『ガンダムSEED FREEDOM』レビュー⑤(タイトル未定)

鹿嶌安路

評論

5,409文字

18日に2回目を観にいくことになりました。ギリギリ繋がっている友人は、破滅しそうな私の社会関係を担保してくれています。いよいよ、本著もラストスパートです。第2章が終われば、以降はこの映画の核ならぬ「重核」へ「収束」していくことになるでしょう!

第2章:ゆでガニの脱皮と下ネタ

PHASE-12:俺は「一皮剥けた」けど、君は子どものままか

 

さて、このフェーズでは第2章の総まとめをしなければならないのだが、ここで一度、これまでの論点を整理したい。まず第1章では本作が多層的なターゲットを前提に作られていることについて議論した。それは必ずしも最古参のガノタを包含し得るものではなかったのだが、細かいテーマ設定やモチーフの連打が、初見から二十年来のファンまでの心を掴み得る準備となっていることが分かった。第2章では本作の構造を部分的に取り上げた。シリーズを通して感じられる「性のイメージ」は観客に「大人」を求めるものだったが、必ずしも誰もが大人だったわけではなかったし、放映時に限定すれば「青年」を謳歌する向きの方が多かった。そういった客層やシリーズの歴史との相互作用もあって、本作は「主人公のアイデンティテ」がテーマとして前景化していた。構造主義史観に基づく「大人化」の道行を「負けない主人公」の「運命」に縛られたキラ・ヤマトは通過できない。したがって本作では「新しいルート」の開拓が求められており、そこには「捉えがたいメディア(論)」の権化とも言えるラクス・クラインが配置され、キラは無自覚の選択によって「新しい大人」へと成長した。成長という言葉に言及はしなかったが、今や構造主義史観に基づいた「大人化」を成長や適応と名付けてきた文化人類学の歴史を振り返るなら、選択の無自覚性に依拠してそれを「受容」と呼び換えるのがふさわしい。換言すれば、キラは「新しい大人像」の象徴となって物語を去る。

しかしここには「構造かメディアか」という単純な対立が示されているわけではなかった。事態は細分化されるメディア論よろしく、複雑な相互作用を呈していた。構造やメディアといったメタな概念は常に物語内のモチーフと連動して否定ないし肯定された。例えば物語構造へ進んで馴染もうとする敵キャラクターたちの姿勢を「ディスティニープラン」は回収し、「ラクス・クライン」は「母ならぬ母」の相互矛盾するイメージを補完した。ところが同時にラクスは構造=ディスティニープランを否定するリーダーとしての物語内役割を担っている。この一連の流れのなかにラクス・クラインがテーマの矛盾を説明していることが観察できた。これを本論の失敗と投げ出すようでは目的としてきた構造の否定が完遂できない。すなわちこれはむしろ構造主義史観への執着が、彼女の在り方に矛盾を見出していると理解すべきだった。

ラクスには脚本が用意した役割があり、それは与えられた役割を否定することだ。

この自己矛盾を含む一文を看破すれば、本論の大筋を読み終えたこととなる。否定に紡がれる「円環構造」が観察できるのだが、これを自己矛盾としない視座こそが、「分裂しないメディア論」の根幹を形作っている。

少なくとも本作、ないし本シリーズが女性キャラの描き方を以って「大人向け」であることは十分に理解されていることだろう。だとすれば、そうした前提ないし背景を保持した上で、このフェーズを、「脱皮」と「揚げ物」に付帯した性的シンボルについての解釈からはじめることはそう難しくはないだろう。

前フェーズの小見出しを思い出していただきたい。「据え膳食わぬは……」というのは何も思い付きで書いたわけではなく、本作におけるキラの振る舞いを踏襲したものだ。ラクスがたくさんの「揚げ物」を夕飯として準備したにも関わらず、キラはそれに手を付けず、起こせばよいはずのラクスを起こすことなく一人の世界に籠る。気にすれば如何様な解釈も可能である。例えばキラは自分が約束を破ったことを後ろめたく思っており、起こしたところでかける言葉もないと諦めた。もしくは、疲れた身体が揚げ物を拒否しただけでなく、その程度のことにも気が付けない彼女に落胆をおぼえている、と考えてしまっても間違いではない。ゆっくり眠る彼女の安らぎのひと時を大切にしてあげたいと思っても良い。ただ如何様な解釈を行うにせよ、このように物語の次元を横ざまに通り過ぎるだけでは議論は前に進まない。必要なのは奥行きを往来しながら前に進むことだ。本論が目指すべきなのは、本作がどのようにして「構造かメディアか」の対立に終止符を打ったのかであり、その一つ目の鍵がこのシーンに隠されている。

