『ガンダムSEED FREEDOM』レビュー②(タイトル未定)

鹿嶌安路

評論

17,929文字

書くことで発見できるものってたくさんあるんですね。改めて量を書くことの効果を実感しました。構造主義からの脱出は、本作のテーマです。

第1章:ニュータイプを知らない君たちへ

PHASE-04:「やめてよね」「この馬鹿野郎」

男の子が大好きなのがガンダムでしょう、というのでは余りにもオタク精神を理解できていない。

本作を観るに際し、筆者は上映時間を待つあいだにショッピングモールをぶらついていたのだが、あるホビーショップが目に留まった。ガシャポンフィギュアがディスプレイされていた店内へ入ると、右側はジグソーパズル、左側はプラモデル売り場となっていた。だからどうしたということもないのだが、もしかしたら女性にとってのジグソーパズルと、男性にとってのプラモデルという「趣味」のあいだにはどこか共通するものがあるのではないかなどと思ったのだ。何が言いたいかというと、プラモデルを組み立てるのが楽しいという気持ちと、ジグソーパズルをはめ込むのが楽しいという感覚にはどこか似たような感じがあるのだろうということだけではなくて、ガンダムが楽しいという感覚は必ずしもある特定の層にだけ刺さるのではなくて、嗜好性の本質を見抜くことが出来れば様々な客層を対象にした作品として成立しうるという可能性がある、ということが言いたかった。本作が大ヒットした理由は、勿論『鬼滅の刃』然り、『千と千尋の神隠し』然りではあるが、リピーターという奥行きを発生させつつも上映時間一杯で多様なターゲットに楽しんでもらおうとする仕掛けが活きているからだと言って間違いにはならないだろう。バイクにしても、貴族趣味を前面に押し出した敵キャラの設定にしても、彼らを放置する筋組みにすることだって出来たのにそうしなかった理由はまだすべて説明されつくしてはいない。

ただここで議論すべき焦点は別にある。本作は、ガンダム素人の男子に向けてどのような仕掛けを準備していたのだろうか。女性キャラの体形とかミニスカートをその答えにしていては的外れも甚だしいのだということを前提として、このフェーズをスタートさせたい。

「戦いと囚われの姫」のテーマは、『スーパーマリオ』のマリオとピーチの関係(距離)のように、古今普遍に採用され世代を超えて愛されてきた。それだけに結末が分からないといった不安を与えることなく、「筋」ではない「出来事」に観客を集中させることに成功した。

およそガンダムというのは元来男の子向けの作品で、戦争や爆発、男の戦いが現前化するブランドなのだということを前提にしてしまえば、ロボットを戦わせて爆発させておけばいいじゃないかという話にもなりそうなものだが、いま着目したいのがまさに「男の戦い」なのである。キラ・ヤマトという男性キャラクターが主人公であることが既に仕掛けではあるとはいえ、それ以上にキラにとっては兄と呼んでも差し支えないほどに仲良くも敬愛するアスラン・ザラとの喧嘩のシーンが論点である。

物語中盤で敵の術中に嵌り、手持ちの機体をすべて破壊されてしまったコンパス陣営のブリーフィングで事は生じる。囚われの姫ラクスを救出するだけでなく、軍事衛星アルテミスに建設された大量破壊兵器へ対処するためにどう動くべきかを話し合っていたところ、キラは意気地を無くしてしまう。

「ラクスは彼を選んだ」

そう言って作戦参加を拒絶する彼の胸倉を掴み、アスランは目を覚ますよう忠告する。結局言い争いでは納得できず殴り合いに発展するのだが、この瞬間に際して男の子向けのサービスシーン以上の価値を付与せずにはいられないのが文筆家の性だろう。

まずこの出来事には明確な引き金が存在する。「ニコル・アマルフィ」への言及がそれだ。

ニコルと言えば原作(種)ファンならば絶対に覚えているだろう。アークエンジェルが中立国オーブへ入港する直前の出来事だ。オセアニア周辺で戦闘が生じ、キラの搭乗するストライクガンダムとアスランの搭乗するイージスガンダムが小さな島の上で一騎打ちになる。周辺ではブリッツ、バスター、デュエルガンダムがアークエンジェルを攻撃するなか、ニコルの搭乗するブリッツガンダムは片腕を負傷してしまう。ちなみにこの瞬間に作中初の「種割れ」現象がキラ、アスラン双方に生じるのだが、それは一旦置いておこう。振り返らなければならないのは、アスランの窮地に駆け付けた隻腕のブリッツガンダム搭乗者ニコルを殺したのが他でもない主人公のキラだったこと。また同時にキラの窮地を助けようとスカイグラスパー(戦闘機)で戦闘に介入したトール・ケーニヒがアスランに撃墜されているという対偶関係にある。ニコルはアスランと、トールはキラと親友関係にあり、それが互いの手によって殺され合うのがこの場面である。

コズミックイラ(正史の「宇宙世紀」対する種や種運の年号)を追いかけてきた我々にはこの出来事が忘れられないという事実を注意深く読み解けば、本作での喧嘩のシーンがなぜ始まってしまうのかが少しずつ分かってくる。あれは「不器用な友情」程度で片が付けられるほど簡単な事象ではないのだと断っておく。

