『ガンダムSEED FREEDOM』のレビュー(タイトル未定)

鹿嶌安路

評論

11,537文字

昨日ガンダムの映画を見てきました。anjiは構造主義者ですが、やっぱり「構造主義で作品を眺めるとめっちゃ面白いんだよ!」ということを知って欲しいと思いました。少しずつ書き足していくので、ご一読いただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
コメントも随時お待ちしております!!!活発な意見交換、ご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

目次

第1章:ニュータイプを知らない君たちへ

PHASE-00:Emotion

PHASE-01:難読感を回避する

PHASE-02:突然バイクに乗り出した主人公

PHASE-03:恋に落ちるお姫様

PHASE-04:やめてよね、この馬鹿野郎

PHASE-05:関智一さんが大好きだから!

PHASE-06:青春、種と運命

PHASE-07:これはガンダムなのか

第2章:ゆでガニの脱皮と下ネタ

PHASE-08:SEEDのリアタイ勢はみんなお年頃だった

PHASE-09:正史ガンダムにおける「カニ」の位置づけ

PHASE-10:エッチな「ドム」とカワイイ「アッガイ」の不在

PHASE-11:据え膳を食らう男になるには戦うしかない

PHASE-12:俺は「一皮剥けた」けど、君は子どものままか

第3章:片翼の石像

PHASE-13:アンチニュータイプ

PHASE-14:猿で悪かったわね

PHASE-15:翼の折れた天使

PHASE-16:愛が君を自由にする

PHASE-17:FREEDOM×LOVE=AUTHORization

PHASE-18:たった一人の私

PHASE-19:愛される自由な私は二人から

最終章:分身

PHASE-20:――Relation―― 舞い散る君のために

 

1章:ニュータイプを知らない君たちへ

PHASE-00:Emotion

1月26日(金)に公開されたガンダムSEEDシリーズの最新作『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM(以降「本作」とする)』が全ガンダムシリーズ最高の大ヒットを記録している。週末3日の観客層動員数は63万人、興行収入は10.6億越え。歴代シリーズ最高興収の『逆襲のシャア』が23億、次点『閃光のハサウェイ』が21億(公開3日の興行収入は5億)であることを鑑みれば異例の大ヒットであることは間違いない。いちガンダムオタク(以降「ガノタ」)としては大変喜ばしいことである。

本著は本作の批評文となっている。その目的は、公式設定資料集から本作設定を「紐解く」とこや、筆者には無い驚異的な記憶力によってキャラクターたちの台詞の真意を詳らかにすることでもない。また監督や脚本家の意志をなぞるのでもない。そういった所謂「分かりやすい批評」を求める向きは動画投稿サイトへ潜り眺めておくと良い。そうではないのなら一体なにを批評するのか。端的に言えば「構造」である。ロラン・バルド、アンドレ・ジイドなどに代表される「構造主義」は後のポストモダン(=脱構築主義)を招致し、現在の文壇を席巻するメディア論の下地として機能している。そう、論点は「機能」に尽きる。

構造主義者の批評の特徴は、テクストの読解を一作品のなかで完結させようとする、ある意味で徹底した「単一主義」とでも言える振る舞いにある。あるシーンは別作品のあのシーンから汲み取られているとか、この配色・アングルはあの作品の影響を受けているとか、そういった作品横断的な(用語を使えば「文献学的な」)読解を出来る限り排除し、一作品のなかだけに影響の相互作用を認めようとする。はっきりとした定義や、細かい視座などはロラン・バルトの著作『物語の構造分析』やジュラール・ジュネットの『物語のディスクール』、日本人であれば渡辺直己の『日本文学技術史』などを適宜参照されたい。いずれの著作も読解には困難を極めるものかもしれないが、この努力を「才能」という言葉で回避してはいけない。真実は誰にでも分かりやすいというのはまやかしの類だ。分かりやすい物語とは氷山の一角なのであって、その背後には無数に蔓延る論理的な努力の跡が幾筋も残っている。

