あの素晴らしい愛をもう一度

合評会2024年03月応募作品

鹿嶌安路

小説

3,697文字

※注意:ノラネコにエサをやるなどの行為は感染症の原因となる可能性がございます。特に、お家に妊婦さんがいらっしゃる場合は推奨されません。本作にはそのような場面がございますが、フィクションであることを念頭にお楽しみいただければ幸いです。よろしくお願いします。

夕方のベランダにかかる冷えた洗濯物を取り込んだ。冬枯れの桜並木が見える。春が来て、桜の花が満開になったとしても、繰り返す季節がまたもう一周するというだけ。潮風は腰まで伸びた私の黒髪を揺らす。

花見川沿いの小さなアパートで、私はママと二人で暮らしていた。二人で暮らしていた、と言ったのは、もう二人だけの生活ではないからだ。ママのお腹には赤ちゃんがいる。

ママと一緒に買い物をするスーパーは川沿いを海岸方面へ五分くらい進んだところにある。大抵のものは揃う。この小さな二つの鉢植えもそこで買った。一つはまだ何も生えていないけど、もう一つには双葉が芽吹いている。「可愛い!」とママが衝動買いしたのだ。

ママはモデル級の美人だ。でも男を見る目がないし、あまり大人っぽくない。ここのところは毎日ベッドでゴロゴロと映画を観るばかりで、この人が本当に働けていたのか疑問に思う。でも仕方がない。今は「つわり」がきつくて、どうしても動けないのだ。

「ルナちゃん、そろそろご飯にしよ」

ママは寝返りをうつと、ネコの様な伸びをして、私のいるベランダを見上げた。だらしなく伸びたパジャマから胸の谷間が見える。男の人はこういう仕草が好きなのかな。

「たまご雑炊作るから、ちょっと待ってて」

テーブルに並べた雑炊から優しい和風の薫りがする。我ながら良く出来てる。

「あっという間にできちゃうんだから凄いわ、ルナちゃんは天才よ」

「やっぱりそう思う? 雑炊なんてすぐだよ」

照れ臭さを前髪で隠して、黙々と食べ続けた。私を「ルナ」とか「ルナちゃん」と呼ぶのは、私のことが好きだかららしい。

「ルナは天才、ママが保証するわ」

こんなの誰でも出来るって思うけど、やっぱり褒められれば嬉しい。

「ルナちゃんは何でもできるのよ。この前の定期テストも学年一位だったでしょう」

「理科は苦手だけどね……特に植物のとこ」

「少しくらい苦手がある方が可愛いのよ」

「学校、ほとんど行けてないけど」

「勉強出来るんだから良いの。ルナは将来何になるんだろ、やっぱり丸の内OL?」

私はママのような綺麗な看護師になりたいと思っている。けど言わない。代わりに、

「ノラネコにエサやってくるから、食べ終わったら流し入れといてね」

そう言い残し、玄関で一食分のカリカリとママが昔使ってた豚毛のブラシを手に取った。

「外寒いから、コート着ていきなね」

適当に返事をした。外は暗くて寒い。

ノラネコの名前は「ルナ」だ。自分と同じ名前を付けるなんてちょっとおかしいかも。

いつも私を見つけると足元に来てニャアーと言う。それはカリカリをねだる合図だ。ルナは満足するまで食べると、すぐ塀を乗り越えてどこかへ行ってしまう。でも機嫌のいい時は食べ終わる頃にもう一度ニャアー。この子はそうやってブラッシングをねだるのだ。今日のルナは機嫌がいい。私はママのヘアブラシを使って、ルナの毛並みを整えた。

「ルナちゃんは素敵なネコさんです。ちゃんと自分の言葉でお願い出来て、偉いよ」

しばらくすると、ルナはブラシをちょんちょん叩いた。「どうした?」と思う間に、ルナは塀を飛び越えてどこかに消えてしまった。

しっかり手を洗ってから部屋に戻る。

テーブルにはほとんど手のついてない雑炊が残っていた。ママは私が部屋を出てから全く食べてなかったのだ。誰もいない部屋を見ていたら、なぜか急に胸が苦しくなった。手足が痺れて、その場で倒れそうになった。呼吸が浅い。私は片手で胸を押さえながら、壁に手をついた。掌に冷たい汗が滲む。

……ぜんぶ、ぜんぶわたしが悪い。

私がちゃんとしないから、ママと赤ちゃんが死んでしまう。また家族が壊れていく。きっとドアの向こうで倒れてる。気がつくと私は無我夢中でトイレのドアを叩いてた。

「お願い! お願い、ママ出てきてっ!」

ママは真っ青な顔をしながらドアを開けた。

「ママごめんね、私また間違えちゃった」

するとママはげっそりした顔に優しい微笑みを浮かべて、私のボサボサの髪を撫でた。

「ルナは何も間違ってないよ……って、ルナ、なんて顔してるのよ。こっちきてごらん」

促された洗面台で自分の顔を見ると、長すぎる前髪で泣きべそを隠した女の子がいた。

「ルナは心配性過ぎなのよ。人間ってのは意外と頑丈に出来てるんだから」

背中から、抱きしめるママの体温を感じた。

「本当に死んだかと思ったけど、死ぬほど幸せだったのよ。だからこの子にも会いたいの」

ママと隣同士でベッドに腰かけた。

私はママの膝でいつまでも泣いていた。

 

