『ガンダムSEED FREEMOD』レビューその⑥(タイトル未定)

鹿嶌安路

評論

3,310文字

今朝、ジャケットのポケットに入っていたチョコレートをつまんだらお腹をくだしました。神様がくれたバレンタインかと期待しました。思い返せば去年の今頃は、可愛い女の子と一緒にケーキを食べていました。ただその時も賞味期限切れの牛乳を飲んだせいでお腹をくだしました。類似が導く対偶によって、私はいま独り身である。

第3章:片翼の石像

PHASE-13:猿で悪かったわね

PHASE-14:アンチニュータイプ

PHASE-15:翼の折れた天使

PHASE-16:愛が君を自由にする

PHASE-17:たった一人の私

PHASE-18:愛される自由な私は二人から

PHASE-19:FREEDOM×LOVE=AUTHORization

 

最終章:分身→収束重核子

PHASE-20:――Relation―― 舞い散る君のために

PHASE-21:Mirage Reflection

 

第3章:片翼の石像

PHASE-13:猿で悪かったわね

アスランもルナマリアも赤い機体に乗るという点でガンダムコンテクストの一端を担っているのだが、種や種運シリーズにおいては必ずしも赤の象徴を完全に踏襲するという結果にはならなかった。では本作ではどうだろう。代わりの効かないエースパイロットという側面は残ったようである。またシャア・アズナブルほどではないにしろ、部分的にはリーダーシップを示していた。シリーズや本作における「アンチ・シャア」の手さばきとその難しさを見れば、ガンダムにおける「シャア」が、それだけでテーマを侵食し得る「強敵」だったということの証左となるだろう。ただ本フェーズの議論では「シャアの亡霊」が本作の何処に宿っていたかというよりもむしろ、全く異質な二人によって「赤」が新たな色彩を帯びたことに着目したい。

アスランを「主人公争いに負けたがゆえに大人になれた」脇役と解したように、またルナマリアを「メインヒロインの座を追われても、気にする素振りなく自分であり続ける」サブヒロインと解すれば、いまシャアと対峙することに意義はある。ガンダムというコンテクストを、初期からユニコーンまで続くシャアによる世界転覆のサーガである、とアングルを変えて観察すると状況はより明確になってくる。シャアは常に主人公に乗り越えられる敵でありながらも、作品という次元を横断する形で敗北することなく生き延びてきた。まずユニコーンで霊化した彼は敗北したのだ、ということを思い出して欲しい。それは主人公の座を追われたアムロと戦死したララァに迎え入れられ、アムロをして「もういいのか」と言われるのを見ても、彼が「負けない子どもの世界」から「敗北して大人の世界」に誘われることを意味しているといって間違いにはならないだろう。Zで登場する「クワトロ・バジーナ」はシャアであることを否定できなかったし、ユニコーンで「私は自分を器と規定している」と発言した「フル・フロンタル」も、いかように言葉を尽くしたところでシャアを乗り越えられはしなかった。ラクスのように構造の転換を謀ることはできなかったとも言えよう。フロンタルは自分が物語の登場人物として本作と同種の運命に操られていることを内側に居ながら理解し、その期待を全うすることで「大人」になろうとしたのだが、そうした道行は阻止される。逆襲のシャアで説明されたネオジオン構想も、ユニコーンで説明されたサイド共栄圏構想も同様である。大人のようにものを考え、人を巻き込み、大いなるものの許諾(authorization)の内側で生き続けることを仕方がないと諦めたのがシャアだったにも関わらず、それは「大人」ではないと物語作者(author)に拒絶される。このとき「物語」という言葉が(前章で引用した内田樹の言を借りて)「不文律」を象徴してることはさほど重要ではない。要するに彼のやり方では大人化を達成できなかったということにだけ注目すればよい。故に彼は敗北し迎え入れられることによってのみ「脱おとぎ話」を完了した。

大人化できない強敵を象徴する「赤」が敗北したいま、「赤」に宿るイメージは霧散してしまう。ただアスランやルナマリアといった、「脇役となる」ことで大人化の道行を踏破した登場人物たちにその色が付与されることで、「赤」は生彩を変えていく。二人とも、間違いなくエース級の強さを誇っていたのだという事実が論の起点となる。