構造主義が古今の物語のすべてを詳らかにすることはできないと筆者は考えている。しかし読者に与えうる感動(Emotion)と表現物のあいだに横たわるの関係(Relation)へのひとつの解を、私たち読者や観客だけでなく未来の小説家にさえ提示し得るものと信じている。関係を決定づけるのは遺伝子に刻み込まれた「才能」などではない。それは本作が我々に伝えるメッセージでもあったことを記憶したい。

 

1章:ニュータイプを知らない君たちへ

PHASE-01:難読感を回避する

さて本作の特徴を挙げればキリは無いが、あえてたった一つを明言するなら、全編を通して分かりやすく作られているといったところだろうか。

正史(初代から始まる宇宙世紀の世界線)は筋の分かりづらさが特徴で、勿論そこに一種の味わいが約束されているし、ガノタにとってこの分かりづらさの味がたまらないのであるが、本作は徹底的にその原因を排除せんと躍起になっていた節がある。ガンダムが分かりづらいとされる理由には、一般観客を想定すれば「世界地理の知識」「哲学性」「ニュータイプ論」あたりが挙げられるだろう。

「世界地理の知識」は「場面転換の唐突さ」とリンクしている。例えば初代ガンダムでは宇宙にある「サイド7」というスペースコロニーを飛び出して、「ニューアーク(ニューヨークではない!)」や「オデッサ」「ベルファスト」など、大人でもピンと来ないであろう都市を転々とした。アニメSEEDシリーズでも実はこういった地球に実在する都市名地名をそのまま活用する方針は採用されていて、北アフリカに着陸した母艦アークエンジェルは太平洋の島国「オーブ連合首長国(注:これはオリジナル、おそらく日本辺り)」を経由しアラスカにある地球軍総司令部へと移動していた。

しかし本作では具体的な地理関係への言及が殆どなかった。「オーブ連合首長国」が地球儀のどこに位置しているのか、今回敵国として登場するファウンデーション王国も同様だ。観客は「きっと中国あたりなのかな」くらいの簡単な想像で終わらせることしか出来ないのだが、要はその不明瞭な位置関係が大筋に影響しないという点が肝なのだ。2時間の映像作品で具体的な国の位置を観客に教える必要がないと判断した。後述するが、その成功は創作における「焦点化技法」の観点から言っても間違いない。語られるべきは人間関係であって位置関係ではない。もし作品内における位置関係が、即ち誰が何処にいるのかという情報が人間関係に作用することがあるとしたらそれは具体的に説明されるべきだ(換言すれば、宇宙にお姫様が居て地球に主人公が居るという物理的距離が、レトリカルに何かを説明するなら必要。説明しないなら不要だという判断基準が論点)。ただ、こと「オーブ連合首長国」と「ファウンデーション王国」に関して言えば、その物理的距離は人間関係に一切の影響を与えない。なぜなら両国はあらかじめ敵国同士であることが決定されているからだ。ただし因果律に落とし込まずとも、国同士の物理的距離がそこに住む人々の心の距離と比例しないのは言うまでもない。

距離に関して言えば、地球や宇宙といった広い世界を物語の舞台とする以上、登場人物たちの移動距離は舞台の広さに応じて長くなるのは当然だ。宇宙要塞(シリーズファンにとっては思い出深い)「アルテミス」を敵が占拠し、決戦兵器「レクイエム」を使おうというのだ。地球の平和な島で遠くからどうにかなれと祈るだけでは、文字通りお話にならない。したがって彼らは物凄く長い距離を一瞬で移動しなければならない。なぜなら物語はたったの2時間しかないだめだ。するとそこに生じるのは目まぐるしく変わる場面の転換だ。しかしここで「いまどこを映しているの?」という疑問が観客の中に浮かんできてしまうようでは、物語に集中できない駄作となる(ただし正史はその限りではない。舞台理解の責任はガノタの方にあると筆者は理解している)。何と言っても、本作はガンダム特有の分かりづらさを回避しようと必死なのだ。

念のために付け加えれば、ガンダムは舞台イメージを重視する作品だ。シリーズを通して砂漠は主人公たちの内面を深く掘り下げ、宇宙は彼らの能力や可能性を広げる。日常の一幕を描くような作品とは必要とする情報の質が違っていることだけ明記したい。

