11
日曜日の朝は、お母さんの朝食から始まる。
テーブルに置き去りにされた最後のペコちゃんを見たお母さんは、
「懐かしいやん。きょうびこんなん買うー?」
と興味津々。姉妹は口の中だけで微笑んで、特に説明はしなかった。
「保恵、好きやったもんなァ、これ」
お母さんがいちびり風味で言う。正味、そんなイメージ持っとらんかったけど。あたしも保恵も、そこにあったから舐めとったくらいのもんちゃうの。
「そんで一回、お父さんがアホみたいに買うてきたん。喜ぶ思て。アホやから」
お母さんは大きく笑って、「虫歯なるから全部没収」と付け加える。
「なんかでも、あれやね。なんかあるたんびに、アホのおっさん思い出すね。アホが亡くなって三ヶ月。別にもう時間とか関係ないけど、もうミツキ」
悲壮に言わないところが、成長ってかな。お母さんもお母さんで、だいぶ慣れたっていうか。
でもなんや。やっぱりあたし、なんか欠けとる気がする。気のせいかもしれんけど。
とっても抽象的な思いのまましかし、食卓はとても具体的。朝食は、玉子焼きとアルトバイエルンとお味噌汁、そして白いご飯とある。とても立派で嬉しい。こういうのが一番嬉しい。
ちなみに母は灘区の生まれで、ウインナーはアルトバイエルンと決めている。もちろんこれが灘区生まれに起因するものと仮定しているのは、このあたしである。本人の言質はない。ただし、異常なこだわりがあるのも事実である。
さて、何食わぬ顔で朝食を喰らうあたしだが、あ、矛盾か。まあいい。慣用句として何食わぬ顔で、実際の行動では朝食を喰らうあたしだが、めんどくさいなもう。とにかく心に決めたことがあるから白状する。これから起こることを、事前に公表するのは極めて間抜けではあるが、主体性を重んじて行動するのだから、これで誰から何と思われるかは、本質的にはあたしに関係がない。ちゅうか、関係がないと思うしかない。皆さんに委ねますよ全て。
はっきし言うたる。今日あたしは、西辻と対峙する。
勇気とか根性とかそういう言葉は、はっきり不要や。精神的な問題はいつだって後付けや。
決戦は正午。歓楽街、堺東ジョルノ四階トイレ前。
ご存じない方が大多数でしょうから、一応説明しますけど、ジョルノは駅から立体交差点で直結しているにも関わらず、大半のテナントがシャッターで閉ざされている、いわば廃ビルなのだ。四階はとりわけひどい。歩いている人がいれば、まず幽霊を疑うべきってくらい。誰もおらん。
土曜日の深夜から日曜日の早朝にかけて、一睡もしない奈津の習性を利用して、あたしは西辻の連絡先をゲットした。まだ日も昇らないうちにカタキに連絡を入れると、コンマ二秒で返事が返って来て、トントン拍子に予定が決まる。あたしの作戦が、あたしの思っていたよりもスムーズに進んだところで、今に至る。朝食を喰らう。パキパキウインナーをパキパキさせる。
この戦いに、客観的勝敗はないと思われる。
だってそうやん。なにをしたら勝ちとか、どうなったら負けとか、そういうルールなんかないんですもん。じぇじぇじぇ! みたいなのもないし、こりゃあいっぱい食わされましたなァ、ガハハ、的なのもない。ないんですよ、なんも。でもないほうが楽です。話はデカくしないことですよ。いろんなことを巻き込まないことですよ。あくまでも個人的に、高木聖奈のやり方で、ヤローと対峙するんです。
「お姉ちゃん、なにがそんなにおもろいん」
武者笑いでもしていたか、保恵が怪訝な目でこちらを見る。
「人生」
「狂った」
するとお母さんが割り込んで、
「聖奈のそれは昔から」
だと。
家を出る直前、なんでこんな日に、わざわざちょっとおしゃれな服を選んどんねん、と自分を叱責。可愛く思われる必要ないのに。でもそういう問題ちゃうよな。アイラインと一緒でさ。
お母さん寝てるし、保恵見当たらんしで、玄関飛び出し無言の出発。スタンド蹴って跨って、出発進行発車オーライ。自転車のペダルを思っきし踏んで、堺東を目指す。嘘でも奮い立たせる。
不安がないといえば嘘になる。もうバックれたって、戦わんかったって、おんなじやんか、とも思う。西辻と戦って状況が悪くなる可能性やってあるやん。やっぱやめといたほうがええんちゃうん。なんかこれ以上の大きな問題になったとて、あたしも被害者のひとりです、みたいな顔しとったら、助けてくれる人やってたくさんおるやろうし。動く必要ないんちゃうん。リスクしかないんちゃうん。