つまり、観客ですら忘れられない出来事を、当事者たちが簡単に忘れられるはずがないだろう、というのが論の開始点となる。リアタイ土曜十八時の夕飯時に、戦闘機に乗った子どもがガンダムの投げた盾で押しつぶされるのだから、生々しく我々の記憶に焼き付くのは無理もないのだが、それを知っているのは我々だけではなく、戦闘に介入して状況を作っていた当事者自身も直視していたという単純な事実を見逃したくない。ピアノが大好きな心優しくも正義感に溢れた親友がビームサーベルで焼き殺される。なんの因果かアークエンジェルに乗り合わせ、人員不足を埋めるために好きでもない戦闘行為に適応していった友人が初陣で嬲殺しにあう。母艦ではトールの彼女ミリアリアが、モニター越しにシグナルロストを真っ先に認識する。青年期の登場人物たちが、友だちを殺され合うという現実が彼ら彼女らの心に深い傷を負わせないわけがないだろう。

要は誰もが「ニコル」の一言ですべてを思い出してしまうという現象に注意を向ければよい。ニコルの搭乗したブリッツガンダムの特異技能「Mirage Colloid(ミラージュコロイド)」に寄せて、「見えなくてもいつも見守ってくれている」という言葉で和ませてもよかったのだろうが、そうはいかない。誰もが深い傷を負ってなお、各々のやり方で乗り越えてきたという歴史が、平気な顔でブリーフィングを継続できる大人たちを形作っている。ルナマリアや隻眼の女性ヒルダ・ハーケンはすべて知っているわけではないが、その言葉に反応した出席者たちの空気感に何か奥深い出来事が隠れていることを察している。シンはその限りではないためにキラ×アスランの喧嘩に介入するのだが、シンに付与された「大げさな幼さ」はこの後にいくらでも言及できる。ただキラが「ニコル」という言葉に絶望的な反応を示したことが次の読解点なのだが、これもこのフェーズでの言及を避ける。そこには第3章のフィナーレを飾るにふさわしい事実と本作の肝と言うべき登場人物同士の出来事にまつわる「類似・対偶」の連打への影響力がある。

巻末への匂わせをもってこのフェーズを終わらせるつもりではあるのだが、後のために思い返しておきたいことがある。キラ×アスランの喧嘩シーンで、両者は一切汗をかいていなかったことと、本作導入部の戦闘終了時のキラの表情である。モビルスーツに乗って後、状況へ介入。五分にも満たない戦闘によってキラはヘルメットのなかに大汗をかいていた一方で、同列した他のパイロットたちが平然としていたのにまず着目しよう。それは後方での戦闘がさほど激しくなかったためだと言ってしまえばそれまでなのだが、それでは素人見解である。種、種運を通じてあれほどまで異常な大汗をかくキラを筆者は見たことがなかった。

物語内で作者が登場人物に汗をかかせる理由はあまり多くない。興奮、緊張、恐怖などが挙げられる。温度の間接描写ということもあるのだろうが、いまは前者の三つに焦点を当てたい。つまりアニメ作品全編を通じて平然とモビルスーツを撃墜し続けてきた男が、本作になってその「性格」を大きく変容させたことが分かるだろう。

ある種の緊張感が彼に汗をかかせるのであればアスランとの喧嘩には一切の緊張感がなかったということになるのだが、緊張の不在以外の解釈は残されている。順を追って話せば、筆者の経験上格闘センスが同等の相手と対峙する場合、構えを取るだけでも相当な緊張が生じる(筆者の趣味はキックボクシングである)。シンのように突発的な行動に出てしまいそうになるほど殴り合いには原始的な引き金が内在されており、いくらプロの格闘家とはいえ十分に緊張していて、それをコントロールするための特別な練習をしている。(コーディネーターは「射撃」や「ナイフ戦」などの訓練を受けてはいるのだが、残念ながら本作でそれを知らせるほどの時間の余裕はなかった。)やはり事実を「興奮、緊張、恐怖」の不在の象徴としたくなるのだが、一方にある別の解釈とは、汗の意味するところの真逆の感情、すなわち「安心」である。もしアスランが自分よりも強いことをみんなに理解してもらえれば、自分は戦闘に参加する必要がないと主張できるとキラが考えていたとしたらどうか。彼が代わりになってくれる。今までは自分が一番強かったから(「君たちが弱いから」の意味はそれだけではないのだが、)心を殺し尽くしてまで状況に介入していたが、アスランが居るのならそうする必要はないと、全身全霊で安心していると思った方が良い。だからまるで当てる気のない崩れた右ストレートを打っているのだろう。身体が流れていて素人でも避けられるレベルだったのは、やらないと分からないかもしれない。

自分より明らかに強い人、自分よりも明らかに優秀な人間が、自分のことを導いてくれるというのが何よりの安心となる。それは全人類にプログラムされた運命である。ディスティニープランとはその感覚が官僚制的に全組織に波及する考え方だった。

今でも言われているのかもしれないが、一昔前、「清潔感」という言葉が男性の価値を象徴していたことがある。一人暮らしをすると物理的な清潔を保つことが意外と難しくなることから「あたりまえ」の代名詞と優しく解釈して差し上げてもよいのだが、それが「安心感」に置き換わりそうな現代社会を鑑みて欲しい。いよいよ自由は幕切れとともにバラバラに破壊されるだろう。民主主義の顔をしたナチズムは「安心の希求」から肯定されるのだ。

 

第1章:ニュータイプを知らない君たちへ

PHASE-05:関智一さんが大好きだから!