そこで本作が提示したのが場面説明のための「字幕」である。カット毎に「ここはどこですよ」という情報を文字で伝えるのだ。正史慣れしている筆者は、この字幕にとても驚いた。それは必要なのですか、と問いたくなったのだ。作品開始数分の導入部だけではその狙いを理解できなかったが、時間の経過と共に、筆者はパチスロ勢のことに思いが至った。『エヴァンゲリオン』の再ブームもそうだが、アニメ作品がパチスロに実装されるとパチスロファンが原作をチェックするという流れがある。ガンダムSEEDもその一つだ。

本作の客層はは十代の頃にSEEDを見ていた三十代の男性ファンだけではない。初代からガンダムを追い続けてきた古参や、ゲーム・パチスロだけ知っていて本作がガンダムデビューだという人もいるはずだ。彼氏に連れられて付き合っている女子。大学生のアニメファンの友だちに引っ張られて無理やり座っているという男もいるだろう。きっと声優ファンだっているいに違いない。様々な背景持って映画館に辿り着いた観客たちを前にして、どの様な完成形を目指すべきか。あえて例えるなら、これは学力差の広い都内の公立中学校の生徒らを前にして、一体どんな授業にすればいいのかと悩むようなものだ。現場の教員たちはこういうだろう。「どこに合わせるか」だと。

 

第1章:ニュータイプを知らない君たちへ

PHASE-02:突然バイクに乗り出した主人公

ガンダムの難しいところは、機械によって登場人物たちが活躍するというロボットアニメならではの制約が課されているところにもある。「世界地理の知識」「哲学性」「ニュータイプ論」といった難読を強いる原因は、この制約から端を発していると筆者は考えている。特に「哲学性」と「ニュータイプ論」だ。初期のガンダムでは主人公とそれに敵対する人物たちは誰もがマシンに乗り、ダメージを受けるたびに「ウーッ!」なり「なんでこんなことを……」などと独白をし続ける言わば「独り言を反復する運転手」となって、観客に何かを説明し続けてきた。しかし『ガンダムUC(読み:ユニコーン)』や『ガンダムZ(読み:ゼータ)』におけるテレキネシスによるコミュニケーションが生れてから、戦闘は会話と同時に進み、戦闘の勝利は搭乗者の主張の勝利と紐づけられる傾向が顕著になった。これは少年マンガなどでも使われがちな手法である。勝った側の主張が正しいという解釈は非常に危険だと筆者は思うが、物語の次元ではそういう「決着」が一つの方法論として確立されている。これはあくまで作品制作側の「伝えたいこと」を伝えるための方法である。この方法をあえて擁護するのならこうなる。議会制民主主義にも危険は内包されている。

ガンダムシリ―ズを通して使われてきたテレキネシスは、真空や途絶する交信を乗り越えて会話をするためだけの道具だったのだろうか。勿論答えは否。勝利を決める戦闘の補助機能としての会話を成立させるだけがテレキネシスではなかった。この能力を持つ者には特別な名前が付与された。「ニュータイプ」である。

ニュータイプだから主人公アムロは強い。ニュータイプだからララァはたくさんのビット(自律型遠隔ビーム兵器。一つ一つはロボットの掌程度の大きさだが、母体から無数に発射され、搭乗者の念に従って高速移動し、多方面から敵モビルスーツを攻撃する)を使いこなせる。初代ガンダムでニュータイプはそのように導入さた。そんなニュータイプという存在をいち早く信じたのがシャア・アズナブルだった。(信じるしかなかったという意味で、シャアと我々視聴者は同じ立場だった。この一点にかけて、私たちガノタはシャアを愛せると言ってもいいだろうが、ここには深く立ち入らないことにする。)

