合歓木のスケッチ

春風亭どれみ

小説

2,327文字

その日、彼は幻想の中でだけ、供花を手向けた。

冷えた仕出し弁当と飾り物の談笑を避けるようにして御手洗に向かう。用を足し、指先を濡らして、それをハンカチで拭う。鏡の向うの男の姿は見ないでおくことにした。それにしても、よく晴れた日だった。気に障る風も湿気も殆どない。おまけに世間ではそれといったニュースもない、特に記憶されない乾いた一日だ。俺は約束された静寂の中でぼんやりと窓の外を眺めていた。

先ほどお世話になった黒塗りのリムジンが、未だに庇の前で待機している。おくられた者は今、俺の立っているちょうどその真下辺りの炉の中で誰にも見られないまま、素粒子へと還る最中にいる。だのに、一足先にエレベーターに乗った人のようにその別れは呆気なかった。

「アンタも伯母さんには小さいころお世話になったのよ。伯母さん、子どもが好きだったら。それに歳が歳だから、アンタのこと、孫みたいなものだと思っていたのね」

突然の訃報から、通夜に葬儀に、喪主を務めて疲弊していた母はようやく一息つけたのか、親類縁者にまじって十歳上の姉との思い出から、よしなしごとまで堰を切ったかのごとく語り出す。

相槌をうつばかりの末代の俺はどうにも決まりが悪かった。戻らないはずの時がむりくりに巻き戻されている。有給休暇も出ない会社で罵声と引き換えに辿り着いた先で、俺は坊ちゃん刈りの少年でいなければならなかった。そう見せるべき人は、既に形を失っているというのに。

「そろそろ、奥さんの一人でもみつけんといかんなあ」

手酌でコップに温いビールを注ぐよく知らない禿頭に慌てて、酌をする。そして、すっかり身に付いた愛想笑いをおずおずと配り歩く。背中が丸くなる行脚だ。

「コウちゃんがああだからなあ、アンタだけが頼りなんよ。墓守もせにゃならんし」

大叔母は俺の愛想笑いに困り笑いをもって応えた。窓の方をちらりと一瞥したが、それを無かったことのようにして、俺に困り笑いをまた振りまく。窓の近くでは喪章をつけた小男が俺たちに背を向け、床に広げたスケッチブックの上にクレヨンを滑らせていた。顔を汚しながら、ミルク色の上に無邪気な彩りを与えている。みどり、だいだい、うすこげちゃ。そして、俺たちの瞳には映っていないはずのくれないのクレヨンまで手にしては首を傾けて、くつくつと唸る。その横顔には確かに年月の皺が畳み込まれてはいた。だが、彼は確かに、俺が坊ちゃん刈りで、袖口は洟でかぴかぴだったあの頃と変わらない、ひたむきでしかなかったあの姿のままだった。時の歯車はからから、彼の周りで何年、空回り続けていたのだろう。

「あの子には外の木が花盛りに映っているみたいやなあ。母ちゃんはもうおらんくなったいうのを分かっていないんやろうなあ。その方が幸せや、うんうん」

血縁の分からない壮年が軽口を叩いた矢先、俺は愛想笑いの口角に羽虫が這ったような心地がして、たまらずにささやかな宴席から、失敬を装いその身を外したのだった。俺は廊下の窓から、もう一度、外を眺めた。リムジンの隣の合歓木はやっぱりもうその花を枯らし、裸に戻ろうとしている。また一莢、出涸らしのデラシネになった実が、枝から振り落とされようとしていた。俺にはどうも、火葬場に植えるような木ではないように思える。俺はふうと一息ついた。喫煙者でもないが、煙草の一本でも吸いたくなる気分だ。

俺はアイツの気持ちなど分からない。アイツも俺の苦労と雌伏なんか知ろうともしないだろう。けれども、たった一人のいわゆる従兄弟じゃあないか、それだって。ハンカチは内ポケットにはしまわず、尻の中に丸め込んだ。途端にあつらえたものをくしゃくしゃに、してやりたくなった。俺は何食わぬ顔で扉を開け、まだ飲みかけだった泥水みたいな鯉の吸い物をわざとらしく一口啜ってから、コウちゃんの描いている世界を後ろから覗き込んだ。

そこでは枝を灯すようにしてたくさんの花火が打ちあがっていた。どれも線に勢いがあるはずなのに線香花火よりも儚いのが余計に嘘みたいだった。

「おいおい、もう夏も終わったのに花火かよ」

喪服の俺は洟垂れだった頃と同じように、しゃしゃり出た口ぶりで毛もまばらになった小男の細い指先からスケッチブックを奪い取って、光の下に翳してそれを仰ぎ見た。その時、大叔母は少しぎょっとした顔をした。俺はそれにはっとする。その一連もまた、いつか見た光景、そのものだった。

突然の理不尽に、コウちゃんの炎症や化膿で荒れきった目尻からつうと涙が零れ落ちる。そして、俺が手を離す間もなく、抑制のきかない生き物の叫びが、静寂の約束されたはずのセレモニーホールを一瞬のうちに揺らした。俺は急いで絵を、彼のもとに返した。そうすれば、記憶の中のコウちゃんはまた機嫌を戻して、チャリティーにもならない絵の続きを描き始める。大叔母は呆れ、伯母さんは「もう、コウちゃんと仲良くしたってよ」と、いいつつもなんだかそのやりとりを嬉しそうに微笑んで、薄い麦茶を振る舞ってくれた。もう還っては来ない夏のやりとりの中では少なくとも、そうだった。

けれども、コウちゃんは俺の知らない間で大人になっていた。彼は絵を受け取ると、その続きを描こうとはせず、途端に今まで使いもしたがらなかったクレヨンケースの端にある場のわきまえた無彩色を手に取って、枝に咲いた儚い花火を片っ端から斜線で潰していった。笑いもせず、泣きもせず、その作業がまるで義務であるかのように。その姿は、とても不気味で俺の方こそ泣き出したい気持ちになったのは、何とも皮肉で滑稽だった。

コウちゃんは心など顔には浮かべずに窓の外を眺めていた。黒塗りのリムジンはいつの間にやら、火葬場から姿を消し、次におくられる人のもとへと去っていったようだった。

2018年9月17日公開

© 2018 春風亭どれみ

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