 

一度話題を変えよう。あまりに真面目に事を広げすぎた。たかが映画である。ことさら筋と筋を繋げていちいち解釈を生み出して、ああでもないこうでもないと言い合うのは「楽しければいいじゃないか」という娯楽の域を超えている。かくいう筆者は声優が好きでこのシリーズを見はじめたのだから。

声オタにとって本作はどこを見ても興奮が冷めない。一旦、保志さんから入ろう。

保志総一朗とは本作キラ・ヤマトの声優を担当されている大スターだ(以後「大スター」という言葉を禁じる。なぜなら全員が大スターで特に筆者の推しに言及するとなれば乱用不可避のため)。『西遊記』の孫悟空から知ったという方は多いのではないか。アニラジで毎週のように流れていた『Shining Tears』が保志さんと筆者の初対面だったのだが、当時中学・高校生だった筆者は、お互い保志さんが好きという理由で彼女ができたこともある。筆者の青春は声優保志総一朗と切っても切り離せないのである。ちなみにシン・アスカ役の鈴村健一さんは保志総一朗さんと同じ「日ナレ→アーツビジョン」の系譜で、ほっちゃん(堀江由衣さん)やゆかりん(田村ゆかりさん)と同じ足跡を辿っている。現在、鈴村健一さん、堀江由衣さん、田村ゆかりさんはそれぞれアーツを移籍している。

保志さんの話をしたら石田彰さんへ言及しなければならない。なんといっても二人は仲良しなのだから。実は石田彰様は人間嫌いで有名である(にも関わらずめちゃくちゃモテる。なぜならイケボだから。朴璐美さんの熱烈なアプローチもそれを証明しているだろう)。『エヴァンゲリオン』でカオルを演じたことが影響しているのかは分からないが、しかしとにかくキュートなのだ。声優雑誌(筆者の薄い記憶だと少なくとも声グラではなかった。覚えている方がいたら教えて欲しい)のアンケート内容に「昨年と同じ」と毎年書く当たりに愛くるしさを感じずにはいられない。破壊的なイケボの持ち主で人間嫌いな石田彰様だが、なぜか分からないけれど保志総一朗さんとの掛け合いでは本当に楽しそうにするのを声優ファンは目の当たりにしてきたはずだ。種ラジ(ミリアリア役の「めぐー」こと豊口めぐみさんがパーソナリティの)で保志さんと謎のテンションで騒ぐ二人にほっこりとしたのは私だけではないだろう。石田彰様の素敵なところはそこに留まらない。声優が歌いながら踊る時代となった今でも、彼は声優業一本で突き通しているのだ。長編だろうが深夜だろうが、アニメが放映されるたびにキャラソンが出来る昨今において、石田彰様は歌の仕事を断っている。しかし私は知っている、大変レアなcv.石田彰の楽曲を。恋愛シュミレーションゲーム『遙かなる時空の中で』というシリーズ作品のアニメ『遙かなる時空の中で~八葉抄~』で石田彰様が演じられた安倍泰明が『翳りの封印』という曲を歌われている。この流れで言えばこの作品には脳みそが溶けてしまいそうになる声優さんたちのイケボがこれでもかというほどに詰まっている。三木眞一郎さん、関智一さん、高橋直純さん、宮田幸喜さん、置鮎龍太郎さん、堀内賢雄さん(くぁwせdrf……)などなど、名前を書くだけで筆者の頭のなかでは彼らの声が再生されている。脳汁を垂れ流し説明にもならないオタクを全開にして良いのなら本筋なんていくらでも外れて見せるのだが、「すぐに艦を戻せ、腰抜けが!」という声が聞こえてきたので関智一さんの話をしたい。

アニラジ文化がいつ形作られたのかは社会文化史を語る一つのテーマとなるだろう。筆者はその向きに明るくないのだが、もし2000年前後をアニラジ黎明期と言えるならば、今のアニラジ文化を語る上で『智一・美樹のラジオビッグバン』は避けて通れないはずだ。声優を目指す5人ほどのアシスタントパーソナリティと一緒にメインパーソナリティーの関智一さんと長澤美樹さんが、様々なコーナーを進める一時間番組である。番組の特徴は、関さん主導の酷い下ネタと、関さんと長澤さんがかつて付き合っていたという事実に端を発する暴露トークにある。人気声優の今井麻美さんはこのアシスタント出身だが、関さんにドギツイ下ネタを振られたことがかなりキツかったようだ。どれ程の下ネタだったかと言えば、十二月のアポなし電話のコーナーで元アシスタントに「メリークリスマス」ならぬ「メリークリ○○ス」を言わせようというのだから……構成作家の伊福部さんにも罪はあろう。別番組である種ラジでは、イザーク・ジュールの看板を背負っているにも関わらず、それとなく下ネタを投下する徹底ぶり。筆者はヘロQ(劇団ヘロヘロQカムパニー。関智一さんと長澤美樹さんが座長)のノリでいれば関さんは絶対にイケメンポジに収まるはずだとは思うのだが、その一方で永遠の男子とイケボのギャップこそが関さんの魅力なのだと信じて疑わないのである。

イケボなのに本人のキャラが残念な声優といえば子安武人さんだ。笑って許して欲しい。俺たちの子安は間違いなく誰からも愛されているのだ。不可能を可能にするムウ・ラ・フラガ役での出演であるが、ちょっと遊び人チックな大人として主人公たちの脇を固めている。愛してはいる。愛してはいるのだが溶かされるほどまでいかなかったのは、どうしようもないではないか。これは周波数の問題であって、子安武人さんの魅力を存分に味わい尽くせなかった筆者の青春時代の過ごし方が悪かったのだ。

