冬が来て、春がきた。
――お鶴さんとおっ亀さんと、お手引き合せて観音へ参る
騒がしい春になっても、やえは僕の布団にもぐりこむことをやめず、次第におかみさんもそれを咎めることをやめてしまった。僕もやえも小さな子供だから、どうでもいいことだと思ったのかもしれない。
烟る新緑の木漏れ日の中を丈次が歩いてきた時、やえは手毬をついていた。ちょうど出てきたおかみさんははたと足をとめ、それから何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回した。
――観音の道で旦那さんに会って、ついてく、どこ迄ついてく
――江戸迄ついてく、江戸の城は高い城で
「お江戸かぁ」
川を渡り、やえはあっけなく行ってしまった。丈次の足元で来た時と同じように跳ねていたやえはくるりと回っては僕たちに手を振り、手を振り、そして道の向こうに消えていってしまった。最後に丈次は深々と頭を下げ、僕たちの前から消えた。それが全てだった。
僕の耳の中にはまだ、やえのついていた手毬の音が聞こえている。昔親分の娘が使っていたという古い毬だ。元は赤と黄色の素朴な毬だったそうだが、おかみさんが冬の間にせっせとあやめ色と常磐色の糸で刺繍をしたので、春になる頃にはすっかり綺麗になっていた。あまり跳ねない毬だったが、やえは上手にそれをつき、長々と唄を歌っていた。たくさんの歌があり、僕はそのすべてを覚えてはいない。やえの調子っぱずれな鼻声を覚えているだけだ。
――一段上り、二段上り、三段上って南をみれば、よい子が三人通る
――一でよいのが糸屋の娘
――二でよいのが二の屋の娘
――三でよいのが笹屋の娘
笹屋の娘だけはうつろに捨八も諳んじて、それからばたりと後ろに倒れてしまった。空を白鷺が優雅に羽根を動かし、よぎっている。皐月の空は青く、日の下にいるとじっとりと汗が滲んでくるが、水辺の風邪は涼やかで気持ちが良かった。
「やえ公のことだし、もう腹減ったって駄々こねてんべな」
僕は答えなかった。あぐらを組み、揺れる水面を眺めていた。その光は鱗のようで、この川は龍神さまの背中なのだという言い伝えがなんとなく信じられる、そんな昼下がりだ。
「六睦」
「…………」
「りつむく」
「りくむつ」
息を漏らし、捨八は笑った。僕はどんな顔をすればよいかわからず、川を眺めていた。
「鹿島のちょっと先なら全然遠くなんかないさ。舟で行けば――」
「うん」
「それに、成田のお不動様にお参りに来るかもしんねぇし」
「うん」
川面の光を切り裂き、小さなつばめが飛んでいる。不意に胸に差し込まれるような痛みを感じた僕は、何というわけではなく立ち上がった。川の音はやさしく僕にささやいている。でも、僕にはその声が聞こえない。小さい頃から、ずっとだ。
「六睦?」
「泳いでくる」
「ん。そうしな」
「うん」
稲田を渡る風はさわやかだが、陽射しは熱く照りつけている。客を乗せるまでの僅かな時間を惜しんで、僕は川に飛び込んでは泳いだ。
水は清くながれ、火照った僕のからだを冷やしてくれる。親分が号令をかけるまで、僕は川の中で魚になる。汗は水となり、涙は水となり、うっかり顔を歪めても、捨八はそのことに気づく由もない。僕は川底の小石のそばで嗚咽を漏らした。なぜ苦しいのか、僕はわからなかった。
もしかしたら僕はそれとなくやえの行く末に気づいていたのかもしれない。ほんの三日後、彼女が川の中で見つかることも――
僕は桟橋の端に腰を下ろして景色を眺めている。陽は林の稜線に残るばかりで、神々しいまでの朱の線が、空にあやとりのように文様を描いている。
僕はそっと腕を握った。僕の腕にはまだやえが残っている。僕の指先はまだやえを覚えている。僕の耳にはまだ、やえの歌声が聞こえる。背中はまだあたたかく、寝息が僕の背中にかかっている。苦しみが僕の胸を刺し、僕はただじっとその痛みに耐えるほかない。
人々はまだ茶屋にいる。おかみさんはやえに取りすがって泣き乱れていて、それを親分がなだめているのだ。捨八は一目散に旅籠屋にかけていき、おみつさんを呼びに行ったが、帰ってきた時には警察も引き連れていた。
沢山の人達がまだ水に濡れているやえを見下ろし、それから言葉を失う。青白い顔をして仰向けに横たわるやえだけは平然として、むしろの下で目を閉じている。しかし二度とその目は開かない。彼女が去った時となにも変わらないような気がするのに、その首筋についているどすぐろい痣をみれば、彼女が死んでいることはすぐに分かる。血の気のない白い唇を噛み締め、やえは黙っている。ただ黙っている。