ここまでの情報から判断すれば、ニュータイプとは戦場を有利に進めるためのエースパイロット、撃墜王の別称と理解できるだろう。真空や通じない無線を乗り越えて人の意図を察知し、常人には使いこなせない兵器を使い、またそれを驚異的な反射神経などで撃墜していくのがニュータイプである。それ以上の理解など到底、人の思考の及ぶ範囲ではないと思われていた。ところが『ガンダムZ』の主人公カミーユ・ビダン(勿論ニュータイプ)は最終決戦において「人の想い」をエネルギーとして機体に纏わせ敵に体当たり、見事勝利を手にした。人の想いを力に変えることができるのがニュータイプなのだと、そう解釈する向きが増えた。『逆襲のシャア』ではアクシズと名付けられた宇宙の超巨大要塞が地球に落ちていくのを、主人公アムロの乗る機体(ニューガンダム)が突如虹色の光を羽のように広げて押し返した。後にアクシズショックと呼ばれる奇跡の一幕だが、これもまたニュータイプの新たな力であると解釈され、その存在と能力の可能性は我々目撃者のなかでどこまでも広がっていった。

はっきり言ってしまえば、ニュータイプが何かという議論は一筋縄ではいかない。小難しい言い方をすれば、視聴者の許容できる「能力の可能性」と、制作サイドが担わせたいニュータイプへの「新たな役割」のせめぎ合いが、所謂「ニュータイプ論」なのだ。

議論が発展すればそこに派閥が生れ、派閥は教義を求め、教義が集団を形成する。筆者の戯言ではあるが、必ずしも的外れではないだろう。問題は「教義」のようなもの(「設定」とも呼ばれ得るコード)がニュータイプの限界を規定し、また自由を与えているという現象である。それが最後の難点として残った「哲学性」だ。あくまで仮定の段階ではあるが、もし本最新作においてニュータイプ論を完全に排除することが出来れば、ある種の限定された哲学性は鳴りを潜めるはずだ。その具体的な方法論についてはPHASE-07にて後述するが、端的に言えばコーディネーター対ナチュラルの対立軸を設定した段階でニュータイプ論は放棄されている。しかし興味深いのは、SEEDシリーズが独自の哲学性を提示することに成功している点にある。メッセージを届けるのに必ずしもニュータイプが必要なわけではないということだろうか。

もう一度論点を繰り返せば、「世界地理の知識」「哲学性」「ニュータイプ論」といった難読点を回避することはターゲットの多層化に直面した本作の宿命だったのだが、細かい方法論・技術論の説明を後回しにしたとはいえ、ガンダムシリーズ特有の小難しさが除去されていること自体には納得できるだろう。「分かりやすさ」というメディア論史観の一部分への理解は「大ヒット」という結果でも説明されるところだが、ここに踏み込むつもりはない。念のため反論を提示すれば、クリストファー・ノーランの作品は「分かりずらさ」が売りなのだ。筆者の意見では、これは逆行ではなく、進行であると思える。

さてそろそろ小見出しの回収をしなければならない。青春時代をSEEDシリーズを見て育った向きは、キラがラクスと一緒にツーリングするようになるとは思いもよらなかったのではないか。少なくとも筆者は大変驚いた。あのキラが? バイク??

バイクに乗りそうなのはどちらかといえばアスラン・ザラの方で、その雰囲気はカガリ・ユラ・アスハの活発な嗜好性と合致する。何と言っても初登場のカガリは、家出したお姫様として北アフリカの砂漠でレジスタンスに参加していたのだ。彼女はゴーグルを付けて爆走するバギーの後部座席に立ち、走るモビルスーツの真下に潜り込んでロケットランチャーを直当てする。そんなジャジャ馬と付き合うのだから、アスランの肝の座り具合は尋常ではない。キラとアスランの関係を鑑みるに、アスランは常にキラにとってお兄さんのような存在として(興味のある向きは『機動戦士ガンダムSEED SUIT CD』のvol.1・2に収録されているドラマCDをご確認いただきたい。キラ・ヤマトの母は井上喜久子姉が演じられている。なお筆者は石田彰が私の実兄であればと希う者の一人だ)キラの無邪気な性格をいさめてきた。本作終盤でも「何か変なこと言ったかな」と背後にいるアスランに尋ね、「いいんじゃないか」というアスランの返事に安心するシーンがあった。

