アパートに戻るとヤン老師が僕の帰りを待っていた。深夜にもかかわらず、疲れた顔一つ見せずにドアの前で瞑想にふけっている。あぐらをかいた姿勢の全身を二本の人さし指だけで支えているので地面から少し浮いて見えた。往年には「人さし指で孕ませるスズメバチ」と目された老師の指の力は、傘寿を過ぎた今も健在のようだ。
「亮介か。通夜の席でおばあ様からここの住所を聞いた。昼すぎから待ったぞ」と、ヤン老師は言った。
「すみませんでした、老師。でもどうしてまた急に?」
「話は明日だ。もう寝かせろ」
部屋に入ると、ヤン老師はすぐさま六畳間の真ん中を陣どる万年床に横たわって目を閉じた。寝息は聞こえないものの、窓からさす夜の光を浴びてうっすらと白く輝く口ひげがわずかに揺れることで生きているとわかる。何の断りもなしに布団を取られた形になった僕は座布団をまくら代わりにして老師のそばに横になった。まくらを並べるのは今でも畏れ多いから、頭一つぶん下がり、老師の肩に顔を寄せるようにして寝る。山を下りることすらめったにない老師が八王子の僕のアパートで眠っているのは、なんだか不思議な光景だった。
六年ぶりに会った老師は以前と変わった様子がまったくない。山奥に隠れるようにして建つ老師の庵で僕がカンチョー・マスターになるための教えを受けていたころのままである。それに引き換え、僕はこの六年間で背が伸び、声も顔つきも変わった。三年前に両親が離婚して一人暮らしになった。わざわざ上京して通った高校は中退。遊びは風俗からギャンブルまでひととおりおぼえた。かつて日夜カンチョーの技を磨いた指は、もっぱら盲牌とスロット打ちに使っている。鏡をのぞき込んでも、クラスメイトの肛門を不意打ちすることに熱中していた昔の無邪気な面影は既にどこにもない。
祖父が脳卒中で急死したという知らせはスマホの留守電に入っていた。葬式に出るつもりは最初からなかった。故郷は山に囲まれた小さな田舎町である。町の中で、ヤン老師が僕のために編み出してくれた秘技「童子拝観音」の洗礼を受けたことのない子どもはいなかった。僕が県大会を最年少優勝したこともみんなが知っている。町じゅうの誰もが僕を神童としてほめたたえ、将来はブルース・リーのように世界を股にかけて活躍すると確信していた。現在の僕はその期待を裏切った張本人である。今さら葬式なんかに顔を出しても気詰まりな空気になるのは目に見えていた。
故郷を出る直前、商店街の人たちがうちのうわさをするのを聞いた。
「亮介ちゃん、また喧嘩で停学ですって」
「アジア大会に出るのも夢じゃなかったのに……。そもそも家庭環境がまずかったんだよ。母親があんな尻軽女じゃ、年ごろの息子がグレるのも当たり前だ」
「隣町の年下男と駆け落ちしたらしいわね」
母が男と逃げたのは父に長年殴られ続けた末のことである。中学生だった僕にもそれはわかっていた。愛想のいい教育者の外づらに隠れた恐ろしい父の素顔。父の気分の変化に母はいつもおびえていた。小学校に上がったころから僕がずっとヤン老師の庵に入り浸り続けたのは、学校から家にまっすぐ帰りたくなかったためでもある。白樺の木々に囲まれた庵では、大人の問題に巻き込まれる心配はなかった。
ヤン老師の技を最初に見たのは、小一のときに開催された天覧武道大会のテレビ中継だった。天皇皇后両陛下の前でヤン老師は「月下大車輪」の演武を披露した。相手の背後に側転で忍び寄り、両足を天に向けた逆立ちの姿勢のまま両手の人さし指で瞬時に一撃を加える。そのまますばやく側転で転がっていき、尻に痛みを感じた相手が振り向くころには月夜の闇に紛れるがごとく姿をくらませているという匠の技だ。放送を祖母の家で見ていた僕は、老師のあざやかな体の動きに一瞬で魅了された。老師が学校の裏山に住んでいることを祖母に教えてもらい、翌日僕は学校をサボって庵の門をたたいた。
退会したユーザー ゲスト | 2016-12-16 01:38
退会したユーザーのコメントは表示されません。
※管理者と投稿者には表示されます。
Juan.B 編集者 | 2016-12-22 02:31
カンチョーをカンフー、武術と見なし、心の闇、子供の救済にまで話を広げられるのは良い展開。こう言うのにはコロコロ・ボンボンみたいなジャリ向けギャグネタ(またはそのメタ)にした雰囲気が漂いそうだが、この小説にはあまり感じられず静かに話が進む。評価が分かれる所だと思うが、人が救われる展開ならこれで良いだろう。ただ、師匠あたりには静かなりに物騒さも出して欲しいところだった。
高橋文樹 編集長 | 2016-12-22 12:09
設定で差別化を図っていることが大変好感を持てる。また、天空太郎のくだりから急に深刻になりつつ、べつに解決していないのも良い。
工藤 はじめ 投稿者 | 2016-12-22 12:37
この小説は、始終、ギャグ要素(もしくはコメディ要素)がスベっている。間違いない。この作者さんは、意図的にこういう寒いギャグを連発しているのだ。新潟に住む私がこの小説を読んだときちょうど初雪が降ったが、そんな私を凍えさせようとしてこの小説を書いたのだろう。お見事、星4つ。