桟橋は静かだ。茶屋の人々の声が虫や蛙の声をかき消しているから、なおさら静かだ。僕はいつかそうだったように、あるいはいつもそうだったように、川面を前にぼんやりとしている。それがきっと僕のすべてなのだろう。
手を固く組んで、僕はそっと両手を額に当てた。龍神さま。僕はささやいた。でもそれ以上、言葉を継ぎ足すことはできなかった。胸にふたをするように熱い思いがこみ上げ、僕は無言のまま涙をこぼした。
やえは、死んだのだ。それも誰かに殺されたのである。
「だからねぇ、あたしは言ってたんですよ、あいつは堅気じゃないって……ねえさんもあのまんま引き取ってやりゃよかったんですよ。面倒見てやるからって」
「そんなこといったってさ、叔父だっていうんじゃわたさないわけにはいかねぇだろ。おゆうさんだって、あんなやつを亭主にする気はなかっただろうし……考えてみりゃ危なかったよなぁ。おゆうさんも六睦ももしかしたらあいつにやられてたかもしんねぇんだ……」
ひそひそとご隠居とおみつさんの声が聞こえている。僕はまた龍神さまに祈った。かれらの声は聞きたくなかった。聞けば、やえが死んだことを認めてしまうような気がした。あんなふうにはしゃぎまわり、丈次の足元でうろちょろしていたやえが死んだなどと信じられるわけがなかった。
だいたい丈次が犯人かどうかだってわからない。もしかしたらかれらは悪党に襲われ、無残に殺されただけなのかもしれないし、丈次がうっかりした隙にやえだけが攫われたのかもしれない。僕はそうだと思いたかった。ときどきやえの様子をみにきては、どうしたもんかねぇ、とつぶやいていた丈次が凶行を働くなど――
「六睦が落ち込まなきゃいいけど……」
「そりゃ無理だろうよ。あんなにやえ公のことをかわいがってたのに……かわいそうなもんだ」
「あの子のまわりはいつも……」
ふ、と二人の声は止まった。僕は動かなかった。かれらの声の近さからして、どのあたりにいるのか頭の中で描くことはできる。そして多分かれらは僕が聞いていることなど予期してもいないだろう。大人はいつだって僕のことを見くびっている。
「六睦のことを言うのはやめな。あの子はかわいそうな子なんだから」
「そりゃそうですけどね」
声はしんと語るのをやめた。ころころと僕の足元で蛙が鳴いている。小さなカエルはぬめった緑色のからだを重そうにのたり、のたりとうごかして、桟橋を一生懸命わたっているところだ。しかしいつもと違って僕の背をおす小さな手は現れない。僕の腕にもたれかかる熱い背中はない。
龍神さま、と僕はまた思った。どうか、やえをかえしてください。
無縁仏としてやえを送ってやろうかという話もあったが、彼女が本所の八幡さまのそばに住んでいたことを僕たちが覚えていたので、母親と同じ墓に入れてやることになった。やえは荼毘に付され、骨壷を半分も満たさない灰になった。
役人が言うには、やえには戸籍があるはずなので、それをみれば檀那寺がわかる、とのことだ。
明治五年に編纂された戸籍のことは僕も知っている。僕が茶屋に預けられたのは明治四年のことだったが、僕の出自がどうしてもわからなかったので、大人たちが僕の戸籍について随分もめた。結局、僕はおかみさんの養子になった。
おなじようにやえだって多分戸籍ができる直前か直後に生まれているはずなので、きっとどこかに記載があるはずだ、というのが役人の弁である。本所深川の八幡さまのそばということまでわかっているのなら、役場はひとつだし、母親の死亡は記載されていなかったにしても、住んでいる場所くらいはわかるだろう。故郷の場所ももしかすればわかるかもしれないし、氏神や檀那寺はちゃんと書いてあるはずだ。それだけあれば、彼女を弔ってやることができる。
人々は納得し、すぐに役人に手紙を書いてくれとみなで頼んだ。おそらくほとんどのものがこれで丈次がなにものだったのかわかるだろうし、すぐに捕まるだろうと思ったに違いない。げっそりとやつれた顔をしたおかみさんだけは溜息をついて、あの子は川が好きだったから、川の見えるところに眠らせてやるのが一番なんだよ、と弱々しい声で毒づいたが、誰もその言葉は聞いていなかった。
しらせは十日を待たずにやってきた。
妙な女も、そのしらせについてきた。
"舟 – 5"へのコメント 0件