川の水が引いたのは三日後だった。
僕たちがせっせと舟の泥をおとしている時、やえはおかみさんに手を引かれて茶屋にやってきた。やえは妙な顔をしてしきりにきょろきょろとしている。そのうしろから背を丸めついてきた丈次は、土手下にいる僕たちにひょこりと頭を下げ、困ったように頭を掻いた。僕は親分にせっつかれ、土手をのぼってやえのところへ向かった。
丈次とおかみさんが話している間、僕に与えられた仕事はやえを洗ってやることだ。やえはまだ何がなんだか分からないという顔をしているが、僕はかまわず薪をあつめ、火を焚いた。やえは僕の足にまとわりついて、どの枝っきれが立派だとか、あの薪はこの薪の親分だとか、他愛のない話をしている。
しかしぐらぐらと湯が湧き、やえを風呂に入れるとなったとたん、彼女はなぜか断固として拒否を始めた。
曰く、お湯が熱すぎからいやだ。
曰く、桶が汚いからいやだ。
曰く、手ぬぐいの柄が気に入らない。
そんなふうにやえはあれこれ不満を並べ立て、意地でも湯浴みから逃れようとする。しまいには僕も苛立って、彼女の頭をぴしりと叩いたが、とたんにやえは悲鳴のような声を上げて泣いた。僕は黙って垢でうっすらと黒くなったやえの肌をへちまでこすった。
やえの肌は柔らかく、つかむと脂肪に僕の指が沈む。へちまでこすられて痛いのか、ますますやえは大きな声で泣いたが、僕はその手を離さなかった。皮膚からはぽろぽろと黒いカスが出て、白い肌がすぐに見えるようになる。虫に噛まれたのか、はたまた汗疹なのか、肌の上には紅い湿疹ができているが、ヘチマでこするたびにその色は消え、そしてまた白いやえの肌の上に浮き上がる。その様子に僕はなぜかどぎまぎとして、しゃにむにやえの肌を擦った。
さんざん泣き叫んだやえだが、助けが来ないことを察したのかそのうち静かに鼻をすするだけになった。しかしそれでも気丈に僕のことを睨んで、ふくれっ面をしている。そんなやえの顔を手ぬぐいでごしごしとこすりながら、僕もふてくされていた。僕はなにも悪いことなどしていないのに、親の敵のように睨まれるのは納得がいかない。
「六睦はねぇ、妹が欲しかったのさ。いつも捨八に兄貴面されてるからねぇ」
帯まで締めてやったというのに、礼も言わずに僕から脱走したやえはおかみさんの足にしがみついて離れようとしない。僕はますますむくれて、おかみさんが出してくれたみたらし団子の串を歯で噛んだ。
「違うよ」
「どうだかね。ほらほら、そんなにひっついてちゃ歩けないだろう。そこに座ってな、おまんじゅう出してやるから」
まんじゅうという単語に心が惹かれたのか、ぷくりと頬をふくらませたまま彼女はおかみさんを仰いだ。僕はますますむっとして鼻を鳴らした。
「着物もきれいなのにしなきゃいけないねぇ……あとは前掛けと――」
「おまんじゅうくれるの?」
「ひとつ残っちまったからね、小さいのだけど」
うん、とおとなしく頷いたやえは意を決したようにそろそろとおかみさんから離れた。両手を広げ、腰を引いてあやしげな格好だ。しかし僕を警戒することは忘れていないらしく、そろり、そろりと足を忍ばせながら上り框に近づいてくる。
「六睦、いつまでもふてくされてないで茶ぁ淹れてやんなさい」
「いやだ」
「小さな子相手にそんなにふくれて……」
「いやだ」
「困った子だねぇ、この子は」
ケタケタと笑ったおかみさんは店の方へと出て行ってしまった。やえは目を細め、僕を伺っている。
そろり、とまたやえは座敷の方へ足を出した。カタカタとどこかで風に揺られ、木が音をたてている。そばの川からは穏やかなせせらぎの音が聞こえるが、土手をかなり登った先にあるというのに、舟の尻がぶつかり合う音だけはここにまで聞こえてくる。
「…………」