巡る。脳内を。不安が巡る。
負けてたまるかと、より一層脚を動かす。脚を動かすと車輪が回る。車輪が回ると前に進む。汗をかく。息があがる。
いつだって人生は主体的や。主体的であること、それが人生や。
好きにやらせてもらう。戦わせてもらう。あとのことは知らん。考えたって無駄や。なるようにしかならん。そんなもんや。
ほぼ一直線の道をすっ飛ばし、中百舌鳥の小さな踏切をギリギリで渡る。遮断機が髪を撫でる。知ったこっちゃない。こうやって生きて行くんや、あたしは。
三国ヶ丘を越えて、堺東までずっとずっと下る。車やって二十キロで走らなあかん道。一輪駆動のママチャリは、車輪が浮くほどのスピードで転がる。どんどん行く。まだまだ行く。行け行け進め、ズンシャカ進め。ズカンズカン走れ。もっと速く。もっともっと速く――。
――いつしかを思い出す。お父さんとふたりで、珍しくふたりで、この道を走った。あたしはまだ小学校にも入ってない頃、お父さんの漕ぐママチャリの後ろに乗せられて、あたしは叫んだ。
「ダナさん、速すぎやって」
ダナさん、全くブレーキ掛けへんかった。ネジ飛んだんちゃうかってくらい、笑ってた。
「聖奈ァ、転けたら怪我するんも死ぬんも、俺と一緒やで」
「嫌や」
「なんえ、俺と一緒に死にとうないか」
「死にたない」
「せやけどお前、俺のブレーキ壊れとるわ」
「ウソや」
「ほんまやで」
そう言ってダナさん、猛スピードでカンカン鳴る高野線の踏切を突っ切った。突っ切ってすぐ右に曲がって、コンビニの前で停車する。
心臓が、これでもかってくらいバクバクしているあたしに向かって、ダナさんは大きく笑い、そして、
「お前、よう耐えるやないか。さすが俺の娘やの」
そう言って、ハイライトを取り出して、百円ライターで火をつけた。
「ええか聖奈。今生きていること、それだけがすなわち真理や」
あたしは、このジジイ殺したろけ、って表情でダナさんを睨みつけるけど、ダナさんは更に笑ってこういうのだった。
「死んだらあかんで。死んだらそんな顔もできひんで」
しこうして、自転車は踏切を抜け、コンビニに到着する。背中で呼吸しているのは、自転車が速すぎたせいだ。ただし、どこにもお父さんの姿はない。
きっと、心の中にも常いない。
死んだらあかんと言いながら、さっさと死んだお父さんは、常いないお父さんは、これからもあたしの人生のことある瞬間に、絶妙なタイミングで現れて、それっぽいことを言って、きっとまた消える。
そして消えるたんびに思うんだろう。あたし、お父さんのこと、ゼロやと思ってるわけちゃうんやなって。
お父さんは、あたしにとってそんな存在や。
コンビニでお茶を買う。一番安い五百ミリ。それだけレジして、すぐに店を出る。配管むき出しの古い雑居ビルの一階に、おそらく、もうしばらく営業されていないであろう、占いの看板が立て掛けられていて、ポップ体の活字には「最近、導伝念……?」とよ。
――茶を。半分飲む。
発散された。いろいろと。
呼吸が強くて上手に飲めなかったけど、一息にいった。瞬間的により強くなる呼吸は、しかし次第に落ちついてゆく。気持ちも少しは穏やかになる。ストーブのように燃えるのではなく、オイルヒーターのように、じんわりと。それは、じんわりと。
よし、やるか。
わざと十分遅れでジョルノに入った。
辛うじて営業している一階のCDショップには、モーニング娘。の文字が色画用紙にくり抜かれている。これを最先端と見るか、時代遅れと見るかには、議論の余地があるだろう。ただ、今は余裕がないのでまた今度。私見だけ述べておくと、時代遅れだと思う。
利用者ゼロ名のエスカレーターに乗っかる。歩みを止めると熱も冷めそうだったので、階段のように上る。二階、三階と目だけでフロアを確認するも、そこにはシャッターしかない。人間の気配もなく、蛍光灯だけが無駄に明るい。
あるいは、ジョルノはショッピングモールやねんから、この明るさは適切なはずやけど、でもなんやろか、この無駄遣いな雰囲気。別にあたしやって、いつもいつも節約しとるわけちゃうけど、ここまで必要ない明るさを、一日中提供しとんかと思うと、なんか、めっちゃなめられてる気がしちゃう。この不用意が、あたし自身の不用意な感情を呼び覚ましたところで丁度。