ただ強烈な「いぶし銀」はむしろ大塚芳忠さんだったと思う。筆者は芳忠さんの声が世界で一番好きなのでこういう言い方になってしまうのをお許しいただきたいのだが、新登場の母艦ミレニアムの艦長アレクセイ・コノエが芳忠さんの声を出したときに思わずヒエッ!となってしまったほどだ。幸いなことに右は通路、左隣に人はいなかったので筆者のオタバレは見事に回避できたのではあるが……。芳忠さんを好きになったのは、筆者が幼年期の頃に教育テレビで放送していた『フルハウス』という作品がキッカケだ。『フルハウス』と言えば、しっかり者のニュースキャスター「ダニー」が妻に先立たれ、残された三人の娘のために義弟「ジェシー」と親友「ジョーイ」の力を借りて子育てに奮闘するというコメディ番組だが、この「ダニー」「ジェシー」「ジョーイ」がとにかくイケボだった。前述の通りダニーは大塚芳忠さんが、ジェシーは堀内賢雄さん、ジョーイは山寺宏一さんと超大御所三銃士が揃って物語を進めていたのだから、筆者は幸福な幼少期を過ごしたと言っても過言ではない。幼稚園児だった気がする。勿論周りの園児や小学生とは話が合わなかった。ちなみにこれは自慢なのだが、筆者は山寺宏一さんのサイン入りCDを持っている。

 

確かに筆者が所謂「声オタ」であることは間違いない。特に男性声優の大ファンなのである。ところがこうしてフェーズを閉じようとするいま、ふと疑問が浮かんだ。私は本当に役者たちの演技を見てきたのかと。

文章を書くということは少なからぬ影響の磁場が生じるということであり、その間近で磁力を浴び続けているのは当然読者なのだが、筆者(=第一読者)も同様である。私が何を感じ、何に喜び、何を楽しんだのかは何度でもリフレインできる。しかしこの無限の相互作用のなかに浮かび上がったのは、彼ら役者たちの見た世界の一端から差し込む一筋の光だ。筆者とは全く別様に世界を見ているという純然たる事実が、別言すれば解釈が生み出される原点からの光が、これまでの楽しみを生み出してきたアングル、楽しみ方に半ば強制的な変更を迫っているのだ。綺麗な発声、美しい声色がキャラ絵や台本と相互作用的に生み出す立体感とでも言おうか。いや、書いてしまえばそれまでのことなのである。声優とは、画面に映し出される状況に声によって介入する。それは素人がやるのでは何故か腑に落ちないから、腑に落ちるような方法論やそれを確実に実施できるプロフェッショナルが求められる。

物語の理論を知っている人と、それを知らない人の作るものに差があるのは当然だが、その理論を実践できる人、活かせる人、出来ない人がいる。もしくは守り通してきたそれを破り捨てられる人もいる。きっと演技にも似たような次元があるのではないかと思う。確かに素人には戻れない。それでは作品が台無しになってしまうし、「形無し」に堕するというものだ。基本は常に発声にあって、そのピッチコントロールが年齢やキャラクターの性格を表現する、というのは少し考えれば分かる。しかし私たちが彼らの声に見出したいのはタイミングの良いピッチコントロールだけではないはずだ。なぜ彼らの存在が見えないのか。どうして鈴村健一が居なくなって、シン・アスカが浮き彫りになるのか。言い変えてみれば、なぜ鈴村健一は己を消して、シンの彼らしさを生み出せるのだろうか。そんなことは声優という宿命を背負った者たちにとっては最初の最初に通り過ぎる問いだったのかもしれない。それでも筆者は、たとえ素人の問いかけであっても、腑に落ちるまでは何度も繰り返そうと思う。彼らの演技を今までよりも、もっと広く、もっと深く愛するために。

 

第1章:ニュータイプを知らない君たちへ

PHASE-06:青春、種と運命

 

種や種運古参勢にとって本作は、自分たちの持つアドバンテージを大いに働かせ、誰よりも深く作品を楽しめるようでなければ納得できないだろう。ガノタは自分たちの追い続けてきた伝統に強く反応するという宿命を背負った悲しき生き物なのである。アニメ種運をリアタイで見たなら共感してくれると思うのだが、ザクが強いという設定を受け入れるのには大変時間が掛かったのではないかと思う。少なくとも筆者は、どこの馬の骨とも知らぬ女が、赤いザクを乗りこなしてエースパイロトの顔をしているのが本当に受け入れられなかった。それを我慢して慣れ感を獲得できたのは偏にガンダム愛の為せる業だったと、そう言って憚らないのであるが、その「乗り越え」を、別言洗礼を、ガノタたちに向けて本作はもう一度同じように授けた。ルナマリアの「ゲルググ」への搭乗がそれである。我々は思わざるを得ない、またお前かと。

ルナマリアというエースパイロットは、過去を塗り替え、現在に決別と融和を促す存在であると論を広げてしまっても良いのだが、作中さほどテーマに介入してこなかったことを鑑みるにつき、それは他者の論を待つとしよう。重要なのは彼女が一度ならず二度までもシャア・アズナブルの機体を乗り回したという点にある。少なくとも種運からの古参勢に向けた仕掛けであることは明白である。ここから始まったよね。そう言いたいのだ。本作にはコズミックイラに終止符を打たんとする意志だけでなく、共に始め、共に成長してきたこの二十年を振り返ろうという細やかな気配りにも似た優しさがあった。つまりある予告性を帯びていると言って良いだろう。本作には、みんながもう一度見たいシーンが詰まっているからね、と。

