月がとても大きく見えたあの日、俺は品川駅にいた。もっと正確に言うと品川駅西口、住鉄ツインタワーへと繋がる通路にいた。俺のようにツインタワーへ行くことを選んだ人は沢山いたし、その結果として、いまこんな事態になってしまったことを他の人よりも早く知ることになった人もまた多くいたはずだ。言うなれば、噂の震源地に俺たちは居合わせた。
元々俺はツインタワーを通る通路をよく使っていた。俺の勤める会社は品川駅西口飲屋街の雑居ビル、それもスパークビルというややDQN臭漂うビルの3階に入っていて、その飲屋街へ抜けるのにはツインタワーのエスカレーターを通っていくのが便利だった。月が大きくなったのは、仕事終わりの10時半、俺が地下鉄の駅へ向かって歩道橋を歩いていた時だった。
月が大きくなる瞬間はYoutubeとかにもアップされているし、どこかの天体観測所の何百億もするカメラで撮られた精度の高い映像もある。いまではすべての元凶として、そこかしこで流された映像だから、それなりにやばいことのような気もするが、当時リアルタイムで見ている分にはそれほど驚かなかった。何十年かに一度、そういう現象があるのかな、と思ったぐらいだ。俺は歩道橋の端からツインタワーへ入ろうという時、もう一度空を見上げた。ずいぶんと月が大きい。いや、というよりも、大きくなっていくのが目で見てわかる。俺はスマホを取り出して、「月 大きい」と検索してみた。Wikipediaにそういう項目はなかった。「ブルームーン」がそれにあたるのかとも思ったが、すぐにネットが繋がりにくくなった。たぶん、月を見た人が一斉に検索しているんだろう。
また明日にでもニュースで解説をやるはずだ、とツインタワーに入り、エスカレーターを降りてすぐのことだった。
はじめ、「あっ」という女の悲鳴が聞こえた。それから、ガタガタとエスカレーターを全部ひっぺがすような音が聞こえて来て、振り替えると人が将棋倒しになっていた。肉のかたまりが硬そうな音を立ててコンクリートの床に積もっていく。一目見て、下の方のヤツは死んだな、と思った。それでも、俺はまだピンと来ていなかった。頭の皮が突っ張るような、ヤバいっていう感覚、それが来たのは、山盛りになって呻いている人の上に、次から次へと降りてきて、ぱっと見清楚で真面目そうなOLが人を踏んづけて乗り越えていくのを見てからだった。
なんでかわからないが、エスカレーターを降りてくるヤツらがパニックになっていた。完全なパニックだ。運動神経の良さそうなヤツはエスカレーターの手すりの上を走ったりして、でも勢いがありすぎて下に転落してグチャっと鳴ったり、前にいるヤツの背中を格ゲーみたいに駆け上がってジャンプしたりしている。みんながみんなバラバラにそんなことをやるもんだから、将棋倒しはどんどんひどくなり、北欧のドミノ気狂いがやるような盛大なものになっていた。
このままここにいたら、どさくさに紛れてドロップキックぐらい食らいそうだ――そう感じた俺は、エスカレーターの正面にある階段ではなく、別の階段を降りることにした。
思った通り、もう一つの階段はそれほどパニックにはなっていなかった。混んではいるが、後ろから押し倒すというほどじゃない。俺は普段鍛えられている通勤力を発揮して、その最後尾に並んだ。俺と同じようにあとから焦って走ってくるヤツもいたが、この階段がそれほど危機的状況じゃないとわかると、そのまま大人しく列に並んだ。前を歩いているヤツの膝の裏に自分の膝がぴったりとくっつきそうなぐらいは混んでいたが、それほど特別という感じはしなかった。
階段は一階分下るぐらいの高さで、その半ばぐらいまで来た頃だろうか。俺の目の前は高校生ぐらいの女の子だったんだが、突然うずくまった。それで、俺はその子を後ろからすぐさま抱きかかえたんだ。痴漢冤罪になるとか、そういう考えが一瞬頭をよぎったが、後ろから体育会系のリーマンにドロップキックを食らわされるよりははるかにましだった。
目の前のガキを抱えたまま、俺は階段を降りきり、自販機の脇に座らせた。
「別に痴漢とかじゃないから。あのままだとたぶん踏みつぶされてたし」
俺が声をかけると、女の子は顔を上げた。ものすごく白い顔をしている。あ、綺麗だな、と俺は思ったが、すぐにその考えは消えた。女の子の鼻からすっと鼻血が落ちたからだ。俺はこういう鼻血を流すような女が嫌いだ。女はすぐ頭が痛いとか、気持ち悪いとか、生理痛でどうたらとか、そういうことを言う。
「具合悪いの?」
俺が尋ねても反応はなかった。俺は自販機で「いろはす」を買った。他にも色々飲み物はあったが、こういう鼻血を流す女はミネラルウォーターが好きなんだろうと思ったからだった。
「ありがとう」
女の子はそう言うと、水を飲み、鼻血を手で拭った。掌がべたっと赤くなった。
「タメ口かよ」
俺は舌打ちを漏らした。鼻血の上にタメ口というのは、俺が一番嫌いなパターンだ。ここまでやってやったんだから、痴漢冤罪で訴えられることもないだろう。
「もうダイジョブ? 一人で帰れる?」
