11.
わびについては、「明鏡国語辞典」には次のように記されている。
①茶道・俳諧などの美的理念で、閑寂・質素のなかに見出される枯淡の趣。
②世俗を離れて閑寂な生活を楽しむこと。
僕は、わびには生活面と美意識面とがあると考えるが、この辞典の定義ともおおむね合致しそうである。①は美意識面であり、②は生活面となる。
12.
武野紹鴎によれば、①「侘と云ふことばは、故人も色々に歌にも詠じけれども、ちかくは正直に慎しみ深くおごらぬ様を侘と云ふ。一年のうちにも十月こそ侘なれ」(『紹鴎わびの文』)だそうだ。また利休はわびについては、藤原家隆の②「花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや」という和歌をその真髄としたそうだ。
①の十月説は、夏から冬へ、あるいは生から死への動的過程にあって、死に迎えられつつあるが、完全なる死にはいまだ到っていない状態をいう。②の雪間説は、冬から春へ、あるいは死から生への動的過程にあるが、生はいまだ微かなる兆候に過ぎず、全体的には生はいまだ死の手中にある状態をいう。両者はいずれも不完全なるものにこそ美が宿るという「不完全美」を提唱しているが、そのベクトルは逆を向く。
吉田兼好の「徒然草」には、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。」という記述があるが、これもわびの精神であろう。咲く前の梢や散りはてた庭のほうが、満開である状態よりも見どころが多い、とするのだから。そして「咲きぬべき梢」は②雪間説に相当し、「散りしをれたる庭」は①十月説に相当するといえよう。男女の関係も含めて、「よろづのことも、初め終はりこそをかしけれ。」なのである。吉田兼好のわびは①②の総合説となろう。
13.
①十月説と②雪間説の伝で言えば、ワーズワースの詩はどうなるだろうか。
She dwelt among the untrodden ways,
Beside the spring of Dove
A Maiden whom there were none to praise,
And very few to love.
A violet by a mossy stone
Half hidden from the eye!
―Fair as a star, when only one
Is shining in the sky.
She lived unknown, and few could know
When Lucy ceased to be;
But she is in her grave, and, oh
The difference to me!
この詩では、第一連と第二連とで否定辞を多用しつつ乙女が描かれている。乙女は病気であるのでもなく、これから美人となるのでもない。その意味では、生から死への過程にあるのでもなく、死から生の過程にあるのでもない。この詩は静的状態を描いている。しかしながら、否定辞の多用から乙女の否定性すなわちか弱さ(何らかの意味での)が暗示されている。そして第三連においてはまさしく乙女は死す、のである。だから、全体としてはこの詩は生から死への過程が示唆されているので、ここで描かれているわびの精神は十月説と近しいと思われる。
14.
②雪間説を思うと、僕はベルグソンの希望論を連想する。ベルグソンは述べる。
「希望というものをあれほど強い快感にしているのは、われわれが思いのままにする未来が、ひとしくほほえましく、ひとしく実現可能な、さまざまな形のもとに、同時にわれわれに対してあらわれるからである。たといそれらのうちで最も望まれていたものが実現されるとしても、残りのものは犠牲にされねばならず、したがってわれわれは多くを失ってしまうことになるだろう。それで、無限の可能性でふくれ上がった未来の観念は、未来そのものよりもいっそう豊かであり、そしてこれこそ、所有よりも希望に、現実よりも夢に、よりいっそうの魅力が見いだされる理由である。」〔「時間と自由(第1章)」白水ブックス、平井啓之訳、p.21)
希望とは未実現から実現の過程にあって、人間の精神によってとらえられた未来の像によって喚起される心情である。この意味において、死から生への過程にあるところに抱く感動であるわびと近しいようにも思う。その際には想像力という心的機能が働くことになろう。想像力とは、いまだ見えざる未来を描く作用であり、不足を補う機能である。
15.
不足を補う機能は、人間には多々備わっているように思う。
例えば聴覚である。誰かが「夏目漱石は日本史上最大の文豪である」と発言したとしよう。ところが、発話には往々にしてあることであるが、発話者がすべての単語を明晰に発話しているとは限らない。聞き手にしても、その単語のすべてに注意を払っているとは限らず、すべての言葉をその初めから終わりまで等しく正確に聞き取っているとは言えないだろう。だから、件の発言は聞き手には「ナツ×ソウセキ×ニホン×ジョウサイダイ×ブンゴ×デ×ル」などと物理的には聞こえているかもしれない。ところが、聞き手はこの聞こえていない×の個所を、聞き手本人は気づきもしないうちに、前後関係から補って、「ナツメソウセキハニホンシジョウサイダイノブンゴウデアル」として、それを同じく前後関係から「夏目漱石は日本史上最大の文豪である」といったふうに漢字と平仮名とに変換して、そしてしかと「聞いた」と信じているのである。聴覚が不足を補うのである。
そして視覚である。仮に一個のリンゴのてっぺんから尻まで、芯に沿って矢が突き抜けているとしよう。見えるのは、一個のリンゴであり、上部から矢尻が出ており、下部には矢の先端が見えているだけであり、一本の矢全体が見えているのではない。もしかしたらリンゴの上部には矢尻のみが張り付いていて、リンゴの下部には矢の上部のみが張り付いているだけで、リンゴの内部には矢はどこにもないのかもしれない。それでも一本の矢が全体としてリンゴに刺さっていると「見る」のである。ここでは視覚が不足を補うのである(この考え方は、ゲシュタルト説を参照されたし)。
このように不足を補う心的機能は知性にもあるのであり、それが想像力として現れるのである。詳しいことはまた別に論じようと思う。
"日本的美意識覚書11-15"へのコメント 0件