようなゼリーしか思いつかない。むしろ、中からお茶やお味噌汁が出てきた方が、私は拍子抜けしただろう。
「夜更かしで勉強してたの?」
「いや、むしろ早く寝ちゃって。土曜にちょっと疲れることがあったからかな……」
私は捻れば蓋からコップに早変わりする容器を両手で手に取ると、ぐいと一気にみどりの液体を飲み干した。喉をゆっくり通過していくシャーベット状の液体は、いかにも野菜の混ぜ合わせといった感じだったが、悪くはない味だった。
「あらっ、いいお点前で。あれですか、やっぱり蘭子の姉ちゃんと愉快な彼氏たちについてですか?」
さくらは、飲んでいた乳酸菌飲料の紙パックを私の顔の前に突きだし、成田空港で芸能人にマイクを向けるリポーターのモノマネをした。いつも話半分に聞くクセに、いい線を突いていた。おどけている人間ほど、というよりも、おどけることができる人間が、機微とかそういったものに敏いことは、どの世界でも共通である。
「お姉ちゃんにってわけじゃなくて、そのカレシの一人がね、何だか煮えきらなくてね。イライラってわけじゃ……いや、してるのかなあ。そんな面白くない感じなの」
そう言って、私は差し向けられた紙パックのストローを咥えて、一気に中身を吸い込んでやった。
「あ、全部飲みやがった! 罰として、蘭子、その人に告れ」
「な!? ……なんでさ?」
私は声を荒げそうになるところ、人目に気付いて、すんでのところで冷静さを取り戻した。そろそろ登校した生徒たちが、クラスに集まり出す頃で、二枚の引き戸はレールの真ん中で重なり合っていた。落ち合ってから、いったいどんな話をしたのだろうか、ワイシャツの第三ボタンまでを開襟しただらしない男子生徒たちが、黒板の前で集い、中腰になったり、屈伸したりしながら、今見たばかりの興奮を身振り手振りで確認し、共有し合っている。この集団にすれ違ったませた少女は、おおかた見て見ぬふりをしながら、心の中で冷笑するだけだろう。しかし、どうにも私は人目をはばからず、制服のスラックス越しに、微かながら怒張しているものが、視界に入るのがどうしても不快で、気持ち悪かった。
「蘭子が抱いているのは、嫉妬だよ、ジェラシー。そんでヤキモキしてる」
さくらは立ち上がると、潰した紙パックとおにぎりを包んでいたフィルムをコンビニのビニール袋に詰め込み、三度堅結びをすると、無言のまま、男子たちを追い払い、黒板脇のゴミ箱に袋を放り投げた。
「楽しんでるだけでしょ?」
席に戻ってきたさくらに、私は鎌をかけると、さくらは、
「そりゃまあね」
と、答えた。
「でも、何か分かるかもしれないじゃん。相手は大人だ、どーんと胸、借りてけ。こんがらがったまま秋になっていくのは、精神衛生上よくないでしょ、受験生君」
「内申いい人は気楽でいいね」
私は一限目の現国の教科書とノートとペンケースを取り出し、シャープペンシルに芯が残っているか、カチカチノックして確かめながら、さくらのアドバイスもどきに耳を貸した。赤点を取っても、授業と補習は真面目に現れ、先生たちにも気さくに声をかけるさくらの内申点は随分と色を付けてもらっていた。赤点を取った科目であっても、算用数字の「2」が並ぶことはなく、たいていは「3」で、ときには「4」をもらうことも珍しくはなかった。そして、彼女が志望する栄養学科がある大学は、学校内の競争が発生せず、難なく彼女は夏休みが入る前に、推薦枠の内定を確定させていた。
「私はこれでも世渡り上手なの。蘭子は技能教科で足引っ張りすぎだからね。絶対評価なんだから、真面目じゃない先生には、真面目じゃない風に合わせりゃよかったんだよ。テストがない科目だから余計に。バレーとかダンスとかのキャアキャア騒げるスポーツなら楽しそうにやって、そうじゃない科目は『だるーい』とか言いながら、媚び売って、体育教師の指導欲を満たしてればよかったんだよ」
「やっぱり、体育が悪いって気付いてたんだ」
体育教師が私を怒鳴ったとき、周囲には誰もいなかった。私は学生の身分を活かして、彼の悪口や誹りに、仲間同士、花を咲かせたこともなかった。しかし、人間の「人」よりも「間」に惜しみない関心を寄せる多感な彼女たちが、私と体育教師の間に流れる歪みに気付いていたのも、当然と言えば、当然だった。
「普通、蘭子の成績なら、推薦狙ってくでしょ。あ、おはよー」
さくらは一呼吸も置かずに、一つの会話の中で、私への忠告と、他のクラスメートへのあいさつを同時に行ってみせた。
「小林さんも、松崎さんもおはよー」
カチューシャで髪をあげた派手目なクラスメートが朗らかに挨拶を交わすと、私も、
