はつこいオブ・ザ・デッド(3)

はつこいオブ・ザ・デッド(第3話)

高橋文樹

小説

4,858文字

品川でのパニックの翌日、「俺」は普通に出社した。その夜、社長の山本さんと一緒にいった焼き鳥屋で、俺はあの男に再会する。ゾンビ小説の鉄板であるスーパーマーケットは出てくるのか?

あれほどのことがあった翌朝、社畜の鑑である俺は、やはりいつもどおり出勤した。定時である午前十時を目指し、いつも通り九時二十分に家を出た。京浜東北線は大井町で止まり、なぜか品川には停車せず田町まで行くというアナウンスが流れた。俺は遅刻の連絡を会社に入れ、大井町からトコトコと第一京浜を北上していった。片側四車線の大通りはタクシーやらトラックやら営業車の白いバンやらがいつも通りの交通量を保っており、要するにみんないつも通り働いているということだ。

やはりあんなことがあると気になるもので、俺は会社に寄る前にツインタワーから品川駅の改札へと吸い込まれる通路を見てみた。昨日見た白いテントはそのままで、通路へと繋がる階段は黄色いテープで封鎖されていた。風にたなびいてペラペラと音を立てるそのテープの頼りなさがいま思えば象徴的だった。

出社した俺はいつも通り挨拶をして、席についた。メッシュ地のシートがフンワリと俺のケツを包み、ほどよい圧迫感を返してくる。その心地よさが、俺を少しうんざりさせた。仕事自体は好きだったが、その心地よさが八万円もするエルゴ・ヒューマン製の椅子からもたらされるという事実にうんざりするのだ。仕事中の俺が高い椅子に座っているのは、俺が偉いからとかではなく、ソフトウェア・エンジニアの採用に苦労した社長が経営者仲間のアドバイスを取り入れた結果でしかない。採用のための広告を打って二週間で二百万もかけるんなら、高い椅子を買ってやった方が安いというわけだ。実際、俺の手取りは四十万ぐらいで、この会社では中の上といったところだが、三十代前半の業界平均と比較すると高い方ではない。独身だったのがせめてものすくいで、結婚するなら共働きじゃなければちょっときつかっただろう。要するに、俺は自分の家だとIKEA製の二万円の椅子に座るのがせいぜいで、結婚していたら自分専用の椅子なんて持てないはずだ。

俺はMacを立ち上げると、ウェブブラウザを開いて、勤怠管理システムに十時五分と入力した。遅刻の理由として、電車の遅延を選択。続いて、バグ追跡システムのタスクリストを開く。昨日からの続きとして、二十件弱のタスクが上がっていたはずだが、俺は画面右上に出ている通知マークが三十を示しているのを見て驚きの声を上げた。俺はすぐさまチャットツールを開き、上司――といっても、小さい会社なので社長だが――の山本さんに話しかけた。

――俺の案件増えまくってます^^;

――いまいきます

山本さんはそれだけ返すと、すぐに俺の机まですっとんできて、ひざまずいた。山本さんはIT企業の社長なのだが、自分が技術に明るくないため、異常に腰が低い。俺のような技術職の人間と話すときは椅子に座らず、机の横でひざまずくのだ。もともと背が小さいうえに、自信なさげに話すので、ほとんど物乞いのようにさえ見える。俺は山本さんを尊敬していたし、小さいながらも会社を経営している人物としてもっと威厳ある振る舞いをしてほしかったのだが、まあこれはこれでこの人の良さなのだろう。

「佐田くんがさ、もう来なくなっちゃったんですよ」と、山本さんは申し訳なさそうに言った。

「え、退職するの決まってたんですか?」

「ううん、ほら、昨日の品川のパニックでさ、今日からもう来ないって。辞めるんだって」

俺はそれを聞いて、佐田ならいかにもやりそうなことだと思った。メンタルが不安定で、東日本大震災のときも原発がどうたらと喚いたあげく、大量のミネラル・ウォーターを机の上に並べながらコードを書いていた男だ。おれが「ああ」と合点がいったような声を出すと、山本さんも「ね、彼、震災のときもちょっと不安定になったでしょ」と同意を求めるつつ俺の顔を覗き込んだ。