こうして考えてみれば、『SEED DESTINY(以後、種運。なおSEEDは種と表記)』の終幕以後の時間のどこかでカガリ×アスランの趣味に影響されてラクス×キラもツーリングをはじめてみた、と解釈してもよさそうなものだが、筆者もプロの小説家を目指す身であることからこのレベルで留まることは許されない。事は多層化したターゲットと、フィナーレでの戦闘シーンにおけるドギツイ下ネタ連打、分身するシン・アスカとストライクフリーダム弐式の頭部ビーム兵器の名称が「収束重核子ビーム砲ディスラプター」でそれは二人で発動するという設定などにまで広く影響するのだが、ここでいたずらに議論を広げるつもりはない。いま大切なのは、多層化したファンのことだ。

その角度から見れば話は単純だ。この設定はガンダム初心者への配慮として配置されたということになる。パチスロからの新規勢にとって本作は誰が主人公なのかいまいち掴めなかったりする。種ではキラが、種運ではシンが主人公を担ったということを鑑みても本作が誰に焦点を当てて進行するものなのかは気になるところだろう。それを新規勢にとってより身近な「バイク」というアイテムを借りてアナウンスしているというわけだ。またそもそもオタクという人種には意外とバイク好きが多い。聖地巡礼先などでスポーティなバイクを披露する、というケースもよく見られる。アイテムで親近感を持たせようとするのならちょうどいいだろう、「バイク」は。

本作の構造は主に2章以降から順次詳らかにするが(それに応じて本著の難読性が増していくのはお許しいただきたい)第1章では、多層化されたターゲットを前提に、制作者である先生方が「どのように」「授業」を作られたのかという点を帰納的に(ないし積分的に)確認していくつもりだ。

物語は有機体だ。一度バラバラにしてしまうと元に戻すことはできない。

それでも(私たちは「それでも」と言い続けなければならない)切り開かれた内側には決して分離し得ない黙された愛がある。筆者はそう信じて疑わないのである。

 

第1章:ニュータイプを知らない君たちへ

PHASE-03:恋に落ちるお姫様

 

PHASE-01の最後で次のように述べたことを思い出して欲しい。

 

本作の客層はは十代の頃にSEEDを見ていた三十代の男性ファンだけではない。初代からガンダムを追い続けてきた古参や、ゲーム・パチスロだけ知っていて本作がガンダムデビューだという人もいるはずだ。彼氏に連れられて付き合っている女子。大学生のアニメファンの友だちに引っ張られて無理やり座っているという男もいるだろう。きっと声優ファンだっているいに違いない。

 

PHASE-01,02では本作がガンダムデビューの人に対してどういった仕掛けを打ったのかを議論した。しかしこれだけではまだ不十分だ。PHASE-03では彼氏に連れられて付き合っている女子のために準備された仕掛けを、PHASE-04では友だちに引っ張られて無理やり座っているという男のための仕掛けについて議論していく。いずれにせよガンダム素人であることに変わりはなく、「ニュータイプ論」の是非もその哲学も全く知らない。それだけならまだマシな方で、ガンダムがロボットアニメだということも知らないのではないかと思えるレベルの層が一定数存在することを認めたうえで、「本作はコレコレこういう作品ですよ」ということを丁寧に説明しなければならなかった。

本作の冒頭はモビルスーツ同士による戦闘シーンから始まる。黒く煙る空の下、ビルを盾にしながら実弾兵器やビーム兵器を使って互いに遠い距離で撃ち合う。近接戦闘はビームサーベルが活躍し、盾は殆ど使い物にならない。どっちが敵か味方かは分からない。しかし戦闘を中断させようと割って入る集団がいる。彼らは「コンパス」と名乗って状況に介入する。リーダーらしき青年が別の3機体に命令を飛ばし、自分は単騎戦闘前線を崩壊させる。彼は太いビームを打つ強そうな超巨大ロボット(型式番号GFAS-X1、デストロイガンダム)を一撃で倒していて、きっとめちゃくちゃ強いリーダーなんだからこの人が主人公に違いないと匂わせる。戦闘シーンの終了とともにキラが大汗をかいて喘ぐのは、ロボットの動きと搭乗者の状態が連動していることを暗に示しており、「機体が傷つくと搭乗者も傷つく」とか「機体の喪失は自己の喪失にも等しい」とか、そういった解釈可能性の幅を決定した。