僕は横目でやえを睨んだ。やえは目をくるりと大きくして、僕の動きを見ている。少しでも動けばさっと身を翻して逃げるつもりだ。先ほどまではぼさぼさだった髪の毛は濡れ、最初に見た時と同じようにやえの額や首筋にぺたりと張り付いている。軽く束ねてやろうと思ったのだが、やえがさっさとおかみさんに助けを求めに行ってしまったので、今はざんばらと肩にかかっているだけだ。多分、明日は髪の毛をあらってやれと命じられるだろうと僕は漠然と察し、そしてうんざりとした。
「……なんだよ」
すべすべした白い眉間に縦のしわを二本刻んでやえは僕を見ている。黒目がちの目は潤んでいて、下向きに生えたまつげが今にも目の中に入ってしまいそうだ。やえは口をすぼめ、ただじっと僕を見ている。
「――……りつむく」
「六睦」
「りつむく、変なの。目」
「変じゃない」
「変だもの」
「変じゃない!」
六睦! とおかみさんの叱責が飛んできたので僕は首を縮めた。やえも一緒になって亀のように丸くなったが、しかしすぐに叱られたのは自分ではなく僕だと悟ったらしい。途端ににやりと彼女は笑い、挑戦的な笑みを浮かべてみせた。おかみさんは自分の味方だと確信したふうの生意気な表情だ。
「あいの子なの?」
僕は口を閉ざしてやえを睨んだ。本当は串を投げつけてやりたかったが、もし刺さったりなどしたら一大事だ。おかみさんには当然雷を落とされるに決まっているし、丈次も暴れ狂うかもしれない。あんなに大きな丈次に一発殴られたら、体中の骨が折れるのではないかと僕は怖かった。
「あいの子なんでしょ」
「違うよ」
「嘘だ」
「違うったら違う。なんだよ、変な歯してるくせに」
「変じゃないもん」
「あんたたちは目ぇ離したらすぅぐ喧嘩するんだから、しょうがないね……やえ、ちゃんと座んなさい。六睦も膨れてないでお茶淹れなさい。あたしのぶんも淹れてくれるかしらね」
ぷくりとまた頬をふくらませ、やえはまだ僕を睨みつけている。僕は鼻の頭にシワを寄せ、彼女の視線から逃れるために顔をそむけた。
布団の中に入っても僕はまだ腹を立てていた。おかみさんはやえの言葉を多分聞いていたのだろう。僕がぷりぷりしながら夕食をかきこんでいても特に怒らなかった。普段は行儀作法にうるさいのだが、ことに僕の出自に関することになるとおかみさんはやさしくなる。
今日のように、目のことは時々人に指摘される。やえが言ったように、どこかで別の血が混ざっているのではないかと言われることももちろんある。僕の出自ははっきりとしないし、確かにその可能性が否定出来ないのは確かだ。顔のつくりは海を渡ってくるらしい異国人とは似ても似つかないらしいが、しかし眼の中に黒とは異なる色が混じっているのは、どうしたって言い訳のしようがなかった。しかも年々、この色は濃く、鮮やかになっているのだ。
小さい頃から僕を知っているおかみさんや捨八、船頭たちは僕の目のことは気づいていないふりをしている。でも、町の人々は違った。寺子屋に僕が行かなくなったのだって、子どもたちが目のことでからかうからだ。おかみさんが強く寺子屋へ行けといわないのは、僕が一度街の子らにいじめられて、泣いて帰ってきたからだ。
遠く、川のさざめく音が聞こえる。川は笑いあいながらただ流れている。僕は川が流れていることだけを知っている。でも、その中に隠れ住むという龍神さまがどれくらい大きく、どんな色をして、今何を思っているかは知らない。ただ、川の音だけが聞こえる。
不意にギィ……と枕元で床板の軋む音が聞こえ、僕はまぶたを持ち上げた。暗闇の中にさらに濃い闇がより固まっているが、僕は特に恐怖を覚えなかった。影はすとんと僕の枕元に腰を下ろし、しげしげと僕を覗きこんでいる。汗臭い人のにおいがする。
やえだ。
僕が寝ていると思って目でものぞき込みに来たのだろうと判断して、僕はごろりと寝返りを打った。いくらやえが小さな女の子だといっても、彼女のおもちゃになるつもりはさらさらなかった。
「……りつむく?」
囁く声は意外に闇の中に響いたが、おかみさんの寝息は途絶えなかった。
