――さみしい
その文字は唐突にぼくの前に現れ、そして消えていかなかった。
――さみしいです
ぼくが一体どれくらいその文字を見つめていたのかわからない。空調が突然静まり返ったことでぼくは我に返った。そしてまだはっきりとしない思考を持て余したまま、その文字を指先でなぞった。ディスプレイ上の文字はなんの温度も持っていなかったはずなのに、ぼくはうっすらと汗ばんだ皮膚を錯覚したのだった。
少なくともぼくにとって、みんなのことを全部忘れろという母の言葉は非常に唐突だった。青ざめた母は、がちゃんと音を立てて扉の鍵をかけ、ぼくの前に膝をついた。髪の毛が乱れていたせいか、それともぼくを覗き込む目がくらい光を宿していたせいか、あるいはぼくの肩をつかんだ母の手から体温が感じられなかったせいか、ぼくはおびえて逃げようとした。僕の二の腕を掴んで、母は低い声で静かに言った。明日からたけちゃんのことは話しちゃだめよ。ゆかちゃんのこともだめ。みんな忘れるの。いいわね。ぼくは母の剣幕に気圧され、意味もわからず、うんと頷いた。まだ忘れるということが何かも知らなかった頃だ。
20xx年、個人情報保護法の大幅な改正に伴い、一切の個人情報を記録は禁止された。「記録」には、脳内への記憶さえも含まれている。
たとえば今、目の前にいない人の話をするのは法律違反だ。名前の知らない人が映った写真を個人的に所有するのも、あるいは記憶にとどめることすらも、個人情報保護を適切に取り扱っていないため違反だと判断される場合がある。名を呼び合うときにお互いの知らない人がそこに居合わせれば、個人情報を漏洩させたことになってしまう。
平たく言ってしまえば、ぼくたちはひとと接触することを禁止されたのだ。厳密に解釈をするのであれば、接触をしても記憶に残さなければ問題ない。だがそうはいっても、記憶を消去することなどできるのだろうか? できたとしてどうやってそれを証明すればよいのか。その相手のことすら覚えていてはいけないのに。
ひょんなところから厳格に守られているはずの自分の情報が漏洩することを恐れ、あるいは漏洩させることを恐れ、人々は他人と接触することを極力さけるようになった。仕事も学校も個人情報保護の観点から自宅で行うように切り替わり、ぼくに世界を教えるのは机に備え付けられた端末に現れる教師だけだった。
端末には匿名的な字が表示されるだけだ。それがぼくに教える。「こじんじょうほうをろうえいさせてはいけません」。ぼくはそれを復唱する。時折端末は音を発する。中性的な、いかなる人格も付与されない音声がぼくに語りかける。だがそれすらも他人を知らないぼくには妙に新鮮に聞こえ、心が騒いだ。そこにほんとうは誰かいるのではないかとぼくは何度も錯覚し、しまいにはその声に恋焦がれたのだ。
そんな環境で育つうちに、ぼくは耳をそばだ流ようになった。耳をすませていると、じりじりと孤独感に精神を削られ、人の気配が恋しくなる。それはまさに苦行だった。ぼくは鬱々とし、よく爪を噛んだ。一人で暮らすようになってから、爪は白い部分が見えるまで伸びたことがない。だが、それでもぼくは実家に戻る気はさらさらなかった。
両親はぼくが常に耳をそばだてていることに気づいていたはずだ。はっきりと指摘されたことはないが、母からは特に口を酸っぱくして同じことばかりいわれた。外にはだれもいないの。だれもいないと思いなさい。おもちゃならいくらでもあるでしょう、欲しいならお母さんが買ってあげるから。だから――
そうではないのだ。
おもちゃやぬいぐるみでは、満たされないのだ。
世界はいつもひっそりとしている。みな(たぶん)自分の声が誰かの耳に触れることを恐れている。自分の目が誰かを映してしまうことを恐れている。そして誰かに覚えられることもまた恐ろしいことだと思っているから、外へ出かけるときは光学迷彩の服を着て、気配を殺してそそくさと歩いて行くのだ。ぼくは窓の外を眺めるふりをしてうごめく透明な人々の気配を捉えている。
彼らが誰か、ぼくは知らない。でも気配があればぼくは孤独ではなかった。孤独を感じなくてすむのは、安心できる生活よりずっといい。
実際のところ個人情報の不適切な取り扱いに関する罰則は、人々が恐れるほど重いわけではない。だが、民事裁判に訴えられるようなことがあれば莫大な慰謝料を請求されるし、社会的に完全に死んでしまうだろう。裁判ともなれば(間違いなく)ぼくの個人情報は白日のもとにさらされ、広く出まわる。幼い頃から厳格な匿名性の傘の下に生きてきたぼくにとって、個人情報をさらされるのは真っ裸で冬の寒空の下に追い出されるようなものだ。おそれはもちろんある。しかしそれでもぼくは耳をそばだてることをやめられなかった。
母は怒り、父は黙りこんで別の部屋に引っ込んでしまう。ぼくはベッドの中に潜り込み、かすかな気配の余韻を思い出しながら泣いた。そんな十六年だった。
気配だけでもいい、心置きなくそれに耳をそばだてていたい。つい、三ヶ月前にぼくは父に漏らした。父はそうか、とだけ言い、そして数週間後にはぼくが一人で暮らせるように環境を整えてくれた。そんな風にして、ぼくは実家を出たのである。
(さみしい。いますぐ、誰かに会いたい)
混乱を鎮めるためにぼくは頭からシャワーを浴び、そしてそのまましばらくバスルームに立ち尽くしていた。
ぼくたちはネットワークを介してでしか世界とアクセスすることはできないが、そのアクセスでさえも個人が特定されないように綿密なセキュリティが施されている。メッセージはランダムデータに変換したあとハッシュ化され、いくつものメッセージと重ね合わされて、一箇所に集められる。それをどこか(の誰か)に届けるアルゴリズムは、一般人には知らされることはない。高度な暗号技術が使われていて、人間の頭脳どころかそのへんの計算機では百万年かかっても解読できないのだそうだ。
ぼくはどこの誰と連絡をとっているのか知らない。タスクはまるで天から降ってくるように与えられるものであり、その命令を出しているのが誰か、まったくわからない。ぼくも物を買ったり、講座を申し込んだりするときにメッセージを送ることはあるが、処理をしている人の顔を具体的に思い浮かべることができないし、その結果がどうやってぼくの所に戻ってくるのかもまったくわからない。あるいはもしかするとなんらかのアルゴリズムでぼくの依頼した仕事は分割されたタスクになり、各人に割り当てられているのかもしれない。そのタスクがなんのために、誰のために行われているのか誰もきっと理解していないのだ。
だとすると、あのメッセージはだれのタスクなのか? もともとはどんな仕事だったのか?