お腹の赤ちゃんが大きくなるにつれて、ママのゴロゴロは、より一層ひどくなった。

「こういうのを春眠暁を覚えずっていうのよ」

難しそうな言葉を知っているからといって、ゴロゴロが許されるわけではない。でも確かに、春らしい暖かな陽気が続くと、知らぬ間にボーっとしていることはある。

「ママ買い物行こうよ。最近ゴロゴロしすぎだから、たまには動いた方が良いよ」

ベランダで洗濯物を干しながら、ぐうたらママをお散歩に誘ってみた。

「いいね! アイスと、お菓子買おう」

「ねえ、ちゃんと栄養あるのにしようよ」

二人して適当にサンダルを突っ掛けた。不思議な感じがする。空は曇っているけど空気は暖かい。季節の変わり目はいつも不安定だ。

「ルナは細かいのよ、この子だってアイスの美味しさをおぼえた方がいいの」

私は大げさな溜め息をついて頭を振った。

「アイスも、買おうね」

「いいの? ルナちゃん大好き!」

お店に着くと、ママは私の腕を取ってベタベタしながら、煎餅やクッキー、菓子パンなんかをカゴに放り込んだ。もちろんアイスも。

店を出る頃には既に雷が鳴っていた。耐えられるかと期待したけど、家までもうちょっとのところで土砂降り。干したままの洗濯物を早く取り込みたくて少し焦った。

でも、本当は落ち着いていた。

「はいどうぞ」

ママがのんびり玄関を開けるのも冷静に待っていた。こんなミス、大したこと無い。

私は丁寧にサンダルを脱いでから、急いでベランダの洗濯物を取り込んだ。焦らず急げ。

ママの方はというと、少し動いたからか、重い身体をさすりながら部屋の壁に手をついていた。私はバスタオルをママの肩にかけた。濡れた髪が寒そうで、エアコンをつける。段々とママの身体が震えはじめた。ひどい汗だ。タオルで額を拭うママの表情が険しい。汗は滝のように流れ続け、呼吸は次第に浅くなる。ついにベッドへ倒れ込んでしまった。

「私、救急車呼ぶからね」

険しい顔のまま、何度も小さく頷いた。

 

「本当に、死ぬほど幸せだったのよ」

隣同士でベッドに座ると、ママは優しく、静かに話し始めた。

「ルナちゃんが頑張ってくれてるの、ママは凄く嬉しい。いろんなことをテキパキこなして、勉強だって何でも出来ちゃうんだから、ママ、ルナちゃんのこと尊敬してる」

ホッとした私の胸に、久しぶりの春が来た。

「でもママね、ルナがパパのことでずっと悩んでたの、本当は知ってたんだ」

その言葉を聞くと、まだ胸が苦しい。

「間違えちゃった。最初はそう思ってたのね。パパのこととか。……きっと母親になっちゃいけなかったんだとか」

そんなことない、ママは世界一のママだよ。そう言いたかったけど、胸にある何かにつっかえて出てこなかった。

「私は母親失格だって思ってた。ルナが学校行けなくなっちゃっても、ママ、何も出来なかったから。でもね、この子が少しずつ大きくなっていくにつれて思い出したことがあるの。ルナを産んで本当に本当に幸せだったこと。だからルナと二人で生活できるのも、きっと神様からのご褒美なんだって……」

「やだ! そんな言い方しないでよ!」

バラバラになるのが神様からのご褒美だなんて、そんな幸せ、私には耐えられない。

「ルナ違うの。でも、ごめん、良くなかったね……本当は後悔してるの。あの時こうしておけば、っていうのがたくさんあるんだ。言わきゃよかったな、っていうこととか」

ふと、パパとママと三人でお花見した日のことを思い出した。他にも、真っ赤な夕焼けの空の下を海岸までお散歩したことも。パパとママがすごく仲良しだったのが嬉しかった。たったそれだけの、ずっと蓋をしていた気持ちが湧き上がってきた。なぜだか涙が止まらなくて、ママの膝に崩れ落ちた。ママは震える声で「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返しながら、私の頭を撫でていた。

 