「まあ、ヤツならそれもしょうがないですね。でも、どうすんですか、佐田のやってた案件は。S社とかあるでしょ」

「そうなんだよね」

山本さんは困り切った顔で髪の分け目をかきむしると、しばらくパソコンをカタカタ叩いてから再び口を開いた。

「ぶっちゃけね、佐田くんの案件三つあって、そのうち二つはさ、別にいいんだけど。S案件だけはやっぱり藤くんに任せたいんだよ。信頼してるし」

「はあ、まあ……」

俺はそう答えながら、新たに俺に割り当てられたタスクの分量を確認した。殺人的というわけではない。毎日十二時ぐらいまで働けば、二週間以内に落ち着くだろう。俺がブラウザを眺めるのをじっと待っていた山本さんは、「しょうがないからやりますよ」という俺の言葉を聞くと、小役人じみた困り顔を無邪気な笑みで輝かせて、去っていった。

その後、俺は新たに割り当てられた案件の仕様を理解するなどしてそれなりに忙しく働き、一時まではエルゴ・ヒューマンのぬくもりに包まれていようと開き直っていたのだが、九時ぐらいになった頃、山本さんが俺の席で再びひざまずいた。

「藤くんさ、ちょっとご飯いかない?」

「でも俺けっこうタスク残ってるんですよ」

「いいからさ、ね? 行こうよ」

というわけで、俺は半ば強引に連れだされる形で近くの焼鳥屋へと向かった。「とりはま」という名前のその焼き鳥屋は、他の赤ちょうちん居酒屋と異なり、少し値段が高い。普通に飲み食いすると、六千円ぐらいかかる。山本さんが社員をつれて飲みに行くなら、この店を選ぶということは、なにがしかの重要な話があるときだ。白木に映える紺色の暖簾をくぐりながら、それが採用についての話なのか、会社の経営状況についての深刻な話なのかなどなど、ありうる選択肢をシミュレーションしていた。なんだかんだいって、俺は山本さんを助けたいと思っているのだ。

案の定、話題は採用についてだった。俺はビーアウェア株式会社において、技術職のトップというわけではない。俺よりも偉い人はいるし、俺よりも技術力がある人もいる。ただ、その人たちは山本さんのことを心の底から馬鹿にしているので、なぜか人事的な話題や新規事業立ち上げの相談など、重要な話が俺のところに来ることが多かったのだ。俺は仕事に対して真面目なので、採用に関する問題――限られたコストの中でいかにして優秀な人材を雇うか――について頭を捻っていた。

「僕はさあ、藤くんのね、素直な気持ちでいいと思うわけ」と、山本さんは俺に串を向けながら言った。「藤くんがね、こんな会社だったら働きたいなって思う条件がきちんと揃っていたら、藤くんみたいな人が来てくれるんだよ」

俺は気分が悪くなっていた。それは山本さんの話がどうこうというのではなく、飲み過ぎたのでもなく、得体の知れない不安のようなものだった。

「藤くんのことはね、すっごい評価してる。仕事も真面目だし、会社のことも考えてくれるし。僕はね、藤くんさえいればなにもいらない。ほんとに」

俺は山本さんが熱弁を振るうのを聞きながら、この気持ち悪さの原因に気づいた。山本さんが持っている串だ。この串が、昨日品川駅で見た、竹籤を頭にぶっ刺されているゾンビの親父を思い出させる。俺は「ちょっとすいません」と断って中座し、トイレで吐いた。トラウマというか、恐怖というか、そういう感情がゲロにまで昇華したのは生まれて初めてだった。俺は便座を抱えたまま放心し、息を整えた。トイレットペーパーで鼻をかみ、鼻腔に漂う嘔吐物の匂いを鼻うがいで洗い流し、手を拭いて、山本さんが待つ個室に戻ろうとした。そして、トイレから個室へ向かう廊下へ差し掛かったときに、凄まじい女の悲鳴が響き渡った。

なぜなのかはわからないが、俺は答えを求めるような速度でその声の発生源へ向かった。個室の廊下を抜け、カウンター席を見渡せる場所まで来ると、割烹着の男が背広で白髪頭の男にのしかかって、シャコシャコと包丁を振っていた。黒に御影石っぽい床が割烹着の腕の振りに合わせ、ピッピッと血まみれていった。