そこで先ほどの慣用句「据え膳食わぬは……」が登場するのである。要するにあのシーンから二人のセックスレスを連想しさえすればよい。原因がなんであれ、少なくともキラはラクスが準備した自分自身「据え膳」に手を出すことなく眠りにつく。この視座につけば、夕飯が透明なラップに覆われているのが、ラクスの「見えない膜」が破られていないからだと解するのも容易だ。それを破って「据え膳」に手をつけることが、キラには出来ない。それが出来ない「横ざまに観察できる理由」は3章で詳しく論じていく。それは彼が本作冒頭の戦闘シーンで滝のような汗をかいていたことと密接に関わってくる。一応断っておくが、各戦闘シーンが性行為のメタファーであるなどと読み解くようでは失笑を買うだけなので、やみくもに飛び込まない方が良い。ただもし、この瞬間にラクスがキラを価値づけた台詞「優しいのです」がリフレインしたのなら、そのルートを真っすぐ進んでみたい。間違えたのならどこからでもやり直せる。

一番最初に観客が見出すキラの優しさは、本作冒頭の戦闘シーンで自分以外のパイロットを最前線に立たせない判断を下す様子に現れている。自分の能力を認めてもらいたいシン・アスカを自分の後衛として配置し、自身は単独で最前線を崩壊させる。劣勢だったザフト側は戦闘終了に安堵し、優勢だった地球軍側は撤退を余儀なくされる。それ以外に取り立てて目立った象徴は思い出せないのだが、物語全体を通してキラが見せた柔和な語り口調や表情が、十分彼の「優しさ」を示して余りある。大切な人が傷つくのがイヤだからこそ、ラクスの身体に傷をつける行為に至れない……などという思春期真っただ中な青年的解釈も準備されてはいるのだが、ここではもう一歩踏み込んでみたい。そこにはアスラン・ザラという経由地点が準備されている。

本作でアスランは、まるで諜報員かのように登場する。路地の陰から半身で何かを偵察しているようなシルエットが見え、慣れた観客はアスランが新情報を提示する役割を備えていると身構える。しばらくして彼のイメージが適度に忘れられた頃、赤ズゴックのパイロットとして本筋に合流する。シリーズでは主人公とほぼ同格を張っていた彼は、ルナマリアの新機体「ゲルググ」の下位スペック機体に甘んじて登場する。まるで「もう僕は主人公を求めない」とでも言わんばかりの体なのだが、確かにシン・アスカの在り様と対比させればその言説にはかなりの整合性が付与されるかもしれない。加えて、それが「脱主人公」ならぬ「大人化」の結果であることも考慮すれば、アスランのキラに対する「兄性」が十分説明されもするのだが、ここではもっと大人な話がしたい。アスランの機体がフィナーレで「脱皮」したことを今思い出して欲しい。

ここからは、これまで背後に隠れてきた「アスランとキラ」という関係の総まとめが始まる。本作では間違いなくアスランはキラの兄として位置づけられ、要所でキラを導いている。その方法として、彼は既に大人化を完遂しているが故に構造主義的なものを採用せざるを得ず、即ちキラに対するエディプスとして立ちはだかろうというのだが、キラを弟として(横ざまに)理解するアスランは、そのような方法でキラが開放されないこともよく分かっている。なぜなら誰の目からみても、ヤマト准将は単騎で戦場をコントロールできるほどに強大な力を保持しており、彼のために「分からせて」やれるような「不条理の父」は存在しなくなってしまったからだ。よってアスランは部分的にしか彼を納得させることは出来ない。「ラクスを信じろ」とか「しっかりしろ」などと指摘できるが、「大人になれ」とは言えないのだ。言ったところで彼に勝つことが出来ないことも(これまた横ざまに)理解している。またアスランという登場人物は本作を通してずっと物語の構造や役割に従順な「大人」であるため、ラクスやキラが見せるような構造への挑戦をしない。シーン数に対する彼の登場回数の少なさや、ブリーフィングにおける明らかな機能発話(新情報の提示・共有)を思い起こせば十分だろう。しかしそんな彼が「脱皮する甲殻類」に乗ったことで議論は急展開をみせる。アスランはキラの一歩先を行く存在として、文字どおり「一皮むけた」ことを全世界ならぬ両次元に知らしめた。