と、俺が尋ねたときだった。さっき降りてきた階段でガシャーンという大音量が鳴った。見ると、階段の上の非常扉が閉まろうとしている。それも、まだ入ろうとしている人がいるのに、勝手に閉めていた。オッサンが一人挟まりそうになっていたが、周りの人に引っ張られてなんとかコチラ側に入った。そのオッサンがはいりきると、扉はぴったりと閉まった。
「うわ、マジかよ」
俺は少し身を乗り出し、改札へ繋がる通路を見た。そちらも閉まっているようだった。
「閉じ込められちゃったじゃんか」
俺が呟くと、近くにいたオッサン(といっても、俺と同じく30代前半ぐらいだが)が、「オイ、それほんとか」と尋ねて来た。こいつもタメ口かよ、と呆れながら、俺はこの通路の構造を説明した。この先の通路が閉まっているとしたら、もう地上に出る通路はない。なんでこいつらは自分がいつも通っている施設の構造も把握してないんだ。
俺が説明を終えると、オッサンはなぜかそれを周りの人に伝え始めた。すると、その話がどんどん伝播していく。なんとなく、群衆がわさわさし始めた。エスカレーターでパニックになってた奴らと同じ匂いだ。俺は自販機の脇で座り込んでいるガキの横にぴたっと座った。たぶん、こいつらは押し合いへし合いを始める。
俺は左右を見回し、設備室なんかへの入り口がないかを探し始めた。クリーム色の扉が10メートルぐらい先に見つかった。俺はそこへ向けて歩き出した。
「待ってください」
さっきのガキがそう言って俺のスーツの裾を掴んだ。
「え、なんで」
「どこ行くんですか」
「いや、危なそうだから避難しようと思って」
もう完全に連れて行けという感じで、ガキは俺を見ていた。こうなってはしょうがない。俺はそのガキの手を握ると、壁を這うようにして設備室の入り口を目指した。鍵がかかってたらアウトだが、白いプラスチックの札には「清掃用具」と書かれている。たぶん開いているだろう。
扉は思った通り開いていた。中にある電気スイッチをつける。誰もいない。
「あのさ、鍵かけてもいい?」
俺はガキを中に入れると、一応尋ねた。
「なんで鍵をかけるんですか?」
「いや、危ないじゃん。絶対あいつらパニックになるよ」
「でも……」
ガキは黙り込んだ。俺はこういう、はっきりしない女が嫌いだ。
「あのさ、一応言っておくけど、俺は別に君を強姦したりしないから。ただパニックに巻き込まれて死ぬのが嫌なだけなんだよ。第一、俺、鼻血出す女って好きじゃないんだ」
ガキは一瞬むっとした表情を浮かべ、自分で鍵を閉めた。俺はそのまま奥にはいると、掃除用モップの洗い立てっぽいヤツを並べて、クッション代わりにした。座るとスラックスに大量の埃がついたが、それもまあしょうがない。
「なあ、君の携帯ドコモ?」
俺が尋ねると、ガキは少し考え込んでから答えた。
「違います」
「そう。じゃあどこ?」
「なんでそんなこと聞くんですか?」
「いや、俺ソフトバンクなんだけど、圏外だからさ。他の携帯入るかなって。別に君と番号交換したいわけじゃないから」
ガキはまたむっとした表情を浮かべた。
「エーユーです」
「圏外?」
「圏外です」
「そっか。じゃあしょうがないね」
俺はそのまま寝転がった。火事にでもならなければ、このままここにいた方が良さそうだった。とりあえず、寝ると危なそうだから、このままほとぼりが冷めるまで清掃用具入れに閉じこもってよう。俺は掃除をさぼる中学生のような気分で、ごろりと寝転がった。
「なにがあったんだろう」
ほどなくして、ガキがポツリと呟いた。俺の中でこの発言は独り言としてカウントされた。沈黙が流れた。
「なにがあったんですか?」
ガキは再び呟いた。俺は「知らない。テロとかかね?」と答えた。
「だったら、ここも危なくないですか?」
「火事と地震以外だったら、俺はここにいるよ」
「でも……」
ガキは再び黙った。隅っこの、ドアに近いところで膝を抱えている。ガキだから不安なんだろう。俺も怖いし、外も怖い。俺はいい人間でいたいという気持ちがまったくなかったから、そのままスマホのゲームで時間をつぶした。
スマホの充電が切れてしまったので正確な時間はわからないが、たぶん深夜0時になる前ぐらいだったと思う。ガヤガヤしていた外が急に静かになった。と思うと、遠くの方に人の気配が移動している。もしかしたら、非常口が開いたのかもしれない。
「おい、ちょっと外見てくるわ」
俺は鍵を開け、外を見た。そして、戦慄を覚えた。
さっきまであれほどいた人がいなくなっていて、そのかわり、通路の端っこに白衣を着た料理人と革ジャンを着たオッサンが揉み合っていた。いや、もみ合っているというより、料理人の方が強いらしく、のど輪でオッサンを壁に押し付けている。喧嘩でないことは一目で見て取れた。オッサンの頭には竹籤のようなものが刺さっていて、料理人はこれからも竹籤を追加しようとしていたからだ。
再び料理人が竹籤を刺す時、オッサンは「ぎぇー」という気持ち悪い叫びを上げた。でも、オッサンは死んでいなかった。こめかみに竹籤を刺されながらも動き、戦おうとしていた。ふと脇を見ると、俺と同じように顔面蒼白でその戦いを眺める人々が、通路のシャッター側で固まっていた。
俺はそっと扉を閉めると、ガキに伝えた。
「なんか、ゾンビみたいなのがいるぞ」
午後のお姉さん 編集部 投稿者 | 2016-04-26 03:24
てんさい!!!