ここで古参勢とのあいだで確認したいのは、シン・アスカが生身の試合で負けたのも、新機体のインモータル・ジャスティスを上手く乗りこなせなかったのも、シン即ジャスティスガンダムという自己同一性を逸していたからだという理解だ。思うように動けないのも、思うように言葉にならないのも、自己同一性との齟齬が原因なので個人の能力の問題ではないと読み解いて、後のフィナーレでの台詞「分身はこうやってやるんだ」の成立さえこのアイデンティティ観が下支えしているということを併せて確認しておきたい(しかし一度獲得されたアイデンティティが分裂する、などということが果たして生じるのだろうか)。

主人公が誰なのかは分かった。ではヒロインは誰か。「コンパス」という集団のリーダーとして君臨するピンク色の髪の美女ラクス・クラインがそれだ。会議や話し合いの場で状況をコントロールする彼女の立場は、戦場での戦いの在り様をコントロールした主人公と類接関係にあり、キラを主人公と認めることができた場合、素直にラクスがヒロインであると納得できる。

およそここまでの数分間で、すべての新規参入者のみならず映画鑑賞者全員へ、物語のテーマと今後の展開を明示できた。即ち「介入に伴う平定」がテーマで、それは各シーンを綿密につなげている。具体的にどのような「前線」が「介入」の対象であるかと言えば、勿論ファウンデーションの蜂起に伴って形成された戦闘宙域だ。しかしこのテーマは本筋以外にも、細かく分離し介入ていくことになる。ファウンデーションの国境問題に介入する「コンパス」と、中立国でありながら「コンパス」を匿い状況へ頭を突っ込むオーブ。キラとラクスに割って入るオルフェ・ラム・タオの存在。自信を喪失したキラにラクスの想いを代弁するアスラン。キラとアスランの喧嘩を止めようと割って入るも、さらにそれを止める隻眼のヒルダ。枚挙にいとまないのは、「介入と平定(もしくは和解)」というテーマそのものが古今あらゆる形態の物語に採用されたテーマであり、それだけに親しみやすさが約束されているためだ。

しかし今、このPHASEで議論したいのは、新規の女性観客のために準備された工夫の在り様だ。この時、一口に女性観客と言ってもここには細分化された嗜好性の海が広がっている。例えば女性が必ずしも登場する女性に同一化して物語を楽しむわけではないことを筆者は知ってる。黎明期には「ヤオイ」と呼ばれ、今やサブカル界での別称が一般にまで定着した「腐女子」である。彼女たちは物語の男性たちが恋愛だとか勝負だとかに汗水流し、ついに涙まで流して互いの存在を求めあうのを喜ぶのだが、そう簡単に一般化できる世界観ではない。語れば深淵の広がるこの世界からいま私たちが汲み上げなければならないのはほかでもない。オメガバースと呼ばれる腐女子界隈の生み出した特有のコンテクストである。

オメガバースとはある設定に対して用いられる呼称だ。どのような設定かを簡単に言えば、世界には生れ付いて「アルファ」と認定されたエリート達がおり、「ベータ」は一般大衆層。最下層の「オメガ」は差別蔑視の対象であるが、定期的に「アルファ」を誘惑するフェロモンを発してカップルとなることがある。遺伝子レベルで相手を求め合うのだ。

この設定には女性の持つ願いが込められているといって差支えないだろう。エリートとカップルになりたい、性的魅力が経済状況を逆転し得るほどに突き刺さって欲しいという女性の、ハッキリ言ってしまえばどす黒い感情がオメガバーズを生み出したとも言えなくはないが、いたずらに議論を広げるつもりはない。押さえておきたいのは、いつの世もどのような嗜好性にあってもエリート男性を求める女性のサガは如何ともし難いということと、莫大な資産と甘い誘惑を否定し、それらに抗う意志なんて夢物語に過ぎないと知って楽しむ現実の女性たちの強さだ。