構造主義の世界にどっぷり浸かった者が「脱皮」する様子から、彼に「脱構築」を象徴させることも、たしかに出来るだろう。ある意味で掟破りとも言えるモビルスーツからモビルスーツが生れるという二重構造が「ズゴックという本質はその外皮にあり、認知し得ない裏側はその内部から生じる」様を表しているなどと論を展開してアスランの象徴を確定することも可能ではあるのだが、議論の焦点が分散するため本論ではこの筋を進まない。大事なのは、自ら殻を破り新たな形へ形態移行した(※機体はアイデンティテを象徴することに留意)アスランに対して、揚げ物の衣はおろか透明なラップすら破れないキラという、性的なイメージと絡まった「大人対子ども」の関係を前景化させている点にある。それを裏付けるシーンとして、遠くからアスランを「操作」する強い女性であるカガリとの、黙説された性行為が挙げられる。ファウンデーション側のパイロットが相手の思考を読めることに真っ先に気がついたアスランが、敵の動揺を誘うのに「キスシーン」のイメージを利用した場面を思い出して欲しい。あれが性行為の始まりの一幕を連想させ、敵パイロットがその後数秒間、アスラン視点でカガリとの行為を追体験していたのは言うに及ばない。敵の思考を利用して戦うという戦略そのものが十分にアスランの大人性を説明して余りあるのだが、アスランの前段階としてのキラという位置関係を明示するために、カガリの非処女性描写が不可欠であったと言えば以後の説明が分かりやすくもなる。

我々は、このアスランとカガリによる黙説された性行為を以って、やっと本論結末への足掛かりを得る。即ち、大人になったアスランと処女を失ったカガリは、黙説という化学反応ならぬ「文学反応」の連鎖を通して、大人になれないキラと母ならぬ母=処女ラクスとの「類似・対偶構造」を提示する。そしてこれこそが本作の屋台骨なのだ。もちろんラクスは、たとえこの「類似・対偶」が物語の人物同士の相互理解として横ざまに見られる「確固たる友情」に根差していたとしても、構造主義史観の申し子であるこの構造を否定する。それは彼女の生きてきた歴史のなかでミーア・キャンベルが決定的な役割を担っていることにも端を発するのだが、それについてはもう少し先にとっておこう。要は物語の主要人物がこの「類似・対偶」構造という「関係」に支配されていることに留意すればよい。

この構造がどれほど広く、また深くこの物語に影響を与えているか、いくつか例を示してこのフェーズを終えたい。例えばまずフィナーレの戦闘シーンでキラとオルフェの動かす機体の各々のコクピットに着目しよう。キラの方にはラクスが横ならびに。オルフェの方には二人が縦に並んで座っている。「複座式」という類似性を保ちながら、数学的に言えば「逆」の位置取りである「縦か横か」の違いを確認できるだろう。ならば「類似・対偶」ではなく「類似・逆」ではないのかという論も聞こえるところだが、ここには搭乗者たちの関係が作用する。つまり互いが求め合っているか否かがそれだ。キラとラクスは互いに手を取っている。しかしオルフェとイングリットはそうではない。この二回分の否定が相対するコクピットの対偶性を担保する。

他にも「求めるのに相手がいない」女と「相手がいるのに求められない」女の「類似・対偶」にも気が付ける。類似性はルナマリアとアグネスが女性でかつミニスカートを着用していた辺りで十分だろう。ルナマリアがシンに求められていないのは、彼女がシンと同棲する部屋で「シンのバカ……」と独り言つことからも相互作用的に確認できる。他にも、ジャスティスという機体を類似の要として、活躍を求め大人になれないシンと大人化して活躍を求めないアスランという構造も準備されている。

気にしてみればいくつも見つかる関係なのだが、その全貌を明らかにすることが本著の肝なのではない。むしろそうした構造に進んで馴染みながらも内側から崩壊させようとする「核分裂反応」の起点である「ラクス・クライン」の自律的な振る舞いこそが論点なのである。それは「核分裂」ならぬ「収束重核」を準備し、歴史を終わらせる「技術」を核分裂に配して、他方、始まりを告げつつ終わらせるという構造の否定を「収束」の一言にダブらせた経緯の説明でありながら、黙説されたラクスの過去の影を明らかにするということである。ラクスとカガリの対置が、本作で語られなかった二人の喪失を浮かび上がらせたのである。

2024年2月14日公開

© 2024 鹿嶌安路

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