ところがそこには、ザクではなくゲルググだったことにも明らかではあるのだが、全く同じことを繰り返すつもりはない、という意思も介在している。似たシーンは用意するが必ず同じようにはさせない。「同じものは似てくる」という同一から類接への瞬間的な回避。ある意味で、自己同一性をあえて逸することが新しさを導くとでも言わんばかりなのであるが、ここでは種の初期エンディングテーマ曲のタイトルを想起してくれれば十分だろう。あるいは、結婚の持つお約束と言い変えても良いか。

「似る」とは、接近を説明するのと同時に質的に同じではないという事実も含意する。似ているというのはとても近しいという意味であるものの、ある観点から見れば決して同一化することなく対象と質的な漸近性を持つ。「同じものは似る」という本作の古参勢へのアプローチが、理論上成立し得ないということが分かっていただければ良い。「同じ」が「似る」へ移行することは絶対に起こり得ないのであり、逆もしかりである。少なくとも現実の世界では。ところがいま論じているのはアニメ映画の世界だ。ならば起こりえるかもしれないと考えたいのだ、同じものが漸近的な類似へと「分離」していく様を。

まず議題に真っ先に上がるのは新機体として登場した「ギャン」である。ギャンについてはそれが特別な象徴性を得るに至った長いガノタの歴史を語らずにはおれないのだが、要はギャンが「裏切り」のアイコンになっていることだけ押さえて欲しい。初期ガンダム中盤の「オデッサ作戦」下において、地上のジオン軍を指揮していたのが「マ・クベ」という人物なのだが、彼は地上戦の雲行きが怪しくなるや否や、誰よりも早く宇宙へ帰ってしまう。それが背信行為、裏切りであると断罪した上で、彼の専用機体が「ギャン」だったことなどから、ギャンは裏切りの代名詞となった。以上が大まかな説明となる。しかし本作で「ギャン」と説明された機体が全くギャンらしくなかったことを思い出したい。まずそもそも、ギャンのギャンらしさは「レイピア」にある。ギャンという機体の独自性は左手に盾(穴からミサイルが出たりする)を構え、右手にはレイピアを模したビームサーベルを持って、フェンシングの選手のようにピョンピョン跳ねて動く様子にある。それが本作では、ビームサーベルの代わりに長い斧になっている。つまりこれは「ギャンならぬギャン」なのであって、その意味するところは必ずしも「裏切り」に帰結しないという「裏切りならぬ裏切り」というテーマの提示でもあるのだが、これが原作ファンに向けた偉大なメッセージであることを我々は注意深く認めなくてはならない。「裏切りならぬ裏切り」とは、あらゆる物語に通底する原点だとも読み解きたいからだ。

ラクスがキラの手によって助け出される。敵の思惑は阻止される。そういった絶対に裏切ってはならない、ある意味で始まる前から結論づけられているフィナーレの展開を裏切ることはできない。しかし物語は観客を「裏切る」ことなしに面白さを生み出すことができない。裏切りという言葉はこのように物語の構造奥深くにまで浸透し、作品に関わる者一人ひとりへ強く影響するのだが、現代ではもはや「物語の原理」となって「共犯関係」と名付けられたこの裏切りは、制作と観客のあいだだけではなく登場人物の心情やそれを司る脚本にまで影を伸ばしたといえば十分説明になっているはずだ。新登場の女性キャラ「アグネス・ギーベンラート」がキラ・ヤマトに幾度となく不貞(=背信行為)をそそのかしたのは、彼女だけが独り身だからではない。彼女が本作で「裏切りならぬ裏切り」の代名詞として旗をたてられたからであり、結果としてその象徴であるギャンが(後から)割り当てられ、それを証明すべく独り身を余儀なくされているのだ。当然、ラクスの不貞拒否の予告がキラを中心とした対偶関係によってより際立つのだがそれを語るには場が悪い。要は彼女がキラに迫ったのは彼女の性格のせいではなく、脚本レベル(=階層)で振られる役割、すなわち宿命が彼女の行為を引き出しているという因果律の再調整の必要が論点なのである。

ちなみに先の一文のなかにはディスティニープランの本質が隠れている。同じ因果律で事を見直せばよい。ディスティニープランを提示したのは確かに故ギルバート・デュランダル議長である。しかしその意味するところは別次元への理解に通じている。信奉者が「必要」という言葉に固執したのを思い返しても良いだろう。すべての登場人物には象徴としての役割が付与されていて、その役割を越え出る行為は「自発的」であるがゆえに脚本家から制約を受ける。登場人物とは(原理的に)不自由な存在であって、(原理的に)運命は書かれた瞬間から決定づけられている。まるで履歴書が遺伝子のコードとして作用するように、彼らに出来る行為の限界はあらかじめ決められている。だとすれば、作中登場人物たちが自分に与えられた特権的な人生を謳歌しようと思うことは、前述の「抗えぬ幸福」とリンクし、他人(=脚本家=神)の求めるままの自分で居続けようとすることへの肯定に繋がると言えよう。これこそがディスティニープランの最深部の意味するところである。つまりディスティニープランへの反対とは、神にも等しい作者の意志への、登場人物たちによる挑戦として捉えられるべきなのだ。ラクスがこの特権的な幸福を否定した理由は本書の最後で明らかにするつもりだ。