裏の藪で蟋蟀が彷徨う声が聞こえている。僕は目をつぶり、竹林の上に広がる星空を瞼の裏に思い浮かべた。風に揺れるせいの高い竹は風をそよがせ、星明かりが静かにその上に降り落ちている。大風はとうに遠くに消え、僕たちのもとには秋だけが残った。騒がしく焦がれる虫が鳴く、秋だけが残った。
りくむつ? ともう一度やえは僕を呼んだ。声がするのとほぼ同時に蟋蟀の音にまぎれ、衣擦れのおとがする。
「……なんだよ」
「入っていい?」
「だめだよ」
「……いれてくださいまし」
ぴたり、と首筋になにか冷たいものが触れ、僕は首をすくめた。押し殺したやえの笑い声が聞こえる。こんな夜中だというのに、いたずらのネタを見つければ目も冴え冴えとしていい気なものだ。僕は心のなかで毒づいた。
とはいえ、このまま意固地に拒んでいたずらを続けられたらたまらない。僕は眠いし、腹が立っているし、それに明日になってあくびばかりしていたら親分にどやされてしまう。夜は寝るべき時だ。いたずらをされる時ではない。
「ねぇ、入れてくださいまし」
「…………」
「ねぇ……りつむくったら茶屋で寝るのに一人で寝るの?」
「うるさいな。入ればいいだろ」
「ほんと?」
控えめに息を吐いたやえはかすかな音と風をしたがえ、ふわりと僕の布団の中に忍び込んできた。そしてぴたりと僕の背中に身を寄せる。僕は顔をしかめ、また目を閉じた。背中が少し、暑い。
「りつむくのおふねに乗る!」
朝からちょろちょろと僕の周りにまとわりついているやえは先程からそんな風に主張をしている。少し前まではおかみさんに頼まれて茶屋の客に茶を出したり、団子を持って行ったりしていたのだが、すっかり飽きてしまったらしい。昨晩おかみさんが急ごしらえで縫ったまっしろな前掛けを両手でしっかりと握り、彼女は地団駄を踏んだ。
「六睦の舟になんか乗ったら沈んじまうよ。親分の舟とか、俺の舟でも――」
「他の人のおふねはいや! りつむくのがいいの!」
やえの前にしゃがみこんだ捨八は仕方がなさそうに頭を掻いた。かれの日によく焼けた背には点々と小島のように背骨が浮いている。首に巻いた手ぬぐいをするりと取り払い、捨八は額の汗を拭った。
「やえ、戻んな。手伝いがあるんだろ」
「おふねに乗りたいの!」
「だめだよ」
六睦、と子供にはめっぽう甘い捨八が僕を制する。しかし許していいことと悪いことはあるものだ。万が一のことが起きたら大変だし、僕はまだ舟を漕ぐのに精一杯だからその時がやえを助けることはできないだろう。おかみさんだって、やえには龍神さまが川の中に引きずり込むかもしれないから、桟橋に近寄らないようにと注意していた。ならばなおさら、僕が勝手に舟に乗せるわけにはいかない。
「乗せてやんなよ、こんなに乗りたがってんだから……」
「重いからやだよ」
「重いったって大したことねぇだろ」
やえは目をうるませて、捨八を見つめている。そんな顔をするのなら捨八に乗せてもらえばいいではないかと僕は言いかけて、言葉を飲み込んだ。もし本当に言ってしまったら、彼女は捨八の舟に乗ってしまう気がしたのだ。
「乗せないったら乗せない」
「でも――……」
「六睦じゃぁ乗せられっこねぇよ。諦めるこったな」
ぎょっとしたのか、やえは前掛けを握りしめたまま一歩、後ずさった。彼女の上に落ちた黒い大きな影――親分だ。さっきからゲラゲラと笑っていたが、いつまでたっても終わりそうにないので、助け舟を出しに来てくれたらしい。
「……どうして?」
「そりゃねぇ、やえ公、おれらみたいに大人になりゃたいしたことねぇけど、六睦はまだ藁を運ぶのもいっぱいいっぱいだろ。犬っころ乗せるんでもひいひい言ってんのに、お前さんなんか乗っけたらあっという間に海まで流されてっちまうに決まってんべさ。諦めるこったな。さあさあ、とっとと茶屋に戻んな。おゆうさんに叱られるよ。捨八も甘やかすんじゃねぇぞ」
首をすくめた捨八は仕方がなさそうにまた頭を掻いた。しかしやえは口をとがらせ、泣き出しそうな顔をして親分を仰いでいる。あの四角くいかつい顔が怖いのだろう。たとえ笑っていても、まるでお不動様のような面容をしているのだから怖いのもしかたがないことだ。