病院から一人で帰宅した。空はもう暗い。私が家の鍵を開けようとすると、足元からニャアーという声が聞こえた。ルナがカリカリをねだっている。ちょっと待っててね。

ママはそのまま入院した。今のところ容体は安定している。先生の所見では、一週間以内には産まれるとのことだ。ママは二回目の、死ぬほど大変な出産に臨む。

私はパジャマに着替えて水やりをした。何も生えていなかった鉢植えから、小さな双葉が芽を出している。もう一方に目を向ければ、大きくなった双葉の間から本葉が育っていた。

「きっと大丈夫だよ、ゆっくり、ゆっくり大きくなろうね」

ベランダから見える景色が、いつもよりほんの少しだけ、明るくなった気がする。

 

2024年3月5日公開

© 2024 鹿嶌安路

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"あの素晴らしい愛をもう一度"へのコメント 8

  • 投稿者 | 2024-03-23 18:36

    臨死体験が出てこないなと思ったのですが、二度の出産がそれに当たるのですね。確かにお産は下手すると死ぬし、誕生とは死から生へ命が移動してくることだと捉えると、臨死体験がなりたちます。目の付け所が上手いですね。
    前作と打って変わった平易な語り口調、いろんな引き出しを持っている方だと感じました。変わったシチュエーションなのですが違和感なく読めました。

    ヤングケアラー的なルナちゃん、なぜこんなに自罰的な考え方なのかがはっきりと書かれていないのが気になりました。両親の離婚の原因となったのでしょうか。赤ん坊が生まれたら、世話を一手に引き受けそうな気がして痛々しいです。

  • 編集者 | 2024-03-23 23:24

    初読時は、ルナが間違えて殺鼠剤を入れて母が体調を壊したのかと思いましたが、勘違いでしたね。父親がいなくなったということは分かったのですが、赤ちゃんの父親が同じなのかどうなのかで話が全然変わってくると思います。そして、わたしは違う父親で読んで、ルナちゃんはこれからも苦労しそうだなと感じました。

  • 投稿者 | 2024-03-24 06:36

    二度目の臨死体験は二度目の出産のことにも、ルナちゃんのおそれる「また家族が壊れてしまう」ことにも思えました。ルナちゃんが、ちょっとした不測の事態や予想外を全部自分のミスや間違いと思っているところにヒリヒリします……幸せになって……
    以下は私が書くとしたら、という感想なのでラフに読んでいただければと思います。
    前半の二人の生活感の中に、物でも記憶でもいいのでパパがいた痕跡が垣間見えると最後に繋がるかなと思いました。
    病院から帰ったルナちゃんがもう少し大丈夫になったような変化があると、前半とのメリハリがあって、鉢植えにかけるセリフと最後の文も活きて、結末としてさらにいいんじゃないかと思うんですが、個人的な大丈夫になってほしい願望なだけかもしれません。
    "「たまご雑炊作るから、ちょっと待ってて」
     テーブルに並べた雑炊から優しい和風の薫りがする。"
    ここ、ベランダから部屋に戻るルナちゃんのそばのテーブルに、同時に雑炊が置いてあるように読めてしまう気がしました。書きすぎないことを意識されているんだろうなとは思いますが。重箱の隅をつついてすみません。

  • 投稿者 | 2024-03-25 12:39

    面白かったです。最後の余韻が最高です。宇佐見りんさんのかかを思い出しました。あれに比べると母親はまだまともそうだし、ルナも大丈夫そうだし。だからまだ大丈夫。多分。

  • 投稿者 | 2024-03-25 13:29

    死ぬほど大変な出産→二回目の臨死体験ってことか! と最後まで読んで腑に落ちました。
    見落としてたら申し訳ないのですが、ルナちゃんが小学生に見えたり中学生に見えたりと姿がふわふわしてました。
    良くも悪くも母娘はよく似ていて、「すごく親子!」と思いました。自分を責めて、相手を崇拝するような所もそっくりで、意図的な描写だと思ったんですけど、そこが救いでもあり、地獄でもある。下の子が産まれてきたら、この関係性には亀裂が入るだろうな、と思いました。

  • 投稿者 | 2024-03-25 14:55

    全部自分のせいだと抱え込んでしまう人いますよね。でもそういう人って総じて良い人ですね。ママがお腹を壊してしまったのは雑炊の卵が痛んでいたからかしら。お題の「二回目の臨死体験」はちょっと弱かったかな。

  • 投稿者 | 2024-03-25 18:21

     前回より判りやすい内容に仕上がっており、伸びしろがある人だと思う。
     体調不良の場面が意図的なことなのか事故なのか真相が判らず、もやもやした。
     臨死体験の意味を拡大解釈しすぎだと思った。主人公の年齢や学年を明示したい。

  • 編集者 | 2024-03-25 18:53

    人間の死として捉えるとわかりづらい部分もあるが、「臨死」体験とは人間のそれに限らないということが強く打ち出されていると感じた。家族も文化も国も何回か死ぬし、蘇ったりもするのではないか。良い作品でした。

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