「おはよー」
と、あいさつを返した。
「……とにかく、蘭子がそこで駄弁ってるサルどもに恋愛感情など抱かないのは私でも分かるわけ。蘭子が恋愛するとしたら、年上だと思うのよ。それもこの学校にはいないタイプの。インテリ風の落ち着いた兄さんだ。私が過去に、蘭子から聞いた情報から、その見てて腹の立つカレシが誰か、当ててみようか。木下さんって、人でしょ? まあ、仮に恋愛感情でも何でもなく、ただ単に見ててイラつくだけだって分かったとしても、それはそれで収穫じゃん」
さくらがしたり顔をして、頬杖をつくと、教室の掛け時計の長針が震えるように動いた。
「人にはそういうけど、さくらには、どうなのさ?」
上手ばかりを取られ、狼狽して続けるのは癪なので、私はたいして関心のないセリフをさくらにぶつけた。私は彼女がどんな男に興味があろうとも、どんな男と付き合おうともかまわなかった。それがもとで、豹変したり、掌を返したり、非行に走ったりはしないだろうという、甘いながらも妙に説得力を感じる確信が私の周りをちらついていたからだ。彼女が幸せな顔をするなら、祝福し、その芳香を一緒に吸ってみたいとも思っている。くだらない惚気だって、聞いてあげてもいい。限度を超えなければ。
「無くはないよ。一瞬のためにひたすら汗を流す姿とか、その人に一度惹かれたなら、こんなに素敵に映るものはないだろうね」
私は頬杖をつくさくらの視線の先を追ってみたが、彼女の視線が宙で霧散していることしか確認できなかった。
「柄にもなく語ってしまった」
さくらは照れ臭そうに笑った。
「でも、毛深いんなら、卓球のユニフォームを着るときは脱毛すべきだよね。あれは見るに堪えない」
彼女がそう答えると、同時にチャイムが鳴った。さくらの時間配分は完璧であった。チャイムが鳴ってから足音を近づかせる老教師がたった今、階段を昇っているのは、生徒全員が気付いていた。黒板の前で屯っていた男子たちも、名残惜しそうな目をしながら、自らの席に散っていった。
私が木下さんの存在を否が応にも、意識せずにはいられなくなってからというもの、不思議と姉は木下さんを我が家にあげなくなったし、会わなくなった。この事象に関して、父母が土日と一日の有給休暇を使っての旅行から帰って来たことは、あまり関係ない。元来、父はいつも日を跨ぐ頃になるまで家に帰ってこないのだ。その上、母はお水の仕事をしていたので、夕方頃に家を出て、帰って来るのは、日が昇ってからだった。そのため、鍵っ子の私たちには門限というものが存在しなかった。タイムリミットの時間が明け方まで伸びるか、そうでないかの違いに過ぎない。また、父は慢性的な疲労のためか、五感の鈍化が激しく、テーブルの皿の上に、不自然な量の鳥の骨が転がっていても、ボディーソープの減りが早くても、姉や、私に、疑いの眼差しを向けることは一度も無かった。脱衣所に甘ったるいにおいを放つ観葉植物が増えたことも、私に言われるまで、気付きもしなかった。
「お父さん、いいと思わない?」
「ああ、うん」
姉は、そんな父に後付けの承諾を難なく取り付けていた。
母は姉の一連の挙動や、纏うにおいに気付きはしなくとも、何かを漠然と察してはいる風であった。しかし、翌年成人式を迎える姉に対して、教育方針からか、母は静観を極め込み、深く詮索したりはしなかった。そもそも姉は、母に似ており、当然のごとく、母は姉に似ていた。母は若い時分、日本経済とともにもっと派手に泡に塗れ、感覚が麻痺していたので、姉の性癖を、異常だとも、問題だとも思っていなかった。むしろ、無言のうちに漂うにおいのような、感覚的なものでその日のパートナーを決める姉を朦朧だと、嘆くこともあった。むしろ母は、私の性癖を異常なのではないかと、常に心配していた。
兎にも角にも、姉はその気になればいつだって、家族の住処に、よそ者を寝そべらせることなど造作もないのだ。
しかし、姉は何人かの男をあげることはあっても、木下さんを自身の部屋に呼び込むことはなかった。ただ、彼とは電話での連絡は取り合っているようで、壁越しに甲高い嬌声や、上機嫌な声色で彼とやりとりするのも聞いたことがあるので、破局してしまったわけでもないようだった。
「今日は、どこに行くの?」
「今日はお友達と女ばかりでディズニーシー。思いっきりグーフィーに抱きつこうと思うの」