「六睦、おゆうさんとこ連れてってやんな――」
「乗るの!」
意を決した様子でやえは唐突に叫んだ。白い頬は真っ赤になり、目がきらきらと川面で揺れる光を受けて輝いている。きょとんとした親方は目をぱちぱちとまばたかせたが、すぐに仕方がなさそうに唇を突き出して首を横に振った。
「だぁめだって言ったらだめだよ! ほらほら、あっち行きな! ここは遊び場じゃねぇぞ」
「なんだってそんなに乗りたいんだい」
ぺっぺと気の短い親分は手をはらったが、捨八はあいかわらずだ。背中をいっぱいまで丸め、首を少し突き出して彼はやえの顔をのぞき込んでいる。だが、ぐっとこぶしを握りしめたやえは気丈にも親分をにらみつけており、捨八には目もくれないのだった。
「六睦のおふねなんて大したことねぇよ、ちっちぇし、揺れるし――」
「おふねにのんないと仲良くなれないもん」
「乗らなくたって仲良くなれるさぁ、なぁ六睦よ」
僕は答えなかった。舟にのせようとのせまいとやえと仲良くする気はなかったからだ。しかし捨八は人差し指でぽりぽりと頭のてっぺんを掻いて、にっとやえに笑ってみせた。
「舟が仕舞いになってから乗せてやるってさ。な。今は我慢しな」
「いやだよ」
僕は捨八を睨んだが、捨八は情けない八の字眉毛をますます八の字にしてやえに向かってゴマをすっている。泣き出しそうに口をへの字に結んでいるやえも捨八の申し出には幾分心を動かされたのだろう。眉尻をさげてなにか考えている顔になった。僕は舌を打った。
「どうだよ、それでいいだろ。繋いである舟なら全然怖くなんかないさ。それに六睦だってああはいうけど乗せてくれるよ」
「……ほんとう?」
「ほんとさ。俺が頼んどいてやる」
ふん、と呆れたように親分は鼻を鳴らしたが、捨八のことは叱りつけなかった。そういえば昔の僕も今のやえのように捨八の舟に乗りたがっていたのだから、かれらにとっては珍しい光景ではないのだろう。でも僕と捨八は違う。
「いやだ」
「いいじゃねぇかよ、別に減るもんじゃなし」
「いやだって言ったらいやだ」
よっこらせ、とたちあがった捨八はどこか憐れむような顔で僕を見下ろした。しっかりとやえの手はつかみ、すっかり兄貴面をしている。たぶん捨八は僕のことを、仕方のない、わがままな弟だとでも思っているのだろう。僕は苛立って眉根を寄せた。
「乗せない!」
「まぁ俺がよぉく言い聞かせてやっから――」
「絶対いやだ!」
茶屋に預けられてからこのかた、僕は日が暮れるまで桟橋にいる習慣がある。
小さいころの僕はいつもそこで川音に耳を澄ませていた。風に乗って飛んできた鳥や、冬になり北から逃げてきた鳥達が騒いでいても、川の音だけはいつも変わらない。優しい川風は僕をしつこいほどに撫で、飽きたらどこかへ飛んでいってしまうというのに、川はなぜかそんな素振りも見せずに僕に話しかけ続けるのだった。
耳を澄ませていれば、いつかその声を理解できるのではないかと僕はずっと思っていた。
――一つとせ、人も通らん山中をお半と長右衛さんが通らんす
――二つとせ、深い笠きて笛吹いて、青竹ついて伊勢参り
僕にもたれかかり、やえは先程からずっとうたを歌っている。強情に舟にのると主張していたやえの決心は夕になっても変わらず、茶屋が仕舞いになるやいなや、やえは桟橋にかけてきたのだった。ちょうど最後の船渡しを終えて親分たちが戻ってきたところで、僕と捨八は舟を繋留するための作業をしていた。やえは親分の腕をすり抜け、ひょいと桟橋からとび、僕の舟に降り立った。
あの得意げな顔。
捨八は吹き出したが、僕は憎々しさにやえをにらみつけた。しかしやえはまったく怯むようすもなく、きゃあと甲高い声をあげて僕にしがみついた。
「りつむくはお伊勢参りいったことある?」
「りくむつ」
「ねぇ、お伊勢参りいったことある?」
「ないよ」
「八幡さまのとこへは?」
「ない」
「ふうん。かわいそう」