話題を戻そう。いま因果律を「再調整」し(強化人間へと変身を遂げた)我々は、アグネスがルナマリアとの戦闘に敗北しても尚、自分の主張を否定できなかった本当の理由も見えてくるはずだ。彼女がディスティニープランの象徴する「構造の運命」を否定できなかったのは、彼女がこの物語の役に立ちたかったからだ。まだ誰にも認知されていないパイロットは、どうにかして自らのアイデンティティを証明しようと躍起になったのだ。したがって彼女に割り振られた役割である「裏切りならぬ裏切り」の象徴を演じ続けるということは、決して成功しない不貞の誘惑だけでなく、彼女が不貞を不貞と認識せず、石田純一よろしく、必ず生じる結果(=文化)として不貞を捉えていたことまで意味していた。裏切りは裏切りではないという理論に突き動かされ続ける彼女は、はじめから不貞を不貞と思ってはいなかったし、そう思うことはできなかった。彼女にとって不貞は必ず生じる単純な出来事であって、それに抗おうとする方が間違っている、というのが彼女の視界だ。だからルナマリアからすれば、アグネスが自信満々に自論を展開するのが心底理解できなかった。「誰かに必要とされたい」という言葉に訳されるアイデンティティ(=自己同一性)が依って立つ情緒は、まるで愛を言い変えるようにも聞こえるが本作の主張はそうではない。「必要だから愛するのではありません、愛しているから必要なのです」という月並みなキメ台詞はルナマリアのなかでは当然のこととして響いていて、それが分かっていないからルナはシンに「バカ」と言い続け、気づきを促す仕草にも本質は隠れている。

ルナマリアの「バカ」が出たのだからそれを受け皿にしない訳にはいかない。ルナマリアが部屋でめそめそしながら「シンのバカ」と独り言ちたシーンに差し込まれたピンク色の携帯電話の描写に言及したい。原作ファンなら当然知っているだろうが、このピンク色の携帯電話はシン・アスカの所有物である。携帯を開くと妹の顔写真が待ち受けになっているのもご存じのはずだ。表面的な話は至極単純である。要するにルナマリアはシンの部屋で同居状態にあるため、一人で眠っているのが寂しいから「バカ」と言っているのだ。しかしどうかそれで終わりにしてほしくないというのが筆者の願いである。露骨にミニスカートを穿かせたり、ボディラインを無理やりにでも強調させるシリーズにおいて、例えばシンとルナマリアが鎖骨から下を毛布で隠してピロートークを繰り広げるシーンだって描いてよかったのだが、それをしなかったのには何も奥ゆかしさを求めたというだけではない別種の狙いがあるはずだ。

この時、一場に招致したいのは本著冒頭で断った構造主義の大名著『物語のディスクール』である。ジュラール・ジュネットの物語論における「持続」の章で説明される「省略法(一般的には「黙説法」と呼ばれる)」を取り上げたい。実際の言及や表現はされていないのにも拘わらず、出来事が生じているのが明らかであるとき、著者はあえてそれを明示せずに読者の解釈に任せるというのが黙説法の骨子である。玄人向けに言えば、ルナマリアと携帯電話のカットは、シンがルナマリアを一人にしてどこかへ行ってしまうという事実に向けて、それが一度の描写で複数回執り行われていたことを示す「括復法」による解釈も成立しはするのだが、この場合、それでは二人の関係で解釈が閉じてしまうのだ。つまり、黙説されるカップルの性描写は、「黙説され続ける」ことが共通項になるがゆえに、ある特殊な相互関係を浮かび上がらせるのだが、この場では一連の連鎖反応がこのシーンから始まっているということだけを確認したい。後に生じるキラとラクスの性交渉の有無に関する議論や、アスランの機体がカガリに遠隔操作されていることが決め手となる戦闘にも関連している。そう明言すれば予告としての機能は十分だろう。詳細は第3章で論じる。

最後にデュエルとバスターについて触れたいと思う。筆者はディアッカ・エルスマンの搭乗するバスターガンダムが一番のお気に入りだったので、イザークのデュエルとバスターが二人並んで出撃したのには鳥肌が立った。ところがだ、バスターが戦艦を沈めようとするシーンで事件は起こった。原作のバスターであれば、両腕に持ったビーム兵器を連結させて拡散する砲撃「対装甲散弾砲」を使ったはずなのだ。戦艦との距離がロングレンジでなかったためだ。それだけならよかったが、右側の砲門から打たれたビームの形状が原作と違うのには誰もが気がついたことだろう。右側から打たれるのは拡散するレールガンだった。これも「同一から類接へ」とうい磁力の影響だと言えるのだが、この対艦シーンにおける文学的美しさはその先にある。見せ場として用意されたバスターの全弾発射に呼応してデュエルが艦橋をターゲットとしたシーンが泣かせるのだ。

ここでまずデュエルガンダムの兵装を確認しよう。そもそもデュエルガンダムはアサルト装甲によって強化されたガンダムである。パッチを外すことによって細いガンダムが現れる。左肩のランチャー、右肩のレールガンがパッケージされた兵装で、主力となるのはビームライフルである。しかしデュエルガンダムのライフルには特別に「グレネードランチャ―」が装備されている。原作では一線級の活躍を見せなかった兵装だが、本作ではそこに変更が加えられていた。本来グレネードが射出されるべきライフルの下段から飛び出たのは、ブリッツガンダムの兵装「三連装超高速運動体貫徹弾ランサーダート」だったのである。何も感じない原作ファンなどいるわけがない。窮地のアスランを救うべく駆け付けた隻腕のブリッツガンダムが片手に持っていたのがこの「ランサーダート」の一本だった。イザーク搭乗直後の台詞「こんな旧型が残っていたとはな」を真に受ければ、彼の意思や指示で兵装を変えたとは思えない。即ちここには整備兵の意志が反映されているのだ。泣かせるではないか。整備兵に至るまでニコルを忘れていなかったなんて。冷たい事実だけを拾い上げれば、整備の描写など一秒もなかったのだから、これは単純極まりない脚本家の後付け作業だと言ってしまえばそれまでである。しかしこの単純な後付け作業が、逆説的に物語に奥行きを持たせているとも言っていいはずだ。