誰かに会いたい。
あのメッセージの送り主は特定の誰かに向けてそれを発信したのではなかった。誰でもいい、とにかく誰かにその言葉を届けたかったのだった。それをどこかが解析しそこねて、ぼくに送り届けてしまったのかもしれない。
後頭部を熱いお湯が叩いている。ぼくは両手で顔を拭い、きっとそうだろうと心に言い聞かせた。だが、まだ心臓はどくどくと音を立てて鳴っている。
(さみしい)
一瞬、後頭部にあたる湯の勢いが弱まり、またもとに戻った。ぼくは顔を上げ、湯気の向こうのシャワーヘッドを見やった。視界がぼやけている。
今、隣に住んでいる人物が誰か、ぼくは知らない。風呂に入っていると時折シャワーの水圧が変わるから、かろうじて隣にも人が住んでいるのだろうと判断することができるだけだ。壁は厚く、体温は伝わらない。防音も防振もしっかりと施されているのだから聞こえるわけがない。わかっていても、ぼくは時々壁に耳を当てなにか聞こえないかと考えてしまう。
知りたい。
そこに、誰かがいるのだと知りたい。
ぼくは、たった一人ではないのだと、知りたい。
ずっとそう思っていた。そしてそう思っている人が、ぼくを取り巻くぼんやりとした雲、あるいは空気の中にひそんでいるのだ。彼(あるいは彼女)は、ぼくがそうであるようにきっと人の気配に耳を澄ましているのだろう。孤独に爪を噛み、目を瞑って一心に気配を探っているのだろう。そして、耐え切れずに――
知りたい。
(誰かに)
知りたい。(誰かを)
(さみしい)(会いたい)
会いたい。
(誰かに)
特に意味はなかった。あえていうなら、考えるより先に指がその不思議なメッセージのフラグを立てた。ぼくのその意味のない行為が、システムにあのメッセージは重要なものであると教えたのかもしれなかった。あれから時々、似たような、意味のない、断片的なメッセージがぼくのもとへ舞い込むようになった。
――誰かに会いたい。
――声を
――さみしい。
――今なにをしてますか。
――あなたは。
――あなたは誰?
ぎくりとしてぼくは手を握った。
――あなたは誰?
喉元に鋭いナイフを突きつけられたような心地がする。ぼくはうろたえ、席をたち、二度ばかり部屋の中心でぐるりと回った。それから思い立ってカーテンのすき間がなくなるように丁寧にクリップを止め、椅子に戻った。メッセージはまだ表示されている。
あなたこそ誰なのか。
なぜぼくのもとにこんなメッセージがくるのか、システムはなにも教えてくれない。聞くわけにもいかない。もしこれが不具合なら、現象を報告し次第(おそらく)メッセージは届かなくなるだろう。もしかするとメッセージの送り主も、個人情報略取で罰せられるかもしれない。ぼくは目をとじて、そうなった未来を予想する。
さみしい。
(さみしい)(苦しい)
指が動いている。さみしいと綴っている。外をうごめく透明な生き物の気配だけでは物足りないという。ぼくは三秒かかって息を吸い、倍の時間をかけ体が空っぽになるまで息を吐く。それでも「さみしい」はぼくの体の内側にこびりついている。
夜が来て、朝が来て、また夜が来た。その間ぼくは何度も「さみしい」について考えた。さみしい、と口にするたびにぎゅっと音を立てて肺が縮み、息ができなくなる。どこかでぼくと同じようにそんな気持ちになっている人がいるのだと、ぼくはいつの間にか確信していた。だから、彼(あるいは彼女)は、メッセージを送ってきたのだ。誰に宛てているわけでもないメッセージを、この世に存在するのは自分だけかもしれないと怯えながら。
ぼくは。
指がつづる。ぼくは爪をかんでディスプレイに浮き上がった文字を見つめた。
――ぼくは(さみしい)
たった一人ではないのだと知りたい。(会いたい)
慎重に文字を消し、ぼくはまた入念にカーテンのすき間を点検した。ついでに家の中にある穴という穴に探知機を向け、それでも足りなかったので部屋の施錠も確認した。なにも問題ない。昨日までとまったく同じだ。食料が尽きかけているが――
席にもどり、ぼくは目をとじた。指がまた文字を綴ったが、ぼくは目を開けないまま、メッセージを送信した。送信が完了した音をきいた瞬間にどっと後悔が押し寄せ、ぼくはベッドに潜り込んだ。
その夜から熱がでて、二日ばかり引かなかった。病み上がりのぼくが目にしたのは、他愛のない送信メッセージと、呼応する膨大な着信メッセージだった。
続く
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