叫んでいる女はピンクのツーピース・スーツを来た年増で、息を吸ってはそれをすべて甲高い叫び声に変えていたが、鮮血が足に飛ぶと「んんーっ!」と野太い唸り声を出し、それをはたくような動作をして踊り狂った挙句、すっ転んだ。女はスカートがずり上がって黒いパンツと白い太ももを丸出しにしていたが、そこにも鮮血が飛び散っていた。割烹着が実直に包丁を振り続けていたからだ。下でうずくまっている背広姿のオッサンはとうに動きを止めていて、包丁が刺さるのにあわせて身体を揺らすだけだった。刺す音はほとんど聞こえかったが、たまに骨に当たるのか、カッという擦過音が時折聞こえてきて、それが死ぬほど恐ろしかった。

やがて、割烹着が立ち上がった。男は丁寧に剃り上げた頭の下で笑みをぶら下げていた。俺はその瞬間に気づいた。あの品川駅でゾンビのオッサンの頭に竹籤を刺しまくってた奴だ。しかし、だからといってどうすることもできなかった。入り口に群がった野次馬たちも、相変わらずカウンターに座っている客達も、黒いパンツ丸出しでへたり込んでいる年増女も、みんな固まったように動かなかった。うずくまっている背広の男の下では血だまりが這うように広がっていき、割烹着の白には縦横に赤い水玉ができていた。俺はというと、鼻腔の奥にゲロの匂いを感じていた。

「なんでえ、なんでぇ、俺ぇ?」

割烹着の顔にもう先程の恍惚はなく、恐怖と失望が入り混じっていた。「知らねえよ、お前がやったんだろ」といいたいところだったが、俺の口はパクパクと音を立てずに上下するだけだった。

割烹着がキョロキョロと見回すうちに、俺と目が合った。割烹着は包丁を喉元にあて、すっと引いた。自殺しようと思ったのだろう。血は思ったほど出なかった。もしかしたら、頸動脈から外れているのかもしれない。割烹着はもう一度包丁を首に当てると、さっきよりも強く引いた。紙を割くような嫌な音がした。やはり血は少ししか出ない。がんばれ――俺はそんな気持ちになっていた。変な話だが、割烹着の男が自らこの惨劇を閉じようとしている事実によって、俺は安堵させられていた。もう一度包丁が引かれたが、血はまったくでなかった。割烹着は不思議そうな顔で首筋を触わり、そこが確かに大きく切れていることを確かめた。と、急に顔から表情が消え、恐怖も混乱も失望もすべて削ぎ落とした賢者のような表情にあり、歩き出した。店の入口に群がっていた野次馬たちは、割烹着が歩み寄るにつれて散っていった。

俺は割烹着が店を出て右に曲がっていったのを見届けると、すぐさま山本さんが待つ個室に戻った。山本さんは個室の入り口の柱にすがりつき、税金を取り立てられる平安時代の農民みたいなしぐさでカタカタ震えていた。

「なに? 藤くん、大丈夫? 強盗? なに?」

「いいから行きましょう」

俺は山本さんの脇を抱えると、カバンを取って外に向かった。山本さんは入口近くの死んだ背広を見ると、「え、え、なにこれ」と喚いたが、一刻も早く逃げるべきだという俺のメッセージを感じ取ったのか、腰を抜かすでもなく素直についてきた。俺は店を出て左に曲がると、考えられる最短距離を目指してタクシープールへと向かった。まだ終電には程遠く、余裕もあったので山本さんを先に押し込めた。山本さんは「お会計してないけど大丈夫かな?」などとわけのわからないことを言っていたが、俺が「いいから!」と語気を荒げると、黙って出発した。

そのすぐ後、タクシーに乗り込んだ俺は、大井町線の線路をくぐってからやっと肩の力を抜いた。考えが二つ巡っていた。まず一つは、あんなにたくさんの血を見たのははじめてだということ。そして、もう一つは、品川駅でオッサンの頭に竹籤をさしていたのはたぶんあの闊歩着だということ。俺の鼻腔には相変わらずゲロの匂いが漂っていた。二つの思考が渾然となり、俺は何度もため息をついた。ある意味で、逃げ出した佐田が一番正しかったのかもしれなかった。

2016年4月30日公開

作品集『はつこいオブ・ザ・デッド』第3話 (全7話)

© 2016 高橋文樹

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