辿りつく。四階は、静かだった。
しかし、これは平穏にまつわる静けさではないと、直感的に。
ともすれば、捜す、という行為すらしなければならないのではないかと、あたしは焦った。あたしの計画では、少しでも立場を優位に保つために、西辻を待たせておく必要があったから。
トイレに差し掛かる角の前で、人の気配を伺った。
物音ひとつない。
耳に幽かに届くのは、建物に流れる誰ぞのコンチェルトだけだ。ヴィヴァルディだかストラヴィンスキーだかメンデルスゾーンだか知らないが、いつぞやのどこかで、一度聴いたことのある、
「先輩」
遠くより声。低くもなく、高くもなく、丁度いい。機械的でもなく、間違いなく血の通った声だ。不意とは、まさにこのことだ。あたしが通路の西端にいたとすれば、西辻は東端より声を発した。表情は見て取れない。ねずみ色のパーカーに、オーソドックスなジーンズ、そして肩から鞄を下げていた。
「やっぱトイレってここだけっすよね。他にもあるんかなと思って探しましたよ」
喋りながら近づいてくる。速くもなくゆっくりでもない、その普通な速度が怖い。普通が、こんなときの普通が、なによりも怖い。
一度失神した思い出が蘇る。もしここで意識を失ったら。駅のように他に人はいない。どうなることか、想像もつかない。いや、想像したくない。
「ヤー、急な連絡でビックリしました。学校で言ってくれればよかったんですけど」
会話するのに、適切な距離で西辻は立ち止まって、爽やかに笑った。笑ったが、耳だけは赤かった。
このままだと負けてしまう。負けるわけにはいかない。
あたしは自分でも驚くくらいゆっくりとリュックを下ろし、中からペットボトルを取り出した。中腰でそれを西辻の方へ向けて、睨みつけるように見る。
西辻は一瞬カッと目を見開いたが、すぐに笑ったような表情に変わった。あたしは、ここでなにか言ってやることが、戦いの勝敗に影響すると踏んでいたが、作戦を変更して、ただ黙った。
「あの、マジで言いにくいんすけど」
あたしはまだ黙っている。
「シャレっすよ。先輩のことは好きっすけど」
嘘だ。いや、八割嘘だ。なにかのときのために二割分の逃げ道を用意しただけだ。顔を見ればわかる。
だって、昨日のあの顔と、おんなじや。お前のそのわざとらしい笑い方が。昨日の男の子に見せた、あの顔と。
「シャレでしたけど、せっかくなんで、貰っときます」
西辻は肩掛けから長財布を引っ張り出して、千円札を三枚取り出した。
「これ自分、なにに使うん」
あたしには、オカネよりも大切なものがある。勝ちたい。こいつに。自分自身の人生に。だからこれは単に用途を尋ねたわけではないのだ。勝つために、必要な質問なのだ。
「飲むん」
言っていて嫌になる。本当に嫌になる。
すると西辻は、いつもの爽やかフェイスに戻って、
「ヤ、浴びようかなと」
などと。
瞬間、変態ってのは、どこまで行っても、変態なんや、と怖くなるでもなく、呆れるでもなく、むしろ感心したものだ。
そしてあたしは無表情のままボトルのキャップをねじり、西辻に向かって思いっきりお茶を掛けた。胴体反射で手を翳す西辻に、何度も何度もボトルを上下に振って、これが上手く掛かっているのか、自分でも判断できないままに、ただ遮二無二お茶を浴びせ続けた。世界に音はないように思えた。あるいは、この時空における、この瞬間ってのは、あたしが知っている時間の流れとは、まるで違うスピードにあったのかも知れない。速いとか、遅いとか、そういう次元の話ではなくて、もっともっと命題的で、相対的で、ハードボイルドで、主体的な。あたしは、空に近くなったペットボトルを、最後は西辻の顔面目掛けて、思っきし投げつけた。
「これは昨日の男の子の分じゃ! ヨゴレが!」
叫ぶだけ叫んで、あたしは全力で走った。リュックのファスナーも閉めないまま、勝敗の確認だって後回しにして、ただただジョルノの階段を一気に駆け下りた。
遠くで、何者かの高笑いが、永遠に響いていた。
コンチェルトを背に。
"濡れもこそすれ"へのコメント 0件