ある日も、姉は子どものように目を輝かせて語り、木下さんへの欲情の疼きやら、渇きなどをいっさい露わにすることはなかったが、一切の仕度を脱衣所で行う癖がつくほどに、バニラの蕾は彼女の心を掴んだようだった。夜になり、キャラクターをモチーフにしたカクテルに頬を染め上げられ、千鳥足で帰宅し、うわごとのように友人のとぼけたエピソードを話していても、姉はつぼみの開花のチェックだけは欠かすことがなかった。
「なかなか咲かないわね」
そう蕾に不満を溢しながらも、まるで出来の悪い息子を愛でるように、姉はバニラの葉をそっと撫でていた。
またある日は、姉のカレシの一人が、「いつまでもシャワーから帰ってこないから、悪いけど、呼んできてほしい」と言うので、私が確認にあがると、面積の小さい透けたショーツだけを履いたまま、じっと中腰でバニラのつぼみを眺めていた。このときは、さすがに私も、
「みっともない。風邪ひくよ!」
と、叱責した。我にかえった姉は、普段裸に近い格好で私と接することもしばしばあるくせに、このときはひどく恥ずかしそうに顔を紅潮させて、バスタオルを巻いて扉を出て行った。バニラの蕾は、明らかに姉の心を無自覚に乱していた。姉はバニラの前では常にしどけなかった。これは木下さんが望んでいた事態なのかどうかは、私には分からなかったが、姉が前頭葉の夾雑物が見られない動物のような表情で、バニラの蕾に接する度に、私はお腹の中で糸が絡まったような、そんなモヤモヤした気分になった。
そうしたときに、教科書を開いても、ソクラテスも、西鶴も、生徒を恐れ、気味悪がる担任も持たない先生のような小人物のように見えてきて、まったく学習が手につかなかった。そうなってしまうと、私は布団を頭まで被って、「馬鹿、馬鹿」と幼児のような悪口を誰に対して、ぶつけるでもなく、念仏のように独りごちるしかないのだった。そして、モゾモゾと右手だけ這わせて、ベッドの下の学生鞄を探し当てると、教室の女子陣の間で回し読みされている漫画を取り出し、亀のように顔だけを布団から出して、やみくもに開いたページを黙読した。漫画の背景はトーンだけで構成されていて、吹き出しから、愛の言葉を星屑のように溢していた。私は漫画を閉じると、主人公の愛の言霊を頭の中で英訳してみては、すっかり疲れ果てるのだった。
(分からないなあ……)
私はやはり異常なのだろうか。社会通念と社会通念の間に圧殺されそうな、息苦しい気持ちをいったい何人の人が抱えながら、寝床につくのだろう。思いを張り巡らせたら、途方もなかった。
松崎家の風呂場の脱衣所にバニラの蕾が置かれてから、ちょうど一週間が経った土曜日。日本列島は朝から、梅雨明け以来の低気圧に覆われ、アスファルトを大粒の雨が打つ音が響き、窓を閉めていても、轟音が屋内までやかましく聞こえた。義務も責務もないのに、このような日に外に進んで出かける人はまずいないだろう。テレビのニュースでも、赤い文字を打って、しきりに警戒を呼び掛けている。しかし、間の悪い父は、そんな中を有給分の埋め合わせで、休日出勤。スーツはダメになるからといって、ポロシャツとチノパン姿の身体を鞄ごとつんつるてんのレインコートの中に隠し、家を出た。首都圏の主要な路線は、遅延と見合わせと代替輸送で、既に壊滅状態だった。
「これで車が動かなかったら、どうしよう」
父はそうぼやきながら、左の掌に車の鍵をお守りのようにぎゅっと握りしめていた。その後、私たちに電話もかかってくることもなかったので、車は無事に動いたのだろう。母は、この天気だと、今日は帰っては来られまい。
姉は教室の女子高生の間で流行っている漫画の最新刊を私のベッドに寝そべり、気怠そうに読み進めていた。陽だまりのような性質を持つ姉でも、強制的に、室内に人を塞ぎこませるこの雨には参っているようで、いつもの元気さが見受けられない。しかし、気分が塞ぐくらいは羨ましいくらいのもので、私は朝から低気圧に脳を締め付けられ、軋む頭に悩まされていた。
雨が降っていなくても、頭がギンギンに冴えていても、解けっこない数学の応用問題は、今日のような日には、解けるはずもなかった。
「お姉ちゃん、この問題分かる? 積分使うんだけど……」
私は年長者である姉に、数学の問題集を渡してみたが、姉は問題集に書かれたギリシャ文字を一瞥すると、モゾモゾと布団の中に隠れ、蓑虫のように顔だけ出して、
「私に聞かないで」
と、言った。
「役立たず」