本作に戻れば、このオメガバーズという女性ファンが独自に作り上げたコンテクストが「コーディネーター」と呼ばれる既存の設定に絡んで、正史とは別種のテーマを現前させたことに注意を向けたい。それがラクス×オルフェの可能性である。設定をなぞれば、二人は遺伝子レベルでカップルとなることが運命づけられている。オルフェの遺伝子には世界を統治するリーダーに必要なすべてが書き込まれていて、ラクスには万人に愛されるための素質が記録されている。二人が手を取り合って世界をコントロールすることが、世界平和への紛れもない近道なのだと説明される。誰もがラクスの言葉に心酔し、オルフェのリーダーシップを誰もが信じるのだ。「ディスティニープラン(略説:先天的に遺伝子によって判別された適正に応じた生活を保障する制度)」は二人の存在と相互に認め強め合うだろう。ここには誰もが平等に幸福感を享受できる世界が約束されている、というのがオルフェの主張である。しかしラクスはそれを否定した。そこには自由がないと。

よく考えて欲しい。誰もが(客観的、科学的に証明された)自分の得意を存分に活かせる仕事を選べるだけでない。遺伝子レベルで約束されたパートナーが、まるで図書館で検索をかけるかのように簡単に見つかるのだ。職業によるアイデンティティの証明も、溶けてしまいそうな肌の触れ合いさえも約束されている世界。これが幸せの実現でなくて何と言えよう。一体、この世界の誰が「幸せ」を否定できるだろうか。

誤解を恐れずに言えば、これを否定する唯一の存在は「母親」である。あなたが居るから私は嬉しい。あなたが何者か、何が出来るかなんて関係ない。あなたが生きていることが一番の喜びだと、言い切って憚らないのが母の愛である。勿論あなたが「幸せ」であってくれればそれも嬉しいけどね、などという但し書きがくっついてくるのだが。

さてそろそろPHASE-03にも一応の結末を準備したい。要するに筆者は次のように考えている。母ならぬ母ラクス・クラインが、出産時に溢れかえる母性の正体である莫大な量のセロトニンさえも経験せずに、遺伝子が認め合う芳香(注:薫りがダイレクトにパートナーの嗜好性に影響するのは現代科学の説明するところ。日本では東原和成先生の研究などが挙げらる)に約束された一目惚れ(Emotion)をかなぐり捨てることが出来たからこそ、遂には女性観客の心を掴めたのではないか。惹かれ合う二人のまるで催眠術にでもかかってしまうような落ちていく恋は、本作では(文字通り?)異次元の強度で描かれていた。かつて「種割れ」と称され、超集中の表現として採用されていた黒目の点画が、オルフェとラクスの出会いのシーンで劇中初めて採用されたことを思い起こしたい。はっきりと相手を認め、互いのことしか見えない瞬間が、心地よい声色の流れるままにいつまでも続いていく。女にとっての戦場は恋である、と言ってもいいのだが、それ以上にここでは「種割れ」の起点は「恋」なのだと言って憚らないカット割りの方がポイントなのである。強く、美しい王子様との恋が始まりの合図でなくて一体何だというのか。しかし本作は、落ちていくようなバカバカしい始まりの帰結に愛を準備しない。最後に待ち受けるのは無知と盲目である。オルフェはすぐ近くにある思慕を否定し、遺伝子の選ぶ「正解」に固執した。

さて、その固執すらも母の愛に包まれていたからだとしたらどうだろうか。未来のニュータイプは、オルフェの母を信じる素直さと、バラバラに傷ついた心を包み込もうとする両手に気が付ける瞬間を信じ、待ち望みたい。

2024年2月2日公開

© 2024 鹿嶌安路

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"『ガンダムSEED FREEDOM』のレビュー(タイトル未定)"へのコメント 1

  • 投稿者 | 2024-02-02 19:18

    誤「シン即ジャスティスガンダム」
    正「シン即デスティニーガンダム」

    著者
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