僕はむっとして、やえの背中を肘で押しのけた。ぐにゃりとしたやえの体は重く、着物が汗ばんで湿っている。僕にもたれかかったまま、やえはにっと少し欠けた白い歯を見せて笑った。
小さなやえは歯も小さい。白く輝くさまはまるでお月さまのようだ。どの歯も少し欠けて痩せており、そういうところもよく似ている。
「じゃぁ、お不動様は? お稲荷様は?」
「うるさいな」
「だってりつむく、黙っててつまんないんだもの」
「川の声聞いてんだから、静かにしろよ」
川の声? と彼女は首を傾げ、ふっと僕から体を話した。ふっくらとした白い手を桟橋につき、体を前のめりにしてさっそく川に耳を傾けているのだ。僕は呆れたが、やえの邪魔はしなかった。せっかくしずかになってくれたのだから、しばらくこのままでいい。
川の水は夕焼けをうつし、薄桃色から紫にかわりつつある。川の端はすっかり藍色に沈み、遠くに見えるこんもりとした林のうえを烏がごまを散らしたように飛び交っている。
もうじきあの烏も静かになるだろう。川辺のどこかではカエルが鳴き、ちゃぷちゃぷと波が舟の艫を洗っていて、この辺りは静かなようで騒がしい。騒がしいようで静かだ。不思議なほど深い静けさが泥の匂いを伴って川の上を漂っている。
「なんも言ってない」
「静かにしてないから聞こえないんだよ」
「静かにしてなくても聞こえるもん。あたし、知ってる」
顎をくい、ともちあげ、やえは至極真面目な顔をして言った。黒目がちの目の中に夕焼けが映っている。僕はほんの少しだけ興味を引かれ、やえを見下ろした。
「なんて言ってたのさ」
「おいでって」
「川が?」
「うん。この川じゃないけど、あたしの知ってる川はいつもそう言う。それでみんなおふねに乗ってどこかに行っちゃうの」
「呼ばれんのか?」
「うん」
真剣な顔をして頷いたやえは再び顔を伏せ、川の声に耳を澄まし始めた。僕も苛立ちを腹の奥に沈め、同じように耳を澄ました。
泥の匂いが濃い。たぶん、桟橋の下に住む蟹も同じ気持でいるだろう。夜が近づくほどにそのにおいは濃くなり、月明かりが川面を飾る頃になれば、この世は虫の天下だ。あちこちで恋焦がれる虫が細い、悲しそうな声で鳴く。秋。僕の腕にはやえの背中が触れている。やえの背中は熱いほどの体温をもっていて、着物がうっすらと湿っているのがわかる。僕はなんとなく居心地の悪い気持ちになって、桟橋から投げ出した足をぶらぶらとゆらした。
――三つとせ、三日月さまは雲のかげ、お半と長右衛さんは袖のかげ
やえの歌は調子っぱずれで、なにを言っているのかはっきりしない。僕は顎をそらし、天を仰いだ。まだ星はひとつ、ふたつと輝くばかりで橙色に光る雲がうっすらと蒼天にひだを寄せている。
「むくりつ、あやとりしましょ」
「りくむつ」
「あやとりしましょ」
平然とした顔をして、やえは帯のあたりをごそごそとまさぐった。いちいち訂正をしているというのに、間違いがますますひどくなっていることに僕はむっとしたが、彼女を肘でつつくのはやめた。やえは単なる子供で、しかも僕の名前には興味がない。それで間違えてばかりいるのだ。
「…………」
「最初はあたしね」
僕は口を尖らせて、やえを見下ろした。やえは微塵にも僕が拒否するなどとは思っていないのだろう。口元をほころばせ、指先に視線を落としている。彼女の指には赤い糸がひかかって、絡まったかと思うとふっと解け、かすかな音をたてて張った。
「あやとりなんてしたことない」
「じゃぁ、教えたげる」
こましゃくれた調子で言ったやえはにっと歯を見せて笑った。薄闇の中でもその目は輝き、ますます元気が良くなってきたことが伺われる。昼間もさんざん茶屋で働いて、舟に乗ってはしゃいだというのにそれでもまだやえは物足りないのだ。
「りつむくが取るのよ」
「……どうやって?」
「取るのよ」
ひどく正しいことを言っているような顔をして、やえは言った。僕は仕方なく笑った。
"舟 – 4"へのコメント 0件