私が吐き捨てると、機嫌を損ねた姉は、そっぽを向いてしまった。そういえば、今日の姉は寝ぼけ眼のまま、「あの部屋はジメジメする」と言って、私の部屋にあがりこんでからというもの、一度もバニラの蕾をチェックしに行っていなかった。あれだけ、心を許しておきながら、体調が芳しくなければ、自分自身を優先し、蕾には見向きもしない姉を見て、ただでさえ、頭が痛いのに無性に腹が立った。そのこと自体は、目くじらを立てる方が、狭量なほど他愛ないものごとだ。しかし、そんな些細な仕草が姉の一体全体を象徴しているかのようで、全てはこの小憎らしい後姿に要約されるのだと思うと、私は看過することはできなかった。いつでも姉は、甘言を並べる美食家であり、たとえ腕がなくとも、丹精込めて料理を作り上げるコックではないのだ。枕の上に無造作に艶やかな髪を放り出す姉を私はデコピンでもして、成敗してやりたくなった。私は今日も変わらずにおいを燻らせるバニラの蕾が急に惨めに思えてきた。
「除湿つけていい?」
姉は井戸から出てきたホラー映画の幽霊ようになりながら、エアコンのリモコンを手に取り、私の返答も待たずに、リモコンのボタンを押した。甲高い電子音が鳴ると、エアコンは送風口を開いて、乾いた風を送り始めた。身体をふかふかの羽毛布団の中に包んでいる姉と違い、私はエアコンからの冷風を、生乾きの髪に直に浴びせられ、数分もしないうちに、頭痛はさらに激しくなった。私は無言のまま、姉からリモコンを取り上げ、電源を切った。エアコンは命令に忠実で、ボタンを押したと同時に、カタカタと音を立てて、送風口を閉じていった。
「切らないでよー」
「じゃあ、お姉ちゃん、この問題なら分かるの? 分からないなら、発言権はなし。部屋に入れてもらえてるだけ、ありがたく思ってよ」
私はリモコンを勉強机の引き出しの中にしまいこんだ。姉は自分の頬を撫でると、思いついたかのように、
「木下くんなら、分かるかも」
と、発言した。これには私も少しムッときた。ずっと、言おうと思っていてもなかなか躊躇って、出せない言葉はふとしたときに、こぼれるように口を突いて出てくるものである。
「木下さんって、お姉ちゃんにとって、何なの?」
私は椅子にもたれ掛って後ろを向き、鷹のように視線をそらさず、くっと姉に眼光を注いだ。しかし、私の低い声を聞くと、気怠そうにしていた姉は、にわかにぱあっと明るくなりだした。私が期待していた反応とはまるで正反対のベクトルを向いていた。
「蘭子、もしかして……」
姉はさくらが時折、噂話を耳にしたときに見せる表情と酷似した口角のあがり具合、目尻の角度、浮ついた態度を示していた。好物のパンケーキに特製のシロップがかけられたときのような顔だ。姉にとって、木下さんは、消費財でしかないのだ。私は確信した。
「お姉ちゃん、お買いもの行ってくるね。LINE、蘭子も使い方分かるでしょ。『木下くん』って書いてあるから、分かると思うわ。ほかの人には何も送っちゃダメよ」
妙に機嫌の良くなった姉は立ち上がり、椅子に座る私の膝の上に、香水ブランドのノベルティであるプリズムに満ちた紫のケースに包まれたスマートフォンをポンと置いて、部屋の扉を開けた。あざといくらいに、要領のいい態度だった。
「外、雨強いけど……」
「木下くん、車、持ってるから大丈夫よ」
姉はシューズラックの奥から、女物の長靴を探しだし、部屋着の上から、レインコートを羽織り、プチプチとボタンを締める。私は姉が意図して、勘違いしたのか、本当に天然ボケなのか、判別がつかなかった。
「いってきまーす」
姉は間の抜けた声を私に送り、外に出かけてしまった。彼女の態度は私と木下さんを同時に侮蔑しているような気がした。おそらく、無自覚で行っているものだけに、余計に性質が悪かった。たくさん手持ちがいるので、木下さんくらいくれてやってもいいと考えているのか、奥手で塞ぎがちな私ができることなどたかが知れていると思っているのか、いずれにしても、それは持てる者の傲慢にほかならなかった。私はそんな愚かな姉を出し抜いてやりたい一心で、木下さんに、姉の文面を装ってメッセージを送った。それは何ら難しいことではなかった。姉はしばしば私にメッセージを送って来ることはあったし、姉が男に対して、どう媚びているのかも大方の想像が付いた。絵文字と画像のスタンプは懇切丁寧に、使用頻度が高いものから、液晶画面にアップされた。
(形容詞……か)
私は、木下さんの言葉を思い出し、「今日、会える?」という文面を「今日、会いたいな」に変えて、画面を叩いた。私は言語学者ではないので、「会いたい」という単語が厳密には形容詞なのかどうかなど分からなかったが、”want”みたいな動詞とは違うもっと柔らかな輪郭を持つ何かであるのは確かだった。木下さんが、メッセージを読んだという通知はものの数秒で画面に記された。木下さんは劇画調のキャラクターが、とぼけたくらいに愛想よく親指を立てているイラストを画面に貼り付け、了解の旨を報せた。その一連の動作はとても簡単なものだった。胸に手を当ててみると、掌に小動物の呼吸のような鼓動が当たった。姉と木下さんが、先日の私のように不用意に、道端で出くわさないかだけが気が気でなかった。
