「なぜ受賞したか?」受賞直後に現れたアイデアの真実

鹿嶌安路

評論

2,230文字

文学賞を取りたいという方に向けて、受賞直後に生じた内観をまとめました。制作過程で考えることは正しいという議論です。

出品された作品群のクオリティに差がなかったことは前提となろう。私自身、何度も先生方の著作を読み込み、構造分解し、テーマを抽出した。いずれの作品も独自の視点からテーマが表現されていて脅威だった。あれ以上繰り返し研究するのは効用が低い。十分にやったと思える程には熟読研究させて頂いた。

脱稿直後にあれだけ研究しても確信出来なかったが、受賞後に認知できた(認知していたのに適切に評価できなかった)観点がある。「作品がどのように使われるのか」である。断っておくが、その認知は背理法的にのみ導出される可能性がある。

――もしひとつのアイデアがなければ、受賞はしていなかった。したのだから、あった。

作品が運営の「ノベルジャム」や「敬和学園大学」にとって太鼓判を押しやすく、また「新潟日報」に掲載しやすいものだったかどうか。それらが「地域振興」のテーマを離れないものだったかどうか。このような着眼が作品に硬い外殻を形成する。その外殻は、六十ヤードを蹴り飛ばされても破裂しないフットボールのような、柔軟に縫い合わされた合皮である。その内側で流動するテーマは浅く深く、さらに多様に広がるものでなければならなかった。「新発田のナショナリズム」と形容したホールテーマが内外の連結を強化した。「ナショナリズム」は統一への美徳だけでなく、悪意の蔓延すら司ることから、美醜の両面を有する。それは「裏切り」の意味解釈と重なり、物語の内外構造にまで影響し、読者の認知する重層感へと繋がった。つまり、狭義構造―脱構築―メディア論性の繋がり(ホール構造)が「背理法」的に(再)発見できたのである。ただこれらはすべて当たり前に想定できていた。演繹的には、という言い方をしておこう。なお重層感が読みづらさにつながるのは勿論なのだが、演繹的に発見された構造の方が「読みやすさ」より価値が高い。それが「メディア論」の本質なのだと筆者は捉えている。即ち、構造が「読みやすさ」を招致するのであって、原義の「メディア」が「読みやすさ」を求めているわけではない。

「再」の意味するところは「価値の再発見」だった。ナショナリズムの議論は執筆最中、演繹的に見つかったが、外殻の議論は視界に入らなかった。原因としては、自分のしたい表現がこの外殻によって阻害されると考えていたためだ。ところが振り返りを行うと、「新発田のナショナリズム」というテーマ設定と「外殻」は必ずしも反発するものではなかった。むしろ相互に馴染み合うものだった。ではなぜ出来事の前後でこのような認知の違いが発生するのか。あの「自分のしたい表現」と呼べる、今ではエゴと呼び得る、「筆者がある特定の結論に盲目となる」ように機能するアイデアとは、一体どこから来るのか。演繹法と背理法の間に横たわる結論に、強度や質的な違いがあったのだろうか。

高校一年生でお勉強する実際の背理法を振り返っていただきたい。が無理数であることを証明せよという問題だ。「もし有理数なら分数表記ができる→数学的に操作して、

を分数表記できないことが分かる→初めの過程が間違っていた→(有理数ではないなら)無理数である」といった流れだ。

ポイントは「分数表記できる→分数表記できない」の部分である。有理数であることと無理数であることが、分数表記の可否と密接な関係にあったことから、その密接さに賭けて証明が成立する。この密接具合が論法の真実味を担保している。別の言い方をすれば、有理数は分数表記が可能で、無理数はできないという定義を「体験」しているからこそ成立する証明なのだ。

その「体験」を通さなければこの証明が成立しているかどうかを判断することはできないのだろうか。そうではない。「鵜呑み」や「盲目」という方法がある。もしそれでは納得できないのであれば、フランス人思想家ジャン・リュック・ナンシーの定義する「信」を取り入れると良い。即ちキリスト教が提示する「信仰」という「動作」が、鵜呑みや盲目を否定するのである。

「有理数・無理数」とは互いに相容れないアイデアである。「有」と「無」の間に相互作用は起きない。経験的な知識から納得は容易だ。「有理数だが部分的には無理数」という数は存在しない。ちなみに、「が無理数である」というのも(ある意味で)経験的な知識から得られる。後者の経験に但し書きを付けたのは、こちらの経験には「伝達者への信用」が絡んでいるためだ。平たく言えば、学校の先生がそう言っていたからは無理数だと納得するプロセスに「経験」と音を割り振ったのであって、「鵜呑み的知識」でも「盲目的知識」とでも好きに名付けて良い。

各論法によって導出された結論が保持・提示する「真実の精度」は問題が問題なのではない。外殻に関する議論が観念によってなされていたことがバイアスとなって、演繹的議論全体に筆者が両価性を認められなかったの。外殻は書きたいことを限定しつつ、作品を昇華させる。「酸っぱい葡萄」である。別の角度から言えば、作家論的観点が「体験」を議論に招致した結果、(議論成立の根拠として提示した「原因」に「体験」を据えた結果、)「結論の価値」が主観的に上振れたのである。「成功バイアス」の正体である。

世界には異なる認知の方法が常に残されている。「知らなかったはずのことを分かっていた」という認識の振る舞いは、文章芸術が司るアングル操作によって発生した特異次元でのみ生じる、文学反応のひとつである。

2024年3月7日公開

© 2024 鹿嶌安路

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