記憶と過去は必ずしも一致しないというのは万人の経験が裏付ける言説だろう。しかしそれを逆手にとって古参勢の「懐古」を思い出話に留まらせずに、同一即類似の傾斜を用意したことがこの美しく広がるシーンを準備したのだと筆者は主張する。

構造主義読解が古参勢のアドバンテージを説明するとは思っていない。筆者が本作を論じるにあたって構造主義史観を持ち出したのは、ディスティニープランが脚本構造そのものを象徴しているという明らかな設計に端を発しているためだ。各種象徴性は古参勢が思い出を懐かしむその瞬間によって巧妙に隠され、あらゆるターゲット層が出来事に集中できるよう運命づけられている。しかしディスティニープランを否定できるのはその構造の本質を知る一部の登場人物たちのみである。物語が真の意味で物語の束縛(=運命)から逃れるためには、登場人物たち自身がその構造に気がつき、自由を求める羅針盤(=コンパス)として観客を導くのだと言えばこのフェーズを締めくくるには十分だろう。しかしなぜ登場人物たちは自由を求めたのか。その答えは、彼らが運命によって結び付けられるのではない自由な意思に基づく相互関係を希求したためだ。それは神にも等しい制作と、物語内を生き続ける登場人物たちの次元を超えて結ばれた合意(=契約)だ。これ以上の「現実」が果たしてどこにあるというのだろうか。

 

第1章:ニュータイプを知らない君たちへ

PHASE-07:これはガンダムなのか

初期ガンダムやZガンダムに慣れ親しんだ最古参勢にとって、種や種運は物凄くとっつきづらい作品だというのは前フェーズでも軽く触れた。「赤」はもっと特別な色で、それは速さと強さの象徴、リーダーの象徴であり、ニュータイプに成れなかった(諸説あり)最強の人間に与えられる称号でもある。

であるにも関わらず、これまでのガンダムに似せようとしたり、似せようとしなかったりする微妙な匙加減が特有のとっつきづらさを産んだ理由の一つであるという筆者の指摘にはかなり自信があるのだが、違和感の代表とも言うべきモビルスーツについて言及したい。「ザク」がそれである。

初期ガンダムで「ザク」と呼ばれて想像する機体は「ザクⅡ」と呼ばれる次世代機で、第一期の「ザクⅠ」は別に「旧ザク」と呼ばれ実戦配備されていた。見た目の違いと言えば、旧ザクは両肩が丸いのに対して、ザクⅡの右肩には上腕を覆う程度のシールドが、左肩には「スパイクアーマー」と呼ばれる近接戦闘用のトゲトゲが装備されている。両頬周りのパイプの存在も特徴なのだがザクの紹介はこの程度に収めたい。要点は、このザクシリーズというのは物語最初期に現れた量産型の兵器であるということ。それはすなわち機体性能の低さを意味しており、事実、通常兵器ではガンダムに傷ひとつ負わせることができなかったことも事情をよく説明している。ちなみにこういった経緯で、ガノタ界隈では「量産型」という言葉は弱さや無価値の象徴として刻み込まれることとなる。

さて、種で登場しなかったザクは種運で解禁される。それはエースパイロットへの特別機体という意味を備え、カラーバリエーションも豊富になった形でのお目見えだった。こんなのザクじゃない。最古参のガノタたちは心底がっかりしたに違いない。ついでに少し細かい話をすれば、初期ガンダムでは水陸両用機体として「アッガイ」「ズゴック」「ゾック」などが登場し、いずれも特別な文脈で語られているのだが、種になると水陸両用のモビルスーツには「グーン」と呼ばれるカワイイ見た目をしたのが登場する。これはズゴックに似ているようで似ていない感じが別作品感を覚悟させて、残念でもありながら十分許容範囲だった。水陸両用はカワイイ、というのがガンダムのコンテキストであるが、それは2章ですぐに論じるところだ。

ザクにまつわるガッカリ感だけでも受け付けられないという最古参勢もいるだろうが、正史との一番の違いは焦点化されるテーマの違いである。確かに双方共に、戦争へと巻き込まれる少年少女が現実に対応していく成長の物語だと言って差し支えない。正史のなかでも割と最近の部類になる「ユニコーン」では主人公だけが明らかに何も知らない子どもで、周りの大人たちはいつも、何かを守るために死んでしまったり、理不尽な扱いを受けるのを耐え忍んでいたり、生き残るためなら人の命も利用する醜さを発露したりする。そういった分かりやすい照応関係がガンダムの文脈を形作って来たと言っても良いだろう。ただ、種や種運がなにをしたのかと言えば、こういった「受容と成長」の物語のなかに「恋愛」を介入させたのである。確かに正史にも恋愛要素は無くはなかった。細かい話ではあるが、「カイ・シデンとミハル」「ハサウェイとクェス」もっと細かく見れば「シロッコとレコアさん」の主題や広義に解釈すれば「シャアとアムロとララァ」の三角関係もあったとはいえる。ただいずれも本筋を左右するほどの大問題ではなかったと記憶している。ミハルが死んでも大きな問題を経ずにカイはモビルスーツに乗った(勿論カイのなかで消化するシーンは用意されていたが)。ハサウェイは未熟なパイロットとしてクェスを追いかけただけ。レコアさんはシロッコに女として愛されたいがために寝返るのだが、カミーユを本筋とする物語を大きく飲み込む波にはならなかった。