木下さんは宅配ピザを注文するよりも遥かに早く、我が家のインターホンを鳴らした。ちょうどそのとき、トイレに入っていた私は、彼への査定が会う前に少し下がったが、それは理不尽な判断だったとは自分でも思っている。私は木下さんに聞こえるはずもないのに、わざと強くトイレのコックを強く捻ってから、モニターに映し出された彼の姿を見た。荒い画面に映る木下さんはいつもよりそわそわしているように見えた。
私は出来の悪い舞台女優のように言うべき言葉を直前に暗唱し、さくらにぶつける愚痴の文句も、脳の片隅で考えながら、扉を開けた。
「あれ、蘭子ちゃん? 翠はいないんだ」
何度か既に我が家には足を運び、母ともあいさつは交わしたことがある木下さんは、躊躇いなく、靴を丁寧に揃えて玄関にあがった。そして、勝手に傘立てに自分の傘を入れたことの事後承諾を取りに来たが、そのようなことは、まず誰も反対するはずもないことを知っている口ぶりだった。
モニター越し以上に、木下さんはいつもの木下さんではなかった。見た目は変わらない。目も鼻も口もいつもと同じ場所についている。今、スマートフォンで彼の姿をパシャリとやっても、いつもと変わらない彼の姿がそこにはあるだろう。違うのは声色なのか、目の瞬きの頻度か、確証は持てない。しかし、彼がもし、何かの拍子に指を切ったりしたら、いつもより赤黒い静脈血が溢れ出て、辺り一面を染めるまで、止まらない。私はそんな気がした。
「お姉ちゃんなら、今、買い物に……」
「そっか、そういう気分なんだね」
木下さんは呆れが一滴混じった穏やかな笑みをして、分かったような口をきく。彼はそう思い込みたいだけなのだ。会えない時間、会っても交われない時間が長引いただけ、木下さんの中で、姉は風船のように膨れ上がって、姿かたちを変えていた。中に軽い軽いヘリウムガスを詰まらせた偶像の気持ちを読み取ろうとして、安堵しようとしている。私はもう見ていられなかった。
「姉はそんな気分じゃないんです」
私は押し殺した声で、言った。
「そんな気分だったのは、私です」
私は木下さんの返答を待たずに、すかさず二の矢を射った。木下さんはまだ事情が呑み込めていないようだったが、彼は私よりも大人である。声を荒げたり、裏返らせたりせずに、誠実を念頭に、一年の三分の二以上を学校指定のブレザーで過ごす若い精神に誤答がないように対峙しようとしていた。私はそれを崩さなければならないという使命感が湧いていた。
「蘭子ちゃんが?」
私にそっと尋ねた。姉とグルになった悪戯、単なる受験勉強の講師役のオファー、何か相談の相手……どれも間違ってはいないいろいろなケースを頭の中で張り巡らせているのが、対面すると分かる。木下さんの瞳孔が鈍く煌いていた。
「木下さんは、お姉ちゃんが目に入る、それだけでいいんですか? この前、あげたプレゼントの効果は確かに絶大でしたよ。でも、雨模様でブルーな日なんかには、一度も眺めに行ってません。それこそ、そんな気分なんです、よ。今日……花が咲くどころか、枯れちゃうかもしれないのに……」
気が付くと、私は言葉を吐くたびに嗚咽し、まつ毛を濡らしていた。涙は女の武器だなんていうけれど、そんなことはない。私にとって、感情の発露は手痛い失投以外の何物でもなかった。もし、これで木下さんが、私の涙を見て、「ずるい」だの「負けた」だの言ってきたら、それは見え見えの小便カーブに手を出して凡打した彼が悪いのだ。私はしくじった。誰が何と言おうと、私はそれを恥に感じて、余計に涙が頬を伝った。
「……それは私じゃダメなんですか?」
私は恨めしい目つきで木下さんを見た。食い入るような上目遣いで見上げた。木下さんは私の両肩に手をついて、まだ私が何か言うのを待っていた。木下さんの指の爪は深爪気味につまれていた。待ちながら、今の私の様子から、情報を探っている風にも見えた。木下さんの掌はしっとり濡れていたが、汗の臭いはしなかった。汗などという骸のような水分の臭いではなく、もっと生きた水のにおいがした。雨天の湿気がそうさせたのだろうか。湿気の中のイオンからピリピリとした電気が放たれ、私を刺しているような感覚に陥る。彼はそうしているだけでよかったが、ことを仕掛けた私はそうはいかなかった。手立てがなくとも、十ヤード、二十ヤード、前に進まなければならなかった。不恰好なセリフを思いついた私は、震えた唇で、
