内村は熱心だった。父が帰るというと宿までついてきて、熱心に父が岡山に出てくることを勧めた。
なんでも、以前祖父が撮った写真を見たときから、彼はいつか新聞社に来ないかと誘うつもりだったのだという。嘉平さんはともかく、祖父はど素人以外の何ものでもなかったはずだが、やはり勘所はつかめているのだろうか。
尾古の血筋のことなど何も知らない内村はただ、熱っぽい口調で祖父と父の才能について語るばかりだ。父は弱り切っていたが、大人しくしていた。祖母はただ驚いて断ろうとするのだが、内村は食い下がってなかなか離れようとしない。
口を挟んだのはついてきた医者のほうだった。彼はほうほうと笑みを湛えて内村の話を聞いていたが、堂々巡りに飽きたのか父にどうしたいのかと聞いた。父は困惑して、一同を見回した。
どうしたいかといわれても、と父は思った。父は物心ついたころからあの村で一生を終える覚悟をしていた。というよりは何の希望も持っていなかったというのが正しいだろう。暮らしは楽ではなく、不自由があるわけではないが、自由ともいえない。祖母は病気だし、田畑の面倒を見るのは父だけだ。それに森江との関係もある。代々の墓の面倒も見なければならないし、岡山に出る理由は特にない。
「給金はなんぼですかいな」
「うちは二万くらい出せると思いますよ。聞いてみんとはっきりしたことは言えんですけども、普通よりは多いじゃろと思います」
「そのかわり忙しいんですかな」
「ま、そりゃしようがねぇっちゅうか、事件がなけりゃおまんま食うていかれんですけぇ、忙しいくらいでちょうどええっちゅうはなしですけ」
「まぁそうですわなぁ……おい、孝ちゃん、どがしたんか。自分で決めんといけんよ。自分のことだけぇなぁ」
先生はどう思います? と祖母がおどおどした声で口をはさんだ。医者は祖母に向かって安心させるように頷いて見せ、岡山だったらいつでも療養ができるよ、と言う。
「月に二万ももらえるんやったら、お母ちゃん、働かんとも療養しとりゃええし、毎日病院もいかれるし、お薬も買えるけぇ、悪い話やないよ。だんなぁ、肝心の孝ちゃんができん言うておよび腰だらあ、まぁ、楽な仕事じゃなかろうし、毎日忙しいやろし……」
「野良仕事よりもえらいんですかいな」
「どっちがどっちとか言う話やないがな……どちらにせよえらいことはあるし、たっぷり働いたらええこともある」
ふ、と沈黙が落ちる。内村はもはや自分が熱く語る時期は過ぎたとばかりに口を真一文字に結んで面々を見ている。祖母は落ち着かなさそうに手を揉んできょろきょろと意味もなくあたりを見回していた。
父は、困っていた。この期に及んでまだどうすればよいのかわからず、誰かが決めてくれないかと思っていた。写真が好きかと聞かれても、父にはわからないとしか言いようがない。
嘉平さんがそれを好きだったのは誰もが知るところだ。祖父はあまり接する機会はなかったが嫌いではなかったと父は思っている。だが、父自身はどうなのか。
わからん、と父は心の中で思った。どちらかと言えば好きではないような気がする。それどころか、恐ろしいもののような気さえする。
しかし、と父は奥歯に力を込めて思った。内村の話は悪い話ではない。苦労続きだった祖母が治療に専念できるのは願ってもないことだ。たくさん働くことそのものを父はそれほどつらいと思っていなかったし、岡山で生活ができるかどうかはわからないが今日の様子ではあの職場の人々はそれほど悪い人たちではないのだろう。月に二万など村役場に勤めていてももらえない額だ。中卒の父にとっては破格の待遇である。
だいたい新聞社につとめるなど、父からしたら夢の様なできごとだ。中学校にあった新聞部の部員はみなゼンガクレンだのトロツキストだのと頭の良さそうなことを言っていて、父にはまったく理解できなかった。そんな新聞部員もあこがれる新聞社に来てくれと直々に頭を下げられるなど夢としか思えない。
田畑はどれだけ頑張ってもこれ以上よくなる見込みはないし、毎度筐原に頭を下げに行くのも気が重い。なにより治郎吉さんがなくなれば、筐原ももう尾古のことを気にかけはしないだろう。今はあちらも商売が大変な時期だ。昔のなじみでいつまでも援助をしてくれるわけではないし、それを期待し続けるのも図々しい。
「孝一、だまっとったらいけんがよ、わざわざこげぇに話ぃしに来んさったんに」
「…………」
「お母ちゃん、難しいことはようわからんけぇ……だけぇ、旦那さんも写真、ずいぶんほめてくらんさったやろ……」
祖母はますます落ち着きなくあれこれと口にしている。父は正直なところうるさいと思っていたが、口には出さなかった。一日二日で結論を出せるような話だとはとても思えないし、父ひとりで決断すべき話でもない。医者は確かに好きなようにやってみろというだろうが、それは無責任のなせる業だ。
「……母さんは」
「なんよ」
父はもぞもぞと膝の上で手を組み合わせなおした。胡坐をかいている内村は先ほどからじっとして、父を見つめているだけだ。その視線のせいで居心地が悪く、父は少し不機嫌だった。
「…………」
「なんよ、はっきり言いんさい、あんたはもう」
「……母さんは、岡山で暮らすんは、ええだか?」
「そんなん……おかあちゃんもわからんがよ」
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