大人として自立した二人はもはや自分が「エースパイロット」であることに固執する必要はない。自分が自分自身でいるということに確信があり、事態を打開する能力や人を惹き付ける魅力が自分を規定するのではないことを十分に理解している。だからルナマリアは二重三重にもシンを「バカ」と形容するし、相対化し得る魅力がその人自身を規定すると信じるアグネスにも「はいはい……」という表情で向かい合う。ある意味で本作におけるもっとも自由な人間はこのルナマリア・ホークだというのが筆者の持論なのだが、それは結果論的に理解できることで本作テーマの焦点ではない。「エースパイロット」という性質はあくまで小さくも大切な自分を形作る一つの要素に過ぎず、それが自分を形作る決定的な要素なわけではない。むしろ「エース」であることが出来なくなったとしても、まだブレない理由を持っているという自信が存在している。いま、「赤」は「自信」という色彩を帯び、強敵で居続けなければならないという自責さえも乗り越えて、誰よりも早く、軽々と宇宙を駆け回る。「軽さ」という言葉につけてドイツ観念哲学の大家「フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ」を引き合いに出してもよいのだが今必要なのは観念論のエースではない。

こうして俯瞰すれば、ルナマリアがアグネスとの一騎打ちで「あんな猿のどこがいいのよ」と暴言を吐かれたのに少しだけムッとする様子だったのも面白く鑑賞できるだろう。ルナマリアにしてみれば、次のような感覚なのである。

いやまあ確かにシンは猿だ。間違いない。猿のどこが良いかと言われたら、確かにもうちょっと大人になってほしい。いやでも……まああれはああいう人間なんだろうから、まあしょうがないわよねえ……むかつくけど。って、なんでそれをアンタに言われなきゃいけないわけ。私が猿みたいなガキが好きだからって、アンタになにか迷惑でもかけたかしら。アンタが自分の考えで生きているように、私にだって大切にしてるものがあるのよ。なるほど、私が大切にしてる考えがあなたを否定してるっていうわけ……じゃあこれでケリつけようじゃないの。私は彼が好きな自分も認めてんの。しょうがないでしょ、好きなもんは好きなんだから。

アスランを見ると、ここまでお茶目な自己認識はしていない。彼はもっとシュッとしている。喧嘩になっても冷静なままだったのも、相手の特徴を見極めて振る舞うクレバーな戦い方ができるのも、彼がルナマリアとは違った形で自立しており、きっとそういった形容がカガリの好みなのかもしれないという推察も含めて、自立の多様性を説明するだろう。彼自身がそういった自分を「けっこうイケてるかも」と思っていたりしても面白いが、ここから先は石田彰様の声につけ脳内でいろんなアスランを楽しむだけのご褒美タイムとなってしまうので割愛する。

そろそろ本フェーズを綴じる。

「赤に乗る」ということがシャアの物語とは違った意味合いを持っていて、少なくとも本作では大人化を経たことの象徴として機能していた。脱処女の鮮血と重ねても良いが、それは読者の好みに任せる。アスランとルナマリアという二人の搭乗者を見比べてもそのアイデンティティは全く異なっており、所謂多様性の発露を見出すことができた。どのような人間であっても、それは自信によって自己自身であることを約束し、包含する。

ただ本作には「赤」に乗った「子ども」が一人いた。物語前半部のシン・アスカである。彼が「まだ」ジャスティスを乗りこなすことができず、「まだ」ディスティニーのパイロットであるという理由も相補的に説明されたことにはなるのだろうが、キラと同じ様に「赤」に乗れなかった者へ与えられる道行は丁寧に観察しなければならない。なぜならその一点にかけてシンはキラと類似点を保持しており、「類似」が即「対偶」を招致するのもまた本作の骨子だからである。換言すれば、シンの経過を観察することで、キラの背負ったものの重さが見えてくる。次のフェーズの「主人公」はシン・アスカである。

2024年2月15日公開

© 2024 鹿嶌安路

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