「……凄く濡れてますよ、シャワー浴びて来ないんですか?」
と、木下さんに囁いた。木下さんは何も言わず、私の肩に置いた手をボーゲンのようにして、緩くバックに滑らせていく。彼の手首がホックに当たると、見えない圧が実感として私に伝わり、皮膚が私に信号を送った。侘びる私の目つきは融解したが、私の肩に吸い込まれていく木下さんの横顔を見て、私は胸がキュッとした。私は、彼の奥二重がまるで刺し傷のように見えたのだ。私は自分自身の背中が震えているのを、臓器から感じた。
木下さんは一瞬、私を抱き寄せると、すぐに呼び戻すようにして、私からそっと離れ、口角と鼻先がひくつきだし、ついには堪えきれないといった感じで、「ごめん」と一言断って、吹きだしてしまった。私は決死の覚悟が、彼の失礼な態度に蹂躙されたことに怒りが湧きあがってくるのを覚えた。今、私の顔が熱いのは、廉恥でもあり、それ以上に、憤怒からだろう。
「ごめん、ごめん。でも、『シャワー浴びて来ない?』は、メロドラマでも今ドキ言わないって……!」
「何ですか、メロドラマって……!?」
怒りに身を任せた私の言葉には、皮肉の混じりはなかった。嘲りの臭いだけを立てた死語は意味を知らない分、余計に私を腹立たせただけに過ぎなかった。
「なんていうかな、B級恋愛ドラマでも言わないって感じかな」
木下さんは目を擦りながら、涙を拭っていた。まつ毛が目の中に入ってしまったらしく、言葉を言い切るまで、ずっと猫のように片目をくしくしと擦っていた。
「でも、蘭子ちゃんがそんな安い考えで動かないことくらいは知ってるって。乗っからないのが、吉だ」
やはり、木下さんは慎重なアリジゴクだった。彼は悠長に労力を費やすことを避け続けていた。凡手では動かない、それとみて分かる悪手を目の当たりにしてから、堂々と動いたのだ。私はあえなく転がされたことが悔しくてならなかった。
「それに都合よく感情の用水路を作ったところで、蘭子ちゃんのためにはならないし、それ以上に俺のためにもならないんだ。流し去りたいヘドロはこびり付いて結局流れない上に、失っちゃいけないものが、溶け出して流れて行っちゃうよ。今度、直接ぶつけてみれば? 俺よりかはうまい脚本になるんじゃないかな」
そう言って、木下さんは自嘲するように笑った。つかみどころのない柔らかい輪郭をした顔。いつもの木下さんが私の目の前にいた。
「でも、お言葉通りシャワーは浴びさせてもらうよ。温水で頭冷やしてくる」
木下さんが変な日本語を言ったのは、わざとだったのか、それとも冗談のつもりだったのか。いずれにしても、つまらなかったが、有用だった。彼は、心の中で安堵して冷笑する私を気にもとめず、己が持ち込んだバニラの香りがする方へと歩いていった。性欲と、好奇心と、嗜虐心と、ルサンチマンをそれぞれ濾過できずに、嫌気性生物を心に繁茂させているような品の無い薄ら笑いを浮かべている横顔たちにも、見倣ってほしかった。濾過装置が必要なのは、彼らだけではないことは私も薄々感じてはいたが、目を瞑った。
「もし私が、『私じゃ』じゃなくて、『私でも』って言ってたら、どうなったんですか?」
私は殆ど木下さんを呼び止めるためだけに用意した質問を彼に投げかけてみた。木下さんは、軽い質問に相応以上に首を捻った後、
「もしそうだったら、言ったかもしれない言葉があるけど、セクハラになるかもしれないなあ」
と、言った。
「セクハラなら、別にいいです」
私は申し合せたように回答した。
「見聞きしたくないものは、知らんぷりするのが一番だね」
木下さんは先走って、半袖のポロシャツをモゾモゾ脱ぎ、上半身は裸、下半身はタイトなジーンズという無様な格好で、脱衣所に入り、扉を閉めた。眼鏡をかけたまま、上着を脱ぐなんて、器用な真似ができる人だなと、私は思った。木下さんの裸の背中は、背格好のわりには広く、長閑な放牧地を見るかのようで、拍子抜けだった。
私が腕を後ろに組んで、息を吐いて身体を伸ばし始めると、突然、騒がしい声が起こった。風呂場に虫でも出たのだろうか、私がおずおず近づいていくと、やかましい足音とともに扉がバンと開いた。私は幾重もの原因から、胸がドキッとしたが、木下さんは、まだ下半身には紺のデニムを身につけたままだった。
「蘭子ちゃん、見て! ケータイ、取って!」
「どっちですか……」