しかし種や種運では恋人関係であることや叶わない恋心が物語のなかで特別な印象を作り上げてきた。キラとサイ・アーガイル、フレイ・アルスターの三角関係がまず挙げられる。フレイがサイと離別しキラと一緒になることにより、キラがアークエンジェルのなかで唯一の戦闘員として人一倍負担を強いられていたことを表現し、またキラがサイに向けて放つ冷たい言葉にまつわるシーンも準備することとなった。詳しいことは後述するのだが、一般的に大人になる過程には「不条理の受容」とか「敗北の経験」と言われる瞬間が存在すると言われている。その意味でキラは敗北を知らないが故に大人になれず、サイはフレイを強奪されたという事実を受け止めつつブリッジでの仕事をこなしたという一連の経験によって「大人化」したと言ってよい。

離別の波はそこに留まらず、アスランと許嫁だったラクスの関係にも派生する。主人公として敗北できないキラは、結局アスランからラクスを奪い取るのだ。ここにも同様の理論を提示することが可能で、アスランはそれでもなおキラと共闘して世界の平和を実現しようと戦い続ける。

正史の最古参勢が嫌いなのは「大人化」のテーマなのではないかと言ってしまうのはガノタに失礼だろう。それよりももっと受容できなかったのはほかでもない「露骨な性描写」の方にあった。やたらと短いスカートを翻すヒロインや、胸の谷間を強調する衣装デザイン、はしたなく身体を近づけるカットなど、土曜の夕飯時に流すにはやや不適切かと思われても仕方のない描写が多かったのだ。こうした部分をも受容するが故の大人化であると言えるほど、筆者は「大人」という言葉の引力を信じてはいない。

フェーズ01で予告した「焦点化」にまつわる伏線を、このフェーズで回収しなければならない。黙説法を説明した時と同じように、ここにもジュネットに登場していただく。パースペクティブとも呼ばれるこの「焦点化」の議論は「視点」の問題として扱われてきた。映画は常に「三人称多元」の視点で描かれることが制約として活きている。小説では一人称にするか三人称にするかの選択があり、三人称には「一元」か「多元」かの判断が伴なう。この「一元・多元」とは何を示しているかと言えば、視点人物の人数である。ある出来事が一人の登場人物の視界からのみ語られるのなら「一元」で、複数者の視点や映画と観客の関係の様な所謂神の視点を採用する場合は「多元」と解される。逆説的に解釈すれば、一人の人間が複数の視点を持つことが物理的に(もしくは論理的に)可能だと判断するのなら「一人称多元」は成立可能となる。ここにあるは読者側の受容レベルと書き手側の表現レベルのせめぎ合いである。

原理原則だけを言えば、主人公や読者の焦点の問題になるのだが、議論は観客の内的体験にまで深化しなければならない。感情・情緒体験が本当に「深い」ところで執り行われているのかどうかという議論は別として、少なくともパースペクティブと名付けらた理屈が無意識の動作であることを念頭に置かねばならない。男の子は無意識に大きな胸に視点が誘導され、女の子は男の指が気になる。それは「関係性」においてどこを見つめるのかにも影響があり、例えば将来をどうやって一緒に生きていくのかを想像するのか、もしくは明日一緒にお風呂に入るのかどうかを気にするのか、といったレベルにまで波及する。本作を引き合いに出せば、ラクスがオルフェに恋しそうになる時に彼女が見るのは指輪ではなく男の手と長い指だったのだし、オルフェとラクスが噴水を背景に近い距離で言葉を交わし合う傍らバルコニーで情事を眺めることしかできなかったキラに、ラクスとの将来を食い破られることへの反抗心は生まれない。キラが諦めたのは彼が自分のことで精一杯だったからで、ラクスがいない未来も仕方がないと受け入れる準備を始めていたからだ。それに対してラクスは遺伝子レベルの恋をかなぐり捨てようと必死に努力するのだが、キラはそれを友人の助言なしには信じることが出来なかった。

こうした男女の機微が物語の筋に大きな影響を与えるのが種や種運といったコズミックイラのシリーズなのだが、たしかに男子にとってはまどろっこしいというか、言ってしまえばどうでも良いと突き放せるテーマではある。そもそも恋愛が人生を左右するのは二十代前後のあいだだけだという達観した現実感を招致すれば、最古参の先輩方はとっくの昔にこのテーマを喰い尽くしているのだ。いまさら恋愛を持ち出されても今一つ乗り切れないと感じていても仕方がないと思う。

まとめるのなら、本作に対して前段階として培われてきたコズミックイラは、本作を「大人になるための物語」として機能させるために利用されていると言えよう。しかしそもそもガンダムとは子どものための作品だったのだし、子どもには分からない大人の世界を独自の哲学性に則って説明するのが「文体の味」だった。あのような渋さが本作から取り除かれてしまったことは、いちガノタとしては残念でならない。

2024年2月6日公開

© 2024 鹿嶌安路

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