騒がしい木下さんを見ないふりするわけにもいかず、私はしぶしぶ、彼が手招きする方に近づくと、かぐわしく浸るような香りがふわりと私を包んだ。芳香はいつもより強く、私が鉢から伝うように黄緑の茎を見上げていくと、花梗の先に白い蕾のまま、星を秘していた花は、薄くむらさきだった花びらを開いていた。私がそっと触ると、しっとりと柔らかい。健気で、とても可愛らしい花だった。私には、想定外の花が鬱蒼とした中で、淡いカラー以上に燦燦と、華やいでいた。
「蘭子ちゃん! 蘭子ちゃんのケータイでいいから、翠、呼んでよ! 咲いたよって、見てよ、華々しいから、ほら!」
子どものようにはしゃぐ木下さんを脇目に、「これはどうしたものか」と、私は思いながら、彼の言う通り、姉に報せを入れた。
「お姉ちゃん、いまどこ? あの花、咲いたよ。うん……あ、」
語尾にまだ、句点を残したままの私のことなど、おいてけぼりで、姉はよく加工された金属が擦れるような甲高くも丸い声をあげて、そのまま通話を切ってしまった。
何メートルの距離から駆けつけたのかは知らないが、姉はスーパーマーケットの袋をひっさげ、通話のまもなくやって来た。迅速だ。呑気な姉のどこにそんなエネルギーが隠されていたのか。姉を包むように浮遊する攻撃的な艶やかさが、今は感じられないのがヒントになるのではないかと思ったが、単にずぶ濡れ過ぎて、色気が感じられないだけなのかもしれない。
「蘭子、どこ? 木下さん、いるの? キャー、どうしよう、ドキドキする」
矢継ぎ早に姉は言葉を並べて、半裸の木下さんがいる脱衣所に、何ら躊躇もなく突入した。私はその後を、姉から滴る雫を雑巾で拭いながら追う。バニラの香りを漂わせる紫の可憐な花が姉の目に入ると、彼女は毛玉のような子犬を見たときのように、顔中、溶けた甘々な顔をしながら、鉢の近くにしゃがみ込み、花びらがあわさってできた星に頬を寄せては、「かわいいー」と、鳴き声のように再三再四、口にした。
「木下くん、見て、見て……ありがとう」
姉がニッコリ微笑むと、木下さんも呼応するように、解けたように微笑んだ。バニラの甘い香りに照明が反射して、私の目には、キラキラ光っているように見えた。所在ない私は確認したい事象を、姉を呼んだスマートフォンをそのまま使って調べてみることにしていた。思いついた簡単な単語を、そのまま、スペースを開けて、二つ、並べてみたら、答えは驚くほど速く分かった。
「あの……いい感じのところ、悪いんですけど。それ、バニラの花じゃないですよ。バニラの花の香りは確かにするそうですが、ほら、別の花。この花じゃないですか? ヘリオトロープ。匂ひ紫、って名前で呼ぶ方が、まだオシャレですね」
私は俄然、いいムード漂う二人に液晶画面を突き付けてみせる。液晶画面には、目の前のあどけない小ぶりの花とそっくりの花が映っている。画面の中の、この花も、その花も、下にスライドさせたら出てくるこれらの花も、それぞれ個性こそは匂わせていたものの、全て近似値で括っていい範囲内に収束していた。この花で作った香水の歴史は古く、バニラの香りを楽しみたい人が、代替品として使うことも多いらしい。「香水草」という異名が、長々した解説文以上に説得力を誇示している。おそらく、何やら意気込んで、うまく言葉を伝えられないでいる普段、花などあまり縁もなさそうな男に、花屋さんが気を利かせて薦めた花なのだろう。店員さんの話も耳に入らないほどに舞い上がっていたのだろう木下さんはその薦めた花の名を聞き逃したのだ。「バニラの香り」というキーワードだけで、その花をバニラそのものであると勘違いしたに違いなかった。
あんまり自分自身の脳に従順な耳も考え物だ。バニラの花は、育てるのが難しく、ガーデニングに手慣れた人の手によってでもなかなか綺麗な花は咲かないとか。けっして、木下さんにこの、蘭の仲間ですらない、ムラサキ科の植物を手渡した方は、彼に恥をかかせたわけではなかった。むしろ、木下さんはその人に感謝せねばならないくらいだ。私は、感謝の念が足りない木下さんには、たった今、調べ上げたこの花の花言葉は教えてあげまいと思った。
「木下くん、お花、間違えちゃったの? でも、ほらかわいい。ねえ、蘭子?」
「そりゃ、かわいいけど」
姉はまるで流れ星を見つけた少女のように瞳を透かせ、輝かせていた。最後まで、「バニラ」という単語に触れないまま蕾の開花を目にした彼女が曇りのない満足感を宿したのは当然のことだった。姉は、名前も知らない花の蕾を、そのまま気に入ったのだから。そして、同じ茎から枝分かれした折々の表情の花を一通り眺め終えると、ぶるると身震いをした。
「なんだよ翠、ずぶ濡れじゃん。先、入ったら?」
己の狼狽のもとが杞憂の二文字であることを察すると、木下さんはようやく、ふわふわに巻いた髪どころか、全身べっちゃり濡れ鼠のまま音符を飛ばす姉の姿と、呆れた幼稚さにも気が付いたようだった。私は姉の細い二の腕にぶら下がっているビニールの袋からひんやり冷気が零れているのを確認すると、余裕をもって三本、小さな銀のスプーンを食器棚から持ってきて、姉の髪にピンクのタオルを被せた。姉は重くなった後ろ髪を床に垂らして、私を見るようにして顔をあげた。
「髪はせめて乾かしてからね」
私は物を知りすぎている子どもにするように、ゆっくりと姉を諭した。姉が頷くのを確認すると、私は一転して、邪念と競争心とちんけな優越感を余すことなく顔に染み込ませて、木下さんに向かって下の歯並びが見えるくらい笑った。私は上の歯にはすぐに口内炎を作らせる八重歯を持っているが、下の歯並びには自信を持っているのだ。木下さんは、表情の上では苦笑し、白旗を振っていたが、私はそれを信用しなかった。私が文庫本を読みながら壁に寄り添い、隣室の息吹に耳を傾けていたときも、懐かしい静かな寝息だけがいつまでも続いていることがあった。木の継ぎ目が軋む音や、太い喉が咳き込む音を聞いたときにはない、充足感を私は抱くと同時に、木下さんが、気まぐれに少女に返った姉に舌打ちするような男ではないことも確認していた。彼は、私の知る限り、優しく執念深い男だった。
「じゃあ、みんなで食べましょ。ホントはお風呂の中で食べてみたいんだけど……」
姉が私に目で訴えかける。ずっと上を向いたままの体勢で辛くないのだろうか。私が、
「ダメ」
と、食い気味に否定すると、尻を引き摺って、少し木下さんの方にずれるのだった。
姉は木下さんを見て、瞬きをすると、もう要領よくえんじ色のカップの蓋を開けて、フィルムをペリペリと剥がしていた。アイスの蓋には、バニラの花の絵が描かれていた。ちょうどコンパスの練習で描かされるような、弛度の小さい線対称の懸垂線を二本重ねた形をしている花冠を五枚持っている。白くほのかに黄色い。カトレアよりも神経質そうで、エーデルワイスより高飛車そうで、見るからに繊細な花だった。花屋さんで買ってきたのに、野花のような匂ひ草とは似ても似つかなかった。
「お姉ちゃん、全部知ってたの?」
私はカップの蓋を取って、バニラの花のイラストを姉に見せ、掌を扇いで、匂いを嗅ぎ分ける仕草をしてみせた。
「ううん。けど、いい香りと思ったのも本当だし、可愛い花が咲くと思ったのも、本当だからね」
念を押すように姉は、私が満足する答えを言った。細かいチャートは彼女にはいらないのだろうか、一つの形容詞の輪の中に入った事物を気の向くままに愛しているのだろうか。私は考えるのをやめた。
姉は私のことなど見もせずに、好きな甘い香りを放つ花の前で、甘いエッセンスが振りまかれた白い世界に銀のスプーンを突き刺していた。白の野はいつも姉の脇で見ているよりも手ごたえがあった。姉はてこを使って、野を切り取った。姉の吐息がかかると、縁がぼやけて、リンネルの色をした液が銀の孤の上を這った。
「木下くんもこれ、ほら、蘭子も」
スプーンを唇に運び、リップの縁を潤すと彼女は、二つのカップを木下さんと私の前に置いた。二人とも姉に倣うように腰を下ろす。木下さんは胡坐で、私は乙の字を書くようにして脱衣所の床に座り、スプーンを取った。よく見ると、姉は一人だけマットが敷いてあるところの上にしゃがんでいた。私がカップを手に取って蓋の表示を見てみると、私だけ、抹茶味のアイスだった。
「なんで、私だけ抹茶なの!? ……まあ、抹茶味の方が好きなんだけどさ」
私が姉に尋ねると、姉は少し「うーん」と考えた後、
「……私、蘭子に意地悪してみたかったの」
と、答えた。木下さんはその答えを聞いて、腹を抱えて笑っていた。私はまだ姉の頭に被さっているタオルを鷲掴みして、犬っころを洗うように、わしゃわしゃと姉の髪を拭いてやった。
「……まったく」
藪の中のような渋い緑に向かって、私はガシガシとスプーンの先端を突き立てて、咳払いをしながら、図々しく抹茶色の大きな切れ端を口の中に運んだ。尖った犬歯にスプーンの先が当たって、カチリと音を立てる。ひんやりとした固形物は、上あごをなだらかに辷り、溶けた。抹茶の渋い香味とともに、口の中に柔らかさが泡のように残った。今度、この味をさくらにも薦めてあげたくなった。彼女のしつこい追及から逃れるために、これで手を打つのもアリだろう。
「おいしい」
私が呟くと、姉は、
「蘭子、子どもみたい」
と、笑った。